第9話

「えー、何それ、ヘンなカンケイー」

 翌日の木曜日、相変わらず〈シエスタ〉の開店直後に来た一番客の環に、昨日の出来事を話したら、やっぱりそんなふうに言われた。

「それって春日ちゃんが意地になっちゃってるだけで、相手はもうボサ髪ダサ眼鏡じゃなくて、春日ちゃんの一番嫌いな超絶美形なんでしょ?」

「そうだけどさ」

 言われるまでもなく、環の言う通りだった。

 それは春日がその場の憤りのままに口に出してしまった宣戦布告で、だからもう後には引けない。物事を途中で投げ出すのは嫌いだし、陸坂に負けるのも悔しい。それにまるっきり考えなしに言った無責任な言葉でもなかった。

 陸坂の父親のことを聞かされて、その縛られた人生を代わりに憂いたわけではない。しかしなんとなく釈然としない。

 春日がノンケを落とすのが好きなのは、徐々に相手のガードが緩くなっていき、そのうち春日に取り込まれてしまうのを見るのが嬉しいからだ。そういう意味で言うなら、最初から見込みのない相手にアプローチすることは得意だとも言える。

 しかし今回の相手は超絶美形だし、頭も良いし、なんだか頑固そうだ。これまで春日が相手にしてきた男とはまるっきりタイプが違うし、環の言うように、一番好きになれない容姿の相手だった。長身で体格が良いというだけでも好みの範疇外なのに、何故自分以上のイケメンを強引に落とさなければならないのか。自分でも不思議だったが、まだ陸坂がボサ髪のカツラを被り、瓶底ダサ眼鏡をしている姿を見たら、中身がアレだとわかっていてもときめいてしまう気がする。

 別にそこまでダサい男が好みというわけではないのだが、あの日久し振りに胸がキュンとした時の感覚が残っていた。わざと身体にフィットしないスーツを着て、飲めないフリをしてウーロン茶ばかりをすすっていた〈シュウ〉。

 陸坂はそこまでして十年以上も前から周囲の人間から見られる自分を偽り、肩書きを隠し、感情を抑えてきたというのだ。父親に厳しくしつけられた結果なのだが、果たして彼の母親はどうしていたのだろうか。不意に疑問が浮かぶ。

「でも案外春日ちゃん、その人にハマったのかも知れないね」

「俺が? まさか。気持ち悪いこと言うなよタマ」

「そうかなぁ?」

 ハマった──そう言われても、〈シュウ〉のバージョンしか思い浮かばない。あくまで陸坂はムカつく相手で、しかし自分に振り向かせたい気持ちだけは湧いてきた。そうなると不思議なもので、恋愛感情などないのに、どうすれば陸坂を落とせるかを考えてしまう。

 環に昨日のことは大方話したが、押し倒されたことや、久し振りのキスに打ち震えたことまではさすがに言えなかった。単純に、ボサ髪ダサ眼鏡の正体が自分の担当医師で、騙されていたことに腹を立てて宣戦布告した──という体を装っている。それでも環はちゃんと春日の首筋の一番目立つところに付けられたキスマークを確認していたので、あるいは想像がついているのかも知れない。勘の鋭い彼女のことだし。

 当の春日本人は、そのキスマークのことを完全に忘れていた。仕事に入る前は必ず着衣や髪型や顔色の状態をチェックするが、全身鏡で自分の首まで見るものではないようだ。意識しなければそこにあるものでも見えないことがあるというし、昨日の昼間のことなので翌日の夜ともなると、やや薄れていたということもある。決して明るい照明を使っているバーではないし、だいたいの客はそれに気付かないだろう。

 環は素知らぬ顔をして春日におかわりを注文する。

 しかし多分マスターも気付いているだろう。春日が環に話す時はたいていの場合、マスターにも聞こえるように話している。直接男同士の恋バナなど聞かされたくないだろうという思いと、マスターには知っておいて欲しいという気持ちがそうさせるのだ。

「そんで春日ちゃん、その足が治ったらどうやってその先生と会うの?」

「あー、それ考えてなかったな」

 怪我をしてからもう一週間だ。あと一週間か十日も経てば、ギプスは外れて医師の診察は不要になり、リハビリに通うだけになるだろう。まさか案内もされていないのに副院長室に押しかけることもできないし、何か理由をつけて診察してもらうフリをするしかないか。

「ダメじゃん、春日ちゃん。せめて携帯番号とメールアドレスくらい聞いとかないとぉ」

 そう言えば、これまでのパターンとはまったく違う展開だったせいで、春日は陸坂の連絡先を聞いていなかった。聞いて教えてくれるかどうかは怪しいが、勤め先しか知らない状態ではどうしようもない。

 一応〈シュウ〉から連絡があった番号は登録してあるが、それも本物かどうか疑わしいものだ。

「今度は反対の足でも折るの? 手はダメだよー。春日ちゃんのおつまみ食べれなくなっちゃうからね」

 おつまみという程ではないが、〈シエスタ〉ではちょっとした食べ物も出している。マスターに頼めばパスタやリゾットまで作ってくれるが、春日が任されているのは、サラダの盛り付けや、生ハムとクリームチーズの盛り合わせなど、火を通さないで済むメニューばかりだ。ほとんどの客はどこかで腹を満たしてからここに来るし、バーに来てシメのラーメンが食べたいと言うこともない。

 どちらにせよ、仕事をする上で、もちろん普通に生活するだけでも、手が使えないというのは絶対的に不便なので、まさかそんなことはするまい。足首にヒビが入っただけで、こんなにも大変な思いをしているのだから。

「まぁケーバンは一応あるし、いざとなりゃ病院に連絡して迷惑かけてやればいいだろ」

「それってもう、恋愛じゃなくて嫌がらせだよね」

 確かにそうかも知れない。振り向かせるという意味では間違っていないかも知れないが、惚れさせるとなるとまた別の話だ。逆に嫌われては元も子もない。まぁ、もう既に嫌われてはいるようだが。

「春日ちゃん、もっと自分に素直になれば? ね、マスター」

「ふふっ」

 二人は目を合わせて微笑み合う。まるで親娘のようで、何でも通じ合っているという感じに見える。

「そうだよね、お父さん」

「そうだね」

 なんていう掛け合いが聞こえてきそうだ。

 実はこの二人は案外仲が良いのである。普段は口数の少ないマスターで、環の話には黙って頷いたり、言葉少なに返したりするだけなのに、何となくわかり合っている雰囲気がある。春日のことを実の息子のように可愛がってくれているが、環のことは娘のように感じているのだろうか。環はもともと謎の多い人物だが、マスターも案外見えない部分があったりする。

 もともと他人に深入りしない性格の春日なので、相手があえて話さないことを突っ込んで訊いたりはしない。それでも付き合っていればだんだんわかってくるものだし、相手が心を開いて話してくれるようになるのだ。

「素直にってなんだよ」

「そのまんまの意味だよ。春日ちゃんって案外ガード堅いんだよねぇ。受け身なところもあるし、優しいんだけど逆に言うと放置気味っていうかさ」

「そうか?」

 優しいのは自覚している。誰にでも優しくあろうとしているから。しかしそれは逆に受け取られることもあるのか。受け身と言われればそうかも知れないが、それは相手の意志を尊重しているつもりだった。

「俺ってガード堅い?」

「堅い堅ーい。職人気質のラーメン屋の親父さんくらい堅いよ」

「頑固ってことかよ」

「んーん、それとはちょっと違うけどねぇ。ものの例えだよ。春日ちゃんのガードの堅さが、こだわり職人の頑固さ並に堅いってこと」

「それは最強だな」

 ふっと笑みをこぼして、今まで自覚していなかった自分の性格を省みる。ガードしているつもりはなかったが、確かに陸坂のように来る者は拒まないタイプではない。顔も性格も良い春日なので、言い寄ってくるゲイや女も少なくなかったが、あっさりと拒否する。そして、去る者は追わない。

「春日ちゃんは、自分を守るのが得意じゃないね」

「?」

 自分を守ること──そんなことを考えたことはなかった。なにしろ、これまでにそうそう自分を守らなければならないような場面に遭遇したことはない。例えば繁華街でガラの悪い奴らに絡まれるとか、酔っ払った客に管をまかれるとか、学生時代にまで遡るなら、クラスの中で浮いてしまうとかいじめられるとか、そんな経験はまったくなかったから。

「自分を大事にしない人は、他の人も大事にできないんだよ?」

 環が人差し指を立てて説教臭く言う。ワイングラスについた水滴が、控えめなライトに当たって光っていた。中身はほとんど空だ。

「俺は自分は大事だぜ? 他人も大事にしてるつもりだし」

 環が次に注文するであろうカーディナルを作りながら、何気ない素振りで春日は言う。心の中には、なんだかもやっとした感情があったが、なんとなく環に悟られたくなかった。

「んー、春日ちゃんは自覚ないのかぁ。自分では気付いてないのかも知れないけど、春日ちゃんって自分を犠牲にしてまで他人に優しくする癖があるんだよ。相手の意志を尊重する、って春日ちゃんは言ってるけどね」

 逆転の発想か。相手の意志を尊重するということは、自分で決めないということだ。それは相手を傷付けたくないことの表れだが、嫌われたくないという無意識も働いているのかも知れない。自分を犠牲にしているつもりはないのだが。

 思えば中学三年生でゲイを自覚してから何人もの男を好きになり、そのうちの何人かと付き合ってきたけれど、春日から相手をフッたことは一度たりともなかった。なんとなく雰囲気で相手が春日から離れたがっている気持ちを察すると、うまく誘導して別れたい気持ちを吐露させた。もちろん春日は笑顔で相手を手放す。「今までありがとな」なんて言いながら。それは自分を犠牲にしているということになるのだろうか?

「タマは俺のこと何でも知ってるんだな」

 春日は環の観察眼に脱帽して、素直な感想を述べる。環は笑顔で新しいドリンクを受け取って、ニッコリと微笑んだ。

「だって、ボクの大事な春日ちゃんのことだからね」

「それはもっと前に聞きたかったな」

 それこそ〈シュウ〉を好きになる前にその言葉を聞いていたら、もしかしたら環との「オトモダチ」関係にも変化があったのかも知れない。もしくは春日がもっと強引であったなら。

「だけど今回は違うよね。春日ちゃんはその先生に夢中だもん」

「夢中なわけねーだろ」

 少し環を睨んで春日は即答する。しかし環は動じず、それらしい理由を並べた。

「だって今回は相手の気持ちも何もないじゃない? 春日ちゃんって体当たり系じゃないはずなんだけどなぁ。いつも〈待ち〉の姿勢だし、まぁボクの時はイレギュラーとしても、これまで聞いた話をまとめると、前からの恋愛とはまったく違うよね」

 環と初めて飲みに行った時にした春日の過去の恋愛遍歴を、彼女は把握していた。最初に「恋バナしてよぉ」と言われたので、春日はノンケの環を喜ばせるために面白おかしく、しかし本音を話したのだ。そういうことは初めてではない。しかし、酒の席での話をどこまで信用するかは人によりけりだ。

「でも春日ちゃんは自分に気のない先生を振り向かせようとしてる。それだけで十分別格じゃない?」

「……」

 今、初めて春日は自分の気持ちに向き合った気がした。相手の意志を尊重するなら、とっくに陸坂を無視しているはずだ。そもそも自分の好きなタイプではないし、相手にも明らかに嫌われている。大方これまで言い寄ってきた相手のように、肩書きやお金や顔や身体が目当てだとでも思われているのだろう。それは本意ではないが、相手にしなければどう思われようと構わないはずだ。

 なのに、春日は陸坂にそうではないとわからせようとしている。本当に人を好きになる感情を与えようとさえしている。環が言う「別格」という言葉が胸に刺さった。

「ホントに何でも俺のことわかるんだな、タマは。俺が自分でもわからないところまで」

「そうかな? ボクは人間観察が趣味だからねー」

 それでも春日はあまり自分のことは語らない方だし、他人に頼るようなこともほとんどしない。何故か環にだけは何でも打ち明けてしまうから、ある意味彼女も春日にとって「別格」と言えるだろう。いろんな意味で。

「俺さぁ……」

 環に何かを言おうとした時、客の入店を知らせるドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませー」

 反射的に振り向き、春日スマイルを浮かべる。馴染みの客だ。彼は早速いつもの席に座り、生ビールを注文する。それから会社での愚痴をこぼし始め、春日は丁寧に相槌を打ちながら話を聞いていた。

 環は瞬時にバーの片隅に座る人形のようになって、黙って一人飲みに入る。大方、さっき春日が何を言おうとしたのかを考えているのだろう。マスターは新しい赤ワインを彼女に出してやり、ニッコリと微笑んだ。

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