第11話

 週明けまで毎日熱心にリハビリに通い、バリバリと仕事をこなした。こんな時に限って環は来ない。タイミングが良いのか悪いのか……しかし今会っても、何食わぬ顔で陸坂と会うことを打ち明けられる自信がなかった。

 きっと環なら言うだろう。

「春日ちゃん、恋しちゃってるね」

 否定する言葉は出てこない。だから環には事後報告の方が良いのかも知れない。

 十二月に入ってすぐの火曜日、春日は久々にお洒落をしてみた。普段はバーの制服かスウェットの生活だったし、出掛けるのは久し振りだ。しかも今日は、あの陸坂のマンションを訪問するのである。イタリアだかフランスだかの高級なシャツをさりげなく着こなして、同じく高級ブランドのパンツなどを履いて裸足で毛足の長い絨毯の上を歩いている……そんな想像しか春日には思い浮かばなかった。

 自分が持っている洋服は決して高価なブランドものではなかったが、センスは人並みにあるつもりだ。ひと目見て気に入り、多分持っている衣類の中では一番高かったと思われるビンテージもののジーンズを履き、わりときちんとしたワインレッドのシャツにカジュアルなグレーのニットのパーカーを合わせる。案外暑がりな春日だったので、上着は薄手で丈の短いオフホワイトのコートを羽織った。お気に入りのスタイルだ。黒ベースのスニーカーを履き、鍵を締めたことを確認してアパートの階段を下りる。

 最後に鏡で自分の完成度を確認した時、根元の黒くなった金髪をどうにかしておけば良かったと多少後悔したものの、とりあえず後ろ髪を結んでピアスのキャッチを確認した。

「これなら問題ねーだろ」

 脳内の陸坂に挑むように呟いて、山の手の方向に歩き出す。残念ながら、運転免許は持っているものの、車やバイクどころか自転車も持っていない春日だったので、徒歩しか交通手段がなかった。最寄り駅は同じだし、駅の反対側の斜面を上っていけば、そんなに遠い距離ではない。松葉杖でもなくなったし、自分の足で歩けば、二十分程度で着くはずだった。

 それでも十三時三十分前には自宅を出て余裕を持たせる。時間と自分の心に。

 しかしこれまで山の手の方面には縁がなかったので、思ったよりも傾斜がきついことに驚いた。自転車なら徒歩より辛いだろう。今なら電動自転車というものがあるが、それこそ春日には縁がない。あれは子供を保育園に連れて行くママさんの乗り物だと思っている。

 時計を見ると、既に十分が経過していた。一応テーピングをしてあるので、足首の状態には問題はなかったが、なかなかに反抗的な上り坂が続く。

「あいつ、こないだ歩いてたよな? 行きはいいけど、帰りはどうしてんだよ。迎えでも来んのかよ、まったく」

 どうでも良いことを呟きながら、春日はなんとか一番の急勾配を乗り越える。

 陸坂の住むタワーマンションは、とっくに視界に入っているのだが、なかなかその麓には辿り着けない。このもどかしさは、なんとなく春日と陸坂の心の距離のようだった。

 ともかく上り坂を乗り越えてようやく普通に歩ける道を歩いていくと、錚々たるタワーマンションが鎮座しているのがすぐそこに見えた。山の手の、しかも結構な高地に建つのだから、低層階でも十分なステータスを持てる場所である。その最上階に住んでいる陸坂の年収はいかほどのものなのだろうか? 別に陸坂の持つ金に興味があるわけではないが、金持ちぶりをアピールするかのような悪趣味さには少し気が引けた。

 しかしその悪趣味なイメージのマンションの内装は、案外スマートだった。見える限り、ホテルのフロントのような瀟洒な雰囲気を漂わせてはいるが、「いかにも豪邸です!」というような主張は感じられない。一階のフロアに置かれているソファは高価そうだが落ち着いた濃いグレーで温かみがあるし、壁の色は汚れのないオフホワイト。

 通常のマンションで言う管理人の役目を務めているのであろう二人の若い女が、フロントのような広いスペースに受付嬢のように座っている。多分宅配物を預かってくれたり、クリーニングを出しておいてくれたりするサービスを請け負っているのだろう。そういうマンションがあるということを、以前雑誌か何かで読んだことがあるような気がする。

 ともかくまずは目の前のガラスの扉を開けてもらわなければならない。そのためには、目の前にある数字のボタンが配置されている銀色のプレートに、陸坂の部屋番号を入力しなければならない。もちろん今更メールを確認するまでもなく覚えてはいるが、春日の指が震えたのは、マンションの美しさに圧倒されたからではなかった。

 多分、これを押すと陸坂の声が聞こえてロックが解除されるはずだ。パネルの横にこれ見よがしについているカメラで、こちらの顔も確認できるのだろう。そう思うと、なかなか呼び出しボタンを押せない。しかし、中から受付の女が二人とも不審そうにこちらを見ているので、いつまでもそこに突っ立ってはいられなかった。

「ええい、畜生!」

 覚えている四桁の番号を入力し、〈呼出〉のボタンを押した瞬間、背を向けて立ち去りたくなった。ぐっと堪えて歯を食いしばる。

「──入れ」

 ククッ、と笑いを堪えるような陸坂の短い声が聞こえて、扉が自動的に開いた。多分カメラに今の春日の姿が映っていたのだろう。

 もう陸坂からは見えていないのに、ムスッとした顔で中に入り、エレベーターの前に立つ。カゴは一階を示しているのに、扉は開かない。

「?」

 不思議に思って受付嬢に訊こうと振り返ると、一人の女が真後ろに立っていて驚いた。

「お客様ですか?」

「あ、はい」

 女装姿の環を見慣れているとは言え、女の匂いがプンプンする本物の女は苦手な春日は、短く答えてなるべく呼吸を減らす。女は独特の匂いがして、やっぱり好きになれない。

 緊張の糸がまだ途切れていないせいか、いつもの春日スマイルを返す余裕もなかった。

「失礼ですが、何階へのご訪問でしょうか」

「四十六階です」

 もう笑顔で返すのはやめることにして、本音の引きつった顔で返答する。

(あー、早くしてくれよ)

 女の匂いを嗅ぎたくなくて、最低限の呼吸しかしていない春日は、少々苦しくなってきた。

「承知いたしました」

 受付嬢がそう言って何かカードのようなものをかざすと、エレベーターの扉が開いた。そして四十七階を示すボタンを押すと、春日に乗るように促し、扉が閉まるまで十五度の角度の会釈をキープしていた。

「……うはぁ」

 エレベーターの中でようやく呼吸を改め、春日はパネルに表示されている数字を眺めていた。案外速度が早く、思ったよりも早く目指す階に着く。チン、と高い音を立ててエレベーターの扉が開いた。このままエレベーターから下りなければカゴは一階に戻り、また受付嬢に不審な目で見られるだろうし、春日が今頃部屋に着くことも陸坂にわかっているのだから、もう逃げられない。携帯電話の画面を見ると、十四時の五分前である。

「くっそ、どうにでもなれ!」

 陸坂の部屋は探すまでもなかった。何しろ、四十六階というフロアには一つの部屋しかなかったのだから。

「なんつー無駄遣い……」

 思わず春日は呟いて、金持ちの感覚を疑ってしまう。独り身の男が住まうには広すぎるのではないだろうか。他の階は何部屋あるのかは知らないが、とりあえず陸坂はタワーマンションの最上階のワンフロアを独り占めしているということになる。自分なら多分キッチンと寝室にしか入らないだろうな、などと考えながら、部屋の前のインターホンを押した。想像していたより普通の音がしたが、そこから声は聞こえてこない。その代わりに、直接部屋の扉が開いた。

「ようこそ」

 相変わらず口唇の端を上げた笑みを浮かべて、陸坂の顔が覗く。

「どうも」

 ため息とともに春日は応える。ここへ来てようやく緊張の糸が緩んだ。

「入れ」

「お邪魔します、っと」

 春日は目を疑った。陸坂が着ているのはバスローブのようなもので、まだ髪が濡れている。春日がこの時間に来るとわかっていて、ギリギリまで優雅にシャワーなど浴びていたのか。水は滴っていないが、相変わらず良い男である。

 しかしまさかそんな格好で迎えられるとは思わなかったので、春日はつい声を上げてしまった。

「何、あんた髪も乾かしてないの?」

「ああ、まさか本当に来るとは思わなかったのでな」

「嘘つけ」

「ふふん」

 ともかく招かれるままに春日は新境地に踏み入った。短い廊下の先にはだだっ広いLDKがあり、そこに置かれているのは薄型テレビと高価そうなオーディオ、小さめのテーブルと柔らかそうな三人掛けのソファくらいのものだった。そのものの少なさのせいか、ただでさえ広い部屋が途方もなく大きく見える。右手の方の扉の向こうは寝室でもあるのだろうか。キッチンとリビングだけでこの広さなので、他の部屋がどれくらいの広さでいくつあるのかもわからない。

 部屋にものが少ないのは春日も同様だったが、そもそも部屋の広さが違うので比較にならない。とにかくこちらはあまりにも殺風景だった。春日が想像していたような毛足の長い絨毯はなく、その部屋の床は濃い茶色のフローリングのままだった。しかし床暖房でもあるのか、冷たくはない。ついでに部屋も程良い温度と湿度が保たれていて、春日は上着を脱ぐ。

 陸坂が着ているのがバスローブなため、普段はどんな服装をしているのかはまだわからない。とりあえず髪を乾かして服を着替えるのを待とうと思った春日は、陸坂を振り向いて訊いた。

「ソファとか、座っていいの?」

「好きなところに座れば良い。床が良ければそれでも構わないぞ」

「うるせぇ」

 いちいち嫌味な奴だと思いながら、見ただけで座り心地の良さそうなソファに座ってみる。思った通り、尻から包まれるような感触で、非常に座りやすくて気持ちが良かった。さすがにここで横になってみたいという欲望は抑える。きっと貧乏人丸出しな感じがして、また陸坂に笑われるか、バカにされるだけだろう。

「コーヒーは飲めるか?」

「飲めるに決まってんだろ。人を何だと思ってんだよ」

「じゃあブラックで良いな」

「はいはい」

 実のところ、ブラックコーヒーはあまり好きではない。ついでに春日は紅茶派だ。しかしまぁ、陸坂自らコーヒーを淹れてくれると言うのなら、何でも良いと言うしかない。こちらは一応客人だし、住人に注文をつけられる立場ではないだろう。春日なりの遠慮である。

 しかし実際に出されたのは、上品で高級そうなティーカップに入って、レモンを浮かべた紅茶だった。二つの角砂糖とスプーンも添えられている。

「コーヒーって言わなかったっけ?」

 ブラックコーヒーが苦手なことを察せられたような気がして、春日はちらりと陸坂を見る。その手には春日に出したのと同じティーカップが持たれていた。

「俺が紅茶派なのでな」

 意外なところで趣味が合ってしまった。

 陸坂は自分の分のティーカップをテーブルに置き、春日の向かい側に置かれた一人用のソファに落ち着いた。多分いつもの定位置なのだろう。

 陸坂のティーカップの横には、角砂糖もスプーンもない。ストレートが好きなのだろうか。春日は角砂糖を一つカップに入れ、スプーンで混ぜた。

(どうせ美味いんだろうなぁ)

 フランスだかイギリスだかから取り寄せた高級茶葉なのだろうと、春日の先入観が告げる。口元に運ぶだけで良い香りが鼻腔をくすぐった。味は言うまでもなく美味しい。陸坂がストレートを好むのもわかった。本来は紅茶に砂糖を入れるなど邪道なのだろうが、珍しく陸坂はそこを突っ込んでは来なかった。黙って紅茶を味わっている。

 部屋の殺風景さと、無言の陸坂の圧力に、春日は思わず身体が萎縮してしまう。昔から特別親しい友人もいなかったため、ほとんど他人の家に入ったことがない。付き合った男の家には何度か招かれたことはあるが、さすがにこの部屋は異世界だった。

「何だ、話さないのか?」

 不意に陸坂が言う。身の置き場に困っていた春日は、部屋を見渡すか紅茶をすするかしかできずにいた。急に何か話せと言われても困る。

「あんたが来いっつったんだろうが」

「お前が行っても良いかと寄越したんだろうが」

 そうだった。遊び半分で返したメールに陸坂はOKと応えただけだ。それでのこのこやって来た春日の方が、俄然不利なのである。

「えーと……」

 別に何か話したいことがあったわけではない。正直に言うなら、陸坂の住む場所に興味があったというところか。しかしそんなことは口が裂けても言えない。また鼻で笑われるだけだろう。

「こんな広い部屋で一人暮らしなわけ?」

「そうだが?」

 陸坂は「何か問題でも?」と言いたげな目を向ける。やはり金持ちの感覚はわからない。

「掃除とか大変じゃね? メシとかどうしてんの?」

「掃除など、フロントの他人がやってくれる。食事はほとんど外で済ませる」

 下の受付嬢はそんな仕事も請け負うのかと、春日は感心した。フロントには二人しかいなかったが、きっと住人を満足させるためのサービスを行う人材が、どこかに多く待機しているのだろう。

「たまにはコンビニ弁当も悪くないしな」

 陸坂は、ククッ、と噛み締めたような笑い声を漏らす。きっとその時は、あのボサ髪ダサ眼鏡で行くのだろう。想像してみたが、あまりにも普通すぎて何も思わなかった。

 春日の興味の対象が、明らかに〈シュウ〉から〈陸坂〉にシフトしていることに、しかし本人はまだ気付いてはいない。

「あんた、ジムにでも通ってんの?」

「二階にジムが併設されているので、そこをたまに使っている。二十四時間開いているからな」

 だからあの身体がキープされているのか。医師ともなると、忙しくてジムなどに通う時間もないだろうと考えて不思議に思っていたが、自分の住む建物の中にあるのなら、いつでも通えるわけだ。

「そりゃ便利だ。いいご身分だな」

「生活には不自由はないと言っただろう?」

 まぁそういう意味では不自由はないのだろう。この部屋からは確認できないが、風呂もバスタブも大きくて、長身の陸坂でもリラックスできるに違いない。

「院長はともかく、あんたの母親はどうしてんだ?」

「質問ばかりだな、お前は」

 陸坂に興味があるから、自然と質問責めになってしまっているのだろうか。しかし、話題に困った時は質問をしていれば、その場しのぎはできると春日は知っていた。相手が聞いて欲しそうな質問を汲み取ることは下手ではなかったし、これまでそれで困ったこともない。環と出会った時は、自分が質問ばかりされていたが、そのせいか初対面で五時間も同席し続けられたのだ。

 しかし、陸坂に母親の話題を振ることは、彼にとって都合の良くないことだったようだ。気の向くままに無遠慮な質問をしてしまったことを、思わず春日は悔いる。だから、付け加えた。

「別に嫌なら答えなくていいんだけど」

「それはお優しいことで」

 陸坂は苦虫を噛み潰したような不機嫌な顔になる。病院内では決して見せなかった表情だ。多分、こんな様子の陸坂を見たことのある人間はそう多くはないだろう。

「それでは、少し可哀想な男の話をしてやろうか」

 嫌味っぽく言った陸坂は、他人事のように語り始めた。

「ある男には、七年前まで母親がいた」

 亡くなったのだろうかと感じて、春日は少し申し訳なくなった。しかし、そうではない。

「しかし昔から両親は不仲で、五歳離れた弟が高校を卒業するなり離婚した」

 そうして大学へ行かずに高卒で仕事に就いた弟と、喧嘩の絶えなかった母親をまとめて家から追い出し、有名国立大学の医学部に通っていた長男だけを父親が引き取った。もともと優しく穏やかな母親と違い、口うるさく勉強や交友関係、プライベートの過ごし方にまで干渉してくる父親に厳しくしつけられた長男は、立派な医師になった。そしてその中で、いかに母親がダメな女で、そんな母親に甘やかされて育った弟も、いかに出来が悪いかということを滾々と聞かされ続けているうちに、長男は女が恋愛対象ではなくなった。かと言って男が恋愛対象というわけではなく、恋愛感情というものそのものを失くした。交友関係も制限されていたため、優秀で将来性のある若者と付き合うように指示され、しかしそんな遊びの友情ごっこも程々にして、立派な医師であることを強要され続けた。

「そうして男は間もなく新しい家庭を持つことになり、残り少ない自由な時間を一人の男で遊ぶことに費やすことにしたのだとさ」

 つまりその長男というのは陸坂本人のことであり、遊ぶことにした相手は春日だということだ。

「……可哀想な男だな」

「そうだろう? 母親など憎むべき存在で、あれから自分が生まれたのだと思うと怖気立つのに、自分もどこかの女に子供を産ませなければならないという矛盾を受け入れなければならない」

「そうやって育てた出来のいい息子を引き取って、あんたもそのうち女と離婚して捨てるのか?」

 明らかに不機嫌な態度の春日を見て、陸坂はまた口唇の端を片方だけ上げて笑う。病院では完璧なまでの爽快な笑顔を振りまいているのに、春日にだけはそれを見せない。

「さぁ? 相手によるだろうし、上からの命令にもよるのだろうな」

「上からの命令って……」

 やはり、歪んでいるのだ。陸坂の父親である院長はもちろん、そんな男に育てられた陸坂もまた、歪なのである。

「弟の名前は優介。母親に似て優しい男だったが、兄の方が名前の通り秀でていた。だから選ばれた」

「あんたが選ばれた? 利用されたの間違いじゃないのか?」

「俺にとってはどちらも同じことだ」

「……」

 春日の中に何か釈然としないものが渦巻いていた。

 別に陸坂がどんな人生を送ろうと自分には関係ないし、ここで勝負を下りるのは少し腹立たしいが、プライドを気にしてまで陸坂を〈こちら側〉に戻って来させる義務もない。ここで「もういい、好きにしろよ」と春日が背を向けて帰っても、「やはりな」とか「お前も同じか」とかいう嫌味を言われる程度だろう。陸坂は去る者は追わないし、春日も多少ムカつくことを言われようとも、これ以上陸坂に関わり続けるよりは良いのだと思う。お互いにとって。

 それなのに春日がそうできないのは、陸坂の目がまだ死んでいないからだった。助けを求めている、と受け取ったなら、きっと陸坂に一蹴されるのだろうけれど、春日は陸坂が〈シュウ〉の姿の時に、瓶底眼鏡を掛けていたことを思い出した。

 キレイな目だから目立つということもあるのだろうけれど、それなら普通の伊達眼鏡で良いはずだ。絶望の淵に立ち続ける自分の目の奥を見られたくないからこその、あの瓶底眼鏡なのではないだろうか? などと春日は深読みしてしまう。

 せっかくの心地良いソファの感覚が、柔らかすぎて何故だか不安定な場所に変わった気がした。

「それで、その相手の男とはどうやって遊んでくれるんだろうな?」

 精一杯強がった声と顔で、春日は陸坂を睨みつける。他に言葉が見つからなかったし、これ以上歪んだ陸坂の生い立ちを聞く気持ちにもなれなかった。

 あんなに可愛らしかった〈シュウ〉が、こんな大きな闇を抱えて、今にも呑まれそうになっている。しかし今春日が手を差し伸べたいと思ったのは陸坂だった。〈シュウ〉ならこんなに苦労はしていないはずだ。優介という優しい弟なら、こんなにも苦しむまい。陸坂秀平だからこそ、こんなふうに育てられたことにも疑問を抱かず、決められたレールの上を走ることにも疑問を感じないのだ。そして万一このレールから外れた時に、自分がどうしたら良いのかも考えず、それどころかこの決められたレールは強固で安全で、決して脱線しないと信じている。まるで何かを、例えば父親の教えを、信仰するかのように。

 人は人生に行き詰まった時や、不安に取り込まれた時、何かを失った時に、宗教に走りやすいと言う。自分の中にぽっかりと空いた穴を埋めるかのように無心に祈り、金を積み、講釈を聞き、物を買う。そんなもので心の傷が癒せるわけもないのに、救われた気持ちになっている。

 陸坂はいつどこで大事なものを失くしたのだろうか。それとも、そもそもそんなものさえ最初から持たせてもらえなかったのだろうか。

「お前は俺に何を求めているんだ?」

 逆に陸坂に訊かれる。

 春日が陸坂に求めていること? 〈シュウ〉のままだったなら、付き合って手をつないでデートをしてキスをして……という、テンプレート通りの順序で交際を進めたいと考えていた。しかし、今春日が相手にしているのは陸坂である。恋愛感情もないのに、落とすと宣言してしまった相手──なのだがしかし、春日は先日の自分の醜態を思い出した。

(俺、こいつで三回も抜いたんだっけ……)

 思わず赤面しそうになり、努めて平静を装う。タイトなジーンズを履いてきて正解だった。スウェットだったなら、とっくに股間にテントができているところだ。

「ああ、俺はゲイだからね。あんたの身体が欲しいね。肩書きも顔もいらねぇよ。ただあんたが俺の下で喘ぐ姿を見てみたいぜ」

 わざと、そんな言葉を吐いてみる。陸坂は表情を変えない。

「それは残念だ。俺がお前の下に組み敷かれることはないだろうからな」

 スッと陸坂は自分のソファから立ち上がり、春日の隣に腰掛けた。思わず春日の心臓が警鐘を鳴らす。しかし春日には逃げ場がなかったし、陸坂と距離を置くためには少し動くのが遅かった。

 たちまち春日は陸坂の左手で前髪を掴まれて顔を上げさせられ、それを辞めさせようとする左手ももう片方の手で遮られた。当然また陸坂の口唇が春日に重ねられる。

(また……!)

 すぐに舌が入ってきて、巧みに絡ませられる。全身から力が抜けそうな程にしびれたが、ほんの少し残ったプライドだけで、なんとか春日は目を開けて陸坂を睨んだ。目が合う。舌を吸われたり甘噛みされたりして、陸坂のテクニックを存分に披露された。本来ならこれは自分の役目だ。

 ほんの少しでも意識を持っていかれたなら、春日はなし崩し的に陸坂に堕ちていくであろうことを悟っていた。目をしっかり見開いて、陸坂を睨みつけることだけで意識を保っている。口唇の柔らかい感触が、絡まる舌の温もりが、春日を何度も〈あちら側〉へと誘った。

「ふん、さすがゲイを自慢するだけあって、意志だけは強そうだな」

「自慢なんかしてねーよ」

 一度口唇を離されたおかげで、何とか春日に余裕が戻った。ここは自分から攻めるしかない。空いた右手で春日は陸坂の髪を同じように掴んだ。そのまま力任せに押し倒す。思ったより簡単に陸坂は後ろに倒れたが、ついでに腕を握られていた春日は陸坂の上に折り重なる格好になった。長い後ろ髪が肩から前に流れてくる。毛先が陸坂の頬に触れた。

「これで満足か?」

 わざと一緒に倒れたのだ、と春日は気付かされる。どこまでも小賢しい男だ。

「上から俺を眺めるのは、そんなに気持ちが良いのか?」

「そうだな、もっと無防備な顔してくれたら最高なんだけど」

 ニヤリと微笑んだ春日は、すかさず陸坂の首筋に齧り付いた。春日が付けられたキスマークはとうに消えていたが、陸坂の首筋にキスマークなどがあれば、病院中が大騒ぎになるかも知れない。そんな意地の悪い気持ちでいたのだったが、あっさりと春日の両肩が持ち上げられ、首筋から遠退かされてしまう。

「商売道具に傷を付けられてはかなわんな」

「あんたはしたくせに」

「お前はそんなものは日常茶飯事なのだろう?」

 実は一年以上男と寝ていない、などとは当然言えず、春日は「うるせぇ」とだけ言った。

「こちらも客商売なんでね。この顔目当ての客もたくさんいるんだよ。大事な商売道具だっての」

「それは失敬。そう言えばお前もそこそこ整った顔立ちをしているな」

 今始めて気付いたような、そして明らかに「俺には劣るがな」とでも言いたそうに、陸坂はニヤリと笑う。

「あんた、視線には敏感だろ」

「急に何を言い出すかと思えば」

「だってこないだ、アパートの二階から見てた俺に気付いたじゃねーか」

「おかげさまで、常に人目にさらされる身分なものでな。ストーカーに命でも狙われたらかなわない」

 どこまで冗談なのか線引きの難しい言葉が返ってくる。ここでも、陸坂の立場というものを思い知らされた。

「それで? この次は何をしたいんだ?」

 陸坂は春日の両肩を持ち上げたまま、不敵に微笑む。

「あんた、男と寝たこともあるのかよ」

 そんなこと気に掛けても仕方がないのに、ましてや自分も他人のことをとやかく言えた立場でもないのに、まるで初恋相手の貞操を確認するようなことを言ってしまう。どうかそうであって欲しくないと、心の隅で思いながら。

「セックスをしたかと訊かれているのなら、答えはノーだ。まぁ、お前のように遊んでやった程度ならあるがな」

 女とはもちろんあるのだろう。まさか三十歳手前で童貞ということはあるまいし、陸坂なら相手にこと欠くまい。しかしまぁ、副院長で美形医師が遊び歩いているという噂が立てば肩身の狭いことになるだろうから、それなりに、というところだろうか。

「じゃあ俺が初めてってわけだ」

「それは勝利宣言か? 残念ながら、俺はお前に組み敷かれたりはしないと言っただろうが」

 言うなり陸坂はまた春日の両肩に置いた腕に力を込め、あっという間に起こしてしまった。一応二人はソファの上で対峙している格好になるが、またしても不利な体勢になる。このまま反対側に押し倒されるなどたまらない。今度こそ理性を保てる自信がなかった。

 陸坂がいったん春日の肩から手を離した隙に、春日は陸坂の首筋に抱きついた。キスマークを付けるためではない。顔が見えなければ、〈シュウ〉を感じられると思ったのだ。

 初めて出会った日はダボダボのスーツを着ていたせいで、陸坂医師の時のように、一発でその体型や鍛えられた筋肉を見破ることができなかった。身長だけは高いが、もっと華奢で、抱き締めたら壊れてしまいそうな気がしていたのに、今顔を見ずに抱きしめている男はガッシリしていて、とても腕力では敵いそうになかった。春日はあまりにも〈シュウ〉を理想化し過ぎていたのだろうか。それでも陸坂から離れられないのは、〈可哀想な男の話〉を聞いたからなのか。春日に同情心があるわけではないし、陸坂もそんなものは求めていないだろうに、久々に男を抱き締めた心地良さのせいか、春日に回した手を解けなかった。それどころか、もっと力を込めてしまう。

 来る者は拒まずと言うだけあってか、陸坂はされるがままだ。このままなら身の危険もないと判断したのかも知れない。

「……寂しいだろ?」

 そのままの姿勢で、独り言のように春日は呟く。陸坂の耳元に近いため、もちろん相手には聞こえていたが。

「まさか」

 今、陸坂がどんな顔をしているのかは見えないが、声は落ち着いていて、意地を張っているようには聞こえなかったし、茶化しているふうでもなかった。

「寂しいのはお前だろう」

「そうかもな」

 春日は素直に認める。長らく男と付き合っていなかったからではない。陸坂が寂しい空気を運んで来るのだ。それに感染して、発生源よりも春日の方の哀しみが増す。

「なぁあんたさ。俺のどこが嫌いなの」

「別に嫌ってはいない」

「じゃあ何」

「興味がないだけだ。何度も言わせるな。俺は誰も好きにならないし、興味も抱かない」

 春日は陸坂の背中に手を回しているが、確かに陸坂の両腕は下がったままだ。決してこの手が自分の背中に回されることはないのだろうと思うと、春日は寂しくも哀しくもなる。

「俺さ、多分あんたのこと好きなのかも知れない。抱きたいし、こないだもお前で抜いた」

「それは光栄なのかな?」

 少し肩を揺らす。きっと笑ったのだろう。別に陸坂をおかずにしたことまで告白する必要はなかったのに、思わず口を突いた。

「あんたを俺に振り向かせたい。あんたの興味を俺に向けたい。あんたになら抱かれてもいい──俺が下でも構わない」

 プライドなどとうに捨て、春日は陸坂を抱きしめる両腕に力を込めた。きっと陸坂からしてみれば、一瞬で振り払える程度なのだろうが、そうはしなかった。だからと言って、春日は受け入れられたとは思わない。

(こいつは本当に誰にも興味がないんだ)

 何度も実感させられたが、改めて自分の想いが届かないもどかしさを覚えた。春日の細い腕では、絶望の淵に立たされた陸坂を引き戻すことはできないのだろうか?

「何故そこまで俺に執着する? お前なら相手に不自由しないだろう。お前が好きになった〈あいつ〉が俺だというだけで、正体がわかればもう熱は冷めたのではないのか?」

 そう、思っていた。〈シュウ〉があのボサ髪ダサ眼鏡でないのなら。そしてその中身が気に入らない美形医師で、最初から相手にされていないのなら。プライドを捨ててまで陸坂に思い入れる理由はないのに。

 これが、恋、なのだろう。

「……右耳にジルコニアのピアスか。貧乏人の見栄か?」

「四月生まれだからだよ! ダイヤモンドが買えなくて悪かったなぁ!」

 話を逸らされて、思わず春日はムッとする。

「俺はお前と遊んでやろうと思った。どうせ決められた人生だ。リミットまでは好きに過ごしても良いだろう。お前が好きになったのがあの格好の時の俺だとしたら、確かに他の奴らよりは見る目があるんだろうな。少なくとも俺の肩書きや金に釣られたわけではなさそうだ」

 陸坂のテノールが首の後ろから聞こえる。なんとなく心地良くて、春日はまだ離れ難い。そして陸坂も、この体勢のまま身じろぎもせずに話をした。

「何度も言うが、俺は一人でも寂しくはないし、誰かに依存するような危ない橋は渡らない。これまでずっと一人でやってきたし、どんな困難にも一人で立ち向かい、乗り越えてきた。これからもそうするつもりだし、きっと可能だろうと思っている」

 春日は首筋に陸坂の吐息を感じた。何を言っても諦めようとしない春日に呆れているのだろうか。

「そこにお前の存在がいると、逆に邪魔なんだ。興味を持ってしまったり、好意が芽生えたりすると、何かを失ってしまう。俺には不足するものはないが、失って困るものはたくさんあるんだ」

「だから何でも一人で抱え込んで、地味で物静かな男を演じて、何もかもを我慢して生きていくって言うのかよ」

「お前から見れば、そう映るのだろうな」

 ようやく春日は陸坂の背中に回した両手を解いて、彼と向き合った。その代わりに、空いた右手で軽く陸坂の頬を叩く。たいした痛みはないはずだが、春日の機嫌が悪いことは伝わるだろう。陸坂は表情も変えないし、痛いともやめろとも言わなかった。

「映るよ。あんたの無理が透けて見える。このまま行けば、二年どころかあと数ヶ月で破綻すると思う。あんたは、そんな目をしてるんだよ」

「破綻するというのは?」

「さぁ? 具体的にはわからないけど、多分あんたは壊れるよ。だって俺を知っちまった。あんたは本当に人を好きになったことはないんだろうけど、多分他人から本物の愛情を受けたこともないじゃないか? あんたが憎めって教育された母親こそが、あんたに無償の愛を与えてくれる唯一の存在だったはずだ」

「──」

「……ていうのは俺の憶測だけどな。占い師でもないから、あんたの将来に何が起こってどうなるかまではわからねぇよ。でもあんたがそう遠くないうちに壊れるのはわかる。本当にあんたは自分で気付かないのか? 自分が本当は何を求めているのか」

「少なくとも金と肩書きは得たがな」

「そんな物質的なモンじゃねぇんだよ、人間一人を構成するのはさ」

 陸坂は根っからの医師だから、科学的にだとか生物学的にだとかで証明されているような、根拠のあるものしか信じられないのかも知れない。逆に春日は、勘やフィーリングや感性で生きてきた。どちらが正しいのかはわからないし、正解などないのだろうけれど。

 しかし、陸坂の持つ歪みを春日は見なかったことにはできなかった。まさかこんなふうに恋に落ちることがあるとは思わなかったが、結果そうなったのだから仕方がない。それが春日の性分なのだ。

「人間が六十兆だか三十七兆だとかの細胞だけで出来てるわけじゃねぇだろ? 少なくとも医者をやってんだったら、患者と接する時の営業スマイルの意味がわかっててやってるんじゃねぇのかよ。人前では爽やかな笑顔を振りまいて、目立ちたくない時はカツラや眼鏡で誤魔化してまで、〈普通〉を求めてるんじゃねぇのか?」

「そう来るとは予想外だな」

 陸坂は呆れたのか感心したのだかわからないが、初めて春日に普通の笑みを見せた。口唇の端を上げない、しかし病院で見せる医師スマイルでもない。

(こんな顔もできるんじゃねぇかよ)

 思わずそんな陸坂を見て、やっぱり美形だなと感じてしまう。自分が負けたと感じた男は初めてだった。これで性格が良ければ、そして医師でもなければ、もっと明るい人生が送れているに違いない。こんな高級タワーマンションの最上階のワンフロアを一人寂しく使うこともなかったのではないだろうか?

 少なくとも春日の幸せは、こんな眺望の良い部屋に住むことでもないし、変装しなければ外を歩けない程に男女問わずちやほやされることでもない。

 今のボロアパートでも十分快適だし、雰囲気の良い職場があり、頼りになるマスターがいて、腹を割って話せる環という親友もいる。今のところ恋人がいないのが寂しいが、そこは縁やタイミングの問題でしかない。現に今、陸坂に告白したところなのだし。たとえ片恋でも日々の刺激になり、前を向ける。

「それで、お前は俺をどうしたいんだ?」

 先程も聞いた質問を、陸坂は繰り返す。春日は少し考えて言った。

「だから言ってるだろ。あんたを俺のものにしたい。俺に気持ちを向けて欲しい。あんたの全部が欲しい」

「全部とはまた、贅沢なものだな」

「恋愛ってのは、そういうモンなんだよ。まぁあんたにはわからないだろうけど」

「ではそれを教えてもらおうか」

 また、口唇の端を上げる嫌味な笑みに戻る。

「だからさ、あんた、俺を好きになってみろよ」

「好きになれと言われてなれるものなら、もうとっくになっているだろう」

「まだ終わってない。あんたはまだ人を好きになれる。俺がそうさせる」

 春日の根拠のない言葉を陸坂に理解させるのは難しい。しかし、まだ彼は墜ちてはいないのだ。足を踏み外して転落した陸坂の手をとって〈こちら側〉に引き上げるのは、春日の腕力では難しいだろう。しかし、まだ絶望の淵に立っているだけの陸坂なら、なんとかそこへ墜ちる前に救えるかも知れない。それでも無理だとしたら、春日も一緒に墜ちるつもりでいた。覚悟は決めている。

「あんたは昔からいろんな努力をしてきたんだろう? それでたくさんの壁を乗り越えてきたんだろう? だったら俺を好きになる努力をしてみろよ。とりあえず、今、俺のことを好きだって言ってみろよ」

「言えば好きになるとでも?」

「いいからやってみろ」

 春日はまっすぐに陸坂の目を見る。陸坂は苦虫を噛み潰したような顔をしているが、それでも春日の目を見た。そこには自身の顔が映っているのだろうか。それとも春日の希望の灯火が見えるだろうか。

「『お前が好きだ』」

「……棒読みだな」

「あいにくそんな感情を持ったことがないのでな。気持ちの込め方がわからない」

 ふい、と陸坂は目を逸らした。春日は少し驚く。陸坂の方から目を逸らすなんて、これまであっただろうか? いつも睨み合っていたから、目を逸らされると違和感がある。

「あんた……」

「今年中だ」

「え?」

「今年中だけ、俺はお前のことを好きだと思ってみよう。好きになる努力というのをやってみよう」

「今年っつっても、もう十二月だぞ? あと三週間しかねぇだろ」

「三週間で無理なら、何年掛けても無理だろう。それとも自信がないのか?」

 春日は何故か陸坂にだけ、挑発的に言われると感情的になってしまう。だから思わず安請け合いしてしまった。

「ちっ。ならいいよ、それで。その代わり、ちゃんと努力しろよな。毎日一時間ごとに俺のことを思い出して、好きだって呪文のように唱えろ。それで、変装した方でいいから、俺と会う時間を作れ」

「随分なワガママだな」

「俺だってあんたを振り向かせる努力は怠らない」

「ふん、まぁ遊びにしては面白い方かも知れないな。その案は呑んでやろう」

 こんな時にまで見下されるが、春日はそんなことには構っていられなかった。

「じゃあ、これからよろしく」

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