29. 悪夢の終わり地獄の始まり

「はっ……!!?」


 ビクッと体を震わせ、アヴェンは我に返った。


 硬い地べたの感触。

 視界に映る黒いローブと足の骨。

 呼吸も普通にできている。


 アヴェンはゆっくりと指を動かし体が正常に動くのを確かめてから、凝り固まった手足をほぐしながら起き上がった。



『 アヴェン様、お怪我はございませんか? 』



 魔神を注視しながら声をかけるアードロン。


 久し振りにアードロンの声を聞いたような気がして、アヴェンは熱くなる目頭にグッと力を込め震える口を開いた。


「ああ、大丈夫だ……」


 おごり高ぶる強者に踏みにじられ、弄ばれる恐怖。

 命を蹂躙され、生殺与奪の権利を握られる屈辱。


 アヴェン一人の力ではどうすることもできなかった。


 そこに、アードロンが来てくれた。

 アヴェンが誰よりも信頼している、アードロンが。


「どうですかああああ!! 体が自由に動かせる感覚というのは!! 嬉しいでしょう、うれしいでしょおおおおおお!! あなただけ特別に魔法を解いてあげましたよおおおお!! なぜなら、私のお相手が柔らかいお肉から香ばしい骨に変わったようなのでねええええええ!!」


 興奮し叫び声を上げるザリファ。


 その様子を見ながら、アードロンは冷静にアヴェンに向けて言葉を紡ぐ。



『 やつの言葉に耳を傾けてはいけません。 あれらは全て聞くに堪えない戯れ言。 惑わされてはやつの思うつぼです 』



 どう考えてもザリファはただの狂人。

 その言葉には何の価値もない。


 冷静になれば、まともに相手をする必要はないのだとすぐにわかったはずだ。

 しかし、非現実的な出来事の連続にアヴェンはすっかり理性を失ってしまっていた。


 アードロンが来てくれたおかげで、正気を取り戻すことができたのだ。



『 “識眼”で状況はだいたい把握いたしました。 まさかラートン様が魔神だったとは……。 アヴェン様にはお辛い現実ですが、今は飲み込まなければなりません。 周りをご覧になってください 』



 今日は年に一度の祭りの日。

 町にはたくさんの人が集まり、活気に満ち溢れているはず。


 だというのに、アヴェンの耳には人々の話し声や笑い声が聞こえてこない。


 代わりに聞こえてくるのは――


「見えない……何も見えない……!?」

「ああああああ!! うるさいうるさいうるさい!!!」

「臭いいいい……!? あああ、鼻が、鼻がああああああ!!」

「苦い……苦い……おえっ、うえっ……!! ごふっ……!!!」

「痛いいいい!! 痛いよおおおおおお!!!」


 苦痛にもがき苦しみ、地面を転げ回る人々のうめき声。


 先ほどまで祭りを楽しみ、幸せそうに浮かべていた笑顔はもうどこにもない。


 屋台が並び、カラフルな飾り付けで彩られている華やかな大通りは、異常な感覚にもだえ苦しむ人々が這いずり回る地獄絵図と化していた。


「なんだよ……これ……!? 俺だけじゃなく、祭りに来た人全員に魔法をかけたのか……!?」


 日夜鍛錬にいそしむアヴェンでさえ耐えられなかったあの苦しみを何の罪もない一般市民に味わわせるなんて、あまりにも酷すぎる。


 アヴェンの目に映るのは、涙と唾液をまき散らしくちゃくちゃに歪んだ絶望の顔。



『 今日のために汗水垂らして準備してきた人々の思いを踏みにじるとは何たる外道!! お祭りは笑顔を生み出す幸福な行事、それを邪魔する権利は誰にもありません!! 』



 アードロンがここまで怒りを顕にするのを、アヴェンは初めて見た。


 いつでも冷静に柔和な声音でアヴェンを導いてくれたアードロン。

 しかし今回ばかりは、アードロンも我慢することができなかったのだろう。



『 何とかして皆様を苦しみから解放して差し上げなければ…… 』



「俺一人じゃ何もできなかった……。でもアードロンがいてくれれば何とかなるかもしれない。協力してあいつに攻撃を――」



『 ダメです 』



 アードロンは強くきっぱりと言い切った。


「何でだよ? この状況を何とかするにはそれしかねえだろ!」



『 私はこの10年間、アヴェン様だけでなくラートン様のことも見てきました。 当然、識眼を使ったこともあります。 それでもラートン様が魔神であるということに気付けませんでした。 今までずっと、識眼が欺かれてきたのです。 それは、私よりあの魔神の方が力が上であることを示す何よりの証明 』



 その言葉に、アヴェンの背筋が凍りつく。


 神を除けば、アードロンが最も強いのだとアヴェンは思っていた。

 それほどまでに底が見えないアードロンの力。


 しかし、魔神はそれすらも凌駕する強さを持っているというのか。



『 アヴェン様が目覚めるまでずっと識眼であの魔神を見ていました。 最初は何も見えませんでしたが、少しずつやつの重厚な魔力をかいくぐり、情報の欠片を拾うことができました。 アヴェン様は魔族のクラス分けを覚えていますか? 』



「もちろんだ。強さに応じてクラス1~10まで分かれてるんだろ?」


 クラスが一つ上がるごとに、討伐に必要な騎士の人数が倍になる。

 前にアヴェンが倒したクラス8のテノラ・ファイオは、討伐に128人の騎士が必要という計算になる。



『 そうです。 例えクラス10であっても、私とアヴェン様がいれば難なく対処できるでしょう。 しかし、今し方、識眼で拾ったやつのクラスの情報を知り、考えを改める必要があると確信しました 』



「どういうことだ……? あいつのクラスは……?」


 アードロンは少しの沈黙の後に重々しく口を開く。



『 ……30です 』



「…………は!?」


 クラス30。


 必要になる騎士の数はおよそ10億人。


 複数の国が手を組んで討伐に当たっても、やすやすと壊滅させられる。



『 やつが本気を出せば、アヴェン様は即死です。 ゆえに、私一人でやつと戦います。 アヴェン様は了外灯を掲げてこちらに背を向けていてください。 アヴェン様の認識内で私は動けませんから 』



「でも……でもよ……それはアードロンがあまりにも危険すぎる!! 勝ち目はあるのか!? あの魔神を退ける策はあるのかよ!!?」


 やっとできた、たった一人の友達。


 そんな大切な存在が今、アヴェンを守るために自ら命がけの戦いに挑もうとしている。


 アヴェンの胸中は不安でいっぱいだった。


「逃げるっていう選択肢だってあるだろ!! 何もまっこうから戦う必要なんてねえよ!! 今は逃げて、ゆっくり対策を考えたらいいじゃねえか!!」


 泣きそうな顔で叫ぶアヴェン。


 その姿を見て、アードロンは優しく笑った。



『 ふふ、アヴェン様はやはり優しいお方ですね。 そんなアヴェン様だからこそ、私はお守りしたいと思えるのです。 例え逃げてもやつの手からは逃れられないでしょう。 ここで何とか退けるしかありません。 心配しなくとも、私の強さはアヴェン様が一番理解しておいででしょう。 400年間神々に仕えてきたのですから、魔の神ごときに遅れは取りませんよ 』



 温かく柔らかい声音。


 しかし、その芯には決して曲がらない確固たる意志がある。

 どれだけ説得しようとその意志は変えられない。


 それを悟って、アヴェンは視線を落とし血が出るほど拳を握り締めた。


「絶対に……帰って来いよ……」



『 もちろんです 』



 アヴェンの視界の外でアードロンはそっと了外灯を地面に置き、魔神の前に歩を進めた。


 置かれた了外灯をゆっくりと持ち上げ、アヴェンはアードロンに背を向ける。

 そしてそのまま了外灯の持ち手を片手で握り締め、その腕を真横に突き出した。


 400年間、天上世界で神に仕えてきた神々の使者、アードロン。


 1000年間、地上世界で数々の悲劇を生み出してきた魔神、ザリファ・リポロ。


 二人の強者が相対する。


 真っ黒に塗り替えられた地獄の祭り。

 惨劇と化した町のど真ん中。

 阿鼻叫喚の大通り。


 その中で、目に涙をためアヴェンはつぶやいた。


「頼むから……生きて戻ってきてくれ…………アードロン」

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