第8話
翌朝は休み明けの元気な身体だったので、苦労なく午前中に目が覚めた。まだリハビリに行くには時間が早いし、無駄に体力を使いたくなかったので、布団の中でゴロゴロする。
昨日の〈シュウ〉からの着信履歴は、早々にアドレス帳に登録したし、今からでもOKだと連絡したいくらいだったが、さすがにあと数時間の我慢もできない自分が恥ずかしくなったのでやめた。代わりにシャワーを浴びることにする。
ギプスにコンビニの袋をかぶせてなるべく水が入らないようにし、重い足を引きずりながら浴室へ向かう。部屋を何度も往復しなくても良いように、先に下着と新しいスウェットを洗面台の横に置いた。バスタオルは浴室のドアに引っ掛けてある。
シャワーを終えてしまえば、後は何もすることがなかった。カップ麺を食べてリハビリに出掛ける前に、いつもは朝晩しかしない歯磨きをする。香水は付けない春日だが、シャンプーの類には気を遣っていて、髪に良いだけでなく、香りも良いものを使っている。どうせリハビリの間にその香りも消えてしまうのだが、やっぱり好きな男に会う時くらいは自分もいい男でいたいのだ。第一印象は肝心である。
ようやく時間が流れ、春日は病院へと向かった。まさかこんなに早くは来てないよな、と思いつつ、表玄関付近をキョロキョロしてしまう。ついでに待合もさりげなく見渡したりもしたが、それらしい人物には出会わなかった。
しかし逆にホッとしてしまう自分が、少し初々しくて恥ずかしかった。
何だこの初恋みたいな感覚は。
ともかく二階のリハビリ室へ行き、担当の理学療法士にマッサージされたり、歩かされたりした。そこまではいつも通りだった。
四十分という短いリハビリが終わった後、その理学療法士はこともなさげに言った。
「明日の診察ですが、陸坂医師の都合で今日に前倒しになってしまったので、これからついてきてください」
「え?」
思わず春日は疑問の声を上げた。
そんな、もしかするともう〈シュウ〉が待っているかも知れないのに、これから診察だって? しかもまだ診察の時間外だ。無理を続けた自分の足の状態について、理学療法士から連絡を受けたのだろうか?
何にせよ、これは断らなければならない。
「あの、俺、これから用事があって」
「すぐに終わるので、必ず連れてきて欲しいと言われています。申し訳ありませんが、しばらくお時間をください」
あの美形医師がどんな権力を持っているのか知らないが、取り敢えずついていってやらないと、この理学療法士が叱責を受けるのかも知れない。なんとなく忠誠心の高そうな男だったし、今後も続く担当なので、雰囲気を悪くしたくはなかった。
「わかりました。すぐ済みますよね?」
「陸坂先生はそう言っておられたので」
仕方なく春日は彼の後に続いた。初診の時に行った一階の診察室ではなく、二階にあるどこか重々しい廊下を案内される。この病院の三階から上は、入院患者の部屋になっているようだ。
「では、私はここで失礼します」
まるで後がつかえているかのように、担当の理学療法士は足早に去って行った。目の前には壁のような扉があり、〈副院長室〉と書かれてあった。
「え? あいつ、副院長だったのか?!」
さすがに春日は驚いた。なる程、この病院の院長の息子なのだろう。だから看護師や患者たちに遠巻きながらも注目され、ちやほやされていたのだ。芸能人でもないのに、整った顔立ちだけであれ程の人間に常時囲まれるわけがない。〈副院長〉の肩書に群がっているだけだったのだろう。看護師は将来の有利性を考えていたのに違いない。患者はまぁ、副院長なら腕は確かだろうとかいう理由で、指名が多いのだろう。明らかにその風貌にうっとりしている患者もいたが。
とにかく、その部屋の前まで案内された春日は、早々に立ち去った理学療法士の後を追うわけにもいかず、しばらく立ち尽くした。しかし、早くあの医師に会って診察を受けなければ、〈シュウ〉を待たせてしまう。初対面で遅刻するなんて最低だ。
思い切って春日はその重厚そうな扉を開けた。まるで医療系ドラマに出てくる偉い人の部屋のようで、何故だか小学校の校長室を思い出した。
扉を半分くらい開いたところで、中央の大きな机に座っている人影が見えた。窓から入ってくる光がやや逆光で、その姿はぼんやりとしている。しかし次の瞬間、春日は目を疑った。
ボサ髪ダサ眼鏡がそこに座っていたのである。もちろん白衣を着て、胸に〈陸坂〉というネームプレートを付けて。
「な、あんたっ……」
言葉にならなかった。何だあんたは、と言いたいし、何故ここに、とも訊きたい。ただ頭の中がぐちゃぐちゃになってしまって、言葉を発することができなかった。
「僕だよ」
電話で聞いた声である。先日診察の時に聞いた陸坂医師のものとは程遠い、軽いアルト。
「なんてな」
今度は医師本人のテノール。口唇の端を片方だけわずかに持ち上げて、嫌味っぽく微笑んでいた。
「なんなんだあんた!」
自重で閉じていく扉から手を離して、春日はつかつかと医師のもとへ寄った。松葉杖がコンコン鳴るだけで、駆け寄ることはできなかったが。
「こんにちは。足の状態はいかがかな」
取り澄ました顔で言われて、一層腹を立てた春日は、座っている医師の前に立つと、彼からカツラと眼鏡を取り上げた。かぶりもののせいで髪は少し乱れているが、軽く頭を振っただけでもと通りになるサラサラヘアーだ。
「いかがも何も、見ての通りだろ!」
春日は興奮に任せてカツラを床に叩きつけ、ダテ眼鏡をへし折った。あっさり眼鏡は壊れたが、折れたフレームの端で少し指を切る。
「おやおや、その眼鏡、高級ブランドの商品ですよ? 弁償できるんですか?」
「するわけねーだろが! なんだよあんた、ずっと俺のこと騙してたのか?!」
「騙しているつもりはなかったんですがね。あなたが気づかなかっただけで」
医師として接しているのであろう、その敬語にまで腹が立った。
「その口調やめろよな。どうせあんたの本性は、変装しなきゃいけないくらいに悪いんだろ?」
陸坂は外国人のように両手を上げて肩をすくめた。わざとらしいリアクションに、春日はまた苛立つ。
「迫ってきたのはお前の方だろう。人の頬にキスまでしておいて、俺に気付かないとはな」
早速医師口調をやめる陸坂。
「そんな間逆な変装されて、気付く方がすげぇわ」
「それ程俺が完璧だったということか?」
悔しいが、それは認めざるを得ない。環の女装さえ見抜いた春日なのに、ずっと思ってきた〈シュウ〉が、目の前の気に食わない美形医師だったとは。
しかしなるほど、と春日は理解した。
始めて診察に行った時のぶっきらぼうな態度。早々に診察室から追い出されたこと。カルテの名前を見て、あの時の男を思い出して不快になったのかも知れない。まぁ、ノンケの男なら、そういう反応が一般的だ。
「それで何の用だよ」
「用も何も、今日会う約束をしただろう。俺と話したいと言ったじゃないか」
「ぐっ……」
しかしそれは〈シュウ〉相手であって、陸坂ではない。しかし〈シュウ〉は陸坂なのだ。また頭が混乱してくる。
「そう言えば自己紹介がまだだったな。一方的に俺がお前の個人情報を持っているのも申し訳ない」
そのわりには、まったく申し訳なさそうでない顔だ。
「俺は陸坂秀平(くがさか・しゅうへい)。名字はネームプレートの通りで、名前は優秀の〈秀〉に平和の〈平〉だ。お前より四つ年上の二十八歳。整形外科医で、一応この病院の副院長をやっている。──と、この程度で良いか?」
この嫌味な笑い方は、多分表では決してしないのだろう。そうでなければ、いくら美形でも副院長でも、あれ程人を集められるわけがない。友好的で爽やかな笑顔に、柔らかで優雅な物腰。長身だが春日のような痩せ型ではなく、程良い筋肉の付いた理想的な体型。どこを取っても完璧で、容姿端麗だし、医師をやっているということは、頭脳明晰でもあるということだ。どちらも春日より優れていて、「やっぱり嫌な奴だ」と春日は改めて思う。
「なんであの時変装なんかしてたんだ」
そうだ、ボサ髪ダサ眼鏡の愛らしさに惚れたのに、正体が自分よりイケメンで人気者と来れば、既にもう春日の恋愛対象ではない。
しかし何故か、あの日の〈シュウ〉が頭から離れなかった。口唇に触れた柔らかな頬の感触、メモを握らせた時の手の大きさ。それがこの男のものだったなんて。
「ご覧の通り、俺は有名人な上に美形でね。隠れても嫌でも目立ってしまう。この病院の跡取り息子が、外でも目立ち過ぎては、何もできないだろう? それこそバーになんて行けないし、コンビニなどもってのほかだ」
いちいち言うことが気に障る。しかし、確かに言っていることはわからないでもない。
「その変装、高校時代からやってたのか?」
「ああ、この間の連中のことか」
ふう、と息を吐いて陸坂は続けた。
「俺は幼い頃から病院の後継ぎとして育てられた。人前で目立つなと、父親にさんざん言われた。しかし顔の造作は母親に似たようで、子供の頃から人目を惹いていた。中学生の頃までは眼鏡だけでごまかしていたが、高校に入ってからはカツラも付け始めたよ。眼鏡だけでごまかせない程に成長してしまったからな」
美しく、とでも言いたいのだろうか。この病院の院長は見たことがないが、陸坂の母親という人は余程の美人だったのだろうと考える。
「そのまま大学もやり過ごして、ようやく病院勤務になった時、一時は素顔で通してたんだがね。俺を目当てに通う患者も多かったことだし」
「それはそれは」
春日は適当に相槌を打つ。座っている陸坂は良いだろうが、足を負傷している春日が立ちっぱなしであることに、何の心遣いも見せない医師だ。
「だが、やはり俺も医師のプレートを外して自由にしたいこともあるんだ。だから時々変装して、牛丼チェーンに入ったりもできるようになった」
医師というのはそこまでしなければならないのか、と思う前に、変装しなければ牛丼も食べられないという考えに驚いた。余程父親の教育が厳しかったのだろうか。
「それであの日も、変装してコンビニエンスストアに寄ろうと思っていたら、断ったはずの高校時代の同窓会のメンバーに捕まってしまった。目立たずおとなしい人間を演じてきたから、断る術がなかった」
「今でも黙ってるのか? 医者になったって言えばいいじゃねぇか。職場が福祉関係なんて、曖昧な表現しなくても」
「人間というのは現金なものだ。俺の父親が総合病院の院長だと知れれば、当然金持ちだと思われるし、それを目当てに寄ってくる奴は大勢いる。今は俺も医師で、副院長の肩書を持っているとなるとなおさらだ。面倒だろう?」
確かに、人間を中身ではなく外見や職業や貯蓄で判断する輩はたくさんいる。だからこそ春日は持って生まれた顔だけでなく、容姿も性格も良くあろうとしているのだ。陸坂の気持ちがここで始めて少しわかった気がした。
「まさかそこでお前に気に入られるとは思わなかったがな」
こっちこそ、と春日は言いたい気分だった。
容姿端麗、頭脳明晰、将来有望と三拍子揃った男になど興味はない。
「しかしあの姿に惚れるとは、お前は余程趣味が悪いのだな」
「やかましいわ! 他人の好みに口出しすんなよ」
「しかし俺の中身の良さを見抜いたのだろう? 良い目利きだ」
陸坂はスッと立ち上がり、机に手を突いて立っている春日のもとに来た。やはり背が高い。見上げるとまでは言わないが、やや視線を持ち上げなければならないのは事実だ。
「それで? お前がしたかった話とやらは何だ?」
「う……」
まさか告白するわけにはいくまい。とは言え、走って逃げられる足の状態でもない。
春日は〈シュウ〉の姿に惚れたのであって、医師の陸坂には興味などない、と言いたかった。しかし、あの日の甘い気持ちが消えない。久し振りにときめいた心が落ち着かない。
「俺は……あの時のあんたに惚れたんだ」
「ほう、お前はやはりゲイか」
「そうだよ。こちとら中三の頃からゲイを自認してるんだ。今更隠すつもりもない。男を見る目はあるつもりだ」
「それは確かなようだな」
陸坂は自分より華奢な春日を、突然抱き上げた。
「──?!」
足が引っかかって、すぐに逃げられなかった。屈辱的にも、その間にお姫様抱っこをされてしまい、来客用であろうソファに横にならされる。そのまま春日に覆いかぶさるように、陸坂がのしかかってきた。
「何すんだっ」
「こういうことをしたかったんだろう?」
「いや、俺が下じゃねー!」
そんな春日の声を聞かず、陸坂は口唇を重ねた。すぐに舌が入ってくる。思わず春日は甘い刺激に身を委ねてしまうところだった。
環に玉砕したのが半年前、その前に男と寝たのはそこから更に半年程前だったろうか。そう言えば長らくキスなどしていなかったことを思い出す。
──キスってこんなに気持ち良かったっけ?
くらくらする頭で、春日は理性を取り戻そうとする。
両腕で陸坂の肩を押し返したが、やはり鍛えている様子の締まった身体は自分の上からどかない。むしろ一層強く舌を吸われた。
激しく首を振って、何とか陸坂の口唇から逃れる。上から見下される格好の春日は、息を荒くして陸坂を睨みつけた。
「ちょ、医者が怪我の完治してない患者を襲うってどういうことだよ!」
「完治が遅くなるのが嫌なら、黙っておとなしくしていれば良い」
「横暴だ!」
陸坂は無視して春日の首筋に口付けた。かと思うと、強く吸われる。
「いや待て、こら待て、ちょっと待てー!」
逃れようとする春日をようやく離して、陸坂は満足そうに微笑む。口唇の端を少し上げて。
「ごちそうさま、と言うべきかな?」
「そりゃ俺はごちそうだよ! それもとびっきりのな! それにキスマーク付けるとか、あんた何のつもりだよ!? これじゃあ俺が傷モノだろうが!」
「何を言う。初めてでもあるまいし」
「そういう問題じゃねぇ!」
そうだ。だいたい春日はいつも自分が上の方なのだ。男に組み敷かれたことなど、一度としてない。それがこんないけ好かない奴に押え込まれた挙句、一番よく見えるところにこれ見よがしにキスマークを付けられた。屈辱以外の何物でもない。
「お前は俺に惚れたんだろう?」
自信満々に陸坂が言う。
「それともこっちだったか」
さっき春日が投げ捨てたボサ髪のカツラを拾っていい加減に被り、人差し指と親指で作った丸を目に当てる。壊された眼鏡の代わりだろう。
「そっちだよ! 俺が惚れたのは、あの時のあいつだ」
「残念ながら、どちらも俺だ。失望するだろう? 期待などするからだ。最初から諦めていれば、期待も失望もせずに済んだものを。バカな男め」
いちいち癇に障る陸坂の言葉だったが、何故か春日には引っ掛かった。
どうしてこいつはここまでして嫌われたがる? 自分から正体をバラさなければ、春日はギプスが外れても〈シュウ〉の正体には気付かなかっただろうし、その頃にはとっくに諦めていたかも知れないのに。
「あんた、ゲイなのかよ」
まさかと思いながら訊ねた春日に、陸坂は平然と答える。
「どちらでもない。俺は誰にも恋愛感情など湧かない。誰も好きになどならない」
「……何?」
「言った通りの意味だ」
それじゃあ一人じゃないか。孤独だし、寂しいし、つまらない。
もちろん、生涯独身で通す男は少なくないし、それが悪いとは言わない。自分で決めたことならば、可哀想だとも思わない。個人の意志を尊重したいし、春日自身だって世間の常識からは既に外れている。他人にどうこう言われる筋合いはないし、もちろん言う権利もない。
けれど目の前の美形医師は、言葉とは裏腹な表情をしていた。自分の意志で誰にも特別な感情を抱かないと決めているのなら、何故そんなに哀しい顔をするのだろう。
「結婚相手はもう決まっているのだしな」
「!?」
意外な言葉に春日は震えた。それが何のショックからなのかはわからない。せっかく好きになった〈シュウ〉が結婚する予定だと聞いたからなのか、陸坂の結婚相手が決まっているからなのか。
「何だよ、誰も好きにならないんじゃなかったのかよ。それともその嫁さん以外には興味ないってことか? はっ、一途で良いねぇ」
心に刺さった棘を抜きたくて、春日は無理に笑おうとした。しかし表情をうまく作れた自信はない。いつもは他人用の笑顔など簡単に作れるのに。
「どんな相手なのかは知らん。会ったことはないし、顔も知らない。まぁ、あと二年もすればそのうち誰かに決定するのだろう」
「はぁ?」
それはいわゆる、政略結婚的なものではないのだろうか? 病院の跡継ぎともなれば、相手の家柄や人となりが調査されるのか? 自由恋愛はできないのか? せめて見合いのような形式にさえならないのだろうか?
「愛情など邪魔なだけだ。俺に擦り寄ってくる奴は、女も男も大勢いる。誰もが金や権力目当てだ。女は俺と結婚すれば安泰だと思っているし、男は顔と身体目当て。容姿や肩書きに寄ってくる蟻どもに興味など湧かない」
そうやって陸坂は、院長である父親にしつけられてきたのだろうか? 言い方からして、彼は多分一人っ子か長男なのだろう。最初から恋愛を諦めている。注目されることを嫌い、他人との交流を避ける。とにかく医師になるべく勉強に励み、それ以外のことには振り向かないようにして。
「あんたは、それでいいのかよ」
自分のことでもないのに、春日は何故か陸坂の父親だという院長に腹を立てた。
「良いも悪いもない。俺は一生決められたレールの上を走るだけだ。それなりの女と結婚して男の子供を産ませ、医師になるように教育する。父が俺にしてきたようにな」
歪んでいる。それは親から虐待を受けた子供が、将来同じように自分の子供を虐待するのと同じだ。
「その決められたレールってのは楽しいのかよ」
「慣れれば不便はない。金には困らないし、生活に不自由もない」
それで陸坂は本当に納得しているのだろうか。金に困らず、不自由のない生活は、一見誰もが憧れるかも知れない。陸坂と結婚する女は、もちろん幸せを感じるだろう。愛情はなくとも金がある。男の子供さえ産めれば、生涯勝ち組だろう。愛情などなくても良いと、彼と同じように割り切って考えることのできる女だったなら。
「……くだらねぇ」
「そうかも知れないな。お前のような中途半端な一般人から見れば、こちらの世界は異常だろう。しかしこれは俺の価値観だ」
「あんたの父親の価値観を押し付けられてるだけじゃねぇのかよ」
「どうだろうな。気が付けば俺はこちら側の人間になっていたから、そちらのことはわからない」
こちらとそちら。まるで彼岸と此岸のような言い方だ。陸坂はもう、春日たちのいる世界の住人ではないのか? たかが病院の副院長というだけで、春日を一般人と呼ぶ程の違いがあるのか? 政治家や芸能人でさえ自分の意志で結婚相手を選べるこの時代に、この男はなんて旧態依然に偏った思考なのだろう。
「……れよ」
「何?」
春日の小さな呟きに、陸坂は珍しく耳を傾ける。それを逃すまいと、春日はハッキリと言った。
「俺のことを好きになれよ」
「バカバカしい」
一蹴された。しかし春日は引かない。
「バカで結構。それでも俺は、あんたを振り向かせてやる」
「俺ではなく、〈あいつ〉なのだろう? お前が振り向かせたかった相手は」
「そうだよ。けど、中身はあんただった。だから俺は、あんたを惚れさせてやる」
ふっ、と陸坂は、ため息のような、バカにした笑いのような、力の抜けたような、小さな息を漏らした。
「無理だな」
「じゃあ何で俺にキスなんかしたんだ? キスマークまで付けておいて、何のつもりなんだ?」
「ちょっとした遊び心だ。どうせ俺には選択肢などない。自由にできるのもあと二年程度だ。場合によってはもっと早まるかも知れないしな。来る者は拒まない。去る者は追わない。どうせそこに愛情など芽生えないのだから」
そうやって陸坂はこれからも生きていくのだろうか。愛情のない家庭で、でも幸せそうな演技をしながら。誰もが羨むような夢を与えながら。
「来る者は拒まないんだったら、俺のことも拒まないよな? あんたが俺のことを好きになるまで、俺は諦めない」
春日はまっすぐに陸坂の目を見て言った。ダサ眼鏡をしていない陸坂の目はよく見える。感情は読み取れないが、まだその目は死んではいない。本当に諦めてはいないのだ。絶望の淵に立ってはいるが、まだ墜ちてはいない。春日にはそれを引き上げてやれる手があるはずだった。
「無駄な努力だ。期待する程、後で来る絶望は大きいぞ」
「それはこっちのセリフだよ。今の絶好調のレールから外れた時、あんたはどうやったらいいのか途方に暮れるぞ。その時に俺がそばにいなかったら」
「たいした自信だな。そこだけは買ってやっても良い」
「そりゃどうも」
陸坂は結局春日を拒まなかった。「好きになるのは勝手だ」と言って、また席に戻っていく。ソファに横たわった状態の春日は身を起こし、なんとか立ち上がって松葉杖を手に取る。再び陸坂の座る席まで行き、彼の髪を掴んで顔を上げさせた。陸坂はあえてされるがままになっている。
「じゃあ今後も診察よろしく」
そう言って、今度は春日の方から口唇を重ねた。二人とも目を開いて、睨み合いながらの深く長いキスだった。
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