8/9(水)☂
――思い出作りに、動物公園に行きたいな。
は?
僕はきっと、ぽかんとした顔をしていたに違いない。
みんみん、蝉の声がうるさい。
それなのに、笹倉はむしろ涼しげで。ニッコリ笑って、僕の返事を待っている。
ざーっ。
滝のようにうちつける雨の音。
何度、今晩同じ夢を繰り返してみたんだろう。
まるで、遠足前そわをわしている子どものように。
――天竺ネズミ、めちゃくちゃ可愛いんだよ!
今も、笹倉の笑顔が焼きついて離れないのはどうしてか。
「雨じゃん」
思わず漏れた僕の言葉は、拗ねた子供のようだった。
■■■
雨は少しだけ、勢いが緩かになったように思えた。それでも、窓を打ちつける雨音が、鼓膜を震わす。
さーさーさー。
ずずず。
父さんが静かに、味噌汁を啜る。
まぁ、いつもの光景だった。
「あ、そうそう」
と母さんが言った。
「お隣、来週引っ越してくるから」
「あぁ」
そう言えばそんなことを言っていたっけ。
「中学生になる娘さんがいるんですって。學、あんた変なことしないでよ」
思わず、僕は味噌汁を吹き出しそうになった。
「なんで、そんな話になるの?!」
「……あんたね、多感な思春期の子なんだから、最初が肝心でしょ!」
俺も多感な思春期の高校生なんだけどなぁ、とは余計に面倒くさくなるから声に出さない。それにしても……。
ずずっ――。
お茶を啜る。
笹倉のように街を出ていく子もいれば、こうやって来る子もいる。親ガチャと言われたらそれまでだけれど、こうなったら子どもに選択権なんかない。まるっきり見知らぬ環境に飛びこむその心中を思えば――。
(思い出作りに、少しは協力しても良いかな)
そう思えてきた。
とりあえず、明日に延期しよう。そうLINKしようと、スマートフォンに手をのばして――。
「あんた、今日は動物公園でデートなんだっけ?」
思わず、飲んでいたお茶を噴き出しそうになった。
「この雨で?」
父さんが顔を上げる。なんで、こんな時だけ反応するの?
「……延期するつもり」
「そう簡単に言うけれど、相手だって準備していたんじゃないの?」
「笹倉が可愛いのは認めるけれど、本当にただの友達だから。気合いいれて準備とか考えにくい、し」
「やっぱり、女の子じゃない」
母さんがニヤリと笑う顔を見て、自分が失言をしたことを悟る。
「ねぇねぇ、どういう子なのよ?」
「か、関係ないだろ!」
「パパ、お腹を痛めて産んだ
その年で、普通に父さんに甘えるの止めてくれないか? 父さんもヨシヨシじゃないから――。
そんなことを思っていると、スマートフォンがブーブー鳴る。
「あら、例の子からなんじゃないの?」
画面にはきらら――笹倉希良々からの着信が。
プッシュ通知に、俺は思わず目を丸くした。
――がっ君、今日なんだけどさ……。
■■■
どうしてこうなった。
引っ越し前の思い出作りに協力するのは、やぶさかじゃない。
むしろ、僕で良いのかと思ってしまう。
そう問えば、あんまり近い人だと泣いちゃうかもしれないじゃんと、弾けたように笑いを見せて、笹倉は言う。
そう言われたら、反論の余地もない。
「思い出作りの一つ! 一緒に夏休みの宿題をやろう!」
ニコニコ笑って、そんなことを言うのだった。
「……転校するのに、夏休みの宿題はあんまり関係ないんじゃ――」
「がっ君。つれないことを言うね。ちゃんと、出された課題は終了させると決めているの。思い出作りしつつ、頭の片隅に宿題がチラついたら、満喫できないでしょ?」
それはそうかも。
そういわけで、僕も後回しにしていた、読書感想文に手をつけることにしたのだ。毎回思うのだが、これは感想文ではなくて、本をダシにした良い子プレゼンテーション大会だと思ってしまう。
「がっ君、がんばれー」
僕のパソコンデスクで動画サイトを堪能しながら、中途半端なエールをくれる。提案者、笹倉希良々。もう間もなく転校するこの子は、ある程度宿題を終えたとドヤ顔である。
(ギャルな
それは文化祭の実行委員会で最後まで、責任を放り出さなかったこともそう。時々、つまづいた問題を笹倉に教えてもらいながら、問題を解いていく。
カリカリカリ。
親は仕事でいない。
カリカリカリ。
無心にシャープペンシルを走らせて、問題を解いて――。
いや、女の子が椅子の上で胡座を組まないで。
綺麗な足が……次の問題を解かなくちゃ。夏の大三角形は……スカートの大三角形じゃない。顔を上げるな、意識を逸らすな。これじゃ、僕はただの変態じゃないか。両親は仕事でいない今、妙な緊張感に押し潰されそうになる。
「ねぇ、がっ君?」
「はひ?」
「顔真っ赤だよ、大丈夫?」
「きょ、今日は暑いからね……」
「そうだね、本当に今年は暑いよね」
胸元をパタパタさせる。いや、だから、そういうトコなんだって。絶景が何よりありがた――いや、けしからん。いやいや、そもそも僕は何を言ってるんだ。兎に角、集中をしないと――。
「がっ君の誕生日って、9/16だって」
「なんでやねん」
勝手に誕生日をねつ造しないでくれ。
「8/14だよ」
小さく息をつく。別に家族に祝ってもらったら十分と思っているけれど、その日は笹倉の引っ越し当日だ。素直にその日を喜べない。
「ふんふん、0814ね」
「は、え? ちょ、ちょっとまっ――痛ったぁぁっ」
笹倉を止めようとして、テーブルの角に足をぶつけた僕だった。その間に、笹倉はまんまと、秘密のフォルダーを解除していく。
「……こ、これは。なかなかエッチなイラストが――」
「止めて、見ないで!」
「どうりで部屋中、エロ本を探してもなかったわけだ」
「何の勉強会?!」
「あ、これ文化祭で空き缶アートを作った時の下絵……知り合いって言っていたけれど、やっぱりがっ君だったの?」
見られてしまった。目の前が真っ暗になる。
イラストを描くのが僕の趣味だったのだ。
催し物がいつまでたっても決まらない、あの時のクラスの無責任な提案の一つ。空き缶アート。これなら、僕も手伝えると便乗したのだった。
あくまで手伝っただけ。
下絵は、知り合いが。
そう言って、逃げた。
イラストを描いてバカにされることがしょっちゅうあったから。
――キモッ。
そう言って笑われたことを、未だに憶えている。
笹倉。君と仲の良い、チーム陽キャ達がそう言ったんだよ。
自嘲気味に、笑みが漏れてしまう
笹倉に罵倒されるの数秒後が、想像できた。
「これ……私?」
笹倉が開いたファイルは――文化祭の時に懸命に作業をしていた、笹倉のスケッチ。それを取り込んで着色したものだった。
ギャルの容姿なのに。誰にも縛られない自由さを感じて。
でも、ダレよりも真面目に取り組む笹倉が眩しくて、描かずにはいられなかったのだ。
「がっ君!」
「ん……」
恐る恐る見た、笹倉の顔は怒りに色塗られ――て? 真っ赤、で?
「あ、あの……」
真っ赤で。笹倉の顔は真っ赤で。俯きながら、でも時に顔を上げてなんとか、僕を見ようとして。それは羞恥心に耐えているようにすら思える。
「笹倉?」
「がっ君……。この絵が私、欲しい」
「え?」
「あの……一生の宝物にするから。私にちょうだい」
「……キモく、ないの?」
「……キモいの? もしかして、夜中に笑い出すの、この絵?」
なんで、いきなりホラー?
「いや、笑わないけれど?」
「ならキモくない」
「そ、そう? なら良いけれど」
「こ、これ……がっ君が描いた絵、なんだよね?」
「そ、そうだけれど」
「だったら、やっぱり欲しいっ!」
満面の笑顔を浮かべる。
雨が小降りになった。
満足そうに、ディスプレイ越しイラストを見やる笹倉を見やって。
僕は宿題の方に集中しようと、必死になる。
視線を向ければ、笹倉は器用にティッシュペーパーでてるてる坊主を作っていた。
かたん。
シャープペンシルを置く。
見上げると、笹倉の作ったてるてる坊主が、エアコンの風で揺れている。
すーすー。
見れば、パソコンデスクにうつ伏せになる体勢で、笹倉が眠り込んでいた。
てるてる坊主は、片方は女の子。
もう片方はメガネをかけていて――僕をイメージしているのが分かる。
でも、分からない。
笹倉が何を考えて、思い出作りに僕を指名したのか。
全然分からないけれど――。
ふぁさっ。
タオルケットを掛けてあげる。
スケッチブックを取り出して。
ささっ。ささっ。
鉛筆を走らせる。
こんな夏休み。こんな一日も悪くない。
■■■
秘密のフォルダーのその奥を見られなくて良かった。
心底、安堵した僕だった。
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