第14話
翌日、環は〈シエスタ〉に姿を現さなかった。外は雨。自然と普段よりも客足が遠退き、店内もガランとしている。
まぁ、環も毎日通っているわけではないので、こんな日もあるだろう。今日の帰りは階段に注意しなければ、などと呑気なことを考えながら、春日は客に対応していた。
「もう足は大丈夫かね?」
長い話を終えた最後の客が帰り、掃除をしていた春日に、マスターが静かに訊いた。春日は笑顔で答える。
「はい、おかげさまで。迷惑かけてすみませんでした」
「いや、君は頑張ってくれていたよ。ただ、今日の雨の降りを見て、またあんなことにならないか心配でね」
つい、と小窓の外を見る。確かに雨脚が激しくなってきている。いつ雪に変わってもおかしくない程寒いし、帰りの階段では駆け足にならないようにしようと、改めて思った。
「ですよねぇ。俺もびっくりしました。気を付けます」
ふふ、とマスターは微笑んで、キッチン周りの掃除を再開した。春日も床にモップを掛け、アルコール除菌液でテーブルと椅子を拭いていく。
一通りいつもの片付けが終わり、マスターに挨拶をして外階段に注意しながら部屋に帰る。
「うー、さみーさみー」
こういう時は、やはり人肌恋しくなるものだ。春日はとりあえず風呂に湯を溜め、部屋のエアコンを入れて、暖かくなるのを待ってから濡れた上着を脱いだ。
〈帰宅ー。外超寒い。指が凍えてメール打てねぇ(笑)〉
深夜というのにも関わらず、相変わらず自分のペースで陸坂にメールを打った。返信を待つことはない。何度か風呂場にお湯が溜まったかどうかを見に行き、水道を止めて服を脱ぐ。
するとメール着信。まさか陸坂なわけがない……と思いつつ、ほのかな期待を抱いていたら、意外にも環からだった。
〈恋愛順調(?)の春日ちゃんへ。今日は無事に帰れたかな? 雨降りだから心配してたんだよ。生きてたら返事ちょーだい〉
「なんだよ、生きてたらって……」
裸の上にタオルを掛けながら、春日は短い返事を送った。再び環から〈良かった〉とだけ返信があったが、特に用事があったわけでもなさそうだったので、そのまま風呂に飛び込んだ。
「ふぅ〜」
思わず声が漏れてしまう。やはり寒い日は風呂だな、と思いながら、帰る部屋と仕事のある生活に感謝する。自分の容態を気に掛けてくれるマスターや環の存在にも救われた。この生活が当たり前だとは思わない。かと言って、すべて自分の努力の賜物だという自負もない。運命などではないが、自分がいて周囲の人がいて、なんとか構成されているありがたい環境なのだと感じていた。
陸坂は今頃どうしているだろう。副院長という肩書きのおかげで仕事が楽なのか、逆に次期院長ということで忙しくしているのか。深夜勤務もあるとメールで聞いていたから、来週の火曜日は仕事なのだろうな、と思った。
会えないのが寂しくないと言えば嘘になる。会えない時間を楽しむのも恋愛だとは言ったものの、会えない時間が長いとやはり不安になる。自分は遠距離恋愛には向かないだろうなと春日は改めて思った。
幸いにして、今思いを寄せている相手は山を上ればすぐ近くに住んでいるし、勤め先にもほぼ毎日通っている状態だ。これが片思いでなければ、もう少し安心できるのだけれど。
「あー、たまんねぇな」
今日はリハビリに行ったが、いつものように陸坂には会わなかった。リハビリ室と診察室が離れているせいもあるだろうし、もしかしたら診察のない時は副院長室に籠もっているのかも知れない。どちらにしても、最低限にしか他人と接することなく過ごしているだろうということは聞くまでもなかった。
湯船から出て、春日は頭を洗い始める。そう言えばそろそろ髪を染め直さなければな、と思いながら、後ろ髪まで丁寧に洗った。シャンプーの良い香りを漂わせたまま、春日は浴室から出る。一応メールのチェックをしてみたが、やはり陸坂からの返信はなかった。
「そりゃ、この時間だもんな」
別に傷付くことでもない。明日の朝になれば、早起きの陸坂から何かしら返信があるだろう。そう思うと、やはり少しは進展しているのではないかと期待を抱いてしまう。昨日の陸坂の様子が気になったが、無防備な一面を見せてくれたのだから、春日も本音を言った甲斐があるというものだと前向きに捉える。
この春日のポジティブ思考を、一割でも良いから陸坂に与えてやりたかった。
その後週が明けても環は〈シエスタ〉に姿を見せず、陸坂とも会えない日が続いた。
環に関して言うなら、会えないのは少し寂しいが、春日が自立するためにあえて話を聞きに来ないのだろうという考え方もできる。今環に顔を見られたら、一発で自分の気持ちを見抜かれてしまうだろうし、喜びや焦りも伝わる気がする。数日に一度くらい、どうでも良いような内容のメールが来ることを考えると、春日は環に見捨てられたわけではないようだ。年末だし、普段の生活が忙しいのだろう。女装を解いた時の環を見たことがないので、外で会ってもわからないだろうし、どこに住んでどんな仕事で生活しているのかも聞いていない。しかし春日が初めて出会った時も新しく始めたバイトの最中だったと言っていたから、何かしらの仕事を持っているのだろう。
実家に住んでいるのなら、女装はどう思われているのかとか、どこかで着替えてくるのだろうかとか、環への興味は尽きず謎は深まるばかりだった。
ほぼ毎日リハビリに通っているというのに、まるで避けられているかのように陸坂には会わなかったが、よく考えて見るとリハビリの時間はまだ診察が始まる前なのだし、診察が始まってしまえば、医師が診察室を出ることはほとんどないのだろう。どちらにしても、やはり生活サイクルが違うのだ。偶然だけで会えるものではないのだろう。
明日の定休日は、陸坂は予定があると言っていたのであの部屋には行かない。いつか合鍵をもらえるような間柄になれれば……などと、かなり確率の低い希望を抱く。しかし、確率はどんなに低くても可能性はゼロではないというふうに考えるのが春日だった。
仕方がないので明日は以前のようにだらだら過ごそうと考える。カップ麺と水の在庫も薄かったので、起きたら買い物に行こうという予定も立てた。
「そう言えば、あとちょっとでクリスマスか……」
陸坂と交わした約束の日まで、もう残り十日しかない。毎日一時間ごとに春日のことを思い出して、本当に「好きだ」と呟いてくれているだろうか。陸坂はそれを「呪文」だと言っていたが、もしそれで本当に春日に傾いてくれれば、かなり有効な呪文に違いない。
春日がいつの間にか陸坂に恋をしていたように、前触れもなく突然落とされるのが恋だ。陸坂は絶望の淵に立っているが、そこに墜とされる前に自分が〈こちら側〉に引き戻すのだ。
「まだ十日あるっつーの!」
声に出して言い、春日は自分に発破をかけた。
クリスマスなんてどうせお互いに仕事だし、何が起こるわけでもない。だから何も期待していない。陸坂のように、期待すると絶望した時のショックが大きくなるからというわけではないが、しても叶わない願いは持たない主義だし、それよりも〈シエスタ〉で過ごす方が楽しいに違いない。クリスマスの日が定休日でなくて良かったと心底思った。
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