第6話

 以前、〈シエスタ〉のマスターに訊いたことがある。夜に営業しているバーなのに、何故〈昼寝〉という意味の店名なのか、と。すると目を細めたいつもの微笑みが返ってきた。

「この国ではお昼寝できる職業の人は少ないのですよ」

 たまたま春日は、図らずも昼寝を満喫できる方の職業だった。代償として、深夜の眠りには縁遠いが。

「ですからお仕事終わりのひとときだけでも、心を解放してゆったりして欲しいのです」

 そんなマスターの願いが叶ったと言えるのか、〈シエスタ〉の客は皆穏やかだ。酔っ払って他の客とトラブルを起こしたり、暴れたり嘔吐したりする者はいない。少なくとも四年前に春日がここで働くようになってからは、一度もトラブル対処などしたことがなかった。クレームも当然ない。酒を飲む場所のわりには安全で、和気あいあいとしている。知らない客同士が仲良くなることもよくあるし、片隅で黙って酒をすすっている者には無理矢理話しかけたりはしない。皆、守るべき暗黙のルールを承知しているようで、行儀の良い客層だった。それも、春日の仕事が長続きしている理由である。

 客の多くは仕事帰りのサラリーマンだ。営業職もいれば公務員も専門職もいる。春日も何人かに名刺をもらったことがあるが、部屋のどこかに置いたまま色褪せているだろう。それでも社交辞令だけは忘れないので、その名刺の主の名前や職業は頭にインプットされているし、来店の度に上書きされる個人情報を間違うことなく記憶し、見事な接客態度を見せていた。これこそ春日の人たらしの所以である。

 春日は自分がゲイであることを殊更隠そうとはしていない。もちろん、どこの誰にでもアピールするわけではないし、誰それ構わずカミングアウトすることもない。ただ、右耳にだけピアスを開けている。今ではピアスを開けた男などどこにでもいるし、片耳だけピアスの男はゲイだというのは都市伝説化しているのかも知れない。特に突っ込まれたことは一度もなかった。

 四月生まれの春日の誕生石はダイヤモンドなのだが、ピアスにそこまで金をかける程羽振りの良い暮らしをしているわけではないので、右耳に飾られているのは一粒のジルコニアだ。あまり明るくはないバーのカウンターのライトの下では、ダイヤモンドだろうがジルコニアだろうが、同じようにきらめく。要はピアスの石に価値があるのではなく、春日自身がいかに魅力的であるかが重要なのだ。

 これまでの四年間に、多分十数名のノンケの男客にアプローチしたと思う。六割程度の成功率なので、まぁ少なくとも六人以上からの反応はあった計算だ。悪くないと自分では思う。中には実は同性愛に興味を持っているのだとか、初恋の相手が同性だったので自分もゲイかも知れないとか、人生相談まがいの話をされて終わることもあった。残りは完全なノンケで、「そっち方面ではないのでごめんなさい」と律儀に連絡を寄越す奴程、春日の魅力に取り込まれて彼に夢中になった。もちろん肉体関係を持ったし、相手も満足したようだった。だから別れる時も常に穏便で、今でも稀に〈シエスタ〉に顔を出してくれる客もいる。

 成功しなかった、つまり連絡をもらえなかった四割は、それ以降は客としてバーに来ることはなかったが、店の評判を落とすような噂を立てる程暇人でもないようで、春日の目利きは確かなのだとマスターは感じていた。

 待つだけ、という春日の基本姿勢は、相手がノンケだからだ。向こうにその気がないのに押し倒せば、相手が男でも立派な強姦罪である。そこまでして男の身体が欲しかったわけではないし、春日は案外精神的なつながりを求めるタイプでもあった。だから環とは未だに縁が切れることがないのだろう。

 基本的に、目を付けた相手から連絡が来るまで、二週間程度は待つ。ためつすがめつしながら、春日の渡したメモを見たり仕舞ったりする相手を想像しながら待つのは、案外悪くない。しかし、その期間を超えれば春日はスッパリ諦める。連絡先を渡しただけでは、それを捨てられれば終わりだし、頬をかすめるようなキスくらい、男なら事故だと思って流してくれれば良い。

 そしてたいした傷を負うでもなく、春日は新しい出会いを探す。もちろん仕事第一なので、常に相手を探索しているわけではない。基本的に、偶発的に目に入ったダサメンが春日の胸を締め付けた瞬間に、恋に落ちるのだ。

 まさに〈シュウ〉がそれだった。これまで落としてきた誰よりも、春日を惹きつけてやまない。あの日からちょうど一週間になるが、残りの一週間を待って連絡がなければいつものようにあっさりと諦められるのか、自信がなかった。

 だから、積極的に待つことにした。待つことに積極的も消極的もないような気がするが、つまりは定休日の火曜日に、店の前で一日を潰そうと決めたのだ。

 月曜日の午後に、いつものようにリハビリに行き、「明日は来れない」という趣旨の説明をしてきた。医師の診察はその翌日である。なんとか火曜日のフリータイムを確保した春日は、仕事を終えてから明け方に部屋に戻って数時間だけ仮眠し、もしかしたら出勤途中の〈シュウ〉を見付けられるかも知れないという希望を抱いて、ここ数年間にはなかった程早起きをした。

 眠い目をこすって、アパートの部屋から下の道路を見下ろす。さすがに底冷えするこの時間帯に、不自由な足を引きずって階下に下りるのは躊躇った。なので、部屋の窓からの視察である。

 もちろん、それはまさか〈シュウ〉を見つけられるわけがないという予測のもとの判断だったので、見つけた時のことは考えていなかった。だいたい、出勤時刻もわからないし、見つけたとしても大声で名前を呼ぶのもはばかられる。かと言って、駆け足で追いかけられる足の状態ではなかったし、まぁ朝の視察は自己満足でしかないのだった。

 それでも春日は、本気で今日一日を監視で潰すつもりだったので、シフト制やフレックス勤務だった場合を考えて、時間が経てば階下に下り、店の前で〈シュウ〉を待つつもりだった。マスターにも昨夜許可を得ている。にこやかに「いいですよ」と答えてくれた。今後も頭が下がりっぱなしになるだろう。

 部屋の窓からあの特徴的な長身のボサ髪を探していたら、思わぬ人物を見かけてしまった。朝から縁起が悪い……もとい、気分の悪い相手だ。それは春日が通う総合病院の整形外科の、例の美形医師である。名札には確か〈陸坂〉とあっただろうか。覚えていたくもないのに、接客業の因果が、つい記憶の隅に残ってしまっている。

 視線を感じたのか、陸坂医師はふと立ち止まり顔を上げた。周囲をキョロキョロと見渡し、視線の位置を確認する。まさかアパートの二階から見られているとは思うまいと、春日がニヤリとしたところで、陸坂医師は不意にこちらを見た。バッチリと目が合う。

 相手は驚いたように一瞬目を見開いたが、それが自分の担当する患者だと気付いたのか、無愛想な態度を取ることはなかった。とは言え、好意的な態度にも見えない。春日が不敵な笑みを浮かべていたせいだとは思ったが、こちらも世話になっている患者としての態度がある。わかるかどうか不明な程度に、軽く会釈をしておいたら、相手も同じように返してきた。しかし二人とも、表情に笑顔はない。

 春日が陸坂医師に対して好意的でない理由ははっきりしているが、向こうが何故春日に対してあまり良い態度を見せないのかはわからない。まさか陸坂医師もイケメン嫌いで、春日は余程気に入らない容姿なのだろうか。診察時の春日の態度は、決して悪くはなかったと思うのだが。まぁ、自分の嫌う相手に嫌われるのは不思議ではないので、元は春日が悪いのかも知れない。

 陸坂医師はすぐに春日から目を離し、足早に歩き去って行った。早い時間からのご出勤ご苦労様、という感じだ。

「あー、朝からヤなモン見たなぁ」

 陸坂医師の背中を追うこともなく、春日は呟きながらボサ髪ダサ眼鏡を探す。それを十時まで続けていたが、さすがにしびれを切らして一旦中断した。

 ひとまず腹ごしらえである。とは言っても普段はまだ寝ているかどうかという時間なので、特に腹は減っていなかった。しかし、昼食の時間には〈シュウ〉が外に出る可能性も消せないので、朝昼を兼ねて、いつものようにカップ麺を食べておくことにした。あとは昨日の昼に買った、午前四時に消費期限が切れているおにぎり。数時間くらいの超過で腹は壊すまいと、春日は特には気にしない。

 万年貧乏人生活とは言え、タバコもギャンブルもやらない春日だったので、実は案外貯蓄はあった。マスターが格安で提供してくれているこのアパートのおかげで、家賃はかなり節約できているし、ほとんど部屋にいないか寝ているだけの生活なので、光熱費も最低限で済んでいる。あとお金がかかるものと言えば携帯電話くらいのものだし、それも一番安いプランでこと足りている。格好をつけてスマートフォンを買ったは良いものの、友だちがいないわけではないが、ゲイな上に恋愛すると他のことが無精になってしまうため、親しい友人は環くらいのものだった。同窓会になど、呼ばれたことはない。もちろん、実家を出て久しいし、春日の連絡先を知っている旧友もいないせいだと思いたいのだが。

 その携帯電話が、久し振りに震えた。最近病院通いなので、マナーモードのまま音を出すのを忘れていたようだ。

 画面を見ると、知らない番号である。

「〈シュウ〉か!?」

 まさかな、と、でも、が交じり合う。が、ここで出ないわけにはいかない。デフォルト設定のままのそっけない着信音が三回コールした後、春日は慌てて通話ボタンを押した。

「もしもし?」

 さりげない声を出したつもりだったが、期待のあまりか少し裏返りかけた。もし知り合いだったら恥ずかしい。

「……あの、宇野春日さん、ですか?」

 おっかなびっくり、といったようなその声に、長身を丸めて子リスのようになっている〈シュウ〉の姿が浮かんだ。もちろん想像に過ぎないが。

「そうだけど」

 声まで覚えられる程、あの時の〈シュウ〉は話をしていなかったため、相手が本当に待ち侘びていた相手なのかと、頭の中でアラートが鳴る。過大な期待は禁物だ。

「僕、先日あなたから名刺をもらって……あ、名刺じゃないかな」

 ああ、と春日は思った。〈シュウ〉だ。それしかない。去年とか言うならまだしも、「先日」メモを渡した相手は〈シュウ〉しかいないのだから。

「ああ、あの時の? 連絡くれてありがと」

 相手には見えないが、ニッコリ春日スマイルで声にも喜びを滲ませる。〈シュウ〉は今どんな表情でこの電話をかけているのだろうか。てか、仕事は?

「あの、何ていうか僕……」

 また「そういう趣味はないので」と断られることも当然予測できたので、春日は先回りして〈シュウ〉の言葉を遮った。

「今、仕事? 休み、いつ?」

 一瞬相手が息を呑むのがわかった。多分、押しに弱いタイプなのだろう。ますます春日の好みだ。そうやって春日の虜になっていく。

「今日は、遅番なんです。休みは不定期ですけど、明日なら空いてます」

 素直に質問に答えたせいか、相手はすっかり電話で断るタイミングを逸してしまったようだ。流れで明日は暇だと告白してしまっている。会おうと言われないわけがないのに。

「最寄り駅、どこ?」

 あまり遠くだと、時間的にも身体的にも辛いなと思ったが、幸いにも春日のアパートの近くの駅の名を挙げたので、正直びっくりした。近くに住んでいたのか?

「何なら僕、病院まで行きましょうか?」

 意外な言葉に、春日はさすがに絶句した。

 何故春日が病院通いしていることを知っている?

「あ、すみません。先日見たんです。あなたが松葉杖を突いて病院に入っていくのを。骨折ですか?」

「え、まぁ、ヒビ入っただけなんだけど」

「だったらリハビリですか? 二回見かけたものだから……」

 声を掛ける勇気まではなかったのだろう。しかし自分のことを覚えていてくれて、心配もしてくれた。春日は胸が高鳴るのを抑えられなかった。

「あの、じゃあ明日俺と会ってくれる? 話したいんだ」

 つまり正式に告白したいのだ。もう一度、〈シュウ〉の姿を見たいのだ。髪を整えて、眼鏡の奥の瞳を見てみたいのだ。

「……はい。じゃあ明日、待ってます」

「あ、えと」

 急に通話が切れた。向こうが切ったのか、電波が途切れたのかわからないが、今の時代突然電波が切れることはほとんどない。ということは、〈シュウ〉の方から切ったと見て良いだろう。これ以上話せないくらい恥ずかしくなったのか、何かのはずみで通話終了ボタンを押してしまったのか。

 どちらにせよ、時間や詳しい場所を打ち合わせする前だったので、春日は残った着信番号に掛け直すかどうかで迷った。結果、しばらく待っても向こうからかかってくる様子もなかったので、春日もそのままにすることにした。

 二度見たということは、〈シュウ〉は春日がリハビリに通う時間を知っているのかも知れないし、病院の場所だってわかっている。大きな総合病院ではあったが、人を待つなら表玄関付近か待合あたりだろう。もしもボサ髪ダサ眼鏡でなかった場合、春日には見つけられないかも知れないし、ならば相手に任せた方が良さそうだと思った。

 俄然明日が楽しみになってきた春日は、取り敢えず万年床に転がってもんどり打った。右の足首に少し痛みが走ったが、そんなことは気にしていられない。本当なら部屋中だけでなく、外にまで飛び出して走り回りたい気持ちなのだ。

 しかしまだ用心は必要である。これまでの相手の中にもいたように、人生相談で終わってしまうこともあれば、会ってから「ごめんなさい」と言われる可能性も消せないのだ。〈シュウ〉は人が良さそうだから、直接断られる線が一番濃厚な気がする。それで諦めがつくかと言われれば、甚だ自信はないが、そこは諦めるべきなのだろう。わざわざ会ってくれた〈シュウ〉に感謝しながら。

「あー、やめやめ!」

 自分の中の自信のない考えを、大声を出して振り払う。

「明日は何を着て行こうかなー、とか考えよう」

 常々前向きな春日なので、すぐに気持ちを切り替える。いつもは動きやすく着替えやすいようにスウェットを着てリハビリに通っているが、実は結構洋服には気を遣うのだ。イケメンだからと言って、顔だけではいけないというのが春日のモットーである。容姿もファッションも物腰も性格も、丸ごと良いのが真のイケメンなのだ。

 既に二回もスウェット姿を見られているし、バーでは制服だったので、〈シュウ〉には案外普段着には頓着しないと思われているかも知れない。それは不名誉なことである。

 早速持ち合わせの服を思い出して、頭の中でコーディネートを重ねてみた。十一月も半ばを過ぎれば、上着である程度ごまかせるのだが、病院内やどこかの店にでも入ってそれを脱いだ時に、どうにもだらしないのはいけない。

 春日は頭の中であーだこーだと考えているうちに、知らぬ間に眠りに落ちていった。

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