第10話
リハビリ通いが功を奏したのか、毎日無理をしてカウンターに立っていたわりには、きちんと二週間でギプスが外れた。完治までには一ヶ月程かかるため、まだリハビリ通いと定期の診察は続くが、足首の痛みと松葉杖生活がなくなったのは、素直に嬉しいことだった。アパートへの階段を上る時は、久し振りだったのでかえっておっかなびっくりだったが、自分の足で地面を踏めるというのはこんなにも良いものだったのかと実感した。
失って初めて大事なものに気付くと言うが、まさにこれまでの不自由な生活でそれを思い知らされた。
今日は陸坂にギプスを外してもらったので、接触の機会はあったのだが、秘書のように常に看護師が付いているので、患者と医師の会話しかできなかった。それでいつもの手段を使った。要するにメモを渡したのである。手紙をしたためるような器用さも恥を捨てる気もなかったので、罫線を無視して短い文章を書き殴ったメモの端を陸坂に握らせた。さすがに看護師は不思議そうな顔をしていたが、別に花束を渡したわけでもないのだし、笑顔で返しておいた。ここの看護師には春日スマイルが通用しないのはわかっていたが、まぁ嫌な気はするまい。
〈本物の連絡先と住所教えろボケ!〉
それだけである。一応前に渡したメモが捨てられている可能性も低くなかったので、自分の携帯番号とメールアドレスも記入しておいた。
春日が〈本物の〉と書いたのは、やはり以前かかってきた携帯電話の番号が他人のものだったからだ。一応その線も考えて、「よう、秀平っ」とカマをかけて電話を掛けてみたところ、「えっ、どなた?」と女の声が返ってきた。なんだか年配の女性っぽかったので、母親か誰かのものなのかも知れない。普通は息子だろうと他人の携帯に無断で出るはずもないだろうから、これはやはりかつがれたなとわかったのだ。
春日が病院から帰宅した頃、ちょうどメールが届いた。意外にも陸坂で、まさかこんなに早く、そして正確な連絡が来るとは思わなかったので少し驚いた。きちんと090から始まる携帯電話の番号と、一見意味のない英数字の羅列にしか見えないメールアドレス、そして住所が記載されてあった。そして陸坂の名前。以上が内容のすべてである。メッセージも何もなかった。まぁ、こちらが渡したメモも同じようなものだったので、返信としては十分だろう。
メールアドレスは怪しげだったが、送信元と同じだったので本物と考えても良いだろう。番号は以前のものとは違ったので、やはりこちらが本物か二台目なのかといったところか。住所はやはり春日のアパートからそう遠くないようだったが、確かその辺りは山の手の高級住宅街のはずだ。部屋番号が通常あり得ない四桁だったので、大方あのタワーマンション──いわゆる億ションだということが察せられた。
一般的に最初の二桁は階数、下二桁は部屋番号を示すはずだが、それでいくと陸坂の部屋は四十六階ということになる。そして一号室。大方その四十六階には数部屋しかない、広い部屋なのだろう。眺望も良く、自分の勤める病院はもちろん、春日の住む小さなボロアパートも眼下に見下ろしているはずだ。
「……いいご身分ですこと」
まさかこれを見せつけたくて住所を送りつけてきたわけではないのだろうが、教えろと言って素直に応じるということは、行っても良いということなのだろうかと解釈してしまう。まぁ、セキュリティは当然監獄並みにしっかりしているのだろうから、場所がわかったからと言ったところで、アポなしで入れるわけもない。だいたい、陸坂がいつ自宅にいるのかもわからないのだし、行くだけ無駄足だ。
メールを返してくれたことに春日は礼を述べるべきか迷う。いつもなら即刻返信して好感度を上げるところだが、陸坂の好感度などいらない。しかし、好きになれと言った手前、ここはやはり素直に「ありがとう」と伝えるべきなのだろう。
数分苦悶した上で、やはり春日は礼儀にのっとってメールを返した。相手が本当に陸坂なのか確かめるためでもある、と自分に言い聞かせて。
〈メールさんきゅ。今度遊びに行っていい?(笑)〉
わざとそんなメールを作成する。なんだか自分でもバカバカしくなって、携帯電話を万年床に放り出してシャワーでも浴びようかと思ってスウェットの上を脱ぐと、またメールの着信があった。まさか陸坂でもあるまい。ならば環か? タイミングの良い彼女のことだし……と思って携帯電話を手に取ると、思わず口から声が漏れた。
「うわぁ……」
陸坂だった。今頃は診察時間のはずなのに、何だこのレスの早さは。そして内容である。
〈火曜日が定休日なのだろう? 午後は空けてやるから、週明けに来い〉
してやられた、と思った。初めて〈シュウ〉に出会った時のときめきが、もう一度春日を襲ったのだ。脳裏に浮かぶのは気に食わない美形医師で、時々ボサ髪ダサ眼鏡が混じる。どちらが好きかと問われれば、迷いなくボサ髪ダサ眼鏡だと堂々と答えるが、ならば何故美形医師の顔がチラつくのだろうか。本体だから……では済まされない思いが込み上げる。
ときめきに続き、春日の口唇に甘い刺激が蘇った。身体がしびれるようなキスを思い出す。もう我慢できない。
〈伺います。十四時〉
それだけを送信し、スウェットのズボンを脱いで替えの下着を用意している間に返信が来ないことを確認すると、浴室に駆け込んだ。頭からシャワーを被りながら、そそり勃った自分の股間を握って手を動かす。頭の中にはいけ好かない美形医師が口唇の端を上げて嘲笑している顔。
「ん……あっ」
あっけなく果てた春日だったが、すぐに二度目が奮い起たせられる。ボサ髪ダサ眼鏡を思い浮かべて自分を慰めることはなかったのに、陸坂の口唇と舌の温かさや首筋を吸われた時の感覚を思い出すと、また震えた。
そうして三度目を放った後、春日は自己嫌悪に陥る。
「俺……溜まってんのかな……」
恋に落ちて、いた。
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