27. 肉体のルール変更

 四肢が動かない。

 瞬きができない。

 眼球を動かしてザリファを見ることもできない。


 いや、違う。


 動きはするのだ。

 ただ、思うように動かない。


 腕を曲げようとすれば足首が伸びる。

 胴体を捻ろうとすれば首が回る。

 舌を持ち上げようとすれば脇腹に力が入る。


 自分の体であるはずなのに、自分の体ではないみたいに言うことを聞かない。



 ――何だこれは……! 魔法なのか? それとも違う何かなのか……!?



 声を出すこともできず、アヴェンは頭の中で状況を整理しようと必死に思考を巡らせる。



 ――いや、そんなこと今はどうでもいい!! それよりもまずい問題がある!!



 ザリファの脅威より、現状の理解より、優先しなければならない深刻な問題が今もなおアヴェンを苦しめている。



 ――息ができねえ!!!?



 いつもなら自然にできるはずの呼吸が全くできない。


 体のどこを動かせば息ができるのか、見当もつかない。



 ――まずいまずいまずいまずい!!! 地面に倒れたとき強制的に肺の空気が押し出されちまった!!! 早く空気を吸わねえと死んじまう!!!



 遅い死であれば、狭間で黒神に意識を戻してもらい死を回避できる。


 しかし、ずっとこのまま呼吸ができなければ意識が戻ってもまたすぐ死ぬ。


 死んで戻っての繰り返し。

 現状を打開することはできない。



 ――クソッ……!! 視界がぼやけてきた……!! 頭も回らねえ……!!



 酸素が足りない。


 体がゆっくりと、死へ近づいていく。

 心臓の鼓動が少しずつ弱まる。


 そのとき、淡くかすんだ視界にザリファの白い仮面が移った。


「右手の薬指を伸ばすのです」


 朦朧とした意識の中に響く声。

 アヴェンの日常を黒く染めた魔神の声。


「そのまま死にたければ死ねばいいのです。死んで朽ちて、この世に何も残さぬまま、何の成果も上げられぬまま、無様に土へと還ればいいのです。しかしそれを拒むのなら、生にしがみつき死に抗うというのなら、右手の薬指を伸ばしなさい。せっかく10年間煮込んだ柔らかいお肉なのですから、今すぐに殺してしまうのは惜しいのです。何より、大切な家族ですからね」


 魔神の言葉など理解したくもない。

 しかし、希望はそれしかない。



 ――右手の…………薬指…………伸ばす………………



 薄れゆく意識の中で、アヴェンは最後の力を振り絞って指を伸ばした。


「すぅーーーーーーっ」


 すると、右手の薬指が伸びる代わりに、口が空気を吸い込み肺に酸素が取り込まれる。



 ――息が……できた……!!



 しかし、空気を吸い込むだけで吐き出すことはできない。

 “吸う”と“吐く”では動かす場所が違うらしい。


「左足の股関節を外側に回しなさい。そうすれば息を吐くことができます」


 アヴェンはザリファの指示通りに体を動かす。


「はぁーーーーーーっ」


 肺に詰まっていた空気が吐き出され、呼吸が成立する。


 その様子を見て、ザリファは嬉しそうに両腕をブンブンと振り回した。


「よかったですねええええええ!! このどす黒い絶望の世界で、まだ新鮮な肉として体を保つことができますよおおおおおお!! 私に感謝し、頭を垂れるがいいのです!!! いや失礼、頭の垂れ方すら今はわからないんでしたねええええええええ!!!」


 おかしそうに仮面を上下させ、体をグルングルンと回しながら笑い声を上げるザリファ。


「あひひひひひひひひひひひひひひ!!! くふふふふふふふふふふふふふふふふふふ!!!」



 ――どうにかして攻撃するか逃げるかしないと、この狂人に蹂躙されるだけだ……!! どうすれば……どうすればいい……!!? …………あれ?



 そのとき、アヴェンは気付いた。


 体は思うように動かせない。

 しかし、魔力は正常に操作できる。


 体内を巡る魔力の流れをつかんで、いつも通り操ることができる。


「にょほほほほほほほほほほ!!! まはははははははははははははははははは!!!」



 ――これしかねえ……!! こいつにバレねえように、ゆっくりと……!!



 アヴェンは魔力でできた黒いもやを少しずつ放出し、笑いながら体をうねらせているザリファの方へ移動させていく。


 黒いもやが地を這い、じりじりとザリファの足元へ。


「にひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ!!! ぐへへへへへへへへへへ!!!」


 そして、ザリファが攻撃圏内に入るところまで、黒いもやが近づいた。



 ――今だ!!!!



 黒いもやが一気に地面から飛び出し、ザリファの白い仮面をとらえ――


「実に浅はか」


 ザリファがピタッと動きを止めた。


 その白い仮面を黒いもやが突き刺す。


 しかし――



 ――手応えがねえ!!!



 確実に貫通しているはずだ。

 それにもかかわらず、まったく当たった感触がしない。


「残念です。まさか、私とあなたの力の差を、これほどまでに理解していなかったとは……。あなたは人間にしては強い方です。しかし、魔神と肩を並べるにはまだまだまだまだまだまだまだまだ鍛錬が足りていなああああああい!!!」


 ザリファは叫びながら胴体を思い切り後ろにのけぞらせた。

 反らしすぎて、仮面の先端が地面に付きそうだ。


 黒いもやはどういうわけかザリファの仮面をすり抜けた。

 仮面に穴は空いていない。


「特別に、嬉し涙が飛び散りそうなほど酷な事実をあなたに伝えて差し上げましょう!! 魔神は誕生してから現在までの1000年間、ただの一人も死んでいません!!」


 ザリファは体をのけぞらせたまま、腕をクロスさせバッテンの形をつくる。


「1000年ですよ!! 100が10個で1000!! 10が100個で1000!! 1が1000個で1000!! 人間の力では、魔神を凌駕することはできません!! それを理解したからこそ、初代勇者は私たちを封印したのです!! 討伐ではなく封印です!! 今を守るため、未来に問題を丸投げしたのです!! なんと、なんとなんとなんと無責任なことかああああああああ!!!」


 胴体を持ち上げ元の姿勢に戻り、ザリファは片手の人差し指を立てた。


「魔神の強さをご理解いただけましたでしょうか? ああ、返事は結構です。声の出し方もわからぬ肉塊にそんなことは求めていません。あなたはついに、皿の上を駆け回ることさえできなくなった無力なホカホカ肉。そんなあなたは、魔族の貴族である魔神に好きなように弄ばれ、運命を呪い、苦しみ続けるのがお似合いです。何より何より何より、尊く大切な私だけの家族ですので」



 ――魔族の……貴族……!?



 貴族という言葉に嫌な記憶が蘇るアヴェン。


「魔神の力をとくととくととくととくと味わいなさい」


 ザリファは人差し指をスッとアヴェンに向けた。


「【盲域もういき】」

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