第15話
「春日ちゃん、おひさー」
十二月二十四日のクリスマスイブの十八時ちょうどに、ドアベルが鳴って環が店に入ってきた。
「よぉタマ、久し振り」
「マスターもこんばんは」
「こんばんは」
ニッコリ笑顔を交わし合う二人を見て、なんとなく疎外感があったが、この二人はどこまで情報を共有しているのだろうと勘繰ってしまう。主に春日について。
「春日ちゃん、進捗はどう?」
自分の方から、「長い間何してた?」と訊こうと思っていたのに、先制されてしまった。仕方なく春日は、「相変わらずだよ」と答えておく。進捗と言われたなら、別に何も進展していないからだ。
「そっかぁ。ま、今日はこの環ちゃんが一緒に過ごしてあげるからねっ。まぁ、春日ちゃん目当てのお客さんもいっぱい来るから、寂しくないだろうけど」
寂しくないわけがない。客が来ようと、環がいようと、この日に陸坂と過ごせないと思うだけで、予想よりはるかに春日の胸を締め付けた。
それでも今日は仕事だ。きちんとしよう。イブとクリスマスを同時に、環とマスターと一緒に〈シエスタ〉で過ごせるなら、それも楽しいはずだ。
「外は激寒だよぉ。見て見て春日ちゃん、今日のボクのコート。可愛いでしょ? 今日初めて着るんだぁ。だから褒めてよ」
いつものゴスロリスタイルの上に、柔らかく羽織られた真っ白なコートは、女物の服がどれだけの値段をするのかさっぱり興味のない春日でさえ、きっと高価なのだろうと感じる品の良さとデザイン性を感じさせた。環がくるりと回ると、腰の後ろの部分に小さなリボンがあしらわれていて、ウエストを細く見せるように絞ってある。
「可愛いじゃん。似合ってるよ」
「マスターは?」
「良いですね。あなたのスタイルにお似合いですよ。それに温かそうだ。カシミアですか」
「さっすがマスター。この軽くて柔らかいのに、防寒効果の半端ないカシミアを見抜くなんて、やっぱり心眼だねっ」
ニッコリ笑って満足げに環はコートを脱ぎ、後ろの壁にあるハンガーに掛けた。
「春日ちゃん、いつものちょうだい」
「はいよ」
春日はカーディナルを作り、木製の皿にナッツを入れて環の前に置く。
「今日は混むかなぁ?」
「混まないと良いですね」
誰にともなく言った環の呟きに、マスターが意外な言葉を返した。もしかすると、今日は早く閉めて家族とクリスマスを過ごしたいのだろうかと思ったが、マスターはこう続けた。
「それだけ幸せな方が多いということですから」
クリスマスイブにバーで一人飲みというのは、確かに寂しい。客が来ないということは、恋人と寒い中手をつないで、心を温めているからに相違ない。幸せな客が多い程、今日は暇になるというわけだ。だからマスターは、混まなければ良いと答えたのである。
「マスターやっさしーぃ」
環が感心したように言う。春日は何も言えなかったが、そんなマスターだからこそ尊敬できるのだった。
二十時を過ぎると、普段ならちらほら客が入ってくるのだが、今日はなかなか最初の客は現れない。環は客として数えていないから、二時間は話し込んでいただろうか。時にマスターも交えて笑い合い、やっぱり遠慮のいらない腹を割った相手と一緒にいるだけで、十分に幸せなことだと実感した。
陸坂は今頃、看護師や患者たちからプレゼントをもらったりして、嘘の感謝の言葉で相手を喜ばせているのだろうか。それとももう帰宅して、あの高いところにある部屋から光の渦を眺めているのだろうか。もしかすると、こんな日に光が溢れていることさえ鬱陶しく感じているのかも知れない。
いずれにせよ、クリスマスなどという浮かれたイベントには興味はないだろう。それが自分の誕生日だろうと、気持ちは変わらなさそうだし、なるべくならそうしたお祭り騒ぎからは距離を置きたいタイプに違いない。
「春日ちゃん、ボクとの会話中にぼーっとしないの!」
環の呼ぶ声に、ハッと我に返る。陸坂を愛おしんでいたわけではなく、ただ哀しいな、と思っていた。
「それともボクじゃ不満なのかな?」
「そんなことねぇよ」
「じゃ、おかわりちょうだい」
「はいはい」
あくまで春日は〈シエスタ〉のバーテンダーであり、接客業である。客が話しかけてきたなら笑顔でそれに付き合い、気分を悪くさせないのが仕事だ。客としては数えていない環であっても、人と会話している最中に他のことに気を取られるなど、失礼極まりない。
「今日は日付が変わるまでいるからね。それで、マスターと春日ちゃんと一緒にクリスマスイブとクリスマスを両方やっちゃう」
「やるって何をやるんだよ」
「おしゃべりー」
環はコロコロと笑った。別に酔っているわけではない。ただ、こんな日にこの店に来るということは、マスターの言葉を借りるなら、「幸せな方」ではないのだろう。それとも春日を気遣ってくれたのだろうか。しかし環は他人に簡単に同情するタイプではないので、きっと自分の寂しさを紛らわせるためにという意味もあるのかも知れない。だから春日は何も訊かないのだ。
「あと何時間しゃべり続けるんだよ。もう俺からは何も出てこないぞ」
ある程度陸坂との最近の関係を話したが、やはり重要なポイントは外してしまう。陸坂のプライベートに関わるからではない。どちらかと言うと、自分の弱点を見せるようなものだったからだ。
今更環に弱点を見られようとも、どうということはないのだが、なんとなく意地になっている自分がいた。環に話せば、きっと的確なアドバイスを貰えるかも知れない。だからこそ、春日は何も言えないのだ。自分自身で考える──それを今、実行している最中だった。
いずれ今年最後の日が終われば、環にすべてを話そうと思っている。慰めを期待しているわけではないが、自分一人で抱え込むには大き過ぎるショックになりそうだったのだ。
陸坂の言う通り、期待と絶望は比例している。しかしそれでも春日は、決して希望を捨てないで最後まで成し遂げようともがく。格好悪くても良い。プライドがないと思われても構わない。陸坂を落とすためなら、何だってしよう。あと十日足らずでできることはすべて実行しよう。だからただ今は、会いたい。クリスマスだなんていう、特別な日でなくても良いから。
陸坂には毎日メールを送り続けているが、病院では一切姿を見ないし、電話をするのも忙しそうで気が引けた。メールの返信は律儀にあったので、一応約束は守ってくれているようだ。文面は、以前となんら変化はなかったが、春日もそこまで高望みはしていない。
ゆっくりと時間を掛けて……と思っていたが、リミットは近い。残りの日数を数えると気が滅入るので、気にしないようにすると尚更気になった。
「じゃあボクの話をしてあげよっか?」
「タマの?」
意外なことだった。これまでの半年の付き合いの中で、環が自分のことを語ったことは一度もない。過去の恋愛遍歴や、自分がゲイだと気付いたいきさつ、家族との関係など、春日の方はほとんどすべてと言って良い程に自分の話をしたが、環のことは謎だらけだった。だからこそ、訊いてはいけない気がしていたし、まさか自分からそんなことを言い出すとは思わなかったのだ。
「ボクからのクリスマスプレゼントだよ」
そう言って環は、「お客さんが来たら中止ね」と釘を刺してから、普段よりも張りのない声で話し出した。
「僕が女装子になったのはねぇ、三歳上のお兄ちゃんがいるから」
環に兄がいたことさえ初耳だったので、それが女装とどう絡んでくるのかと気になった。
「お兄ちゃんは春日ちゃん程じゃないけど、結構なイケメンでね」
少しずつ区切って話す環に、春日は自然と焦りを感じる。どうか誰も入ってきませんように。
「そのお兄ちゃんの部屋に、女の人の写真が飾ってあったの。今のボクみたいな人──っていうか、ボクがその人の真似をしたんだけどね」
環が年齢不詳なため、三歳上という兄の年齢も不明だったが、なんとなく少し上くらいかな、と感じた。
「ボクってすっごいお兄ちゃんっ子でさぁ。その写真の人にお兄ちゃんを取られるかもって、なんとなく察しちゃったんだよね。あ、でもボク、ノンケだからね。ただのブラコンで、お兄ちゃんのことを恋愛対象として見てたわけじゃないよ」
うんうんと春日は頷く。いいから先に進めろと、心ははやる。
「でもねー、お兄ちゃんはその人にフラれちゃったのか、別れちゃったのか知らないんだけど、いつの間にか写真がなくなってたの。そしたらボク、なんだか嬉しいような哀しいような気持ちになっちゃってさ」
環は兄ではなく、その写真の女性を好きになったのだろうか? なんとなく春日はそう感じた。
「なんていうかね、きっとお兄ちゃんはこの写真の人と結婚して、ボクのお姉さんになるんだーって思ってたんだよね。よく考えたらすごい子供な考えだよねー」
あはは、と環にしては乾いた笑い声を漏らす。強がった環など初めて見るので、春日は思わず「もういいよ」と言いたくなった。しかし環は続ける。
「多分ボクは、もともと女の子に憧れてたのかも知れない。男の人は恋愛対象じゃないけど、だからって女の子が恋愛対象でもなかったんだね。ボク自身が女の子になりたかったみたい」
今日は巻き髪になっている毛先を、弄ぶように指に巻き付けている。俯きがちなため、その表情は読めない。
「それが三年くらい前のことかな。最初は普通に女装してたんだけど、なんとなくウィンドウショッピングしてたら、あの人が着てたみたいなすごく可愛い服があって。それで今のゴスロリファッションにつながったんだけどね」
環はテーブルに置いたまま手付かずだった白ワインに手を伸ばし、二口程飲んだ。見えた顔はいつもとなんら変わらない。
「まぁ結局、心も身体も男だし、本当に女の子になるつもりもないんだけど。中途半端な自分が嫌になって、ここに来る時はこんな格好になってるってワケ」
「ここに来る時以外は?」
春日はここにきてようやく、長い間気になっていたことを訊けた。
「バイトによってはこの姿だし、意外とまだ普通の女装もしてる。でも男の格好の時もあるよ。春日ちゃんには見せないけどね」
ふふっ、と環は悪戯っぽく笑う。
「まぁ、今でもボクは、あの写真の人に憧れてるんだろうなぁ。好きとか嫌いとかじゃなくて、本当に単純に憧れ」
環の女装のきっかけはささやかなものだったが、今でもその写真の女が彼女を魅了してやまないのだろうと思うと、春日はなんとなく嫉妬心が芽生えるのを感じた。今更何だという気もするが。
「春日ちゃんがゲイなのとおんなじでさぁ、ボクが女装子なのにも、実はたいした理由なんてないんだよ、きっと」
以前春日は環に、何故ゲイなのかと訊かれたことがある。春日は少し考えた結果、説得力のある理由を見つけられず、「そうなんだから仕方ねぇだろ」と言ったのだ。
「たいした理由、ねぇ……」
そもそも、何事にも理由を求める方ではない春日だったので、その環の言葉には納得した。それなら、春日が陸坂に思いを寄せていることにも、実はそれ程大きな理由などないのかも知れない。だいたい、説明のつく理由があって恋に落ちることなどあるだろうか? 優しいからとか、気が合うからとか、そんなものは後付けの理由だと思う。
陸坂はそういった〈理由〉や〈動機〉など、説明のつくものを求めているようだったが、あまり学のない春日には彼を納得させる程の真っ当な解答など出せない。
好きだ。
それだけで何が悪い? 何が不足している? 頭で考えられる恋愛など、結果理想でしかない。説明のつく恋愛感情など、学問のようではないか。
そこへ不意にドアベルが心地良い音を立てた。もう少し環の話を聞きたかった春日は、内心舌打ちしそうになったが、客を振り向きながら「いらっしゃいませ」と声を掛けた時、笑顔が凍った。
「──な、あんた……」
陸坂が、いた。
時計を見ると、間もなく二十一時になろうとしている。環の話を聞けただけで、こんな時間まで他の客が来なくても時間を持て余さずに済んだし、このままマスターと三人で夜明かしするのも悪くないと思っていた。そこへ美形医師の登場である。きっと狼狽える春日と陸坂の整った顔を見ただけで、環もマスターも相手の正体がわかったことだろう。
二人には目もくれず、まっすぐに春日の元へ陸坂は歩み寄る。冷たい外気をはらんだ高級そうな黒いコートは、素材感が環のものと似ていた。これもカシミヤというやつなのだろうか? それとももっと高級な何かなのか、春日には見当もつかなかった。
「……」
「……」
お互いに言葉はない。春日は驚きのあまり。陸坂は──なんとなく機嫌の悪そうな表情で、心の中が読めない。
ふと、陸坂は冷たいコートのポケットから、小さな正方形の包みを取り出した。まるでエンゲージリングでも入っているかのような。当然、そんなわけはないのだけれど。
陸坂はそれを春日に差し出した。思わず成り行きで手を伸ばしてしまう。その両手に落とされた包みは、案外軽かった。
「あの」
春日が口を開く前に、陸坂はもう背を向けていた。そのまま再びドアベルを鳴らして扉の向こうへ消える。呆然とするしかなかった。そこへ環の強い声が走る。
「春日ちゃん! 追わなきゃどうするの!?」
「えっ?」
「それ、クリスマスプレゼントでしょ? ここじゃボクたちがいるから、何も言わないで行っちゃったんじゃないの? 今追いかけないで、いつ捕まえるつもりなの!?」
「でも、仕事……」
「言い訳しない! お客さんが来たらボクが接客しといてあげるから! ね、マスター、いいでしょ?」
「構いませんよ。幸せな方が増える方が大事でしょう」
「!」
「早く! モタモタしない!」
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