最終話

 環の言葉に背中を押されて、マスターの微笑みに見送られて、春日は上着も羽織らずに制服のままで外へ飛び出す。少し先に陸坂の黒いコートが見えた。歩いて行く方向から見ると、このまま帰宅するのだろうか。

 春日は夢中で追いかけた。寒さなど感じる余裕はない。今はあの背中に追いつくことが何より重要なことだ。

「ちょっとっ、あんた!」

 ようやく陸坂に追いつき、息切れを整える間もなく春日は大声を出す。それを陸坂が制した。

「何事かと思えば、お前か。大きな声を出すな」

「お前かって、あんたが追わせたんだろうが!」

「別に追わせたわけではない。自分の用事を済ませたまでだ」

 春日にこの小さな包みを渡すためだけに、〈シエスタ〉に寄ったのだろうか。表情は相変わらず不機嫌そうで、何を考えているのかわからない。ただ、憮然とした声の中に少しの温もりを感じたのが、春日がようやく外気を寒く感じてきたからと受け取りたくはない。

「これっ、何だよ」

 春日は手渡された包みを掲げた。

「今日は世の中はクリスマスイブなのだろう? お前もそういう俗っぽいイベントが好きなのではないのか? 日本ではすっかりクリスマスの意味は失われているし、二十五日よりもイブの方が盛り上がるのは理解しがたいのだが」

「別に俺はクリスマスもお構いなしに仕事だし、別に俗っぽいことが好きなわけでもねぇよ」

「それは失礼」

 失礼、に二重の意味を持たせて、陸坂はまた歩き出す。当然春日も同伴する形になる。

「これって何? びっくり箱?」

「お前が驚けばびっくり箱なのだろうな」

「開けていいか?」

「お前が受け取った時点で、それはもうお前のものだ。好きにすれば良い」

 春日はなるべく包装紙を破らないように気を付けながら、陸坂に遅れないように足早に追い、器用に包みを開けた。正方形の箱。それを開けると、もう一つベロアの箱。

(まるで指輪でも入ってるみたいじゃねーか)

 春日はそのままベロアの箱を開ける。

「これ……」

 ピアスが入っていた。それもダイヤモンドの。片方だけの販売がなかったのか、二つが対になっている。

「──びっくりした」

「それではびっくり箱で正解だな」

 陸坂はククッと喉を鳴らす。

「でもなんで、これ、俺に?」

「お前が受け取ったのだから、お前のものだと言っただろうが」

「プレゼント?」

「世の中の雰囲気に乗ってみただけだ」

 陸坂は歩みを止めることも緩めることもなく、自宅に向かって歩いて行く。落としてしまわないように箱を閉じ、春日もなんとなくついて歩いた。陸坂は咎めないので、許可されたものと受け取る。

「これ、高かったんじゃ……」

 言いかけたが、もらったものの値段の話をするのも野暮だし、だいたいあんな高級なマンションに住んでいる医師が、こんな小さなダイヤモンドのピアスの値段を気にするまでもないと思ってやめた。

「なんで俺にプレゼントなんか」

「ジルコニアで見栄を張っている男に興味などない。身に付けるなら本物でなければ意味がないだろう。お前は偽物のブランド品が好きか?」

「ブランド品自体興味ねぇよ。あんたと違って貧乏人だからな」

 世の中の雰囲気に乗ったとはいえ、たまたまさっきそこで買ったピアス、というような体のものではなかった。そうなると、どこかで時間を作ってわざわざ装飾品売り場へ出向き、プレゼント包装をしてもらったということになる。それを、春日に贈るために。

「こんなもんもらったら俺、勘違いするぞ」

「どのような勘違いだ?」

「あんたが俺に振り向いてくれたって」

「俺を口説くつもりなら、俺につり合う男になってもらわねばな。ジルコニアのピアスで誤魔化しているようでは、隣を歩く気にもならない」

「それって」

「別にお前に惚れたわけではない。ただ、その努力だけは買ってやろう。それはその褒美だ」

 陸坂のマンションまで着いてしまった。彼はなんということはなく、カードをかざして重そうな自動扉を開け、そのままエレベーターに向かう。先日見たのとは違う受付嬢二人が、陸坂に頭を下げて「おかえりなさいませ」と声を合わせた。

 春日は陸坂に送れないように一緒にエレベーターに乗り込んだ。やはり陸坂は拒否しない。一応部屋には入れてくれるつもりなのだろう。最上階にある部屋の鍵を開け、二人は黙って部屋に入った。

「そこらへんに座っていろ」

 タイマーでも掛けてあったのか、部屋はすでに程良く温まっている。上着も羽織らずに飛び出して、足先から髪まで冷え込んでいた春日には、非常に嬉しかった。

 これまでと同じようにソファに座っていると、案の定紅茶が──と思えば、マグカップに入ったホットミルクが運ばれてきた。身体を温めるのにはちょうど良い。陸坂のさりげない気遣いは、いつも春日を驚かせる。どこまでもびっくり箱な男だ。

「……さんきゅな」

 小さな声で春日は呟く。一応陸坂の耳にも届いたと思うが、何も返ってはこない。その代わり、自分もマグカップを持って春日の隣に座った。

(え? 隣?)

 普段は向かいの一人用のソファに腰掛ける陸坂が、最初から春日の隣に並んで座った。まだ残っていた寒さと驚きで、身体が震える。

「まだ寒いのか? まぁこんな気温の中、何も羽織らずに飛び出してきたのだから、代償も大きかろう。間抜けめ」

「だってあんたが勝手に出て行くから」

「用件を済ませてから出て行って何が悪い」

 そう言われると、単純に自分の間抜けさと必死さに呆れた。環があまりにも急かしたものだから、考える余裕もなかったのだ。

 春日は両手で陸坂からの贈り物を握っている。財布と携帯電話はズボンのポケットに入っているから問題はなかったが、この小箱はどうしようかと悩んでいた。中身だけでなく、包装紙まですべて持ち帰りたかったからだ。

「あと一週間だ」

 陸坂が突然言った。

 ああそうか、と春日も残りの日数を思い出す。

「あと一週間で今年も終わる。俺とお前の関係はどうだ?」

 どうだ、と言われても困る。春日は自分にできることは大方やったと思っているし、気持ちも固まっている。後は陸坂の判断次第だ。

 待つこと自体には慣れているし、相手の決断を受け入れることも苦ではない春日だったが、陸坂の答えを聞くのは正直怖かった。希望は失ってはいないが、それでも諦める準備もしなければ、という気もしていた。

「俺の気持ちは揺らがない。あんたが俺に傾いてくれれば、俺はあんたのためなら迷わず何だってするだろうな」

「下僕に格下げか? それも面白そうだが」

「下僕になんかならねぇよ!」

 茶化されたように感じて、思わず春日は声を荒げた。身体はホットミルクとエアコンのおかげで温まってきている。冷えているのは陸坂の態度だけだ。

「さすがに毎時間お前のことを考えて呪文を唱えていると、多少気には掛かるようになるものなのだな」

 意外にも陸坂は、春日との約束を守ってくれていたようだ。その律儀さには、言い出した春日の方がさすがに呆れたり脱帽したり感服したりと、複雑な気分になった。

「俺は何度でも言う。あんたのことが好きだ。あんたを俺だけのものにしたい。あんたに振り向いてもらいたい。俺を好きになって欲しい」

「『お前が好きだ』」

「?」

「お前と約束した呪文だ。〈好き〉の定義もわからないまま、俺はずっとこの呪いに囚われていた。残りがまだ一週間もあるのはさすがに苦しい」

 ここまで、ということか?

 春日はもらった小箱を慎重にテーブルに置き、隣の陸坂に向き直った。

「やっぱり呪文は効かないか?」

「効いたか効かなかったかで言うなら、効いたのかも知れない」

「それでも、俺にはなびかない?」

「さぁな」

 陸坂は横顔も美形だった。自分よりイケメンを好きになることもなければ、相手に無理強いもしてこなかった春日が、こんなにも夢中になってしまっている。内心では「カッコ悪いな」と思いつつ、恥を覚悟で好きになった相手は初めてだった。

「なぁ」

「何だ」

 ふと、陸坂の顔が春日の方に向けられる。真正面から目が合って、次の言葉を失ってしまいそうだ。

「俺のこと、まだ嫌いなのか?」

「何か勘違いしているようだが」

 陸坂はまた、口唇の端を上げて微笑んだ。

「俺は一度も、お前に嫌いだと言ったことはないぞ」

「え?」

「それともお前は覚えているのか? どういう流れでどんなふうに、俺がお前のことを嫌いだと言ったか」

 以前この部屋に来た時のことや、副院長室でのやりとりを思い浮かべる。態度からして嫌悪感でいっぱいのようだったし、嫌われているとずっと思っていた。しかし確かに、陸坂の口から「嫌い」だと言われた記憶は思い当たらない。

「それでも俺の気持ちには応えてくれてないんだろ」

「俺は命令されるのが嫌いだ」

「父親の言うことは聞くくせにか?」

「それは自分の意志で選択した結果だ」

 話を逸らされて、陸坂はまた少し機嫌を損ねたようだ。思わず春日は目を伏せる。

「俺は毎時間あの呪文を唱えていた。もしも俺がお前を嫌いだと言ったとするなら、そんな約束はしていないだろう」

 律儀な奴だ、と陸坂の融通の利かなさに呆れるが、約束を守り続けていてくれたことには素直に感謝したい。

「じゃあ俺のこと好きになったか?」

「以前よりは嫌悪感が減ったかも知れないな」

「それなら、あと一週間でなんとか振り向かせられるかねぇ?」

 春日は少し茶化すように言った。陸坂の言葉には裏がなさすぎて、直截的な反応が怖くもある。

「あと一週間。あと七日間。さすがにもう、毎時間あの呪文を唱える必要はなくなった」

「どういう意味だよ」

「お前が好きだ」

 さっきの棒読みとは違う、陸坂なりの感情が込められた言葉だった。

 しかしすぐに、平坦な声になって言い直す。

「お前が好きなのだと、思う」

「なんで持ち上げといて落とすんだよ」

 複雑な気持ちになりながら、春日は両手で陸坂の頬を掴み、口唇の両端を上げようとした。普段は営業スマイルの爽やかな陸坂なのだから、もっと愛らしい笑顔ができるはずなのだ。

「俺はあんたが好きだよ。そんな素直じゃない言葉でも、真正面から聞かされたら嬉しくなっちまう。本気に受け取るぞ? 取り消すなら今だぞ?」

「俺はそんなに信用ならないか?」

 春日の手を払いのけて、陸坂は言った。

「取り消すような言葉なら言わない。お前は俺の何を見ているんだ?」

「何をって」

「顔か? 身体か? 金か? 権力か?」

「それこそそんな俗っぽいモンには興味ねぇよ。俺はありのままのあんたを見てる」

「それなら今の言葉を信じろ」

 多分、これが陸坂の精一杯なのだろうと思う。〈好き〉という感情さえ理解できていないのだから、それをどのように伝えれば良いのかもわからないのだろう。

「信じるよ。あんたは俺が惚れた男だ。俺は自分の目利きに自信があるんでね」

「それで? お前が俺を好きなのはわかっている。俺もお前に好きだと言った。その先はどうすれば良いんだ? まさかそれで満足というわけもあるまい」

 お世辞にも恋愛感情が込もっているとは言えないトーンだったが、疑問符の理由はもちろん理解できた。しかし、春日は身体より心で人を好きになる。

「いろいろしたいよ。あんたが考えてるようなことももちろん期待してるけど、今はあんたと一緒にいたい。話がしたい。そばにいて欲しい」

「もうこんな時間だが?」

「じゃあ、泊めて」

「明日の朝は早いぞ?」

「いいよ、帰ってからまた寝るから」

「俺が辛いのだが」

「知らね。俺、あんたにはわがままになるって決めたから」

 相手の意志を尊重する、という名の逃げは、もう使わない。来る者は相変わらず拒むけれど、去る者は追う。それが陸坂ならば。

「……恋愛関係が成立したと思った途端にわがままか。現金な奴だな」

 その言葉とは裏腹に、陸坂は微笑んでいた。両方の口角を上げて、しかし営業用ではない笑顔で。

「あんたも俺の行動は予測済みだろ?」

「お前に振り回されるのは御免だからな。ある程度は理解しているつもりだ」

「じゃ、風呂貸して」

「現金な上に、図々しくもなるのか」

 そうは言いつつも、陸坂は立ち上がって奥の部屋から新しそうなバスタオルを持って来てくれた。

「替えの服は今から用意して脱衣所のカゴに入れておく。洗面台にドライヤーを出しておくから、きちんと髪を乾かしてからこちらに戻って来い」

 やはり几帳面な男だと思いながら、春日は適当に相槌を打って浴室に向かった。想像していたより普通のユニットバスだったが、やはり湯船が広くて心地良かった。きちんと足が伸ばせる。

 言われた通りにドライヤーで髪を乾かしてからリビングに戻ると、陸坂もシャワーを浴びると言って入れ替わりで浴室に行った。わりと短い時間で戻り、再び二人でソファに座る。

 春日に用意されたのは、陸坂サイズの長袖のスウェットだった。当然、陸坂より背が低くて身体の厚みもあまりない春日には余る。借り物丸出しのその姿に、またククッと笑われてしまった。それでも〈シエスタ〉の制服よりは十分温かいし、動きやすい。脱いだシャツとズボンとネクタイは、きちんとたたんで脇に置かれていた。

「なぁ、どこで寝んの?」

「俺にはベッドがある。お前にはこのソファで十分ではないか?」

「あんたが言うと冗談に聞こえない」

「それは冗談で言っていないからだろう」

 確かに初めてここを訪れた時は、このままこのソファに横になりたいと感じたが、本当にソファで夜を明かすのは辛い。アパートの万年床に比べれば、このソファにはまったく問題はないのだが、気持ちの問題だ。

「一緒に寝ようぜ」

「俺の寝室には誰も入れたことはない」

「じゃあ、俺だけってことで」

「甘えるな」

「甘えさせてよ」

 バスローブを羽織った陸坂はそっけなく言う。

「何もしねぇからさ」

「何もしないのか?」

「して欲しいワケ?」

「信用していないだけだ」

 せっかく隣同士でソファに座っているのだからと、春日は陸坂のシャンプーの香りのする頭を、強引に自分の肩に傾けた。

「何をする」

 不満げな声で言いつつも、陸坂は力で対抗してこなかった。

「こういうこと、俺はしたいの」

「安上がりな男だな」

「貧乏人なもんでね。エコだろ?」

 春日に突然角度を変えられた首の居心地が悪いらしく、陸坂は自分の疲れない角度を探しておとなしく頭を置き直す。

「これには何の意味があるんだ?」

「俺にすべてを預けるって気持ちの表れ」

「そんなつもりはないのだが?」

 言いながら春日の肩に重みが増す。多分こんなふうに他人に自分の身体を委ねたことなどないのだろう。不器用な陸坂が愛おしく、春日は相手の頭の上に自分の頭を軽く乗せた。

「俺もあんたに全部預ける」

「依存されても困る」

「そういう意味じゃねぇよ。あんたホント、恋愛音痴だな」

「しかし現状、俺よりお前の方が楽をしているのではないのか?」

 首の角度の話だろうか。確かに座った時の頭の位置は陸坂の方が高いのに、それより低めな春日の肩に寄り掛かるのは苦しい体勢なのかも知れない。春日からすれば、とても心地の良い体勢なので、図星を突かれたことになる。

「じゃ、入れ替わる?」

 頭をどけて、春日は訊く。陸坂も頭の位置を戻し、ぐるりと首を回した。

 春日は春日の首の運動を見届けてから、改めて陸坂の肩に頭を乗せた。

「はい、あんたも」

 しぶしぶ、といった様子で陸坂は春日の方に首を傾けた。先程よりは悪い体勢ではないようだ。

「朝までこれでもいいな」

「俺は無理だ。一分が限界だ」

「短っ」

 春日はクスクスと笑う。その頭部をグイと押し戻し、陸坂ももう一度元の姿勢に戻った。

「お前はすぐに俺と話がしたいと言うな。そのくせ、自分からは何も言わない」

「あー、接客業が刷り込まれててね。俺の仕事は、相手から話を引き出す方だから」

「では、俺に何か話を聞かせろというのか? 俺の仕事も、患者の話を聞くことなのだが」

「俺の診察の時は突き放したくせに」

「不全骨折など病気ではない。単なる鈍臭い男に優しくしてやる必要はないだろうが」

「医者の片隅にも置けないセリフだな」

 また春日は笑う。陸坂も言葉に反して微笑みを浮かべていた。他人とコミュニケーションをとる機会が極端に少なかった陸坂の生い立ちからすれば、春日との関係は未知の領域に違いない。初めて自分で選んだ道なのではないだろうか。

「あんたさ、ホントにそのうち結婚しちゃうの?」

 なるべくさり気なく聞こえるように、けれどどうしようもない不安を隠せずに、春日は訊いた。

 陸坂は何故か驚いた顔をしている。

「そんなわけがないだろう」

「でも、そう言ってたじゃん」

「俺が拒めば良いだけの話だ」

「初めての反抗期、って?」

「自分の人生くらい、自分で切り開くのが正しいと、お前に教わった」

 そうだっけな、と春日は思い返す。歳下で格下の分際で、随分と偉そうな説教をしたものだ。

「まぁ、お前と別れることになれば、俺の人生はまた逆戻りなのだろうな」

 ふっとため息混じりに言った陸坂の言葉に、春日は思わずその目を凝視した。

「そんなことさせるかよ。俺は絶対あんたを嫌いになることはない。手放さない」

「俺はあるかも知れないぞ? 恋愛というのは、双方の合意がないと成り立たないのではないか?」

 痛いところを突かれた。そうだ。今は陸坂が春日に微笑んでくれていても、いつかは別れがやって来るということは、これまでの経験からも、世の中の常識からも学んでいる。

 しかも相手は総合病院の副院長だ。跡取りを残すのが何より重要なのかも知れない。それなら春日ではとうてい太刀打ちできない。

「──なんてな」

 陸坂は、らしくないラフな言葉を使った。

「家族経営の小さな診療所ならばともかく、総合病院の院長など世襲制ではない。派閥があるから、俺の父親が躍起になっているだけだ。別に直径の子孫が継がなければならないものではない」

「そう、なのか?」

 確かにあの総合病院は〈陸坂〉の名前を冠してはいない。あくまで大きな市立病院であり、よく考えれば病院長が世襲制であるわけがないのだ。

「あんった、俺を騙したのか?!」

 春日は思わず陸坂の肩を掴む。

「騙したつもりはない。父親に跡を継げと言われているのは事実だし、実際に結婚相手選びも進行しているようだ。ただそれを、今までの俺は疑問に思わなかった」

「案外頭悪いな」

「誰に言っているんだ」

 ギロッと陸坂は春日を見たが、気分を害したわけではなさそうだ。

「俺はお前からいろいろと一般的な世間のことを教えられた。そうすると、自分の世界が崩壊していくように感じた。だからお前が責任を取るべきだと思っている」

 責任って……と、大袈裟な表現を大真面目に言ってくる陸坂を見て、春日は呆気にとられた。しかし陸坂にとってこれは、最初で最後の恋愛経験になるのかも知れない。春日がいなくなれば、彼はまた、父親に定められたレールの上を走り始めるに違いない。

 もうそんなことはさせたくない、もう陸坂から笑顔を失わせたくない、もう春日以外の誰かを見て欲しくない。

 だから春日も覚悟を決めた。陸坂に惚れてから、ずっと決めていた覚悟だった。

「俺は絶対あんたを離さない。辛い思いもさせない。幸せにする。間違いなく」

「プロポーズのようだな」

「そう受け取ってもらえる方が助かる」

 ふふん、と陸坂は皮肉な顔で笑った。

「ならば俺をお前に預けようか。お前が俺に自分を預けられるのならば」

「誓います」

 へへっ、と春日はおどけた。それから陸坂をぎゅっと抱き締めた。背中に手を回して、陸坂の胸元にグイグイと頭を押し付ける。

「これは何の表現だ?」

「愛情が溢れて止まらないって意味」

「ふぅん」

 陸坂はふと時計を見上げる。間もなく日付が変わろうとしていた。それに気付いて、春日も時計に目をやった。

 本当なら今頃〈シエスタ〉で、環とマスターと一緒に迎えるはずだった、イブとクリスマスの境目。それが急に「幸せな方」として、陸坂の部屋で迎えることになったのは、二人のおかげだ。環には申し訳ない気持ちがある一方、背中を押してくれたことに感謝する。今度会った時には、すべてを話そうと思った。陸坂のプライバシーなど、環の前ならお構いなしだ。

 時計の針が、十二のところで重なった。春日は陸坂から離れて、しっかりとその目を捉える。

「メリークリスマス」

 春日至上、最高の笑顔を向けて言った。

「メリークリスマス」

 陸坂は相変わらずの無愛想な声だったが、両方の口角を上げて微笑んでいる。

「ごめん、俺、まさか今日会えると思ってなかったから、プレゼントはないんだけど」

「そんなもの、はなから期待していない」

「その代わり」

 言って春日は、居住まいを正す。

「話をしてやるよ」

「絵本の読み聞かせでも?」

 冗談を言ったつもりなのか、それが天然の思考なのかはわからないが、春日は陸坂の額を小突いた。

「幸せな男の話。頑固で不器用でムカつく男に恋をした、世界で一番幸せな男の話だよ」




                                   〈了〉

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これも一つのアイのカタチで 桜井直樹 @naoki_sakurai_w

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