ありえないぐらい世界

 人口わずか二万二千人のちいさな島に、YMOが来るという、手作りのビラを信じられたわけではなかったが、夕凪はすっかり気分がのぼせてしまい、熱で学校を休んだりした。

 しんでいるみたいな島だ、と、夕凪は思っていた。沖で暖流と寒流が混じり合っているらしいこの島は、植生が豊かで、魚が美味しい。でもそれ以外になにもない、いきるとは、東京のことだ。でも行けるはずなんてないから、いつか来てくれると信じていたら、本当にきた。古びたレコード屋しかない島だし、YMOの音楽なんて聴いたこともないけど、彼らが東京だってことは分かる。三人いる。象徴的じゃないか。預言を与えるべき賢者は三人いなくてはならない。

「YMOなんて来るはずない」

 京子ちゃんが言った。古風な名前だけれど、「京」という字を含む彼女は、他の子より大人びてる。ときどき薄らと化粧をして、休みの日には口紅が濃くなる。あかい色を見ていると恋愛みたいだと思う。夕凪はまだ誰も好きになったことがない。セックスのことを学校では教えてくれない。当たり前に結婚して、当たり前に子どもを作る、その当たり前が、すごく難しい時代だと思う、の、時代という言葉が初潮のすぐあとぐらいに買ったブラジャーぐらい着合わせが悪く、頭を悩ませる。そういうことがすぐに分かったら、みんな死んじゃうんじゃないかな。ふいに海が見たくなった。

 飛ぶように歩いた。女の子の背中には羽根があって、月に一回だけ羽ばたく。この島では、いつでも飛べる気がする。けれど越える海がない。銀色のつめたい格子の向こうは、色のないものが広がっていて、それは海ではない気がした。匂いもないのだ。生きるとは? とにかくYMOは来る。答えをたずさえて、YMOはきっと来る。

 男子と話すとき、京子ちゃんは少し声が高くなる。ソの音にシャープが付く。その声がいいなと夕凪は思う。大切なことにはシャープが付くような気がする。練習をしてみた。でも本番なんて来るのかな。それは大人になることと同じぐらい遠い。今日という日は、明日の昨日ではないと思う。ただ今日なのだ。その法則を打ち破るように、YMOが来るまでの日を指折り数える。

 お風呂は好きだ。「浴槽は海に繋がっていませんだけどいちばん夜明けに近い」という短歌があって、誰が詠んだのだったか、すんなりと頭に入ってきた。上の句に救われて、下の句でちょっとがっかりする感傷は、同い年の女の子なら分かってくれるんじゃないか。そういう短歌を書ける女子がいたことに安心した。じゃあどこに繋がっているだろう、ということもきっと知ってる。潜ってみる。そのとおり、これは海ではないな、と、息継ぎで確かめる。けれど陰毛は海の生きものみたいだ。まだ親と一緒に入っていたころ、数字の数え方を教わった。指の数より大きな数字があると知らなかった夕凪に、親が二進数を教えてくれて、それはほとんど無限であるように感じられた。無限はゼロを内包しているということを、分数を知らなくても分かる。あの親はどこへ行ったのだろう、と、分母のない無理数を、DNAのように連ねていく。

 学校はあった。そこでは生き方以外の退屈なことをすべて教えてくれて、けれどたとえば古文の「けり」を朗読するときとか、生き方にこっそり触れた気がして、緊張した。緊張という感覚は、生き方に似てる。心臓がつよく拍動する、ものは、ぜんぶ生き方だろう。そういうものを嫌いなピーマンみたいにより分けて、給食のあと、居眠りをすると夢を見るから、なかったことにする。せめて空を見たくなり、屋上に向かえば階段はほこりくさく、扉はしっかりと鍵が掛かってる。屋上への扉は、何かに似ていると思う。学校というシステムは、本当のことを隠すためによくできてる。ずいぶん昔、漢字のテストで「じじつ」が分からず、どこかに隠れていないか教室中を探したことがあった。あの漢字は今なら書けるだろうか。今は別の理由で書けない気がする。

 給食といったが、何を食べていたのか分からない。何を食べていいのかも、誰も教えてくれなかった。汚染を測る単位は、成分表に書かれたカロリーみたいに饒舌じゃない。痩せたいのはモテるためじゃない、と京子ちゃんじゃない誰かが言ったが、京子ちゃんでもよかった。夕凪は言わない。どんどん痩せていけば、いつか体が宙に浮いたりするだろうか。浮くということは、また別の重力が働いている。重力から離れるための方法を、拒むため、夕凪たちは概念で腹を満たす。

 男子について。男子という生きものがいた。彼らは馬鹿で、粗雑で、傷つきやすく、そして治るのが早かった。夕凪も、男子という生きものになりたかったことがあった。彼らは股間に生きやすさのための官能を備えている。たとえば、世界にある睾丸の数は奇数だろうか、偶数だろうか。たとえば男子は誰であれ、それを奇数にしたり、偶数にしたりする能力を備えている。ほとんど世界を統治する能力に等しいじゃないか。世界とは数字だ。そう受け止めた夕凪は理系であって、およそ理系的な方法でなら、子どもが欲しいと思っていた。1たす1の解として1を取る論理式より美しいものを夕凪は知らない。

 数学は苦手だった。苦手というのは、学校の成績という意味ではない。点取りならいくらでもできた。果たして点取り以外の全てについて、数学は夕凪にとって、不可解なものであり続けた。無限の概念は不可思議という単位よりはやく理解ができた。その拡張ともいえる微分や積分についてもQEDなら書けた。それらは夕凪が参考書から得た知識であって、高校の教師はしゃべり声がやわらかい。彼の説明を聞いていると、数学は少しずつ、しかし確かに、その闇を深めはじめた。もともとコンピュータサイエンスの仕事をしていたという彼は、わかりやすさよりも、論理性と正確さを好んだ。覚えていることがひとつある。「石取リゲーム」だ。石の山をいくつか作り、ふたりのプレイヤーが交互に好きな数の石を取っていく。ただし、1ターンにひとつの山からしか取れない。そして、最後の石を取ったプレイヤーが勝ち、というシンプルな完全情報ゼロサムゲーム。このゲームには必勝法がある、と数学の教師は言った。いわく、石の山の排他的論理和を取ればいいのだ。それがゼロになるような取り方を常に続ければ(そのような取り方ができることは排他的論理和のルール上自明)必ず勝てる、ということらしかった。およそ夕凪には理解しがたい説明と、一方で「必勝法」と口にしたときの年老いた教師の口調は、夕凪を興奮させた。それは少年の不可解さにも近しいように思った。おそらく生徒と教師の排他的論理和を取れば、ということである。有体な感情として、夕凪はその教師が好きだった。

 体育の授業はなかった。外で遊ぶことは汚染されるから善しとされなかった。それなのにカーテンを閉め切った教室で着替えているときの匂いを覚えている気がする。本質的に体育はセックスを連想させる教科だった。であればあの島には生殖は存在しえなかったのか。むしろ遊びのためのセックスこそなかった気がする。どこか純粋に、切実に、「産む」ということが渇望されており、しかしそれは叶わない。潮目の海ならば、死と生の境界線に、そこは存在する。当然、生殖としてはもっとも豊かなポジシオンという意味でもある。

 京子ちゃんが勉強をしている。彼女は東京の大学に行きたいのだという。叶えられない夢は、そうでないものよりも純粋で、切実だ。そういうものばかり京子ちゃんのノートの罫線をはみ出していた。たとえば物理の回路図。論理素子は高校の単元にあっただろうか。「世の中のコンピュータの全てはNAND素子だけでできている」と京子ちゃんが笑ったとき、彼女もそうなんじゃないか、と、怖くなった。それはつまりフォンノイマン式の議論であって、量子コンピュータはそうではない、と教えてくれたから、ただひとつ分かったこと。すなわちシュレディンガーの猫。さながら決定されないこの島は量子的だった。あの頃の量子コンピュータは二桁の足し算がようやくできて、そんなところも、あの島の高校生によく似ていた。愛しい量子ちゃんがたくさんいた。京子ちゃんは本当にいたのだろうか。

 音楽のことはもう語らなくてもいいと思う。そこかしこに音楽が溢れていた。潮騒。耳を澄ませる。波は、映画のようなドラマ性はなく、しずかに訪れて、すべてを奪っていった。そののちにあの島ができた。何もないのだから、与えられなくてはならない。そのためにYMOは完全なクリシェであり、同時に新しい蠅の王だった。

 夕凪はYMOのライブに向かった。開演は二時四十六分。島中の全ての人がYMOのライブに向かっていた。京子ちゃんも、数学の教師も、男子も、二桁の足し算しかできない友だちも、少年も、猫も、古文の「けり」も、短歌も、あらゆる概念が潮目を目指し歩いた。遠くから音楽が聞こえてきた。「ライディーン」は不完全だった。細野晴臣がまだ来ていなかったからだ。「ライディーン」がいつまでも完成されなければいいのに、と思う。それは海に繋がっているのだろうか。しかし夜明けには一番近い。銀色の格子の向こうには、ありえないぐらい世界。

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