ポケットの人魚姫
「……人間か、めずらしいな」
ダチョウはぽつりとつぶやいた。このハマから人間が消えて、いったい何年になるかしら。
食べていたシロツメクサを置き、青臭いげっぷをして、大股でその人間のほうに向かった。
「おい、少年!」
ダチョウがケーンと吠えると、彼はおどろいたふうでもなく、両手を振って応えてきた。
まだ小さい。五歳ぐらいか。ということは、ハマに人間が入れなくなってから産まれた子どもだ。捨てられたのか。かわいそうに……。
あれ以来、ハマにはいろんなものが捨てられた。犬や猫はもちろん、牛、馬、豚、にわとり、ガラガラ蛇……。動物以外にもたくさん。家、船、洗濯機、スカート、全巻そろったこち亀……。それとか、形のないものとか。ダチョウも捨てられたもののうちのひとつだった。なかには鎖が付いたまま捨てられた動物だって少なくなく、餓死した死体があちこちに銀蠅の集るあばら骨を現わしていたため、ダチョウが自慢の体を痩せさせたのち、歪んだ鉄柵の隙間から脱出できたのは運がよかった。一年を通じて温暖なハマは、外に出ればたわわに実った桃などの食べものに困らず、ダチョウは産まれて初めて知る自由とだだっぴろい碧空を謳歌した。
「どこ行くんだ?」
ダチョウが尋ねると、少年は向こうを指さし、
「海へ行くんだ」
と元気よく言った。
おいおい、あっちは海じゃねえぞ。それに海は……。
「連れてってやろうか?」
ダチョウがそう言ってしゃがみ、わざとらしく飛べない羽根を広げると、少年は、
「ほんと?」
と無邪気な笑顔をほころばせ、ダチョウに軽々と飛び乗った。
遠回りでよたよた歩きながら、ダチョウは行先を定めるのに必要ないくつかを尋ねた。まず少年の名前。エタノというらしい。それは少年がどこから来たのかを確かめるのに大事な情報だった。それから海へ行く理由。少年はすらっとした円柱状の瓶を取り出し、
「人魚姫を海へ返しに行くんだ」
と胸を反らす。
「はっはっは、ずいぶん大層なもんを持ってるな」
ダチョウは、がああ、と声を立てて笑った。
海を離れた人魚姫は喋ることができない、という伝説のとおり、彼女が何かを言うこともなかった。それでも青い光を放つ彼女はとてもきれいなものに見えて、少年はうらわかい恋心を隠すかのごとく半ズボンの尻ポケットに戻す。
「なあ、エタノ、お前は海に行くことはできないんだよ」
ダチョウは少年を乗せたまるい背中を揺らしながら、精一杯しゃがれ声を張った。頭上をなめらかに滑る鳥たちがこんもりとした茂みを目指し斜線を引く。やがてうれしそうに弦楽器を検めるような鳴声が続いた。こんなところにも雛がいるのだろう。
「え、そうなの?」
少年の調子はずれな返事は、それほど残念そうには聞こえなかった。気取りやがって。
ダチョウは言葉を割き、少年が産まれるまえ、海が失われたときのことを話した。それは人間が犯した大きな罪で、教えるのは少年に罪を着せるみたいだから、躊躇したけれど、過ちよりあとに産まれた彼だからこそ、知っておいたほうがいいと思った。
「ふうん」
少年は分かっているのか分かっていないのか、興味がなさそうにへいたんな声を伸ばす。
「でもさあ、じゃあ、人魚姫はどうしたらいいの? この子、帰る場所がないってこと?」
少年がダチョウのほそっこい首をつよく抱き締め、駄々を捏ねるように言うので、ダチョウは息が詰まり、があ、と跳ねのけてから、彼の計画をひそめた声で教えた。
「人魚姫に歌を取り戻させればいい。すぐれた人魚姫のうたう歌は、海を呼べるんだってよ。そしたら自分で帰ることができる」
よくできた嘘だ、と、ダチョウは含み笑いした。少年もくつくつ笑った。
「じゃあ、歌のある場所に連れていってよ!」
少年がたからかに言い、ダチョウはぴょんと飛び跳ねて応えた。
「しっかり捕まってろよ!」
ダチョウは禿げ頭をおおきく屈め、忘れられた草原を切り裂く野風のように疾走する。空がいちだんと高い日だった。海か……と、匂いを嗅ごうとしたけれど、山で育ったダチョウには、その匂いは分からないのだった。
ハマには人間の打ち捨てた道路がアスファルトの瘡蓋を波立たせつつも遺っていた。そこをまっすぐ歩けば、むずかしくなく歌のある場所に辿り着けるのだが、なんたってハマはお釈迦様のてのひらより広い。何度か夜を明かすことにした。
「君の名前はなんていうの?」
ゆたかな夜、眠っているとき、少年がダチョウのふんわりした羽毛に垢まみれの顔をうずめたまま、眠そうな声を嗄らした。空にはちぢれ雲のように星々が散らばっていた。残酷なぐらい、人間がいなくなってから、空には星が増えた。
「上島竜兵」
ダチョウはそう嘘ぶいて、少年の首元に、生あたたかい鼻息を吹きかける。安心したのか、少年はころんと寝てしまった。
名前か……。そういうものもあった気がする。人間が付けてくれたんだ。あのころハマには、芸術家の集まる小さな村があって、そこでダチョウは、デッサンモデルとして飼われていた。貧しそうな画家ばかりで、お世辞にも絵は上手いように思えなかったけれど、彼らのため、ダチョウはセクシーなポーズを取ってみせた。絵を描いてもらうのは楽しかった。あの日々を幸せと呼んでもいいように思う。それならば、いまは? 捨てられた、とダチョウは思っている。人間のことは嫌いじゃなかった。ハマに暮らす動物はみんなそうだろう。でもきっと人間たちは、ダチョウや牛、馬、豚、にわとり、ガラガラ蛇のことを、全巻そろったこち亀とおなじぐらい、嫌いだったのだろう。それにしても、あんなに素直な絵を描いた芸術家たちが、たやすくハマを捨てることができたのはどうしてなのか。であればいったい、芸術とはなんなのか……。
考えても、前衛的な筆捌きのなかに答えは見い出せなかった。頭のなかがピカソのようにぐしゃぐしゃとして、自分の名前を思い出せることもなかった。まどろんでいるうち、ふかい眠りについた。夢を見た。人間になっている夢だった。夢を見る自分は、人間とそう遠くないかもしれないと、夢のなかでそう思った。
やがてダチョウと少年のまえには、灰色のつめたい建物が聳えていた。四角い煙突が六つ整列しており、そのうち三つはしっかりと起立していた。ほか三つは破損し、とりわけ右端のものは、あの捨てられた牛のように、骨組みがあらわになっていた。人間が遺した罪そのものであるように、ダチョウは思った。それは見えないし、匂いもしない。
「お前の行きたかったのはここだろ?」
ダチョウはそう言ってしゃがみ、少年を下ろした。居眠りをしていた少年の背中にはダチョウの羽根が貼りつき、払いもせず、驚いたような顔でそれを見た。
「歌のうまれる場所だ」
あのときから、ここでは歌が生み出され続けている。その歌から逃げるように、人間はハマを離れた。かつて海に襲われたとき、人間は歌を制御できなかったのだ。むしろそのことを示すように、人魚姫は海を呼んだ。
「もういいだろ」
ダチョウは少年が握りしめた瓶に似たものを見やる。そのなかに何も入っていないことはすでに分かっていた。瓶は入れるのではない。入れられるのだ。
「返してこいよ」
少年が盗んできたそれはタクトだ。タクトを失って、歌のうまれる場所は溶け落ち、このままでは、やがて世界中がラブソングに包まれてしまうだろう。少年がそうした理由も分かる。あるいは、このハマにいる少年はすでに人間ではないのかもしれない。彼を形容すべき言葉をひとつ、ダチョウは見つけた。それは等しく彼を許容する言葉でもあるように思った。
「うん」
羽根のはえた少年はうなずいて、ただちに、歌のうまれる場所へと近づいていく。
彼の名前のことをダチョウは考える。「エタノ」は「エターナル」。永遠という意味だ。
地を割るように、聞き覚えのある轟音がした。間に合わなかったらしい。歌のうまれる場所は粉々に崩れ落ち、巨大なト音記号に似た白煙が空高くいくつも舞い上がって、終末をうたう歌が悲鳴のように吐き出される。それはさながら、あのときの、押し寄せる海に似ていた。人魚姫の歌が聴こえる。重なるはもる、はもるはるもにい、ハルモニオデオン。これが海か。初めて見る海は懐かしかった。
チェレンコフの海でたゆたう少年をダチョウは見た。やがて少年は魚と同化し、あるべき場所へ還っていく。すべての人間たちがそうだろう。さびしがりの人間に与えられる永遠がかなしくて、やさしいダチョウは津波のような涙を呑んだ。
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