ギフテッド

「ニシオカフミコは頭が悪いのか!?」

 部長のどらを打つような怒号がみしりと音がするぐらい会議室にとどろいた。

 「文子」と書く西岡さんの名前はたしかフミコじゃなくってアヤコだったよなあ、と思いながら、窓のない部屋のかたすみで手持ちぶさたにシャーペンをノックしつつ、糖質制限ダイエットの昼ごはんでぼんやりした欠伸をかみころす。

 派遣社員の西岡さんは、要領がよくないし、頭がよくない。たしか大学も出てないんじゃなかったか。うちの会社は東洋経済の年収ランキングでいえば地方で五本の指にあがるぐらいの有名なところで、わたしもふくめ地帝卒とか、親会社から出向してきた社員のなかには、早慶上理はあたりまえ、京大卒、東大卒、はてはアメリカの有名大でMBAを取ったイケメンもふつうにいて、オフィスグリコのまえでほんのすこし会話をかわすと、ひとことのジョークにもすごくウィットがきいてるし、芸能人に会ったみたく胸がはねあがる。女子には関係ないが、ありていにいえば、医者・弁護士以外が相手なら無敗をほこる合コン強者であった。とはいえこういうインフラ系の会社にありがちな話だけれど、労基と文春にマークされるぐらい36協定無視上等の「サービス」とボールドで修飾語がつく残業がすごいため、とくに繁忙期はドナドナとかわいそうな派遣社員をかきいれて対応する。派遣社員は玉石混淆というか今風にいえばガチャというのか、アタリもハズレもある。西岡さんは、SSR級の「ハズレ」だというのが、部内での共通認識だった。

「はあ、頭悪いっすよ」

 西岡さんは物怖じしないようにちいさなアゴをぐいと上げ、紅もぬっていないくちびるをわざとらしくゆるめながら語尾の「よ」をみっちり押した。出世とともに前髪が後退しているきがする部長の額にいまにも破裂しそうなほどのあおい血管が浮き、気のよわい課長が逃げみちをさがして尻をうかせつつドアを見やるぐらい、会議室の空気が凍る。

 課長はセクハラ、部長はパワハラ、女性社員が結婚すればマタハラ、しなければマリハラというフルコース。地方の有力企業にありがちというカラオケでGLAYが流行るぐらいまんま昭和脳なうちの会社である。競争がはげしい開発部門の出世レースを勝ちあがり、四十代なかばにして部長にのぼりつめた彼は、本人の目のまえで「頭が悪い」と言ってのけるのもすごいなあ内部通報こわくないのかなあとビビるけれど、フリーバッティングよろしく真っ正面から打ち返す西岡さんのほうがいつもながらすごい。ロッテの安打製造機かよ。この「すごい」というのは、ラッパーのつかう「ヤバイ」の逆で、もちろん褒め言葉ではない。

 コードレビューの会議であった。事前にGitで回覧していたソースコードをもとに各自がざっくばらんに意見を言い合う、というていで、実際には上司のお小言を一方的に浴びる。下っ端のコードから順に見ていくので、研修が終わったばかりの新入社員が書いたものよりも、派遣社員である西岡さんの書いたコードがまずまな板に上がった。

 イタリア人ですら「マンマミーア」とフォークを取り落とすようなスパゲッティコードで、大学のとき処女をすてるCよりさきにC言語のいやらしさにハマったわたしでも、コンタクトレンズがかわくぐらい読むのに難渋した。というかコードが化石でも見ているみたいにしぶすぎる。GOTOさんがあちこち蝶々みたく飛びまわるし、IOアクセスごときで無駄にアセンブラを多用するし、ポインタのポインタのポインタのポインタといった参照はサザエさんちの家系図ぐらい分かりにくいし、いまどきのオブジェクト指向ガン無視で構造体を使わないあたり、若いくせ「staticおじさん」ばりの頑なさが加齢臭のように鼻をつく。緻密さを本懐とする評価部門からは「これでなんで動いてるのかわからない」と苦言を呈された。うちの会社には品質を担保するISO9001から派生した設計の基準というものがあり、準拠していなければ内部監査でいやみたっぷりの指摘が入るのだが、西岡さんのコードは「イソってなに? ゲソの仲間?」ぐらい面の皮があつく、なんたって流用しにくいし、わたしたち開発部門は一様に頭をかかえ、その管理職である部長の怒りっぷりにもうなずいた。

 いまはデバッグスペースとして使っている、うしろの席の子が、机にカラフルな抗不安薬をどっさり入れたままきゅうに姿を消すぐらい阿鼻叫喚だったリーマン以来、開発費の圧縮が役員の酒くさい息のかかったパーセンテージの数値目標として示されており、会議も規定の時間内にかならず収める必要があった。というわけで万事うしろむきな課長がおずおずと枯れ木のような手をあげて「僕はいいと思ったけれど」と保険をかけながら西岡さんのコードをばっさりリジェクトし、新入社員のぶきようなコードを係長がプロジェクター上で書き換えながらていねいにアドバイスしたのち、わたしのコードをざっくりとだが見てもらえた。わたしは、シリコンバレーのギークみたいな素晴らしいコードを書けるわけではないものの、コメント文をていねいに入れるなど、基礎をしっかり押さえた、分かりやすいコードを書くのには自信がある。もちろんISOの基準も自分でこしらえたエクセル方眼紙のチェックシートをもとにすべて網羅してある。コードレビューでは花丸がついて、課長からリリース指示をいただき、めったに褒めない部長も腕をくんだまま言葉尻をやわらかくしてくれた。

「あいつに仕事振んなよ」

 会議が終わり、給湯室でしゅんしゅん唸っている三角錐のポットからブラックコーヒーを注いでいると、係長のとがった声がした。ふりかえれば、トイレから出てきたばかりなのか、ベルトが半分外れたズボンからシャツを垂らし、ポケットに手を入れて、冷蔵庫のなかを覗きこんだ。だらしないように見えて時計も靴も高そうだし、背が高くてほっそりしてるわりに筋肉質だし、洗練された印象をあたえる彼は、開発部門のエースである。わたしよりふたつかみっつ入社年度が早く、わたしは院卒だから、そんなに年齢が変わらないのに、旧態依然とした年功序列のうちの会社では異例のスピードで係長に昇進した。とにかくコードを書くのが速い。重要案件はだいたい彼に回されるし、それも複数を器用に並行させつつ、さらに新規技術開発も独自に行っているというのだから、頭がさがる。特許の出願件数でも社内トップで、受理されたときの報酬金を入れれば、年俸職の課長クラスならはるかに上回るぐらいの給与をもらっているという。女遊びのほうも「複数を器用に並行させている」噂があったけれど、彼なら女性のほうが放っておかないんだろうし、飲み会でケータイ裏のプリクラを見せてもらった奥さんも女優みたいにきれいなひとで、わたしにとっては、机こそ隣であるものの、雲のうえの存在だった。いわゆる天才、「ギフテッド」というのは、彼のようなひとのことを言うのだろうなと思う。

 係長は、おもしろおかしく冗談をまじえながら、西岡さんの悪口をあることないこと並べた。「係長は西岡さんに手を出そうとしたけどホテルのまえでフラれたらしい」噂が頭をよぎったものの、田舎らしく尾ひれがついているのだろうし、かろやかなろくろを回す係長に「よっ、上手!」ぐらいの調子をあわせておいた。西岡さんは女の目からみれば十人前といったところだが、竹を割ったような気風でふっと息をぬいたときの表情にみょうな色気をただよわせることがあり、男のひとが反応するのもわかる。飲み会では、すけべな課長の手回しで引っ張ってこられた営業部門のキレイどころより人気があった。まあわかりやすく「異性には好かれるけれど、同性には嫌われる」西岡さんである。

「IQってさ、20違うと話できないんだってよ」

 係長はさいご、そう言い残し、わたしの頭をバレーボールが趣味だというおおきな手でぽんぽん叩き、冷蔵庫から出したプロテインのパウチをおいしそうに飲みながら去っていった。こんなとき空気の読めない西岡さんだったら、セクハラを訴えたりするのかな。とかく男女の関係がややこしくなった現代だが、わたしはちょっとしたスキンシップなら嫌いじゃない。部長は勘弁だけど、係長にはワンナイトでいいから抱かれてみたい。仕事が忙しすぎて、あっちのほうはとうぶんご無沙汰だし、肌をあわせたほうが仕事は円滑になるし、それに、係長に褒められたのはうれしかった。ああ、わたしも「そっち側」なんだって。就業のベルがきんこんかんこんと割れた音のスピーカーから鳴りひびく。メールで継ぐ口もなく回されてきた雑務がようやく一段落する時間帯で、開発部門にとっては、ここからが本番だ。決算となる年度末も近いから、営業だとか、役員の鼻息も、発情期のブルドッグほどに荒い。腰に手をあてて、コーヒーをブラックのままぐいと飲み干し、もう一杯ポットの底に滞留した濃いものをでかいマグカップに足してから、いちおう労組に入っていない試用期間で残業できないため帰っていく新入社員たちを「お疲れ様」の声で見送って、オフィスへ戻った。

 席に着くと、信号色のマグネットが整列するパーティションの向こうにさかさまのプリンみたいな茶髪がうかがえてびっくりした。

「あれ? 西岡さん?」

 うっかり声をかけてしまった。となりで係長がエンターキーをばちこーんと叩きながら睨んでくるのが心地わるい。

「やっほー、愛ちゃん」

 西岡さんは骨ばった両手のピースを頭にのせてうさぎが耳をゆらすような仕草をした。派遣社員は、年齢をとわず、正社員には敬語を使ってくるのが一般的だけれど、西岡さんは誰にたいしてもタメ口をつらぬく。距離を縮めるのがうまいわけではなく、どっちかといえば上の方には失礼に映ったようだが、たいてい溜息まじりの「ニシオカフミコならしかたない」が結論になったし、壁というものをまるで感じさせないふしぎなひとではあった。

「西岡さん、なんでいるんです?」

 わたしもうっかり、失礼な物言いをしてしまった。言い方もそうだし、会社でプライベートに口出しするのは野暮だろう。それこそハラスメント案件である。

 が、西岡さんは頓着することなく、あのフラットな話し方で、あけすけな事情を教えてくれた。彼女の子どもが父方に引き取られることになったらしい。たしか子どもは三歳ぐらいであったか、飲み会の席は女性社員のシマと男性社員のシマとで離れており、西岡さんはあっちのシマでお酌をされていたから、うっすら耳に入った情報を思い出そうとしたけれど、興味もなかったし、判然としない。

 とにかく西岡さんにはひとり子どもがいて、シングルマザーであり、彼女が残業しようとしなかったのは、子育てのためだったと知る。わたしは勝手に、西岡さんは働くのが嫌だから、残業したくないものだと思っていた。

 その日は金曜だったし、わたしたちは遅くまで残り、いろんな話をした。課長と部長が呑みにいくのか二人三脚で去っていっても、いつもいちばん遅い係長がわたしたちを気分わるそうに眺めながら帰っていっても、わたしたちは日が変わるまで残り、作業はほどほどに、膝をつきあわせてたくさんおしゃべりをした。西岡さんの過去の大恋愛のこと、中通りにある空がきれいな故郷のこと、じつは釣りが好きでサビキには一家言あること、安くて腕がいいネイルサロン……。ほとんどが手を叩いて爆笑してしまうような西岡さんの失敗談をともなっており、笑いすぎたかなと反省しても西岡さんは怒ったりせずうれしそうなしわを目尻に寄せ、たしかに西岡さんは頭が悪いかもしれないけれど、意外といい人なんだな。次のコードレビューがあれば、西岡さんの肩を持ってもいいかもしれない。そう決めて、会社のパソコンの閲覧制限をすりぬけながらウェブをサーフして会津の日本酒の品評をしつつ「桜が咲いたら夜ノ森にねころがって呑もうよ」と指切りの約束をかわし、すっかり暗くなった社員門をすぎあかいチョイノリにまたがり去っていく西岡さんの背中を押すと、なんどもとびあがり両手をぶんぶん振って見送った。やすっぽいクラクションが夜更けの空にこだまする。


 西岡さんの次のコードレビューはなかったし、いっしょに呑みにいくこともなかった。西岡さんが会社を辞めてしまったからだ。会社の飲み会のためプールしている親睦会費に西岡さんが手をつけたとか、営業の要職と不倫関係にあったため奥さんに訴えられたとか、まことしやかな噂が流れたが、そんなことはどうでもよかった。呑みにいけるとも思ってなかったし、コードレビューでわたしが西岡さんをフォローするはずもなかっただろう。いまどきの人間関係なんて、そんなもんじゃないか。さびしくはなかったけれど、西岡さんが去って、仕事はきゅうに忙しくなった。係長が課長を飛び越えて部長に直談判している声には「リソース」というアクセントのつよい言葉がしきりに混じる。人が足らないってことだ。ソイソースに似ているなあ、と、他人事みたいにかんがえ目薬をさしたあとダークモードのモニタをぼんやり見つめては、西岡さんは思ったよりたくさんの仕事を請け負ってくれていたんだなあ、と、データベースに残っている彼女のいびつなコードだけがさびしかった。テキストベースの容量でいえば、同時期に係長が書いたものより多いけれど、読みにくすぎるから、たぶん誰も流用したりしない。ほとんどコメントを入れなかったくせ、最新のソースコードには「iちゃんと呑みにいくの超たのしみ」なんて文言がおどってる。え、わたしの名前の表記って、それ?


 いくつかのおなじような夜があって、残業中に係長とちょっと濃いめのコーヒー味ただようキスをしたり、胸を服のうえからさわられる止まりで、胸がおおきくないからか一度きりでげんなりしたけど、日々はオブラディオブラダで起伏しながら過ぎていく。西岡さんのことも、直線はいちど交わったあとは二度と交わらないように、これまでのたいていの友人がそうであったように、顔もモンタージュでわからなくなるぐらい忘れようとしていた。金曜日の午後、きょういっぱいでスケジューリングしていた作業に「あれ? このレジスタじゃん」と声がでるほどおもわぬ目処がたち、めずらしく定時退社できそうだったから、常磐ものでも嗜みつつだいすきな日本酒をお猪口でちびちび呑もうかなあ、と、食べログをタッチパッドでスクロールしていたところ、どん、と突き上げるような揺れがあった。

 なに?

 オフィスを見渡すが、みな急がしそうにしていて、気づいている様子がない。ときおりエージング中の試験機がかんだかいビープ音を鳴らす、いつもの光景だった。気のせいかな、と、パソコンに向き直ろうとしたところ、部屋中のケータイがどうじに不気味なサイレンを鳴らしはじめた。「すっかり慣れていてもいやな音だなあ」と肩をおとしながら二つ折りのケータイを開くと、おもったとおり「緊急地震速報」のエリアメールを受信していた。

 数日前にもおおきな地震があったし、その余震だろう、ぐらいに構えていたところ、感じたことのないおおきな横揺れがはじまった。うちのフロアは七階にあり、ふるい別館だから造りがよくないらしく、宅配のトラックが脇を通っただけでもミシミシ唸るし、もともと地震で揺れやすいことは知っていたが、想定以上だった。タワー型のデスクトップがドミノでたおれ、開いたロッカーから技術資料があらしのように散乱して、ブランコみたいにスイングする蛍光灯がホラー映画のポルターガイストもかくあらんと点滅した。これは数年のうちにかならず起こると言われていた例の大地震ではないのか。あわててデバッグ用のRS―232Cケーブルで埋まった机のしたにむりやり体を縮め、あちこちから聞こえる轟音や悲鳴に背中をふるわせつつじっと堪えていたところ、体感では十分程度してからようやく揺れがおさまった。足元があやういままおそるおそる立ち上がると、部屋はあらゆるものが飛び散りガスの匂いや焦げた匂いが混じり合うひどい有様で、しかし幸い、新入社員の腰が抜け、課長のスーツの股間が地図もように湿ったぐらいで、怪我をしたひとはいないらしい。

 ほんのしばらく、ケータイがつながる時間があった。地元の母親と兄からメールが届いていたので、「ぶじだよ」と簡素にメールを終えたころ、本社と連絡を取ったらしい部長が、みなに帰宅するよう促した。うちの会社はインフラ系なので、災害時対応を迫られるのではないかと恐れていたから、意外と部下のことを考えてくれてるんだなと、部長のその判断はありがたかった。

 が、非常階段にとびちったガラスをぱきりと音をたてて踏みしめながら下りているうち、ふっと嫌な予感があった。教えてくれたのは誰だっただろうか。そうだ、西岡さんだ。いつかの会話のとき、あの空気の読めない口調で、まるで悪びれず、こう言ったのだ。

『愛ちゃんもさあ、この町、はやく離れたほうがいいよ。もうすぐ地震が来るんだってことは、ここに住んでたら、とうぜん知ってるよね。その震源地って、沖のほうだから、すごい津波が発生するんだって。そしたらこのあたり一帯、海の底に沈んじゃうの。でね、原発は爆発して、放射能が撒き散らされて、でも、政府はぜんぜん対応してくれなくって……』

 身振りがおおげさだった彼女の言葉を信じたわけじゃない。だって西岡さんは、頭がわるいから。それでも足が一歩も動かなかったのは、わたしは彼女を、信じたかったのだと知った。信じるに足るぐらい、彼女のことを分かってるわけじゃない。それでもわたしは何度も彼女のソースコードを読もうと試みた。わかってた。無駄に見えるIOアクセスが、どれだけシステムの安定性に寄与していたかなんて。ポイント演算はインクリメントで処理するのがいちばん速いって。staticで定義された変数名が「unsigned short yakiniku」なんていうおもいきりの日本語で笑ったこと。多重の三項演算子のなかに西岡さんがいた。スタックメモリをポップすれば、booleanはtrue。わたしは彼女を捨ててこの場を離れたくはないと思った。

 やがて津波をつたえるやけに冷静な町内放送が響きわたり、近所でいちばん背のたかい家屋はうちの会社であるため、地元出身だという守衛の好判断で、まわりの住人の避難を受け入れた。うちのフロアも「取るものも取らず」といったひどい格好で憔悴した避難民で埋まり、まだ残っていた営業部門の数名と協力しながらオフィスグリコの食料や私物でのこされた毛布を配り、ぎざぎざに割れた窓のむこうを眺めた。第一波はたかい飛沫をはじけさせながら防潮堤にせきとめられたが、おおきく水が引くと海の底が見たことがないぐらいあらわになり、ぞくりとした。

「来るぞ!」

 誰かがさけんだ。

 あるていど予想された第二波は、予想以上だった。オフィスビルの二階までが墨のようにまっくろい水で埋まり、おぼれる車がくるしそうなヘッドライトを点滅させながら遊園地のコーヒーカップみたく渦にのまれ回転しながら流れていった。さかさまにひっくり返った巨大な漁船がめりめり音をたてて木造の家々を次々となぎたおした。何人かは「すげえ」と漏らしながらケータイで写真や動画を撮っており、逃げ切れず水に呑まれる人にすら、「はやく逃げて!」と声をからしながらまるで現実感がなかった。

 停電したオフィスは粉雪ががらあきの窓からはいりこみ、かみあわない歯ががちがち鳴るぐらいさむく、廊下に寝転がったままうごかなくなってしまった高齢者の世話を優先する必要があり、ほとんど寝られなかった。いや、なにもなくても、果たして眠れていたか。まっくらな部屋にかさなる空咳をききながら、ぎんいろの息を吐きつつ窓のむこうを見やると、地平線に赤い野火がいくつも点っている。もしこれが映画なら、ポップコーン片手におもわず涙ぐむぐらい、すごくきれいなシーンなのに。


 地震は想定されていたくせ、物資らしい物資は水没しなかった三階以上の倉庫を漁ってもほとんどなく、避難民が百人近くひしめいていると、わずかあったオフィスグリコのお菓子だとか飲料水も泥だらけのものをふくめてすぐに底をつき、機構チームが保持していたバールでむりやりこじあけた自動販売機のダイエットコーラすら床に転がる空き缶にかわり、しばらくすると煙草の灰が積もっていた。ほかの場所に避難しようにも、でこぼこの道は瓦礫だらけでどこにも行けそうになく、上空をさかんに飛び交うヘリコプターがなにをしてくれるわけでもなく、物資の輸送など望めそうにない。なによりも困ったのは、情報不足だ。かろうじてラジオとなぜかワンセグは繋がったが、充電にも限りがあるし、放送で取り上げられているのは北方の津波の被害ばかりだったから、まわりでなにが起きているのか、まったく分からない。どうしてか真っ先にやってきたのはおおげさなカメラを背負ったマスコミで、「取材よりまずは情報を回せ!」と血気さかんな漁師さんたちが食ってかかった。情報不足の一因はうちの会社にもある。ネットワークをはじめとしたインフラはうちの会社もたずさわっており、ケータイの3G回線は本来バッテリによってあるていど保持されるはずで、それが機能していないのは、うちの会社が運用しているシステムに原因がある可能性もある。避難民たちはそんなことはまるで気づいていないだろうけれど、「どこでなじょんした!?」と方言まじりの怒号が飛び交うたび、田舎の給与しかとりえがない会社なんて就職難のさなか結婚前の腰かけのつもりだったし、はやく地元に帰りたく、ことあるごとに転職先をさがしていたにもかかわらず、たったひとりこの場にいる開発部門として、ひどい無力感にさいなまれ、まぎらわすように高齢者をはげましたり、子どもの遊び相手を買ってでたりした。

 どん、と和太鼓をおもいきり打つようなこもった音がうすきみわるく響き、すこしたち、割れのこっていた窓ガラスがいっせいにびりびり震えた。地震の揺れかたではなかった。窓のそとを見ると、入道雲のようなしろい煙がなにかを警告する烽火のようにあがっている。地震や津波により、石油タンクの炎上をはじめ、あちこちで火事が起きたと聞いていたから、その影響だろうかと思っていたところ、ワンセグのテレビを観ていた男性から、

「原発の水蒸気爆発だあ」

 という、あきらめたかのごとき嘆声がしずまりかえった部屋に聞こえ、息を呑んだようなざわめきが同心円状に広がった。

 わたしはこの町の育ちでないから、「原発」というものを正直あまり意識したことがない。が、地元のひとにとってはずっと昔から慣れ親しんだものらしく、絶対安全だという神話がかれらの口から語られるのを、地域のボランティア清掃なんかで肩をならべあついお茶をいただいたときに聞いたことはあった。その神話の崩壊がどういう意味を持つのか、わたしには推し量ることしかできないけれど、怒りだすもの、泣きだすものと、フロアはますます混沌とし、壁にたたきつけられたポータブルラジオから、単三乾電池がちからなくころがる。

「どこでなじょんした!?」

 いよいよ、わたしが叱られてる気がした。部長に叱られても課長に叱られてもまったく堪えなかったくせ、いまになって胸をえぐられるのは、わたしが加害者だからかもしれない。

「ちょっと、サーバルーム見てきます」

 いっしょに避難民の世話をしてくれていた営業の女性社員にちいさな声でそう言い残し、彼女のむりやり笑いかけるような表情をたよりない胸に焼きつかせながら、早足でひびわれた階段を下りていった。


 いったんそとにでて、階段をのぼったところの別家屋に、サーバルームはあり、うごかない自動ドアをむりやりこじあけると、壁の線を見るかぎりわたしの腰の高さぐらいまでが浸水したらしく、バッテリ稼働のものもあったが、バッテリは床に置かれていたからどれも泥だらけで電力を喪失していた。のち、原発がその設計の不手際を責められることになるけれど、まったくおなじようにうちの会社もフェイルセーフに欠けた設計をしており、結果、ネットワークの遮断による情報の欠乏を起こしている。わたしになにかできると思ったわけじゃない。それでも、なにかはしないといけない。わたしはこの会社にのこった、たったひとりのエンジニアなんだから。

 棚のいちばん上の段にある予備のバッテリは水をかぶっていなかった。おなじように浸水をまぬがれたサーバもいくつかあって、大量のケーブルをていねいに、しかしスピードを意識してつなぎかえる。ときどき揺れがあったため、慌ててサーバを支え、落ちてきたら数十キロあるそれに潰されるのに、ぜんぜん怖くなかった。慎重にサーバの電源を入れると、うわんと音が鳴ってシャーシの吸気ファンが回りはじめ、LANのLEDがただしく1000BASE―Tの二色に点灯する。祈るようにふるえる手をあわせていると、デバッグ用のVGAモニタにBIOS起動画面と、つづいてLinuxのログイン画面がGUIであらわれ、あきるほどに見たはずのその表示で泣きそうになった。

 やはり各基地局のクライアントのほとんどは高所にあり津波をあびなかったからだろう、災害を見越してじゅうぶんな容量が確保されたバッテリによって、BIOSレベルではPINGの応答がある生存状態にあった。であれば通信が生きていないのはどうしてか、デバッグを試みるけれど、焦りもあり、ことごとくアクセスが弾かれる。動けよ! いまいちばん足りないのは情報なんだよ! この日十数回目のPermission Deniedを見た瞬間、サーバマシンを殴りつけそうになったところ、家屋のそとから間抜けなクラクションがひびいた。とてもなつかしい音だった。

 あわててがらんどうの窓から顔をとびださせると、暗闇に目がなれてまぶしい視界に、ぼんやりとあかいチョイノリが見えた。うれしくも、かなしくもなく、ただわたしは助けを求めるように、彼女の名前を呼んだ。

「西岡さん!」


 西岡さんは、基板から剥がれたCPUやPCIカードが濡れた床のうえに飛び散ったサーバルームで一台だけ稼働するマシンを見つけると、「よくやったね」と上司のような口調でわたしを褒めてくれた。指輪もつけていない飾り気がないほそい指先がPS2接続のメカニカルキーボードをかろやかにタッチタイプする。Permission Deniedはあっさりと解除された。が、これはあくまでログインに過ぎず、コネクションを復帰させるために大変なのはこのさきだ。

「アドホックネットワークに繋ぎかえるよ」

 西岡さんは気丈にそう言う。そうか、単一障害点があるスター型のトポロジーではなく、アドホックネットワークに変更すれば、通信の効率こそ下がるけれど、安定性ははるかに上がる。基礎情報技術者試験では頻出のそんな単純なことをどうして忘れてたんだ!

 クライアントの設定変更は、ひとつ実行するだけでも十数分はかかる。それが圏内に百台近くあり、すべてをできるだけ早く切り替えないと、ワードでも4095秒しかないウォッチドッグタイマのタイムアウトによってもとの設定に戻ってしまう。その懸念を西岡さんに伝えると、

「あたしが誰だと思ってんの?」

 と胸をたたきながら返事をし、

「にしおかぁ~ふみこだよぉ~」

 と、へんな顔で似てない物真似を披露した。あんまりウケない、飲み会での定番ギャグだった。

「あんたは、天才ギフテッド、ニシオカアヤコでしょ!」

 焚きつけるようにそう返事をすると、西岡さんは腕まくりをし、てばやく十字を切ってから、いつものプログラミングを始める。めちゃくちゃなポインタ演算、でたらめな三項演算子、そのすべてが、わかりやすさではなく、最速のプログラムのためにあった。inochiという名前のstatic変数は、けしてオーバーフローしないunsigned long型で定義されていた。

「よし、できた!」

 西岡さんはクリアしたまっくろいターミナルにスーパーユーザー権限で「make」とタイプする。誰も理解できなかった彼女のコード。「IQってさ、20違うと話できないんだってよ」という、係長のくやしそうだった台詞を思い出している。彼もほんとうは、気づいていたのかもしれない。そのほんとうの意味。

 文末に「done」をともなう大量のテキストがユニコードでながれるコンパイルは数分で「0 error(s)」のコンソール出力とともに終了し、シンプルなコマンドひとつの実行ファイルがエンターキーで走ると、いきなりわたしのスマホが設定していた東方神起を鳴らしつつ体をふるわせた。止まっていたメールがすべて流れこんでくる。通信が復活したのだとわかった。

 顔をあげると、西岡さんの姿はすでになかった。お礼なんて言えるはずもなく、じゃあ、彼女に声をかけることができるとすれば、なんだったのか。それは呑みの場でしか言えない気がして、次に会える日が、たのしみだと思った。


 通信が復活して、よかったかといえば、原発は次々と爆発するし、炉心溶融は起こすし、政府や電力会社の答弁はでたらめなうえ、あちこちにプルームが広がり、警戒区域として指定された社屋からの避難を安定ヨウ素剤片手に言い渡されたため、いまとなってはわからない。それでも、情報があったから、わたしたちはちゃんと怒ることができた気がして、すこしだけ満たされた。誰も褒めてくれなかったけれど、西岡さんが褒めてくれたから、よかったかな。

 津波に被災したあかいチョイノリは、いまも元気だ。原発の避難指示が解除されたので、奥さんを助けるために被災した、係長の墓へと向かうことにする。海を見下ろせる場所に建った、彼らしいりっぱな墓じゃないか。行くとすでにしろい花が手向けられており、たぶん部長が来ていたんだろう。あのあとすぐ、わたしは復興にかかわりたいと言い、会社を辞めてしまったから、部長とか、係長とか呼ぶのも、おこがましい気がするけれど、あの会社で過ごした時間を、なかったことにしたくないと思う。「iちゃん」と呼んでもらえたことも。きっと「iちゃん」の「i」は「integer」の「i」。forループなどで多用されるもっとも一般的な変数名で、そんなありきたりな定義はしなかった西岡さんだから、とくべつな気がして、ねえ、西岡さん、うれしかったよ。

 お祈りをささげてから、すっかりきれいに舗装された坂をチョイノリで下る。気持ちのいい潮風を浴びる。今夜は、彼女が好きだった写楽でも呑もうか。西岡さんの遺体は、いまも見つかっていない。

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