第13話

 翌週の火曜日の午後、また春日は陸坂に時間を作らせて、あの高級タワーマンションまで押しかけた。別に何の用事があったわけでもない。しかし、メールだけで発展するような生易しい恋愛ではなかったし、とにかく会うことしか春日の頭の中にはなかった。不思議と陸坂も拒まなかったので、先週と同じ十四時に行くことにした。

「思ったよりも長い間会わずに済んだな」

 リハビリに通っていても、何故だかこの一週間、春日は陸坂に出くわすことはなかった。まさか避けられているのではないかと疑ったが、メールは思ったよりこまめにやりとりできていたので、ひとまず安心していた。

「せいせいしたって顔じゃねぇかよ。あんたちゃんと約束守ってるのか?」

「一時間ごとにお前のことを思い出して呪文を唱えれば良いのだろう? 約束したことは守るさ」

 本当かどうかは定かではないが、今日春日が来ることを拒まなかったということは、一定の効果があったと受け取って良いのだろうか? 真偽の読めない男である。

「それならそろそろ、俺のことが恋しくなってきたんじゃねぇの?」

「俺の部屋に来られたからと言って、調子に乗らない方が良いぞ。年末には手痛く捨てられるのだからな」

「ちっ」

 思わず舌打ちをしてしまう春日だったが、その可能性は日を追うごとに高まってきているので、何も言い返せない。今日こそ、何か策を練らなければと思いながら昨夜は寝てしまい、今朝はぼんやりする頭で出発準備をするだけだった。

「まぁ座ると良い。コーヒーか?」

「何を言っても紅茶しか出さないくせに」

 ククッ、と喉を鳴らした陸坂は、キッチンの方へ行ってティーカップを食器棚から取り出していた。出されたのはやはりレモンティーだったが、前回とは食器の柄が違う。きっとこれも高級なブランドものなのだろなと思いながら、春日は一息ついた。

「あんたさぁ、俺のこと好きだろ?」

「何を妄想しているんだ? 今日も俺で抜いてきたのか?」

 先週の失言を覚えられていたのに狼狽えた春日は、思わず陸坂から目を逸して怒鳴った。

「そんなワケあるか!!」

 さすがに今日はそんなことはしなかった。とは言え、三日程前にはおかずにさせてもらったので、目を合わせられなかったのだが。

「それは残念。お前こそ、俺に飽きては来ないか? 一週間も顔を見ていないのに、よくもまぁ愛だの恋だの言えるものだな」

「毎日会うだけが恋愛じゃねぇんだよ。会えない時間も楽しめるのか恋愛っつーモンだ。あんたは俺と会えない間、何してたんだよ」

 自分で言いながら恥ずかしくなる持論だったが、春日は片思いは嫌いではない。もともと待つことは苦ではないので、その間にあれこれ想像するのは、案外楽しいものだ。

「知っての通り、俺は仕事ばかりだ。忙しい身なものでな」

「それはそれは、お時間取らせてすみませんね」

「そう思うのなら、早く本題に入れ」

 核心を突かれて、春日は少し怯む。この男も、頭が切れるだけあってか、いちいち鋭い。環のように可愛げがあるわけでもないので、更に質が悪く感じる。

「だから、あんた俺のこと好きだろって言ってんの」

「何をどう解釈すれば、そういう結論を導き出せるのか知りたいものだな」

 陸坂は心底呆れたという顔をして、紅茶を一口飲んだ。

 根拠などない。自信も実はあまりない。それでもこの一週間、陸坂は春日の生活サイクルに合わせたメールに付き合ってくれた。向こうの方から自発的なメールが来ることはなかったが、春日の質問や呟きには反応してくれた。少なくとも、一週間前には考えられなかった距離感だ。だから今日、春日は会いに来た。それだけだ。

「俺があんたのことを前より好きになってるからだよ」

 恋愛では自分を出し惜しみしないのが、春日のモットーだった。駆け引きなどもしない。ただ、自分のまっすぐな思いを偽りなく伝えるだけだ。相手の目を見て、時には手を握って、更には抱きしめて耳元で囁いたりして。

 しかし今は、前回に来た時と同じように、テーブルを挟んで向き合っているだけだったので、相手の目を捉えるだけで精一杯だった。

「それは光栄というか迷惑というか。ああ、ありがたいと思わなければならない場面なのか、ここは」

 顎に手をやって、陸坂は本気で悩んだ顔を見せる。感情のない歪んだ男。やはり春日には、手に負えない相手なのだろうか。手の届かない存在なのだろうか。

 クリスマスの予定など訊けるわけがなかったし、平日なので当然仕事に決まっている。夜は空くのだろうが、その時間帯は春日が仕事だ。性格や考え方だけでなく、時間も行動もすれ違ってしまう。共通点も未だに見出だせないし、何故自分がこんなにも陸坂に惹かれるのか、説明がつかなかった。

 しかし、理論的に解釈できないのが恋愛だと春日は思っている。すべて的確な証明がなければ信じない陸坂と違って、フィーリングで生きているのだ。豊かな感受性で相手のことを慮ってきたつもりだが、本当のところは環の言う通り、相手の意志を尊重すると言いながら逃げてきたのかも知れない。

「……そちらへ移っても構わんか?」

「?」

 座る位置のことだと把握するのに、少し時間がかかった。もちろんここは陸坂の部屋だ。自分は客どころか、押しかけてきた迷惑者でしかない。

「あんたの家なんだから、好きにしたらいいじゃん」

「それでは」

 言って陸坂は、先週のように春日の隣に腰掛けた。また押し倒されるのではないかと構えかけたが、それならそれで構わないという気持ちの方が大きかった。

「お前は、何故諦めない?」

 隣に座られては目を見ることができないことに気付いた。陸坂の狙いがそれなのかどうかはわからない。ただ、春日が一層不利になったことは間違いなかった。

 仕方なく、春日も正面を見据えながら答える。

「俺は、諦めるとか、運命に任せるとか、そういうのが嫌いなんだよ。誰かの言う通りに動かされるとか、掌で弄ばれるとか、我慢ならない。何でも自分で決めて、できることは自分でやりたい」

「それでもできなかったら?」

「信用の置ける奴に協力を頼むか、口の固い人に相談してみる」

 脳裏には環とマスターの顔が浮かんだ。

「そんな相手がいるのだな」

「数はいないけど、質はいいよ」

 今の春日には、この二人だけが砦だ。ゲイの友人もいるにはいるが、腹を割って話せる仲ではないし、どちらかというと、口説かれる対象としてしか見られていない気もする。

(俺って友だちいないなぁ……)

 改めて思ったが、陸坂に比べれば、たった二人だけでも心の中をさらけ出せる相手がいるということは幸せなのだろうと思う。自分を偽らなければいけない人生など、何が楽しいものか。そこで友人ができようとも、それは本物とは言えない。

「そんな相手がいるくせに、何故俺に構う?」

「恋愛は別だろ。頼ったり相談したりする相手に、必ずしも恋愛感情を抱いてるわけじゃない。でも、恋愛感情を抱いてる奴には、頼ったり相談したりしたい。当然されたりもしたい」

 陸坂は無言で少し上を見上げた。何を考えているのかは読み取れないが、春日も同じようにしてみた。向かい側の壁と天井の境目が見えるだけだったが。

「恋愛対象の相手には、何をされても良いのか?」

「それは人にもよるんだろうけど、俺はそうだね。頼られたいし、甘えられたいし、ワガママ言われるのもいい。ケンカだってしてもいいし、仲直りはもっとしたい」

 自然と、春日の表情は笑顔になっていた。横目でそれを盗み見て、陸坂は不思議に思う。恋愛とはそんなに幸福感を得られるものなのだろうか、と。

「俺はさぁ、初めはあんたを振り向かせてやるってことだけに意地になってたよ。けど、なんだか知らないけど俺は、こんな意地悪でいけ好かなくて頑固で人生を放棄してるあんたを、いつの間にか本気で好きになってた。最初は変装バージョンだったし、中身があんただって知ってむかっ腹も立ったけど、やっぱり俺の目には狂いがなかったって思った」

 正面を見つめて微笑みながら春日は続ける。

「あんたは絶対可愛い奴だよ。自分に素直になったらもっとさ」

 ──自分に素直に。

 いつだったか、環に言われたセリフだ。そう、今春日はとても自分に素直になっている。どこまで陸坂に伝わるかはわからないし、頭ごなしに鼻で笑われるだけかも知れない。それでも今、言いたいことを言っておかなければならない気がした。もしかしたら、陸坂に会うのは今日で最後になるかも知れないと思ったから。約束した日までまだあと二週間あるが、今日でダメならもう無理かも知れない。

 いつになく弱気な春日だったが、逆にその覚悟が力に変わった。

「確かに俺は、自分に素直になど生きたことはないかも知れないな」

 思いがけず隣から反応が返ってきたので、春日は陸坂を見てしまった。彼はまだ正面の斜め上を見つめている。一体そこに何が見えるのだろうか?

「それどころか、何が自分の素直なのかがわからなくなっていた。自分がしたいことは何なのか、自分の進みたい道はどちらなのか。考えるまでもなく行うべきことはそこにあったし、道も開かれていた」

 そうなのだろう。実力はどうだか知らないが、金も権力もある父親を持つエリートの彼なら、反発することもなく受け入れたのかも知れないし、受け入れざるを得ない状況に置かれていたのかも知れない。穏やかな母親と優しい弟を奪われる以前から。

「だからお前が俺に声を掛けてきた時、自信満々な顔を見て腹が立った。お前はどんな困難があっても、それを乗り越えてきた奴の目をしている。それが俺には我慢ならない」

 確かに〈シュウ〉に声を掛けた時は、自信満々だったかも知れない。こういうタイプはきっと墜ちると期待していたのは確かだ。

 しかし、困難を乗り越えてきた奴の目、というのはよくわからなかった。

 確かに春日はこれまで、決して平坦な道を歩んできたわけではない。自分がゲイだということで、高校生の頃には〈オカマ〉と呼ばれたりしたし、それで家族に迷惑を掛けたくなくて、大学にも行かずに家出同然に飛び出してきた。今の暮らしがあるのはマスターの慈悲のおかげだが、ここに落ち着くまでは、あまり人に言いたくないような、とても言えないような生き方をした時期がないでもない。

 しかし春日はそれを「困難」とは考えていなかった。目の前に壁があるなら、壊すなりよじ登るなり回り道をするなり、避ける方法はいくつかある。それを昔から肌で感じていたから、春日は「諦める」という選択肢を選ばなかっただけだ。

「お前には怖いものはないのか?」

 ようやく、陸坂が春日の方に顔を向けた。目が合う。その中には確かに自分が映っていて、多分自分の目の中には陸坂が映っているのが彼にも見えているはずだ。

「あるに決まってんじゃん。世の中怖いものだらけだよ。仕事を失うのは怖いし、住むところがなくなるのも怖い。友だちを失くすのも怖いし、あとそうだな、また骨折するのも怖いね」

 少し笑いながら春日は答えた。陸坂は眉間にしわを寄せて、そんな春日を睨む。

「俺は本気で訊いているんだ」

「俺も本気で答えてるよ。あんたは仕事も家も失わないだろうからわかんねぇかも知れないけど、一般人がそれを守るのはすげぇ大変なことなんだぜ? あんたも医者なんだからニュースくらいは見るだろ? 仕事が辛くて首を括った奴もいれば、リストラされて家族全員で無理心中って奴もいる。学校でいじめを受けて電車に飛び込む学生もいれば、わざわざ学校の屋上から飛び降りる子供までいるんだ」

 陸坂は妙に納得した顔になり、黙ってしまった。静かにしていれば、やはり整った顔立ちをしている。物憂げな表情も悪くないな、などと春日はこんな会話の最中なのに、不謹慎にも考えて可愛らしく思ってしまう。

「だからさぁ、あんたが今の道を踏み外した時が心配なんだよ。多分血も涙もなさそうな父親の院長は、簡単にあんたを見限るだろうな。その時、あんたには行くアテがあるのか? 母親と弟の居場所は知ってるのか? そこに救いを求めに行くために、プライドを捨てる覚悟はあるのか?」

 矢継ぎ早に言った春日の問いに、陸坂は初めてそんな考えに思い至ったようだった。本当に、自分はこの決められたレールから外れることはないと信じていたのだろう。

「絶対失敗しない人生なんかない。あんたは優秀だから、今の病院が潰れてもやっていけるかも知れないけどな。それでも多分、この部屋は手放さないといけないだろうし、世間から哀れみの目で見られるだろうさ。それに絶えられるだけの苦労を、あんたはしてきたか?」

「……」

 陸坂は何も言えなかった。頭の中に思い浮かぶ言葉もなかったし、春日を論破できるような正当なセリフも出てこない。

 こんな相手にうまく言いくるめられているようで納得がいかなかったが、それより何より、今の自分に腹が立った。

「……それで、もしも俺がお前のものになれば、お前が俺を救ってくれると言うわけか? だからお前を好きになれと?」

 せいぜい吐けた毒は、これだけだった。

「救えるかどうかはわからねぇよ。俺が救ったつもりでも、あんたが救われたと思わなかったらそれは救えなかったのと同じことだし。けど、一人じゃないっていうのは案外心強いもんでさ。家なら俺と一緒に住めばいいし、医師免許さえ持ってりゃ、次の仕事も見つかるだろ。メシなら俺が作ってやるよ。あんた何もできなさそうだからな」

 ははっ、と春日は笑う。接客用の春日スマイルではなく、環やマスターにしか見せない、本物の笑顔。これはこれで素晴らしい笑顔なのだが、若干幼く可愛らしく見られてしまうので、普段は口を開けて笑ったりはしないのだ。

「お前といると楽しいのか?」

「少なくとも、今のあんたよりはいいと思うぜ」

「お前といると何か良いことがあるのか?」

「時間があればイチャイチャして、気持ちよくさせてやるよ──なんてな。ま、まずはマスターと俺の友だちを紹介してやる」

「お前を好きになると俺はどうなるんだ?」

「ずっと離れたくなくなるんじゃね? もっと性格も穏やかになるだろうし、人の話も聞くようになると思うけどな」

 屈託のない笑顔を陸坂に向け、春日は自信満々に言う。何の根拠もない断言に、陸坂はまだ不満があるようだったが、不意に陸坂が春日に抱きついた。

「え?」

 まさかそう来るとは思わなかったので、春日は倒れそうになりながらもなんとか受け止めた。陸坂は見た目より上半身の重みはあるようだ。

「俺はお前が怖い」

 言葉とは裏腹に、陸坂は春日の背中に両腕を回してくる。グイッと引き寄せられて、両腕の自由を奪われた。これでは抱き返すこともできない。

「お前は俺にないものをたくさん持っている。俺が今まで憧れもしなかったものを、さも自慢げに大事にしている。何より、この本物の俺のことを好きだと言う」

「あんただって俺の持ってないものをいっぱい持ってるじゃん。誰だってないものねだりなもんだろ」

「お前は俺のことを好きだと言う」

 陸坂はもう一度繰り返した。

「ああ、好きだよ。変装してようがしていまいが、あんたはあんただ。俺はどんなあんたでも好きだ」

「そんな言葉を信じられると思っているのか? 言葉など何の証明にもならず、言った言わないの水掛け論になるばかりで、不安定で不確かなものでしかないのに」

「じゃあ婚姻届でも出すか? 法律で守られてるなら、安心できるだろ?」

「バカも休み休み言え」

 ぎゅうっと陸坂の両腕の締め付けが強くなる。そんなに強く抱き締めなくても、春日は逃げも隠れもしないのに。

「……俺を、抱けるか?」

「当たり前だろ。こちとらそっちが専門だ」

「なら……抱かせない」

「意地っ張りだねぇ。そういうとこも、嫌いじゃないんだけどさ」

 陸坂の両腕がようやく春日を解放した。代わりに春日は自由になった両腕で、陸坂の首をかき抱く。頬にそっと口付ける。初めて〈シュウ〉に出会った時のように。

「あと二週間、頑張って約束実行してくれよな。そしたらあんたをかっ攫うから」

「たいした自信だな」

 陸坂は気が楽になったのか、やや毒気が抜けたような笑みを浮かべた。多分この笑顔は春日しか知らないはずだ。

「まぁ良い。しかし来週は来るな。予定がある」

「そっか。まぁ、メールは付き合えよ」

「時間があればな」

 この部屋で会えなくても、病院に行けば会えるだろう。そう思って春日は、重い腰を上げた。

「一時間経ったら、また俺のこと思い出してくれよな」

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