リリスな誘惑
ひお
第1話 遭遇
恋とは、いつどこで落ちるかまったく想像もつかないものだ。
「なんてことだ」
オリバー・アルバート・トールキンは割り当てられた座席で前のめりになり、しばし呆然とした。
ここは日本、首都東京のとある小劇場。
特別綺麗でも、歴史があるわけでもないこの劇場に来ているのには理由があるのだが、そんなものは二の次になるほど、今、彼の脳内は「とある事」で埋め尽くされている。
そう、それは、恋。
17年生きてきた。そのなかで当然、可愛いガールフレンドや素敵なお姉様方とそれなりの関係になったりもしてきたが、こんな衝動はついぞ感じたことがない。
それが、今こんな、東の最果ての国の、寂れた小さな劇場で急な開花を迎えるとは。まったく人生とは何があるかわからないものだ。
脳裏に浮かんでは消え、また浮かびを繰り返しているのは、この舞台で主演を務めた役者の姿。
長い黒髪、床を引きずる白い衣装。血色を落としているであろう白い肌。あれが舞台上での役柄、舞台の上だけでの姿だとわかってはいるのに、その奥から溢れ出る才能の輝きと意志の強さに圧倒された。
美しい。ただ、その一言につきる。
遠くからでもわかる、悩ましい視線。かと思うと、見つめただけで心臓を貫きそうなほどの気迫が迫ってくる。肌を焼きそうな怒りと、一転、あたり一帯を凍りつかせそうな悲しみと。かと思えば、一気に花咲き乱れる天国へと引き連れていく。
あんな役者、これまでに出会ったことがない。あの人の演じる役の世界に、強引に引き込んでくるような。
あの人にどうしても会いたい、会って、話をしてみたい。オリバーは早鐘を打つ心臓をなだめながら深く息を吐いた。
思い立ったら即行動、それがオリバーのモットーである。
そもそも、この劇場には別の用事もあって来ていたのだ。
「ああ、オリバー君。劇はご覧いただけたかな?」
「ミスター、実に素晴らしい劇でしたよ。ストーリーはもちろんですが、役者の質がいい。特に後半主役を務めたあの子は飛び抜けて素晴らしい、あれはいずれ日本を代表する役者になる人だ」
公演が終わり、事前に言われていた控え室へ。そこでは、この劇場のオーナーである笹本がにこにこと迎えてくれた。
「お父様がいらっしゃれなかったのは本当に残念でした。彼に倒産寸前の我社を助けていただいてから、もう随分と長い付き合いですから。久しぶりにお会いできると思っていたんですが、お母上のご病気ではいたし方ないですね。代わりにと自慢のご子息を送ってくださって、私としても嬉しい限りですよ」
「いえ、私も日本に長く滞在するのは初めてですので、楽しみにしていました。父におすすめの観光スポットなども聞いているので、せっかくだし楽しもうかと」
当たり障りなく、人当たりよく。オリバーはこの劇場のオーナー、笹本に話を合わせた。
今日は笹本の会社とオリバーの父親の会社の新しい業務提携内容について、話をするついでにここへ来たのだ。
けれど、今オリバーの中ではそれは二の次。胸の内で咲き誇った恋の花を無駄にしないうちに、目的を達しなければならない。
「……ときにオーナー。ぜひ役者の皆さんにご挨拶させていただきたいのですが。素晴らしい舞台を見せてくださったお礼を直接お伝えしたくて……」
話は少し盛るくらいがいい。物事を思い通り動かすためには多少のリップサービスが必須なのだ。
……正直に言おう。
ストーリーはありきたり、役者はまあまあ。そつなくまとめていて、プロだなと思ったけれど、もっといいものを見て育ってきた彼にとっては子供のお遊びに近いものに見えた。
けれど、あの役者は違った。
出てきた時の色のなさに一瞬がっかりしたが、それは大きな間違いだったと直ぐに気づいた。
千変万化とはまさにあのこと。
花にもなり、毒にもなり、ときに天使にも、悪魔にもなる。
表情の一つ一つが美しく生々しく、声音は蠱惑的。
真っ直ぐにこちらを射抜く強い瞳に、心臓が鷲掴みにされた。あれだけの逸材、そうはいないだろう。あれを今逃したら、二度のチャンスはない。
結果を出す人間は、勝機を逃さないのだ。
「それはありがたい、役者達も喜ぶでしょう!どうぞ、こちらへ」
上機嫌な笹本は、あっさりとオリバーを楽屋へ案内した。
眉目秀麗、才気煥発。そんな言葉が良く似合う青年の訪問に、楽屋はさっと色めき立つ。
それもそのはずだろう。オリバーの容姿は実に美しい。イギリス人である彼の肌は陶器のように白く、形良いアーモンド・アイには翡翠の瞳がきっちりと収まっている。すっと通った鼻筋、薄く笑みを湛えた唇。彼を見た誰しもが口を揃えてこう言うのだ。「まるでおとぎ話の王子様ね」と。
「とても素晴らしい劇を見せて頂いた。演目の主題になっていたリリスとは我々キリスト教圏の教義に関わる悪魔だが、日本的な要素を取り入れることで新しい解釈が生まれていたように思う。今日の経験はとても深く胸に刻まれたよ。ありがとう」
我ながら思うが、よくまわる頭と舌だ。さらに笑顔を加えてやれば、このオリバーが今まさに饒舌に嘘をついているなどと、誰も思わないのだ。
それは、この場に揃った劇団員達も同じだった。
(あの人は……居ないのか)
ゆったりと全員を見渡して、そして落胆。招集の声が届かなかったのか、はたまた別の理由か。
オリバーの心を串刺しにしたあの鋭い視線の主は、何処にもいなかった。
仕方ない、あとで笹本に直接聞こうか。そう思った時だった。
(……おっと、誰かの気に触ることを言ったかな)
感じたのは、なにやら刺すような視線。
それは劇団員達の向こう側、カーテンで影になっている部分。おそらく更衣室の仕切りであろう、その中だった。
当然、オリバーの視線はその仕切りの向こうへ引き寄せられる。そして。
「……わざわざ遠いイギリスから、しかも我が劇団の演劇を見ていただいたことに感謝いたします」
ゆったりと立ち上がり、暗がりから姿を現したのはまさに、舞台上で見事な立ち回りを見せていたあの役者だった。
まだ衣装すら脱いでいない姿は、そこだけ世界がねじ曲がっているかのような存在感を放っている。
「……やあ、近くで見るとより凄みがあるね。君自身には色がないのに、あらゆるものに化けてみせる。正直感服したよ」
「お褒めの言葉をありがとうございます。団員達もこの通り、喜んでおります」
床まで引きずる長い髪と、痩身を包む白い衣装。悩ましげな首筋に、百合の花の艶やかさと可憐さを思わせる目鼻立ち。
オリバーは思わず、生唾を飲み込んでいた。
「君……君の名前は?」
「……パンフレットに記載が」
「すまない、日本語は大分流暢になったはずなんだけど、漢字はまだ勉強中でね」
「……」
これも、嘘。多分目の前のこの人は見抜いているだろうけれど。
「……香井、弓月。あなたは」
「俺はオリバー・アルバート・トールキン。オリバーでも、アルでも好きなように呼んでくれ」
「そうですか。では、オリバーさん。本日はご観劇まことにありがとうございました。また機会がありましたら、ぜひ」
おっと、これは追い出しにかかられている。そう察したオリバーは、さっと弓月の手を握った。
「!」
「俺の見立てだと、おそらく君がこの劇団の中で一番演劇に造詣が深いんじゃないかな?」
「……さあ、どうでしょう」
「よかったら、この後色々話を聞かせて欲しいんだけれど。今後我社で大小いくつか劇場を作る事業もあるから、ぜひプロの意見も参考にしたい。どうかな」
弓月と名乗ったその人は、しっかりと掴まれた手をちらりと見やったあと、オリバーの目を真っ直ぐに見た。
ああ、この目。
何もかもを見透かして、心の奥底を暴いてくる視線。背筋にビリビリと電流が走るような、そんな感覚。
この目に、もっと見つめて欲しい。
一縷の望みをかけた誘いだった。この人と、少しでも同じ時間を共有したい。だからどうか、どうか、急にやってきた異邦人に少しだけ、心を開いてくれないだろうか。
オリバーは、願うような思いで弓月を見る。
弓月は数度ゆっくりと瞬きをしたあとで、静かに口を開いた。
「……夕飯、あなたもちなら。だから、手、離して」
「もちろん喜んでご馳走させてもらうよ。丁度俺が泊まっているホテルにいいレストランがあるんだ」
色々と困難がありそうな予感はしたが、ひとまず第一目標は達成。オリバーは掴んでいた弓月の手を素直に離し、待ち合わせの時間を伝えて楽屋を出た。
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