第2話 秘密

「お待たせしました」

待ち合わせ時間になってあらわれた弓月は、それはそれは美しかった。

舞台メイクはすっかり綺麗に落とされているだろうに、くっきりした目鼻立ちは一切損なわれていない。

それどころか、自然なカーブを描いた目尻はそこはかとなく艶っぽく、長いまつ毛が愛らしい小鳥の尾を思わせるようにくるくると動く。

唇はまさに咲き誇るピンクの薔薇。

前下りのショートボブが輪郭を綺麗に彩り、まるで、存在そのものが大輪の花を思わせる人だった。


「いえ、丁度俺も出てきたばかりで。……舞台を降りてもとてもお美しい。今日はディナーにお付き合いいただけて光栄です」

「……急なことだったのでかしこまった服装でないのだけれど、大丈夫?」

「ええ、カジュアルなレストランなので心配ありませんよ。もうじきハイヤーも来ます」

オリバーは、自分の容姿を最大限意識してにっこりと微笑んでみせた。

ややして滑り込むように目の前に止まったハイヤーに弓月を乗せ、ホテルへと移動する。

(大した人だな、さっきから一切のゆらぎが無い)

この人の心の動きを感じたのは、先程あの楽屋の一幕でのみだ。まるで、演劇の続きでも見せられているような気分。

これはなかなか骨が折れそうだぞと、オリバーは内心苦笑した。


「このホテルにこんなレストランがあるなんて知りませんでした」

「最近入ったらしいですよ。昨日来て、なかなかいいなと思いまして」

都内一級の高級ホテル。

セミスイートに宿泊していたオリバーには、従業員達も心なし対応が丁寧に思える。

リザーブしてもらったのは窓際の景色の綺麗な席で、ここへきて初めて弓月が少し表情を和らげたのが印象的だった。


ファーストドリンクは、ノンアルコールのシャンパン。雰囲気に誤魔化されそうだが、お互いにまだ十代であるということは認識していた。

「日本では、アルコールは二十歳からでしたね」

「ええ。イギリスは十八歳からでしたか」

「一応ね。十八歳未満でも保護者の同伴があれば飲んでいいことにはなっているけれど、まあ、そこは」

小さく肩を竦めてみせるオリバーに、弓月が笑う。

「いつかあなたともお酒で乾杯できたらいいんですが。……まずは、今日の出会いに」

乾杯とグラスを掲げ、金色の液体に口をつけた。

ほのかに甘いそれは、まあ、あくまでジュースだ。格好がつかないなとは思うけれど、国が違えばルールも違う。そこで無茶をするような不粋な教育は受けていない。


そこからは、色々な話をした。

今まで見てきた舞台の数々、旅行した様々な国。

イギリス料理は美味しくないというけれど本当かと聞かれて、日本がなんでも美味しすぎるんだと笑った。

弓月は驚くほどそつなくあらゆる会話が出来たし、この人の演劇観は聞いていて面白かった。

「……今回の劇。正直あまりよくなかったでしょう」

ふと、弓月がそう問いかけてきた。

まさか演者、しかも主役がそんなことを口にするなんて、オリバーとしてはかなり意外だった。

「……なぜそう思うの?」

「役者達の解釈が揃ってなかった。それに、脚本もあまり好きじゃない。たしかに、宗教的、信仰的な解釈をミックスさせたのは評価できるけど、甘いと思うし、主題の軸がぶれている」

「……」

「もっといいものを見てきたあなたには、分かるでしょ」

ここからなんと返すのか。弓月の目が、オリバーのそれを捉えて離さない。

「……主役に言われては誤魔化せないね。たしかに、新しいことをやろうとして、逆に無難におさまってしまった印象だった」

そこまで言って、弓月の反応を見る。視線は皿の上のコンフィに向いていた。

「……続けて」

肉を骨から切り離しながら、弓月は先を促す。適度に火入れされた鴨は、ナイフの軌跡が素直に残った。

「演者達も、悪くは無いが特別良くもない。……俺は日本語はネイティブではないし、文化・宗教観的にも理解しきれていない部分もあるかとは思うけれど、その分を差し引いても」

「……わかってくれる人が居て良かった。今日、あなたと過ごした時間には価値があった」

1口大に切り分けた肉は、弓月の綺麗な唇に消える。

「この鴨肉、柔らかくて美味しい」

「俺もそう思っていたところ」

弓月を見ていると、不思議な気分になる。

掴めそうで掴めない、まるで水面に映った月に手を伸ばしているような。

「……ご馳走様、とても美味しいディナーだった」

「楽しんでいただけて何よりだよ。……ああ……それで1つ提案なんだけど」

どうせなら、その正体を見極めたい。この目の前の大輪の花の花弁を暴き、花芯の奥まで。

「よかったらアドレスを交換しないか。こんなにも有意義な時間を過ごせたのは久しぶりなんだ。君との繋がりが今日だけで終わるのは、とても惜しい」

どうかな、と答えを促すと、弓月はその切れ長の双眸でじっとオリバーを見つめてきた。

ああ、美しい。

昔から、西洋の男達が焦がれてやまない黒い瞳。そこにアメジストを思わせる色を孕む、宝石の瞳だ。

美しい人は細部に至るまで美しいのだと、感嘆の吐息さえ漏れそうになる。

「……あなたはここに泊まっているんでしたっけ」

「そうです」

「……なら、今日のお礼に私の秘密を1つ、教えてあげる。……お部屋に招待していただける?」

一転、艶やかな色気すら含む視線。オリバーはらしくもなく、胸を高鳴らせた。

「……それは刺激的な提案だ。ぜひそうさせてくれ」

さすがに今日の今日手を出すつもりは無いが、出来るなら、もっとこの人と深い関係になりたい。

オリバーは支払いを済ませて席を立つと、弓月を伴ってエレベーターに乗り込んだ。


「ここも、景色が綺麗」

「このホテルは、父と来日する時にたまに使うんだ。とは言っても俺も仕事をしているから、あまり一緒に過ごすことは無いんだけど」

「……お父様のお仕事を手伝ってるの?」

「いや、十三の時に興味本位で立ち上げたIT事業が想像以上に軌道にのってね。父の会社とは別で会社を持っているよ。……まあ、手伝いをすることはあるけどね。今回も父の代理だったし」

「そう……」

訪れたセミスイートの部屋は、大きな窓が開放的な一室だった。

薄暗い部屋の中で、弓月のシルエットが夜景を背景に浮かび上がる。

オリバーは思わずごくりと喉を鳴らした。

逸る気持ちを抑えつつ、部屋のライトをすこし明るくする。

「……それで、秘密って?」

カードキーをサイドデスクの上に置き振り返ると、先程まで窓際にいた弓月がすぐ側に来ていた。

胸もとをトンと押され、後ろに倒れ込む。背後には広いベッド。

スプリングがきいたそれは倒れ込んだ衝撃を吸収してくれたが、オリバーはあっけにとられて弓月を見上げた。

「弓月……?」

「……秘密、知りたいんでしょ?」


ベッドが、ぎしりと音を立てた。

オリバーの体の上に、弓月が覆いかぶさっている。

これはどういう状況だろうか。

長いまつ毛が人形のように美しい肌に影を落とし、オリバーは思わず見惚れてしまう。

悩ましい目尻。ゆったりと繰り返されるまばたき。

ああ、触れたい。その小さな頭をこの手に収めて、あちこちにキスをして、愛を囁きたい。

「…ね。今何考えた?」

「……随分、積極的だなと」

イギリスではあまり見ない、ストレートの黒髪。絹のように動くその髪に、西洋の男たちは強く憧れる。

もちろん、オリバーもその1人だった。


このまま、唇を奪っていいだろうか。オリバーは逡巡する。この美しい人を自分の腕に収めて、思う様味わえたら。

深淵に煌めくアメジストの瞳に見つめられ、一層鼓動が高鳴った。そして。

「私の秘密。見て」

言うなり、弓月はばさりと服を脱ぎ去った。

「えっ」

膝丈まであったカットソーと、インナーを纏めて。

そしてさらけ出された真実に、オリバーは唖然とするしか無かった。


「俺の事、女だと思ってたでしょ。残念。実は男なんだよね」

言われて、顕になった上半身をまじまじと観察する。

なるほど、たしかに女性特有の柔らかな乳房は影も形もない。海外の各国ではそこそこ体格のいい女性も多かったから、まったく気が付かなかった。

「きっとアンタは俺と今夜を過ごしたかったんだろうけど……悪いけどそれは無理。この通り男だからね。演劇の機微を理解してるみたいだったから、もしかしたら俺の事にも気がつくんじゃないかと思ったけど……まさかここまで気づかないとは」

言われて、オリバーはなるほどと思う。

一目惚れしてその勢いで来てしまったが、たしかに体格は男性のものだし、声だって、女性に聞こえもするが、男性のものだ。

種明かしされてしまうと、いろいろなものが一気に鮮明に飛び込んできた。


いやはやまったく、恋とはこんなにも恐ろしい!


「と、いうわけだから。アンタとの時間はここでおしまい!それなりに楽しかったし……料理も美味しかった。けど、先は無いの。……あー……でもまあ、そうだな……。もしいつか、どこかでまた会えたら、その時は連絡先くらいなら交換してあげてもいい」

ちょん、と鼻先を押し、弓月は素早くベッドを降りる。それは止める暇もないほど滑らかな動きだった。


「じゃあね、素敵な王子様」

「あっ、ちょっ……!」

我に返った時にはもう遅い。

廊下に出て去っていく姿。丁度タイミングよく開いたエレベーターに迷いなく乗り込んだ弓月は、にっこりと綺麗な笑みを浮かべてドアの向こうに消えていった。


「……なんて人だ」


まだ、心臓が早鐘を打っている。まるで吹き荒れる春の嵐のよう。


「……また会えたら、連絡先を教えてくれるのか」

弓月の言葉を反芻し、そしてこのオリバー、限りなく前向きで、行動力ならば誰にも引けを取らない男。

あの人が男?だからなんだ。美しいものは美しい。魅力的な人はどうあっても魅力的なのだ。

愛の前には、性別など瑣末事だ。

「いいよ、弓月。なら、俺が追いかけるだけだ」

ひとまず、名前は知った。会話の端々から、ヒントになりそうな事は拾ってある。

「王子様にはお姫様が必要だ。白馬に乗って迎えに行ってあげる」


さて、おとぎ話を始めようじゃないか。

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