AIのハルキくん

 足元で円盤に似た物体が動く。椅子のまわりを素早く旋回しては、私がぎろりと睨むと、CCDカメラに搭載された青色LEDがちかちか点滅し、慌てて逃げていったが、ノートパソコンに向き直れば、また恐る恐る近づいてきた。話しかけているように、しかし間抜けなビープ音を鳴らす。なにかを試すみたいに音階を変え、私の顔がいちばん険しくなったところで、音程はずれなソの音を伸ばした。

「ああ、もう!」

 机のうえの消しゴムを力任せに投げつけると、円盤はぴゅーと去っていった。ハルキくんがそれを拾いあげ、

「怖かったなあ」

 と聞こえよがしに言い、私の頭が沸点に達する。

「なんなの? 仕事中に遊ぶのやめて!」

 私が叫ぶと、オフィス中が「また始まったか」というふうに、しんと黙りこみ、ON・OFF試験中のリレーがかしゃんと鳴った。

 ハルキくんは、子どもみたいに、ぶすっと口を尖らせ、

「遊びじゃないです。AIの研究です」

 と言った。

 AI、という言葉にアクセントを感じ、立ち上がった私が、彼から円盤を奪おうとすると、ハルキくんは手を払い、んべっと舌を出してみせた。私より二歳年下で、一昨年に入社したばかりのハルキくんは、血管の浮き出た、思ったより大人の手だった。

「画像認識と音声認識ならもうやりつくされてるでしょ」

 私は呆れて言う。AIはうちの製品が使われている物流業界でもすっかりトレンド化して、さすがに自動運転までは怪しいが、可動範囲・条件の制限された自律走行であれば、すでにフィールドで使われている。レストランのチェーン店に入れば可愛らしくネコ型にデザインされた配膳ロボットがうろうろしていたこともあった。

 AIの技術が初めて世に広まったのは私の知るかぎりおよそ七十年前のチューリング・テストだったか、それから数年おきに流行りと廃れを繰り返していたものの、いよいよブレイクスルーがあったのだろう、Pythonが書ければ個人ですらAIが開発フェイズでも利用可能となった。特に大きな歴史的分岐点といえたのは、プライマルな画像認識と音声認識の技術が確立されたことに加え、言語認識にも拡張された点だ。今ではライティングの補助として言語認識のAIが使われることも少なくないという。「AIに仕事を奪われる」はもとより都市伝説の類いだって思っていたけれど、いよいよオペレータなんていう人間的な仕事含め、社会の中枢がAIに置き換わる時代も迫っているのではないか。

「僕がやりたいのは、画像認識とか音声認識なんていう、レガシィな技術ではないですぅー」

 ハルキくんは円盤をぬいぐるみみたいに抱きしめ、いたずらっぽく語尾を伸ばしたが、その口調と顔つきはどきっとするぐらい優しく、私は継ぐ言葉を失ってしまった。

 AIの技術が広まり出すと旧態依然としたうちの会社も重い腰をあげ、二年前にAIの専門部隊ができた。ハルキくんは新卒からそこに配属された一期生だ。ほかにも各部署からハードやソフトのエース級が投入されており、先に発表された三カ年計画ではAI技術の運用がみっつある目標の一番地に挙げられるなど、そこに賭ける会社の機運が見てとれる。ハード面に関していえば、うちはx86系は台湾オフィス含め社内で開発しているのだが、AIのとりわけエッジ・コンピューティングで使われるARMについては、中国のメーカーが作った基板をアセンブリーしている。AIではハード面の差異はほとんど着かず、あえていうならばNVIDIAまたはIntelとの関係がどのぐらい強固であるかが問われるため、うちのような地方の弱小メーカーは買い物を使うのが一般的戦略だった。ただし、ソフト面については話がちがう。機械学習の根幹を成すニューラル・ネットワークの配置によりAIの性能は大きく変わるため、ソフトウェアの作り込みは他社との差別化においてもっとも重視される。ハルキくんは、旧帝卒のベテランや大手から引き抜いてきたエリートに混じり、我が社の命運を左右するAIソフトウェア部門の若手として期待されていた。

 ……のはずが、春の部署異動で、x86の部署とAIの部署が「シナジー」とかいうよく分からないが口当たりだけはいい号令のもと合体し、私の席の後ろがハルキくんの席になってからは、私は万事にわたり、ハルキくんに神経を刺激されていた。どうしてもハルキくんの仕事っぷりが目に入ってしまうのだが、私には遊んでいるようにしか見えなかった。なんなら、悩んでいるかと思ったら昼寝したり、しきりにスマホを叩いたり、出かけたと思ったらアイスを舐めながら帰ってきたりする。仕事を舐めてるのか。一方、上司はとにかくハルキくんに甘く、むしろ彼に憤る私のほうが問題児として手を焼かせているような様相である。ハルキくんはハルキくんで、私が怒っているとますますちょっかいをかけてくるようになった。とにかく子どものような奴なのだ。

 そもそも、私はAIが好きではない。

「なんなの、仕事を邪魔するAIでも開発してんの?」

 私がそう言い、鼻で笑うと、ハルキくんは意味ありげに目を伏せ、

「そうですね、画像認識とか音声認識とか、いま流行りの言語認識だけではまだまだで、僕が本当に作りたいのは、人間みたいなAIですね」

 と、声が低くなった。たしかに彼の言う「人間みたいなAI」は、人類にとって夢であり続けただろう。しかしあくまで夢であり続けるべきではないのか。AIが人間に取ってかわるなんて、ぞっとしない。

 頑なな私の表情に目をやり、ハルキくんはくちびるをみかづき形に緩め、

「だからネエさんの言動を学習するのは、すごく理に適ってるんですよ。ネエさんほど人間的な人はいないから」

 と言った。


 仕事を終えたのち、高校のときから愛用しているベスパでロッコクを走り、復興住宅に帰った。避難解除が行われた常磐線の駅を中心にいちおうの復興は進んでおり、大手のショッピングモールもでき便利になったが、さすがに深夜に近づくと閉店してだだっぴろい駐車場をひんやりとLED灯だけが照らしていた。玄関のうすっぺらいドアを開けると、すぐそこの一口コンロに置きっぱなしにしてある薬缶にプロパンガスで火をかけ、カップ焼きそばのフタをべりべりと破った。子どものころお父さんに教えてもらい大好きになったその焼きそばは、捨て汁でおいしいスープを作れるという優れものである。簡素なパイプベッドに腰かけてスマホを弄っているうち、薬缶がピーと唸ったので、かやくを入れた焼きそばに湯を注ぎ、アップルウォッチで三分待った。普段ならこのぐらいの隙間時間で浴槽を洗うのだが、ぼんやりしていたところ、女性の声で三分経ったことが告げられた。お風呂やエアコンもそうだけれど、最近は生活のなかに擬人化されたデバイスが増えたなと思う。それは人間がさびしくなったからか。壁に背中をあずけ、隣の部屋から聞こえてくるテレビの声を耳になじませながら、音を立ててカップ焼きそばをすする。


 月の始めであったため、リーチのかかったサブロク協定を意識せず残業ができた。まだ若く給料が少ないハルキくんも日銭を稼ぎたいのだろう、広いオフィスの私とハルキくんがいる一角にだけ蛍光灯が点り、ふたりでキーボードを叩く音を重ねていた。私はひとりで残業をするとき音楽をかけるようにしている。なにかの折にハルキくんもflumpoolを好きだと知ってから、ふたりで残業するときもアップルミュージックの新譜を共有するようになった。

「ネエさん」

 組み込み用にROMが制限されたアセンブラのサイズ削減をバイト単位で悩んでいたところ、後ろからハルキくんの声が掛けられた。しかし、どうしてハルキくんは「ネエさん」と、それもへんなイントネーションで呼ぶのだろう。初対面からそういう打ち解けた口調だった気がする。

「生産に渡す検査プログラムを見てるんですけど、これってどういう原理で動いてるんですか?」

 ハルキくんのiPadに表示されたスクリーンショットを見て、ブートセクタを認識していないことが分かったため、

「CSMが無効になってるんじゃない?」

 と教えた。BIOSがUEFIに変わってから、ブートはedk2で規定されたルールで行われるものの、後方互換性のためCSMを有効にすれば、レガシィのブートも保証はされないけれど一定の動作はするようになっていた。

「えっ、CSMってDOSですかあ?」

 ハルキくんの鼻でくくったような口調が気に障り、食ってかかったように、DOSの利点を伝える。DOSのみならず、ARMはARMでもAIを動かすためではない、Cortexの低スペックモデルを信用していた。それらはLANもなければUSBもなく、通信といえばSMBusかSPIという、最低限のファンクションしか備えていない代わり、極めて安定的に動作するCPUであった。私は開発に携わったx86のコンピュータには量産単価の許すかぎりLPCなんかの小さなマイコンを実装していた。高度な暗号化エンジンを搭載したり、BIOSの証明書認証と復旧機能を持たせたり、ブラウザ経由で外部からステイタス監視できるサーバを入れたり、そういうトレンドのマイコンに比べれば有能では全くなかったけれど、その代わりシステム全体の電源管理といった低レベルの安定性には寄与し、SLP_S3#が解除されないなど限定的であるためIntelのサポートが得られないエラッタであっても、独自でマイコンにウォッチドッグタイマを仕込むことにより奇跡的に回避した事例はあった。

 ひとしきり私がレガシィのプレゼンを熱っぽく行うと、ハルキくんは分かったのか、分かってないのか、妙にさびしそうな表情で、

「なんでネエさんはAIが嫌いなんですか?」

 と尋ねてきた。

 私がAIを嫌いなのは、それが本質的にブラックボックスだからだ。どんなにきれいに動いているように見えたにせよ、一切の動作保証は与えられない。産業業界では、何かトラブルがあったとき、根本的解決と、原因究明、再発防止がセットで求められる。日本人の国民性に由来するお家事情と言えるだろう。私もそういうリジッドな産業業界にどっぷりと嵌りながら、同時に愛着を持ってもいた。だから私は開発したソースコードにブラックボックスが含まれないよう、CMMIに準拠した開発をギットハブベースで行うなど、とりわけ労を割いている。自明であること。それは私が仕事のみならず、人生を保証するための根本原理であった。

 でも、そんなことをハルキくんに話しても、理解してもらえないような気がした。

「AIは裏切るから」

 自分のものでないような乾いた声が出た。ハルキくんの顔は見られなかった。


 その案件は、まったく気が進まなかった。しかし、この町に暮らすものにとっては責任だったし、文字通り、宿命ともいえたかもしれない。また原発とともにかつて生活があったこの町にとっては、本当の意味での復興といえただろう。原発のうちもっとも炉心の損傷が激しかった一号機に入り、燃料デブリの性状分析を行うという、廃炉のための第一歩である。炉心付近は冷温停止状態にあるとはいえ、人体が即死に至る程度の放射線量があるから、あらゆる処理はロボットにより行われる。もともと、いまだ潤沢な原子力マネーに目を付け、台湾の大手SIerが受注していたのだが、格納容器内は非常に放射線量が高く、ロボットですらまともに稼働できないと分かれば、撤退という判断は手付金も返却されたことを考えれば責めることはできなかった。そこで白羽の矢といっていいのか、指名されたのが地元のメーカーであるうちだった。さらなる撤退を恐れたのだろう、工数あたり数十万円という破格な受注額を見て、前のめりになった幹部はあさましく見えた。とはいえ、いまだ女性差別が根強く残る田舎のコンピュータメーカーとして異例の若さで昇進が打診されたことは、私にとっても強いモチベーションだった。炉心内のロボットの制御において、鍵となるのはCPUである。一般に厳しい環境下でのコンピュータ稼働は、血流にもたとえられる電源回路や、通信を行うインターフェイスの信号品質がボトルネックになりやすいが、その点についてはハード担当が航空宇宙の技術を転用して耐ノイズ性の高い設計を行い、厳しい加速試験をクリアしていたため、最も高速の処理が行われ、かつ、制御の根幹を担うCPUに懸念の対象は移る。データ化けを考慮しDRAMやフラッシュにビット数の多いECCを選びつつ、かつ周波数が低い代わりステーブルな温拡品のCPUをスクリーニングすることにした。プラットフォームとしては組み込み系だから長いEOLが迫っているほどに古いが、そのぶんエラッタは出し尽くされている。ATOMといういかにもな名前が与えられていた。本来であれば、ARMを使うという選択肢もあった。しかし、もともとの台湾のメーカーがATOMで設計していたため、その資産を流用したいという考えと、私がこれまで開発してきたサブマイコンが死活監視として採用されたこともあり、x86ベースでの開発が進められた。台湾のメーカーはNDA付きではあるが回路図およびレイアウトも公開してくれており、Revision Historyの最後に手書きで追記された「加油!」の一言に和みつつ、開発は順調に進んだ。

「なんで僕も関わらないといけないんすかね」

 その日も深夜まで残業していると、隣で椅子をゆらしながらハルキくんが言った。x86であれば、基本的にはAIのエッジ・コンピューティングのエンジニアである彼の出番はない。が、「シナジー」の号令のもと、開発は私とハルキくんがふたりで当たることになっていた。

「あなたがこの町出身だからでしょ」

 私はあごを肘でつき、アートワークのズームアップをするたび点滅するアレグロの画面を見つめながら、そう呟いた。おもったより冷たい口調になった。

「ネエさんも、そうなんですか?」

 一転、ハルキくんの声はやさしかった。私に弟がいれば、きっとこんな感じだろうという声だった。

 それで気を許したわけでもないけれど、ふたりぶんの熱いブラックコーヒーを淹れて、私は私が体験したいくつかを教えた。そのいくつかは、また二歳年下のハルキくんが体験したことだっただろう。その話のなかに、私たちにとって廃炉は至上命令であるという意味を込めた。だって原発は、大元の責任は国策に決めた政府にあり、また電力の消費地であった東京も責任の一端を担うとはいえ、私たちが選んだ。なにもない町に原発ができた。その意味を私はよく分かってるし、ハルキくんもそうだろう。「原子力明るい未来のエネルギー」というもはや撤去された標語は、よくあるようなただの耳障りのいいコピーでなく、魂からしぼりだした言葉だった。

「ネエさんは、ひとりじゃないと思いますよ」

 ハルキくんは少し考えて、どこか叱るような、強張った言葉を置いた。意外と頑固なんだな、という感想をもったが、よく考えれば、ずっとそうだったのかもしれない。この廃炉において、彼自身も使命感があることは知っていたし、私に背中を向けてなにかを開発していたことは知ってる。それでも、ハルキくんは技術情報を共有してくれなかったし、それ以外にも、彼の話をしようとはしなかった。


 プロボックスの倒した後部座席に機材を載せて、イチエフに向かった。いよいよ燃料デブリの性状分析を行う日だった。ただ、これまでも試験的に格納容器内にロボットを入れており、思いのほか工程どおりに進んでいたので、どこか呑気に構えており、この日も何とかなるだろうという感覚があった。プロジェクトのマネージャなど、案件に関わる上層部もそうだったらしく、普段であればお目付けの営業担当のほか、ときには専務、またはメカ担当、OS担当が、おおげさなタイベックスーツを着て同席することもあったのだが、この日は私とハルキくんだけが行くことになった。いつもどおり着替えを済ませ、線量計の値を確認して、一度、免震重要棟でかるい打ち合わせをしてから、一号機に向かった。ハルキくんが手慣れた捌きでロボットのセッティングをしてくれて、私のほうはOSの動作確認をした。ロボット内のx86とノートパソコンで構成したサーバマシンとをルータ経由の無線LANで繋いでいる。無線でいえばBluetoothもあるし、そもそも有線のほうが安定性があり、SMBusなんかの低速通信のほうが波形的には有利で、プログラミング上RS-232Cあたりは最もシンプルに組めるのだけれど、主にはカメラの高解像度画像を取得する目的で、ギガヘルツ帯の無線を採用していた。ノートパソコン上のTFTPサーバソフトにトゥルーカラーのカメラ画像が映され、フレームレートは60fpsを越えているため、手をかざしてみても滑らかに動く。準備は万全だった。

「この度は誠にありがとうございます」

 本案件を取り仕切るクライアントのマネージャがにこやかに話しかけてきた。この日の現場対応で案件は終わるため、一言かけたかったのかもしれない。いつもの畏まった口調ではなかった。

「ご存じのとおり、もともとは台湾のメーカーに依頼してたんですけど、やっぱり地元の企業は違いますね。細かい要求を受けてくれるし、気づかない部分にも手が回るし、何より、使命感というか」

 そこまでを聞いて、私の体は氷を張ったように固くなった。使命感。という私も何度か噛みしめたはずのこの言葉が、この人に言われると、すごく嫌だった。別に悪い人ではなかった。仕事後にはお茶を渡してくれたし、ときにお昼を奢ってくれたときは彼のポケットマネーだと分かっていたし、おしゃべりも面白くて、品のある、紳士だった。それでもこの人は、地元の人じゃない。だからあなたが「使命感」というのは、絶対に違う!

「あー、そういうんじゃないです」

 ハルキくんの声が聞こえて、はっとした。ハルキくんが言ったのはそれだけ。でも、すごく近いところからの言葉であるように感じた。

 マネージャが去ったあと、機械の不気味な稼働音がする部屋のなか、私もハルキくんも何も言わなかった。言わなくてよかった。

「「ごめん」」

 その代わりみたいに、私とハルキくんは、声を重ねた。私が「ごめん」と言ったのは、この重要な案件で、ハルキくんにAIの開発を任せなかったことだ。ハルキくんが「ごめん」と言ったのは、どうしてだろう?

 照れ臭そうに、ハルキくんは二重扉を開けるボタンを押した。轟音が響き、わずか開いた扉を、私の開発したロボットが潜り抜けていった。

 燃料デブリのある場所までの道筋は、これまで何度か侵入したさいにミリ波で3Dのマッピングをしていたため、障害物も問題なく避けて進むことができた。うすぐらいうえ、光は粉じんによって遮られるため、カメラの画像は頼りない。体感でもはっきり分かるぐらいアームの応答がよくなかった。IPのログを見ると大量のタイムアウトが吐き出されている。慌てて放射線量を確認しようと思った途端、画面がブラックアウトした。

 焦りよりも恐怖がせり上がってきた。ブラックボックス。あのときから私がずっと畏れつづけてきた。空がかつてないぐらいきれいだった、と教えてもらったけれど、空なんて見られなかった。共有されなかったSPEEDIの情報。ただちに影響はない、と言われても、半減期の短い放射性ヨウ素の雲はとっくに通り過ぎてる。行先も知らされないまま「とにかく西へ逃げろ」と避難所を追い出されたこと。鼾と鼻を啜る音が響いた、真っ暗な体育館。叫びたくなった。ずっと叫びたかった。「本当のことを言ってくれ」と。

「自律走行に切り替えましょう」

 あたかも暗闇を照らす光のように、その声がした。振り返ると、ハルキくんは笑っているくせに、汗まみれの引きつった頬は憔悴していて、うっかり笑いそうになった。

「復旧処理用に搭載しているサブマイコン、ARM設計でしょ? であれば、僕の開発したAIがインストールできるはずです。そんなに高機能な処理はできないと思うけど、モーターにGPIOが接続されてるはずなので、少なくともここに帰ってこさせることはできる」

 ハルキくんは、まるで自分自身の昂揚を抑えるような、潜めた声で言った。もしもロボットを回収することができなければ、案件は失敗となり、会社の体面と信頼、および業績にも響くうえ、なによりも先行の台湾メーカーが蓄積してきた事故後十年に渡る重要なデータが失われてしまう。少なくともそれの回収ができればリトライはできる。いま一番重視すべきは、ロボットの回収で、そのためのたったひとつの選択肢は、ハルキくんの言ったとおり、ARMにAIを搭載することによる自律走行のはずだった。

 しかし私は声をとがらせる。

「無理だよ。画像が消えたってことは、無線の通信も途切れてる。だからARMの更新もできない」

 私が否定したかったのは、AIのみならず、技術的な可能性そのものだったのかもしれない。その技術が原発を作り、原発を恃み、原発を爆発させた。技術はどんなものであれ、本質的にブラックボックスを包含している。私はそれを否定するために、エンジニアになりたかっただけかもしれない。

「シリアルオーバーランなら? RS-232C通信は低速なんで、たぶんARMの更新はできますよ」

 ハルキくんは平然と言った。

「シリアル経由でARMの更新ができる仕組みなんて実装してるの?」

 そう尋ねながら、私は、ハルキくんにある回答を期待していることを知った。

「当然ですよ。僕は、天才エンジニアなんだから」

 それはハルキくんらしい口調だった。

 すぐにハルキくんはノートパソコン上のターミナルソフトを立ち上げ、ボーレートを安定しやすいクンロクに設定する。偶数パリティ、ストップビットは1。が、やがてハルキくんは頭をがしがし搔きながら、苛だたしげに、

「通信品質が思いのほかよくない。二重扉をオープンしてもらえますか?」

 と言った。

 扉を開けば、とうぜん放射線は漏れてくる。それでも、炉心はぶあつい格納容器で保護されているし、短時間であれば影響は限定的であるため、私は扉を開くボタンを押した。

 オペレーションルームに戻ってくると、ハルキくんの姿はなかった。ノートパソコンは開いたままで、ACKに応答はひとつもなかった。私が持ってきていたUSBメモリは抜き取られ、そこにはARMを更新するためのプログラムが入っていたことを思い出した。

「ハルキくん!」

 扉を力いっぱい叩いたが、中からロックが掛かっているのだろう、鋼鉄のそれはびくともしない。どうして気づかなかったのだろう。シリアルオーバーランはプロトコルこそシリアルでも物理層はLANなのだから、更新できるはずがないじゃないか。なにより、ハルキくんが抱えていた孤独。彼の胸のうちのブラックボックス。ARMを更新するために一番確実なのは炉心に入って物理的にアクセスすること。そのぐらい彼が思い詰めていたこと。彼が本当は技術なんて信頼してなかったこと。あの町で原発事故を体験していれば、当たり前じゃないか!

 どのぐらい時間が経ったのだろう。やがて扉が開いた。そこにハルキくんの姿をどれだけ願ったか分からないけれど、現れたのは彼のAIが書き込まれたロボットだけだった。なにより、ハルキくんは、天才エンジニアなんかじゃなかった。


 三十五年以上かかると言われた廃炉のスケジュールも大幅に前倒しができており、うちの技術は高く評価された一方、結果として原発再稼働のプランを後押ししたことを考えれば、いいことだったのか分からない。いずれにせよ、今日の燃料デブリ取り出しをもって、案件は完了となり、検収とともに数十年分ともいわれる莫大な売上が入ることになっていた。プロジェクトチームは十数名に膨らんでいた。なかにはあの事故を知らない子もいた。私は指揮を執り、燃料デブリを取り出すためのロボットのセッティングを行った。すっかり陳腐化したプラットフォームのCPUを使うことに社内から反対意見は多かったが、私は一番に信頼していたし、どんな困難な局面でも一緒に切り抜けてきた相棒だ。

 二重扉が開き、ロボットが吸い込まれていく。あれから放射線量は減衰したにせよ、炉心付近はまだ高い。やがて通信が途切れ、画面がブラックアウトした。

「ARMに切り替えて」

 私は興奮を抑え、そう指示を出した。ブラックボックスにはブラックボックスだ。ARMには、超有能なAIが搭載されていた。

 メガヘルツ帯に抑えた無線通信でスリープ信号を制御し、ARMを起動させると、すぐに起動完了したことを示すACKがヘキサで返ってきた。

『イナャジリトヒハミキ』

 リトルエンディアンか。馬鹿だなあ。AIになっても、君は口下手で、頑固で、優しいんだね。おなじ言葉を掛けられなかったことを後悔しながら、NACKだけ返す。

 ARMには、かつて炉心で物理的な復旧を行ったエンジニアの挙動がすべて学習されていた。私は燃料デブリの取り出しが成功することを確信するとともに、すべてが終われば、仕事を辞めようと思った。そのあとは、どうしよう。うん、墓参りに行って、彼に謝らなきゃな。

「頼んだよ、KILHA」

 私はAIの名前を呼ぶ。AIによって制御されたロボットは、青色LEDを光らせ、多量の放射線をものともせず、炉心へゆっくりと進んでいった。

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