えんきりバーバー

 スカート丈はかつかつでパンツ見えちゃうぐらい太ももまるだし、女子高生は素敵で無敵だっていうけれど、それなりにやせがまんしてるんだ。とくに冬の東北はぷっちりの鳥肌をゆびさきでなぞり笑っちゃうぐらいさむく、ほんとろくなことがなくって、はじめて付き合った彼氏は顔がいいだけのひどいDV男だったし、年だから生じゃないとイケないといい避妊はしないうえ謝りながら中にだすし、「そろそろ受験だから」とおずおず別れを切り出せば「お前を殺して俺も死ぬ」なんて昭和のドラマでもない台詞とともにかみそりを頸動脈にあてられるし、そのあとは前戯もろくにせず痛々しい青痣が内股にできるぐらいのはげしいセックス、イクときの声がまたきもちわるい、ぜんぜんよくなくって、ほんと、無理。田舎の、地味な、なんのとりえもない子たちが通う公立高校だから、まわりの友だちはテレビごしの声優にばかりむちゅうで彼氏持ちはおらず、相談しても「ノロケはやめてよ」と呆れながらまるめた参考書で背中をぶたれるだけで、ましてや両親はおこづかいを渡しとけばいいと思ってるひどい放任主義。見かねた大学生の従姉妹のユカちゃんが、「えんきりバーバー」を紹介してくれた。バーバーってなんだっけ。床屋だよ。そこで髪切ってもらったらさ、いっしょに縁も切れるの。それであたしもNHKの集金が来なくなったし。いやNHKは払えよ。将棋みてんじゃん。なんだかなあ。しかしほかにできることもないし、ちょうど髪も目にかかるぐらい伸びて表情も暗いし、溺れるものは藁をも掴むていで、相双を南北に縦貫する国道六号線、通称ロッコクを愛車のスーパーカブでぱかぱか駆け抜ける。ギアはサードでフルスロットル。道路脇にこんもり雪がつもった登り坂で、堆肥をのせた黒ナンバーの軽トラックを左から追いこした。なぁーんにもない町だけど、とにかく海がきれいなんだよな。刺すようにつめたいものの磯のかおりが気持ちいいから、ピンク地におおきな星がひかるヴィンテージヘルメットのあごひもを首にひっかけたまま脱げば、しなやかな黒髪がぶわっと寒風におどり、まっしろに凍りついたつづらおりをローギアでブレーキいっぱい握りしめながら慎重にくだると、波がはじける海のすぐそばに、潮風をあびてくたびれた白木のバラックがあった。

 うわ、ほんとうに赤色のペンキででっかく「えんきりバーバー」って書いてある。ところどころかすれた、きったない字。ウケる。海沿いらしいといおうか、狭い二等辺三角形の駐車場に突っ込まれているびたびたにパンクしたミゼットの荷台には、釣り道具やクーラーボックスがたくさん積まれ、魚のすっぱい匂いがものごいしい。もとはカフェだったのか、なかなか意匠に凝ったウッドデッキを見つけたけれど、そちらも雑多なものがあふれている。ちいさなカニが横歩きする先を追えば、ボラードのわきに写楽の一升瓶だ。けっこう高いから、いいことがあったときしか呑めないが、常磐もののおいしい魚とあわせてお猪口をくいっと傾ければいけるんだよな。いや、空き瓶、何本転がってんだよ。呑みすぎか。うすよごれた窓ガラスにはステンドグラスのようなフィルムが雑然と貼られていて、剥がれたすきまから人影がうっすら窺えるものの、よく見えない。

 おもいきって年季がはいった赤銅色のノブをひねり、そっと押すと、思いのほか軽く、頭上で蜘蛛の巣をゆらしながらドアベルがかららんと鳴った。

 くっさ。店に入ってすぐの毛羽立ったじゅうたんを踏むなり、鼻をつまみそうになった。さっきまで潮のいい匂いをかいでいただけに、卵のくさったような匂いとのギャップに顔をしかめる。しろい波がたつ海を一望できる窓際に、やすっぽい合皮張りのワインレッド色をした椅子がみっつ並んでおり、ひとつが逆を向き倒されて、寝転がったおじさんがふごおと鼾をかくたび、見知った電器屋の名前が書かれたタオルが顔のうえで上下する。髪を洗ってもらっているらしい。というか身なりを見ればあきらかに、ホームレスじゃないか。臭いのはこいつか。なんでこんなひとが床屋に来てんの?

「いらっしゃあい」

 かろやかな声が奥からして、タンゴを踊るような足取りで、まっくろいゴムエプロンを着けたおばあさんがあらわれた。いろっぽい声のわりに顔はしわくちゃで、くるくるにパーマのかかった髪が奇抜なむらさきいろ。胸元のポケットにおおきなハサミをしまっている。どうやらこの人が床屋の主らしい。「えんきりバーバー」というより妖怪「えんきりババア」じゃないか。髪を切ってもらっているホームレスのおじさんもそうだし、いきなり不安になる。帰ろうかな……。

「そこに座って三年ぐらい待っててなあ」

 おばあさんはけだるそうに、しかし圧のある声でそう言い、逆剥けがめだつ人差し指で入口のソファをはじくように指した。うわ、穴だらけだ。スカートをととのえ、おそるおそる座ると、沈みこむなりはいいろのホコリがぶわっと舞って、なんどか咳き込んだ。きばらしに本でも読もうか、と、背のひくい本棚をのぞきこめば、ぎっしり詰まっているのはみごとにフランス書院しかない。

 とにかく店内にいるうちに匂いにも慣れてきたので、おばあさんの手捌きに目をやった。なるほど、プロだけあって、ちょっと雑だが、なかなか見事なものである。もこもこの泡がけむりのたつお湯に流され、遠目からみてもフケだらけだとわかった長髪がきれいになると、こころなしか、匂いがやわらいだ気がした。

「はいっ、イケメン完成! シャワー浴びてこんかい!」

 おばあさんは元気よくそう言って、ペダルを小気味よく踏み、椅子を起こすと、おじさんの後ろ頭をたたいた。うわ、いい音。おじさんは渡されたタオルでしかたなさそうに髪を拭きながら、なにが起きたのかわかっていないようなうつろな目で、やぶれたジーンズの足をひきずり店の奥へと消えていった。

 床屋に髪を洗う以外のシャワーなんかあったっけ? わたしがいつも行くのは平の町の中心部にあるオシャレなヘアサロンばかりで、マッサージとか、あついハーブティーをサービスしてもらえることはあったけど、シャワーなんか聞いたこともない。床屋ってそういうもの?

「はい、アケミちゃん、どうぞ!」

 おばあさんは、やたら音がでかい掃除機をふりまわして床に落ちた髪の毛を吸いおえると、部屋のはしにある椅子をせかすように叩いた。いちいちリアクションがおおきなひとだな。申し訳ないけれどおじさんが座っていたのとはべつの椅子だったからちょっと安心した。というか、わたしの名前って教えたっけ。

「ユカちゃんに聞いてるよ。でれすけと別れらんないんだって?」

 思ったよりふかふかの椅子にぎこちなくすわると、おばあさんはビニル袋をわたしにいきおいよくかぶせたあと、意味ありげに毛のおおい親指を反らせて、鏡ごしに銀歯をみせてニヤッと笑いかけてきた。ああ、いろいろ気がまわるユカちゃんが話を通してくれていたのか。というかこのくろいビニル袋、やたらうすいし、穴をあけただけのゴミ袋のような……。

 なんだかどうでもよくなってしまって、わたしは彼氏の文句をぶちまけた。もうここが「えんきりバーバー」かどうかはどうでもよく、話を聞いてくれるならだれでもよかった。顔があつくなるぐらい、感情がたかぶっているうち、ああわたしはほんとうに彼氏がもう無理なんだな、と、おもえばやけにたのしかった思い出ばかりよみがえってきて、別れられなかったのは、わたしにも気持ちがのこっていたのを見透かされていたのかもしれず、切らないといけないのは、わたしのなかのなにかだったのかもしれない。無性にかなしくなって、継ぐ口を失ったのちしくしく泣いていると、おばあさんはわたしの背中をばあんと叩き、

「でぇじょうぶだ! ババアが、縁を切ってやっからな!」

 と野沢雅子口調で言い、天井をみあげてがっはっはと笑った。いや、いまのけっこういいとこに決まるチョップだったよね? びっくりした。ナメック星の塵になるかと思った……。

 くりかえすけれど、わたしはえんきりバーバー、もとい、えんきりババアに、なにひとつ期待なんかしていない。ハワイ・オアフ島出身みたいなちょんまげにされて、それで彼氏に「俺、お前と相撲とるつもりないから」って貴闘力の取組よろしく張り手をあびるとか、そんなのでよかった。あ、そういえば、いつもなら「髪のながさは肩に届くぐらいにして、前髪をぱっつんにして、全体的に梳いてください」って注文をつけるのに、きょうはなにも伝えてないや。まあいいか。

「縁よ、毛を切り、晴れたまえ」

 意味のわからないその呪文にうながされるまま、わたしが目をつぶると、しゃくしゃく、という気持ちのいい音が耳元でなく。とおくからやさしい潮騒もひびいてきた。だんだん眠くなってしまって、まどろんでいるうち、夢をみたような気がした。すごくきれいな場所にいる。余計なものがなにひとつない。ああ、ババアが切ってくれたんだ。なんか、すごく気持ちいいなあ。と幸せな気持ちにひたっていたところ、

「はい、できたよ!」

 と、ババアにさっきよりつよく背中を叩かれて、ふたたび息が止まりそうになった。

 海をむいた窓に、長円形をしたグリム童話に出てきそうな鏡が設置されている。そこに映っていた姿をみてわたしは言葉をうしなう。え、これ、わたし……?

 ショートカットがこんなに似合うとは思ってもみなかった。いや、子どものころに、再放送でみた「時をかける少女」の内田有紀ちゃんにあこがれ、一度だけみじかくしてもらったことがあり、学校で「男みたい」と好きな子にからかわれたから、ずっと髪を伸ばしていたのだ。毛先のクセも嫌いだったのに、ボブにするとくるんとまるまった髪のかたちが外国のお人形さんみたいにかわいらしい。前髪も、ぱっつんだとメンヘラな印象を与えるけれど、段差をつけて額をだせばとたんに明るくなった。すごい! 自分でいうのもなんだけど、AKBかなにかのアイドルみたい!

「ちょっとアクセントでインナーカラーを入れると、もっと可愛くなるけど、どうする?」

 ババアは、わたしの表情を鏡ごしにたしかめて、すらっとした両手のピースサインを得意げにわきわきした。

「入れてください!」

 わたしは叫ぶように言い、右手をずばんと真上につきあげると、うっかりゴミ袋をやぶってしまった。

 シャワーを終えたらしいおじさんが、身なりを整えて店の奥から出てくると、わたしを一瞥し、

「かーわい」

 と、かろやかな口笛をふき、さいしょに肯定してくれたのが彼でうれしい。


 はたしてそこがほんとうに「えんきりバーバー」だったのか。結論をいえば、「YES」ということになるだろう。すごくかわいくしてもらったから、もっと彼氏に粘着されるかと思ったけれど、出会い系サイトでしりあった、わたしと会うまで童貞だった彼は、もっと地味な子が相手じゃないと間がもたなかったみたいで、しゃちほこばった敬語の溝をはさんでぎこちないメールのやりとりだけしているうち、ユカちゃんに紹介してもらって読書が趣味だという落ち着いた大学生の彼氏ができ、もとい元カレとは着拒なんて手をわずらわされることもなくすっかり疎遠になった。すごい!

 あたらしい彼氏ができてすぐに、えんきりバーバーを訪れ、ババアにお礼をつたえた。そういえば、お金も受け取ってもらっておらず、「縁が切れたらでいいから百兆円よこせ」と高笑いで固辞されたので、そんな国家予算はともかく、ATMからおろした福澤諭吉たちをライダージャケットのポケットにねじこんでそのままスーパーカブに飛び乗り、フロントフォークがばいんばいんにブチあがるぐらいロッコクを爆走した。が、ババアは「そんな小銭いらねえ」と梅干しでも食べたようなむずかしい顔でフランス書院を睨んでいる。いわく、縁を切るのはわるいことだから、お金をいただくのはとんでもないことだと。そのことはアケミちゃんも分かっていなくちゃいけないよ、と、ぎゃくにたしなめられ、それでもなにかできることはありませんが、と食い下がれば、フランス書院の朗読をたのまれた。岸壁にあるコカコーラのロゴが色あせたベンチに捨てられた枯木みたく寝転がり、があがあと死にかけのアヒルみたいに鼻をならすババアを見届けて読むのを止めれば、「ちゃんと読め!」ときゅうに血走った目をくわっと見開いて叱られる。お前は前戯が長すぎる、と親指を人差し指と中指で挟みつつ、まんまおさかんな熟女みたいな注文をつけられたが、文章をそっくりそのまま読んでるだけなんだけどな。棒読みじゃねえかっ! マグロかっ! もっと感情を込めて読め! はいっ! 喘ぎ声を混ぜろ! 舌を使って喜ばせろ! オナニーしてんじゃねえ! はいっ! おらっ続けて読め、クリトリス。クリトリス! パイズリ。パイズリ! ドギーバック。……ドギーバックは、体位じゃないですよ。そのさきは、ババアの過去のほんとうかあやしい大恋愛の話を耳垢たまるぐらい聞かされて、わたしも今彼の自慢をちょっとだけして、おしぼりでアレの性感帯を伝授されたのち、夕暮れにしずむ紅の海を胸に焼きつかせながら帰った。

 母に渡すものをたのまれ、ユカちゃんと会う機会があった。こだかい丘のうえにある古民家、アジアンな敷布がしかれた縁側にならんで柿の木のむこうにはるか海と原発の排気塔をみおろし、石油ストーブのうえでしゅんしゅん唸るヤカンから注いだあついプーアル茶に猫舌をならしながら、彼氏のお礼と報告がひとしきり落ち着いたあと、えんきりバーバーの話をちょっとだけした。やはりババアはお客さんからまったくお金を受け取っていないという。ホームレスの髪をよく切っていること、若いころは新宿のタワーマンションの最上階に住んでいて、ゴールデン街ナンバーワンホステスのヘアメイクも任されていたことを聞かされ、どうしてか処女をなくしたときのように下腹部が心もとなくなる。

 わたしはみたび、えんきりバーバーを訪れた。一回目と二回目は理由があったけれど、三回目はなにもなく、「手伝わせてください」という言葉が自然と口をついた。こういうとき、いつも嗤っていたはずのババアは、しわのなかにシュッと逃げたきいろい瞳をほそくして、縁を切るのはわるいことだよ、と、雨のまえに雷がうめくような重々しい口調でくりかえす。たぶんわたしはそのとき、真意がわかっていなかったのだと思う。だから「知ってます」と率直に返事をして、ババアが根負けするまで店に居座れば、明日から来い、と、エプロンの紐が滑り落ちそうなまるい肩を落とした。泰然としているようで、意外と押しに弱いのがババアだった。


 高校三年生の夏まで、わたしはえんきりバーバーで働いた。まずはドライヤーがけから、しばらくすると洗髪を任せてもらえて、やがて前髪ぐらいなら切らせてもらえるようになった。ほんとうはこういうことをするのは、理容師免許がいるらしい。わたしはなにもわかっていなくて、とにかくババアといっしょにいられれば幸せだった。ときどき、フランス書院の朗読もしてあげた。前戯の部分を端折るとババアはうっとり微笑んだ。ホームレスの髪を洗ったり、切ったりするのは、申し訳ないがさいしょは終わったあと手をひっしに磨くぐらい嫌で仕方なかったけれど、わたしの下手くそな手捌きをみんな喜んでくれて、調子にのり本屋の立ち読みで覚えた指圧マッサージをしてあげたところ、「痛い!」ともだえながら、ババアに内緒でほかほかの小銭を握らせてくれたりした。たまに縁を切ってもらいたい客が訪れれば、ババアが腕を振るった。わたしはいつか「えんきり」も任せてもらえるようになりたい、と、店を閉めたのち、浜辺でババアとタッパーに入ったしょっぱい肉じゃがをつまみながら、紙コップの手酌で写楽を呑みかわしているとき言ったが、ほんとうはわたしは、ババアの髪を切りたかった。そして、ババアを世界でいちばんきれいにしてあげたかった。


 日々はすぎていく。わたしは理容師の専門学校に行きたいと主張したけれど、学校はいちおうの進学校であったし、ずっと放任主義だったくせ学歴のひくい両親が「大学へ行って公務員になれ」とたまに拘りをみせるとやたらうるさく、一度家出こそしたものの、二日か三日友だちの家にいるあいだ、受験勉強をがんばっている友だちの半纏を着た背中だとか漫画なんて一冊も入ってない本棚の赤本に生えたカラフルな付箋を見ると不安になってしまい、早朝にこそこそ帰宅すると机の引き出しのおくにしまっていた進路希望調査票の第一志望から第三志望までを京都の大学で埋めた。受験勉強に忙殺されているうち、大学生の彼氏とは自然消滅した。「えんきり」なんかしなくても、ひとは簡単に離れていくものだと、いつしか、ババアのことも忘れていた。難化したセンター試験の数学でなかなか派手にすべってしまい、第一志望の国公立には入れなかったが、AO入試で私学の文学部に滑りこんだ。もともとは教育学部を目指していたけれど、浪人はいやだったし、オープンキャンパスついでに観光した京都のカフェや雑貨屋へのあこがれもあり、入学手続きのときの新歓でビールをイッキしながらちやほやされれば、真夜中の鴨川デルタへダイブするとともに気持ちはすっかり切り替わった。その私大は就職サポートも充実しており、公務員へのルートも堅いという。寡黙だけどやさしく数学の話のときだけムキになるかわいい彼氏はなんと京大の非常勤講師。もう「えんきり」なんていらない。わたしの人生は、順調にすすみはじめていた。


 その日はわたしも彼氏も授業がなく、夜に家庭教師のバイトが入っていたけれど、それまでの時間をつぶそうとわたしの部屋で発泡酒片手に出町柳のツタヤで借りた「タイタニック」をたのしんでいるうち、ルノーの曇った窓ガラスにウィンスレットの汗ばんだ手形が付くシーンで生唾の飲む音をかさねれば気分が盛り上がってしまい、セリーヌディオンそっちのけで負けないぐらい濃厚なセックスをした。たかぶったころ正常位にかえて彼がねばついた舌をわたしに吸わせつつくるしそうに出し終え、ゴムをつけているし安全日だからいいだろうとぐずぐずなしたの口で彼の堅いものを咥えたまま惰眠を貪っていると、シングルベッドの揺れるような感覚があった。五階建てなくせエレベータもないようなぼろい学生マンションなので、隣接した加茂街道を37系統が走るだけで揺れることはよくあり、今日もいつものそれだろうとレースカーテンを透かした昼下がりのまぶしさに目をつぶっていたが、どうにも揺れている時間がながい。しばらくすると、ケータイが鳴動して、いやな予感がして開けば、

「うちはぶじ」

 と母親からメールが入っていた。おなじような内容のメールが無精な父親からも続く。さらに、ぴろりんと音が鳴って、新着メールを確認すると、

「つなみがくるからひなんします」

 と、いつもはだらだらした文面を絵文字で埋めるユカちゃんから届いていた。

 津波? あの町で? それに、ユカちゃんの家は海から離れた丘のうえにあるのに?

 みなにメールを返信するが、誰からも応答がなく、誰に電話をしても「電波の届かない場所にあるか電源が入っていないため掛かりません」の機械音声が耳に痛かった。

 あわててベッドを抜けだし、ちいさなテレビデオをつければ、気ままなディズニーアニメのうえに表示されたニュース速報のテロップにより、ようやく地元でマグニチュード9ちかい大地震があったことを知った。

「ここ、アケミの地元じゃないの?」

 裸のまま、へにゃんと床に座りこんでいると、彼氏が心配そうな声で話しかけてきた。テレビはものものしいニュースに切り替わり、震源の場所が赤いバツ字で示されている。わたしの地元は、そのすぐ南西だ。子どものころから、数年以内に沖で大地震が起こると言われており、おおきな津波の発生も予見されていたので、しょっちゅう避難訓練をしたくせ、いまはぜんぜん現実感がない。地図のぎざぎざした海岸線は、真っ赤に点滅していた。

「うん、でも、みんな無事って言ってたし。実家は山のうえにあるから、津波もチリのときだって……」

 わたしが育った、あの町を思い出していた。ロッコクを北上し、坂をくだる。そうだ、海沿いには、ちいさなお店があったのではなかったか。

 耳元で、しゃくしゃく、という音が鳴る。「縁を切るのはわるいことなんだよ」といういろっぽい声が叱っている。フランス書院の朗読を喜んでくれたこと。いつか「えんきり」ができるようになれば、卒業証書をあげると、鼻くそをほじりながら話してくれたこと。

「アケミに未練がないなら、それでいい。でも、もし未練があるとしたら」

 彼氏が後ろからながい髪にとおした指で梳いてくれて、わたしは撥ねつけるように金切声をしぼりだした。

「わたし、まだ卒業できてない!」


 「わ」ナンバーのハイエースで東名の追い越し車線を走っているとき、ハンドルをきつく握る彼氏はフロントガラスにさびしそうな表情を映しながら、へいたんな声で過去の話をしてくれた。彼は阪神大震災の被災者であったという。たくさんの未練があった、と当時の話をしてくれた。わたしは「えんきりバーバー」の話をした。高速道路は渋滞していたから、地元まで十時間以上。「えんきりバーバー」の話ばかりをたくさんした。話してみれば嘘みたいで、ほんとうのあの場所があったのか、わからなくなったけれど、だからこそ、確かめなくちゃいけないんだ。

 断続的な渋滞は、被災地に近づくと、やがてかんぜんなスタックに陥り、しきりに音割れするFMラジオによれば、あちこちが立ち入り禁止になっているという。高校生のときに乗っていた丸目がかわいらしいスーパーカブは、京都まで持ってきていたし、ハイエースのトランクにも積んでいた。

「ありがとう!」

 せいいっぱいの感謝をその言葉に込めると、わたしはヘルメットも忘れたままスーパーカブに飛び乗り、尻をたかくあげた前傾姿勢で常磐道の路肩をぶっちぎった。コートも着ていなければ、スカートは短いけど、あのころ寒くなかったんだから、こんな鳥肌など武者震いでしかない。ガソリンタンクはリザーブふくめビタビタに溜まってる。リッターで100㎞以上走るというホンダの往年の名車・スーパーカブは、くすんだレッグシールドに羽根の紋章をはためかせ、くたくたの瓦礫を越えて、たおれたブロック塀がふさぐほそい道をすりぬけ、きいろいもやをハイビームで溶かし、荒地をひたした海水がうつすあおい空をまっぷたつに駆け抜けた。やがて見覚えのあるまっすぐな道に辿り着く。ロッコクだ!


 予想をしていたことだけれど、声をうしなった。あのえんきりバーバーがあった周辺は、いっさいを波にさらわれて、すべてが夢だったというぐらい、写楽の一升瓶も、フランス書院も、消えていた。えんきりバーバーの跡地には、コンクリートの土台と、なぜか白木の扉だけが、きれいな状態で残っていた。扉を開ければ、あのドアベルがなつかしい音で、かららんと鳴り、向こうの海は嘘のように凪いでいた。

 ケータイの電波は通じていなかったので、情報をさらうことができず、当時の町並みをひっしに思い出しながら、学校の体育館を回ることにした。ロッコクが堤になったのか、西側はふるい家屋の倒壊こそ目立ったものの津波の到達はなく、いくつかの体育館は避難所か、遺体の安置所として機能していた。

 避難所には、顔なじみのホームレスが何人かいて、ババアを見なかったか食ってかかるように尋ねると、彼らは一様に、「ババアは『あたしは悪いことをたくさんしてきたから、ここに残る』と言い切った」と声をそろえ、まぶたを濡らした。わたしは、泣かない。だってわたしはまだババアに会ってない!

 漁港に仮設された遺体安置所の入口に貼られているうすよごれた藁半紙には、遺体の特徴が乱れた文字で並んでいた。ババアの特徴を思い出そうとしたけれど、あんなにいっしょにいたはずなのに、どうしてか、顔すら出てこない。もどかしい思いで、みみずみたいな文字を追っているうち、「ハサミが入った黒いゴムエプロン着用」という文言を見つけ、なぜか、安心した。

 納体袋のジッパーを、ゆっくりとおろす。海で見つかった遺体はひどい状態で見つかったものも多いらしかったが、ババアはすごくきれいだった。

 こんなにきれいだったら、未練が残っちゃうよね。

「えにしよ、ケをきり、ハレたまえ」

 わたしはババアのエプロンに入ったおおきなはさみを手に取り、むらさきいろの髪の毛を切り落としていく。しゃくしゃく、というなつかしい音が鳴った。どんなに切ってもババアはきれいなままで、どんなに切っても、「えんきり」なんてできそうになかった。

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