第6話 歩み寄り

オリバーがやってきて、はや二ヶ月。

季節は初夏。六月ともなれば梅雨に入り、制服もすっかり夏仕様。

エアコンのきいた室内で英語の授業を受けつつ、弓月は物思いに沈んでいた。


オリバーが来て二ヶ月ということは、言い寄られはじめて二ヶ月ということ。

意外だったのは、不愉快な思いをしていないということだ。

毎日毎日ひっつきまわられる生活になるのかと思いきや、オリバーは案外忙しいらしく、早退したり、午後から登校してきたり、下手したら一日顔を見ない日すらあった。

学校にいる時はだいたい一緒にいるのが当たり前になってしまったけれど、しつこく言い寄られるのかと思いきや案外そうでもないし。気が回るというか気が利くというか、なんだかんだで痒いところに手が届くというか。正直とても、過ごしやすい。

(それがなんとも悔しいというかなんというか……!)

冷たくあしらってやろうと思っていたのに、そんな隙すら与えられない。周りから見たら良好なお友達付き合いだ。

弓月がちょっとトゲトゲした気分の時は何やら察しているのか踏み込み方を変えてくるし、下手したらなだめられてしまうことすらある。

(多分、社会経験の違いなのかも、しれないけど)

学生ながらに一企業の代表をやっているオリバーは、同い年の学生や弓月達より、ずっと成熟しているのかもしれない。

「次のページ、オリバー君読んでくれるかな」

「はい」

英語教師に当てられたオリバーが、教科書の文章をすらすらと読む。

ネイティブのオリバーにしてみたら、小学生の教科書でも読んでいる気分なんじゃないだろうか。

それにしても、いい声だ。

落ち着いているけれど、よく通って、優しい声色。

多分、周りの日本人が聞き取りやすいように、少し丁寧に読んでくれているような気がする。

だって、この間電話で話している時のオリバーの言葉は、ほとんど聞き取れなかった。


英語教師はオリバーを気に入っているようで、彼に色々な話をさせる。

イギリス本宅でのホームパーティの話や、おすすめのバルの話、起業のきっかけの話、友達の石油王の家に遊びに行った話、真冬のドーヴァー海峡を泳いで渡ろうとした先輩の話、お得だと思って買った物件が幽霊付きだったために価値が爆上がりした話などなど真面目なものから冗談かと思える話まで多岐にわたる。

その話は、特に海外に興味がある訳でもない弓月が聞いていても面白くて、つい聞き入ってしまったりもする。

そんな自分がなんだか嫌で、なんとなく受け入れられなくてつい意地を張ってしまうのに、オリバーはそんな時すら楽しそうに笑っていて。


オリバーはすっかり、クラスの人気者だった。

というか、だ。

そもそもなぜオリバーは、弓月と同じクラス、しかも隣の席に配置されたのだろう。

それが気になって仕方なかった弓月は、ある日その事について質問してみた。

周りも不思議に思っていたようで、話題はすぐにその話になる。

「寄付金をちょっと多めに出しただけだよ」

本人はそう笑っていたが、おそらくちょっとどころではないだろう。なにせ、この学園はただでさえハイソサエティなランクのご家庭の子息達が集まっているのだ。一口の寄付金額がかなり高額であることは皆が知っている事実。

だが正直、それだけでどうにかなるとも思えない。

オリバー・アルバート・トールキン。底の見えない男である。


ともかく、だ。

日本語が不自由でもないオリバーの世話係として認識された弓月は、なぜだかすっかりオリバーとニコイチであるのが当然であるかのように、クラスメイトどころか全生徒、全教師に思い込まれている。

これはまったくよろしくない。

弓月はそう思うが、あがけばあがくほど泥沼にはまっていっている気がして、最近ではもう半ば抵抗を諦めていた。

だからといって、オリバーのアプローチを受ける気は無い。

突き放すのが無理なら、普通のお友達でいればいい。そう考えた弓月は無理に彼を意識するのはやめて、普通の友達にするように、適度な距離を保ちはじめた。

しかしこれはすぐに失敗だったと思い直すことになる。

オリバーは普段、ごく普通の友達の距離感を保っているくせに、ふとしたときに距離を詰めてくる。

そんな時の彼はどうしようもなく甘く優しく、同じ男だというのに思わずドキッとしてしまう。これではいけないと、弓月は何度も己を叱咤し続けた。

けれど、気にしないようにしようとすればするほど、気になる。

意識の端々にあの眩しい金髪がちらついて、どうにも落ち着かなかった。

そんな、ある日のことだった。


「……しまった、傘……」

部活終わり、1人で居残り練習をしていた弓月は、校舎口まできて気がついた。

いつもカバンに入れていたはずの折り畳み傘がない。

ここのところ雨続きで頻繁に使っていたので、家で乾かしたままにして置いてきてしまった。

「……困ったな、どうしよう」

家に電話して、誰かにむかえにきて貰おうか。ああでも、多分今の時間は使用人みんな忙しいし、父親も仕事だろう。

仕方ない、タクシーをよぼう。

そう思って電話をしたが、あいにくこの雨で予約もいっぱい。すぐには車を回せないという。

行けても1時間とか2時間とか。

待つにしても、確実に学校は閉まるだろう。

こうしているうちにも雨足はどんどん強くなり、さらに風まで強くなってきた。

「……寒い」

誰もいない校舎は、こんなにも薄暗く寂しかったろうか。弓月は途方に暮れながら、降りしきる雨を見つめた。

と、その時だった。

「……弓月?」

「!」

突如後ろから声をかけられ、弓月は文字通り飛び上がった。

「は?え?……なんで居んの」

「仕事のスケジュールが変わっちゃってね、持ち帰る教科書が増えたから取りに来たんだ」

ほら、と持ち上げた片手には、数冊の教科書と資料集。後表紙に見事な筆記体で名前が書いてあるのが見て取れた。

「……オリバーも置き勉してんの」

「まあね、さすがにあれだけの量を毎日持ち運びはしたくないかな」

「……それはそうだわ」

「しかも多分明日は弓月も俺も当たるでしょ、化学のタケセン、前に当てた人まで覚えてるのはちょっと驚きだよね。担当クラスうちだけじゃないはずなのに!だから一応予習しとかないと」

「……仕事もあるのによくやるよね」

なかば嫌味だがそう言うと、オリバーはさもおかしそうに笑った。最近ではすっかり教師についたあだ名まで把握していて、まるで前からこの学園に居ました、みたいな顔をしている。

「一応、本国でも学生だしね。スタイルはだいぶ違うけど。でも、日本の学校もこれはこれで楽しんでるよ」

ところで、と、オリバーは弓月を見る。

「ご家族のお迎え待ち?」

「……いや……タクシー待ち」

「そうなの?さっきだいぶ道も混んでたから、来るのに時間かかると思うけど大丈夫?」

「……」

弓月は答えに仇した。まったくもってその通り。一体どうしようかと考えあぐねていた所だった。

「もしよかったら、送ろうか。車、待たせてるんだ」

「……でも」

「困った時はお互い様だろ。……それに、俺も弓月と少しでも居られるのは嬉しいから」

ね、とウインクする姿すら、悔しいが様になる。

オリバーの目的なんか分かりきっているのに、背に腹はかえられないのも事実。

悔しい。悔しいけれど……

「……お願い、してもいい」

「もちろん」

彼の笑顔は、時々子供みたいだと思う。なんの屈託もなく笑って、みんなが明るい気持ちになる。

これは多分、天性の才能だ。

自由気ままにどんなところにも行けるのに、弓月が好きだというその理由だけで、彼はここに留まっている。

そう思ってしまうと、なぜだか冷たくあしらうのも申し訳ないような気になってきて、つい普通に関わってしまうのだ。


「オリバー様、お待たせいたしました」

「ありがとう山添。さ、弓月乗って」

「……おじゃまします」

この間も運転していた、初老の男性。品が良い所作に、丁寧な物腰。オリバーの秘書なのだというその人は、弓月にも柔らかく笑いかけてきた。

「香井様のお宅の松山町ですが、今来た情報によりますと、主要道で大規模な事故が起きてかなりの渋滞になっているそうです。少し遠回りしてしまいますが、よろしいでしょうか」

「あ、はい……大丈夫です」

二人が乗り込むと、やがて車は静かに走り出す。

この車に乗るのは二回目。弓月は静かなクラシックとワイパーの音が奇妙な二重奏を奏でているのをどこかぼんやりと聞いていた。

「……ちょっと待って、青龍川が溢れて周囲の住宅が冠水してるって」

ふいに、オリバーが声を上げた。スマホに来た通知を見ての反応だが、弓月も慌ててオリバーの手元を覗き込んだ。

「え、冠水って」

「松山町って青龍川こえたところだよね?……あ、青龍橋通行止めだって」

「……ついてない……」

弓月は、ぐったりと背もたれに沈み込む。

自宅は少し小高い土地にあるので冠水の心配はないが、橋が封鎖されてしまってはどうしようもない。

「大きく回って行くこともできますが、この暴風雨ですし、他の橋も封鎖されている可能性がありますね」

ルート検索をする山添は、天気予報と照らし合わせてそう告げた。

つまり、このままだと家には帰れないということ。電車も運休になってしまったようだし、どうしたものか。どこかホテルでも借りて泊まろうか。そう考えた時だった。

「弓月、この状況じゃどうにもならないから、今日はうちに泊まって」

「ええ?」

「この天気だ、電車もバスも止まってるだろうし。こんな状況で放っておけないよ」

「でも……いや、ホテル取れば……」

「多分もう空きがないんじゃないかな」

「う…」

戸惑う弓月を後目に、オリバーは山添に指示を出す。

「このままうちに向かってくれ」

「かしこまりました」

こうしてはからずも、オリバーは自分の住まいに、弓月を連れ込むことに成功したのだった


***


「……はい、すみません、今日はクラスメイトのおうちに泊まらせて頂くので、父にもそのように……」

オリバーのマンションに上がらせてもらって、弓月は実家に電話した。

電話に出た使用人は、迎えに出たものが丁度帰ってこられない状況になっていたために心配していたと弓月に告げていたようだ。

「……なんか、ごめん、世話になっちゃって……」

「気にしないで。最近俺も忙しくて、弓月と話が出来なかったからさ。……外は大惨事だけど、一緒に居られるのは嬉しいよ」

「……」

はい、と手渡されたのは、ルームウェア。

「新品じゃなくて申し訳ないけど、それはあまり着ていないものだから。下着類は下のコンビニで買おう」

「……ありがとう……」

オリバーの優しさが痛い。

今までそっけなくしてきたのに、変わらず優しくて。

言われるままに下のコンビニで必要なものを揃えて帰ってくると、ラフな格好に着替えたオリバーが、キッチンに立っていた。

「パスタくらいしか無いけど、いいかな」

「え」

「運動部だと体力使うから、お腹すくよね。最初はデリを買ったりしてたんだけどさ、味の濃いものが欲しくなっちゃって。最近は結構自分でも作るようにしてるんだ。あ、制服脱いできなよ、メイクルームはその右のドアだよ」

「う……うん……」

なんでも使用人にやってもらってるのかと思いきや、自分で一通りのことはできるらしい。

弓月は雨で少し濡れた制服を思い出し、言葉に甘えて借りたルームウェアに着替えた。

ふわりと香るのは、いつもオリバーの隣にいると感じる甘い香り。何の香りだろう。整髪料か、スキンケア用品か分からないけれど、最近この香りがすると、彼の存在を否応なしに意識してしまう。それに……

(服、大きい……)

パンツには調節紐がついているからいいけれど、トップスはかなりゆったりしている。

そりゃそうか、なにせ身長が15センチ以上違うのだし。

ふと、鏡に映りこんだ自分の姿を見る。オーバーサイズの服を着た自分はなんだか頼りなくて。頭の片隅に「彼シャツ」なんて単語まで浮かんで、いよいよやるせなくなってしまった。

(顔、取り繕わなくちゃ)

冷たい水で顔を洗って、気を引きしめる。

彼が無体を働く人間でないことはわかっているけれど、やっぱり油断は出来ない。


「服ありがと。……俺もやる」

着替えた後、濡れた制服をエアコンの下に吊るさせてもらってキッチンに戻ってきた弓月は、さすがに何もしない訳にもいかないと腕をまくった。

「そう?じゃあサラダ頼んでいいかな」

たっぷりのレタスときゅうり、トマト、アボカドを小さめにカットし、オリーブオイルとバルサミコ酢であえて。

その間に、オリバーはパスタを鍋に投入し、同時に厚切りのベーコンとトマトの仕込みをしていた。

刻んだニンニクを低温のオリーブオイルでじっくりと香りを移す。

調理台にあった2種類のオリーブオイルを使い分けているのを不思議に思った弓月がなにが違うのかと問うと、調理用とそのまま使う用なんだとか。

「サラダに使ったのはエキストラバージンだから、香りが結構強いんだよ。他にもパンにそのままつけたり、パスタやピザの仕上げにかけたりするかな。別に加熱してもいいんだけどね。で、こっちはピュアで、エキストラバージンよりは香りが少ないから、サラダオイルみたいに使ったりするんだけど……まあ、最終的には好みかな」

試してみる?と2種類のオリーブオイルを小皿にたらして渡すと、弓月は恐る恐る口をつけた。

「ほんとだ、結構違う……」

「バケットにつけて食べても美味しいよ」

「うちは普段和食が多いから、オイルをそのままつけて食べるってなんか不思議な感じ」

「そう?弓月も気に入ってくれたらいいけど」

丁度パスタもゆであがり、手早く仕上げたトマトソースと絡めて皿に盛り付ける。

「さ、出来た。こちらへどうぞ?」

そうして、2人はゆっくりと夕飯を楽しんだ。


食事の後風呂をすすめられた弓月は、バスタブに張られた湯にゆったりと浸かりながら今日のことに思い巡らせる。

何も演じなくていい自分は、随分と久しぶりだ。

オリバーとは、特別多くを語り合ったりした訳では無い。けれどぽつぽつと交わす会話はペースも内容もとても心地よくて、つい自分からも話しかけてしまう。

あれだけ思い通りにはなるまいと心に決めていたのに、弓月は今、オリバーに心を開いてしまっている。

あの翡翠の瞳に見つめられる度、胸が騒ぐ。姿が見えないと落ち着かない。

これでは、まるで……

考え込んでいるうちに、時間がだいぶ過ぎてしまっていた。こんなにゆっくりしてしまったら、家主に申し訳ない。

弓月は慌てて風呂から上がり、髪を乾かすと、リビングのソファでパソコンを開いているオリバーの隣に腰を下ろした。

「お風呂、ありがと」

「ゆっくりできた?」

「ん……」

「なにか飲む?といっても、ミネラルウォーターか……炭酸水しかないんだけど」

「じゃあ……炭酸水貰っていい?」

オリバーは優しい。

わざわざ大きなグラスに氷を入れ、炭酸水を注いで弓月に渡してくれる。

「それ、仕事?」

「うん、今大きな事業の準備をしていてね。学校を休んだりするのはこのせいなんだ。もう少ししたら落ち着くんだけどね」

「……そう」

「……心配してくれた?」

パソコンの画面は英文の羅列で、多分なにかの契約書だろう。弓月にはパッと見ではわからないものだ。

「……そりゃ、毎日まとわりついてくるのが居なけりゃ、気にはなるけど……」

素直に心配だと言えばいいのに、言えない。弓月はそんな自分に嫌気がさしていた。

良くしてもらっているのに、これは失礼だなとそう思って顔を上げると、オリバーは心底嬉しそうに笑っている。

「困ったな、今君をすごく抱きしめたい」

「!」

ラップトップをたたむ、パタンという音。

オリバーは弓月の右手をそっと取ると、いかにも大事なものにするように、両手で包んだ。

「愛しい人が艶っぽい姿で隣に居て、しかも自分を想ってくれてる。幸せなことだね」

「し……っ、んぱい、なんて…」

「弓月はそう言うけど、いつも俺を気遣ってくれてるのはちゃんと分かってるよ。嫌なら無視したっていいのに、そうしないし」

「だって……」

「それは弓月の優しさだね」

静かに語る彼の声。伏せられた双眸、落ちるまつげの影。

ゆっくりと繰り返されるまばたきの合間に見える翡翠の瞳が綺麗で、弓月は思わず彼の目を見つめた。

自分は、優しいのだろうか。

ちょっと気になってしまって、それが気持ち悪くて、ついつい関わってしまって。

言うなれば、自分のため、なのに。

「それからね。君が何にでも一生懸命なのは、隣で見ていてよくわかるよ。友達にも親切で優しくて、先生からも評価が高いね。部活でも1番能力も実力もある」

それだって、自分がそうしたいからしているだけ。必要だから、しなければならないから、結果を出さなければならないから。


弱みを、見せられないから、


「……無理はしてないかい?」

「え?」

弓月の手を撫でながら、オリバーは続ける。

「正しくあろうとすることは、案外疲れるものだ。責任を負う立場も、その大小に関わらず気が休まらない。……そのことは、よく理解しているつもりだよ。でも、それを選んだのは弓月が決めたことだから、俺が口出す権利なんかないんだけど」

弓月は、答えられなかった。

だって、由緒正しい香井家の人間として、品行方正でいなくては。

稀にメディアへの露出もある立場だから、いつも周りに気を配らなければ。

部活だって、インターハイ出場は開校以来続いてきた伝統だ。自分の代で途切らせる訳にはいかない。

勉強だってそう、学がなければいざというときに困るのだから。

全部全部、やらなければならないことだから、文句なんて言っている暇は無い。

けれど。

どうしようもなく、孤独だ。


弓月は演じる事が得意だ。

その人物になりきれば、何だってできる。

なろうと思えば、何にでもなれる。

いい人の仮面、真面目な人の仮面、強い剣道家の仮面、両家の子息の仮面、そして、理想の「娘」の仮面……


たくさんの仮面を被ってきたけれど、じゃあ、弓月自身の本来の顔は?


「初めて会った時、君に一目惚れした。君と話して、君の聡明さに心を奪われた。……男性だと知っても、俺の中で君の美しさはなにひとつ変わらなかったよ。どうしても君の傍にいたくて日本まで来たけど、一緒に居れば居るほど、新しく君の魅力に気がついてまた恋をしてしまう」

オリバーの言葉は、不思議なほど真っ直ぐに弓月に届く。

「何をされても、どんな態度を取られても……君が愛しくなるばかりだ」

歯の浮くようなセリフだ。なのに、弓月の心臓はうるさい程に激しく波打つ。

結果を出さなければ、1人でしっかり立っていなければ、弱みを見せてはいけない、そう、自分に言い聞かせてきたのに、これでは……


「本当はね。君を今すぐ抱きしめて、唇を奪ってしまいたいと思ってる。でもそれは、せっかくここまで築き上げてきた君との信頼関係に傷をつけることになってしまうから……ちゃんと我慢するよ。でも、俺はそういう風に君を想っているんだってこと、わかってほしい。そしてどうか拒絶しないで。もし、君が嫌だと言うなら弁えた距離でいるから。だから……君を愛することは、許して欲しい」


そう言って、オリバーは笑った。

どうしよう、答えられない。弓月はオリバーの翠の瞳を見つめ、言葉を探した。

けれど、今の自分の気持ちをどう表したらいいか、その言葉が出てこない。

外面で固めた自分なら、きっといくらでもなんでも言えただろうに、何の仮面もかぶっていない、ただの香井弓月としての言葉は、何も出てこなかった。


「……ああ、もうこんな時間か。弓月、明日は演劇部の朝練に顔を出す日だろう?」

ふいに、オリバーが話題を変える。思いの縁から我に返った弓月は、時計を見て少し慌てた。

「あ、明日の予習……」

「少しやる?俺もやっておかないと」

「化学は。多分計算式のとこあたるから……」

「多分俺もその次の式当たるんだよ」

さっきまでの雰囲気はどこへやら。2人は目を見合せて小さく笑いあった。



---


「……ん……」


心地よいまどろみから、ふと浮上する。

いつもと違う布団の感触にはっとして覚醒し、そういえば昨日はオリバーの部屋に泊まったんだったと思い出す。

あのあと1時間ほど軽く予習をしてから寝たけれど、オリバーはまだ少しやることがあるからと、弓月を先にベッドに案内した。

泊まらせてもらう立場だからソファでいいと言ったけれどオリバーは譲らず、結局二人で半分ずつという形で落ち着いた。



そういえばオリバーはどうしただろう。

ベッドの半分を見たが使われた形跡はなく、まさかソファで寝たのかと思い至る。

弓月は慌ててベッドから降りると、ソファのあるリビングへ向かった。


「やっぱり……」

ソファに横になるような体制で、腹の上にはスリープ状態のラップトップ。

どうやら仕事中に寝落ちしたらしい姿に、弓月は言いようのないもどかしさを覚えた。


どうして、こんなにも無理をするのか。

弓月のそばに居たいという理由だけで、多分彼にはかなりの負担がかかっているはずだ。

彼は弓月を愛していると言う。しかし弓月には、どうしてそこまで弓月を愛せるのか理解出来なかった。

「オリバー」

とりあえず起こさなくては。そう思って彼の手に触れ、そして弓月は気がついてしまった。

左手の薬指と小指の下のマメ。右手にもいくつか出来ていた形跡があるけれど、こちらはほとんど治っている。

「……こんな短期間で、マメが出来るまで練習してたのか」

本当に、何をしているんだこの男は。

部活の剣道もめきめき腕を伸ばしていたから、才能があるのかと思っていた。でも、それだけではないということ。弓月の知らないところで、一人で自主稽古をしていたというのか。

この男は、弓月以上に負けず嫌いなのかもしれない。

「……ん……?」

「オリバー」

「あ……しまった寝ちゃってたのか。…おはよう弓月、起きて一番に好きな人の顔を見れるなんて、最高の一日の始まり方だ」

「……ほんとに……ばかじゃないの」

「恋をしたら男はバカになるものだからね」

自分の左手を見つめる弓月に、オリバーは「ばれたか」と笑う。

「…マメの位置、間違ってないから握りは正しく出来てるんじゃない」

「そう?よかった」

「…無理してるんじゃないの」

「してないよ、だって弓月の隣に立つなら、それなりに強くなきゃかっこ悪いじゃないか」

「……そう」

弓月は、それ以上何かを言うのはやめた。

だってこれは、多分オリバーのプライドだ。

きっと、何があっても譲らないんだろう。


「はー、お腹すいたな。朝はパンでいい?」

「……ん」


こうなってしまった以上、もうどうしようもない。

真正面から彼と向き合おう。

弓月はそう、腹を括った。

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