28. 五感は必要ですか

 プツリッ



 ザリファに指で差された瞬間、アヴェンの視界が真っ暗になった。


 目は開いている。

 目の前に視界を遮るものは何もないはずだ。


 だというのに、アヴェンに見えるのはただの黒。


 何もない闇。

 虚無の世界。



 ――視界が急に暗くなった……!? 何も見えない……! これもやつの魔法なのか!?



 かろうじてザリファに教えられた体の部位を動かし、呼吸を持続させるアヴェン。

 呼吸をするのに精一杯で、眼球の動かし方を探る余裕はない。


 しかし、例えわかったところでおそらく意味はないだろう。



 ――きっとこれは俺の視覚を断つ魔法だ。だとしたら、どこを見ようと映るのは闇だけ。ただでさえ動けねえってのに見ることもできないんじゃ、いよいよ八方塞がりだ……!!



 状況の打開策が何も思いつかない。

 今まで鍛錬してきたことが、この魔神には何も通じない。


 初代勇者でさえさじを投げた世界の脅威。

 神々でさえ恐れる強大な力。


 アヴェンの命は今、そんな凶悪な魔神の手のひらの上でコロコロとおもちゃのように弄ばれている。


「人間は主に5つの感覚を頼りに外界からの刺激を認識しています。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。あなたも知っているでしょう、それらがどれほど大事なものか。どれも失いたくなどない大切な感覚ですよねええええええ」


 闇の中でアヴェンの耳に響くザリファの声。


 動けないアヴェンの周りをクルクルと回りながら、ザリファは続ける。


「それではここでクエスチョンです。そんな何にも代えがたい可愛く愛しい感覚たちに優先順位をつけるとしたら、あなたはどれを優先しますか? 考える基準は、一人で生きるために必要かどうかです」


 そう言って、ザリファはアヴェンの太腿の裏を指先でスウッと円を描くように触った。


 その気持ち悪い感触に、アヴェンの体がビクッと震える。


「まずは触覚! 触覚は大事ですねえ! 自分の体が何かに触れているかどうか、触れられているかどうかを知るための重要な感覚です!! 物体の固さや滑らかさ、空気の流れなど、感じられなくなると寂しいものばかりではないですか!! 触覚がなければ、まるで自分の形をしたロボットを操縦しているかのような、そんな感覚に陥るのでしょうかねえ!! しかああああああし、それがなくとも人は生きられます!! 多少不便ですが、食材を探し、調理し、食べることができるのです!!」


 次にザリファはアヴェンの舌を指先で軽くつまみ、ペチペチと動かした。


 ザリファの指は無味無臭だ。

 少しヒヤリとしているが、何の味もしない。


「では味覚はどうか! せっかく食事ができても味がしなくては、あまりにも味気ないですねえ! 人間の三大欲求の一つ、食欲が大きく減退してしまいます!! しかし、生きるという目的においてそもそも味は不要!! 甘かろうがしょっぱかろうが、胃袋に詰め込んでしまえば食物はみな同じなのですから!!」


 舌を離し、今度はアヴェンの鼻をつまむ。


「嗅覚も食事を楽しむための要! 加えて気体を感知できるため、火から出る煙の匂いのように、周囲の危機的な状況を察知するためにも重要な感覚だと言えるでしょう!! それでも、その機能は他の感覚を用いれば十分補うことが可能です!! 食事は味覚で、危機的状況は視覚や聴覚で感じ取ることができるのです!!」


 アヴェンの鼻先から耳へ、指先でツウッとなぞるザリファ。

 そのまま、耳穴の中に指をゆっくりと差し込んでいく。


「聴覚はかなり重要ですよ! 人の声に物音、耳から得られる情報は多量にして貴重! 鼓膜を取り除いてしまえば、それは静寂に包まれた水の中と同じ!! 会話や音楽がない世界は、ひどくつまらない心細い空間になってしまうことでしょうねえ!! しかし、そんなわびしい世界でも生存に支障はありません!! 人間とは本当によくできた生き物なのです!!」


 耳穴からスッと指を抜くと、ザリファは何も見えていないアヴェンの眼球に指先を近づけた。

 指の先端を瞳孔の中心にギリギリまで近づけ、アヴェンの目をじっと見つめる。


「しかししかししかし!! 視覚は生きる上で必要不可欠です!! 見えなければ、どこに食物があるのかわかりません!! 他の感覚を頼りに食物を探し当てるには、一定の偶然性を味方につける必要があります!! 天敵からも逃げられず、いいように弄ばれて捕食されるのが落ちでしょう!! 五感の中では視覚を断つことが最も生存率を下げる選択!! 私は今あなたに、その最も選んではいけない絶望の選択を差し上げているのですよ!!」


 見えない、それだけのことで人の死亡率は格段に上がる。


 それに加えて今、アヴェンは動けない。


 見えない、動けない、この2つだけで、人間は何もできなくなる。


「さて、残る選択肢は4つ。次はどの感覚をいじくりましょうかねえええ!! ではではではではここで少し趣向を変えて、感覚を断つのではなく過剰に感じるようにしてみましょう!! どの選択肢を選ぶかは秘密です。その身で体感すればわかることですからね。それでは――」


 ザリファはバッと両腕を左右に広げ、天を仰いだ。


「【劈鳴へきめい】」


 瞬間、アヴェンの耳に鼓膜を吹き飛ばすような爆音が鳴り響く。



 ――うわああああああああああああああ!!!?



 耳の中に詰めた爆弾が爆発したような強烈な破裂音。


 鼓膜でできた風船の中で大きな鐘を思い切り殴り付けているような重低音。


 脳みその中でナイフとフォークを高速で擦りつけているような金属音。


「頭を狂わせる強烈な音の雨あられ。聴覚を介した人間には耐え難い異常な苦しみ。もしあなたの体が自由に動くなら、あなたは即座に耳を引きちぎっていたことでしょう。あなたがその丸く愛らしい耳を失わずに済んでいるのは、私があなたの動きを奪っているから。本当は感謝してほしいくらいなのですよ。とはいえ、私の言葉も今のあなたには、聞こえていないでしょうけれど……」



 ――ああああああああ!!! 死ぬ、死んじまう、音に殺される!!! 頭が割れる!!! 体が爆発する!!!



「動けず、何も見えず、聞こえすぎる世界で、感覚地獄にさいなまれ、頭の中でもがき苦しむといいのです」


 体が内側から爆散しそうなほど騒がしい真っ暗な世界。


 ドリルの先端で鼓膜を削られているような衝撃と不快感。



 ――うるさいうるさいうるさいうるさい!!! やめろ、頼むからやめてくれ!!! 頭がおかしくなる……頭が……あた……ま……が……



 想像を絶する音の嵐に呼吸することさえ忘れてしまう。


 そのまま意識が遠のいていく。


 世界から意識が消えていく。




 そのとき――



 ――――――――!!!



 音に支配された暗闇の奥から、聞き覚えのある音が響く。



 ――――――――!!!



 懐かしいような、安心するような、温かく優しい音。



 ――――――――!!!



 何度も何度も、アヴェンに向けて放たれる音。



 ――――――――!!!



 いつかこの音に救われた。

 ずっと前からこの音に支えられてきた。



 ――――――――!!!



 もっと聞きたい。もっと側で聞きたい。

 もう少しだけ、近くに行きたい。



 ――――――――!!!



 薄れゆく意識を無理矢理引き戻して、音の方にゆっくりと近づいていく。

 他の音とは違う、その音だけは、アヴェンの心を柔らかく包み込む。



 ――――――――!!!



 あと少し、あともう少しで、その音の下へ行ける。



 ――――――――!!!



 やっと着いた。

 たどり着けた。

 音がすぐ近くで、はっきりと聞こえる。





『 アヴェン様!!! 』




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