第4話

 病院から帰った夜、松葉杖を突いてなんとか階段を下り、店の中に入ると、マスターが驚いた顔で春日のギプスで固められた足を見て言った。

「昨夜の大きな音は、もしかして春日くんが事故でも起こした音かね?」

 事故という程のものではないのだ、と前置きして、春日はマスターに経緯を説明した。春日が階段から転げ落ちた騒音は、店の中にも聞こえていたらしい。

「それは災難だったね。カウンターには立てそうかい? 無理ならゆっくりしてくれても良いんだよ」

「いや、あんまりじっとしてるのも良くないって言われたんで」

 それはリハビリに関してであって、逆に普段の生活では安静にするようにと言われていたのだが、春日はマスターを慮って小さな嘘をついた。

「そうかね? じゃあ頼むけれど、無理はするんじゃないよ」

 細い目を一層細めて、マスターは春日をカウンター内に招き入れた。〈シエスタ〉は十二席のL字型のカウンターと、四人掛けのボックス席が一つあるだけなので、万一ボックス席に客が入った時はマスターが対応してくれることになった。まぁ、狭いカウンター内なら大きな移動もないし、なんとかなるだろう。

 十八時の開店時間ちょうどに、カランカランと心地の良いベル音を立てて扉が開いた。早速来客かと思って春日が「いらっしゃいませ」と言いかけたが、入ってきたのが環だったので、途中でやめた。

「よう、タマ、久しぶり」

「春日ちゃん、おひさっ。マスターもこんばんは」

「ああ、こんばんは。いらっしゃい」

 環に会うのは口で言う程久し振りでもなかったのだが、春日はいつもそう言う。いちいち「三日ぶり」とか「一週間ぶり」とか言うのも、心待ちに数えているようでおかしいし、もちろんそこまでしているわけでもなかったから。

「春日ちゃん、カーディナル」

「はいよ」

 常温の赤ワインとカシスを出し、春日は適量で割る。環はいつも長居するためか、定位置はL字の短い方の一番奥の席だ。そしていつも、開店直後に現れる。平日である今日などは、二十時頃にならないと他の客もなかなか来ないだろうし、環は春日と話しに来たのだということが知れた。

 足を引きずって環のところまで寄ってグラスを置くと、案の定彼女はその不審な様子を嗅ぎ取った。席を立ってカウンターの内側を覗く。ギプスをした春日の足が見えるはずだ。

「春日ちゃん、怪我したの?」

 心底驚いた表情をして、環は再び席に掛ける。いつもなら一杯目のワインカクテルをさっくり飲み干して、休憩もせずに次の注文をするのだが、さすがにまだその一杯目に手を伸ばすのも躊躇っていた。

「まぁ、ちょっと昨日階段から滑り落ちちゃってさ。カッコ悪い話」

 少し照れながら春日は言い訳のように呟く。恋心はもうないが、環に心配されるのは悪くない。

「昨日の夜は雨強かったもんね。春日ちゃんが病院行くくらいだから、よっぽど痛いんじゃないの?」

「今は固められてるから案外平気」

 ガチガチに固定されているわけではないので、いつ痛みが再発するかわからない不安はあったが、一応痛み止めももらっているし、別に強がりではない。だいたい、今更環相手に強がっても仕方がない。

「ふぅん。ならいいけど」

 ようやく一杯目に手を付け、春日は木製の小皿にナッツを盛って置いてやった。他の客が来る前だからできるサービスだ。

「次、キールね」

 痛くない、という春日の言葉を信じたのか、その後は環は相変わらずのハイペースで飲んだ。とは言え、居酒屋ではないので雑な飲み方はせず、きちんと風味や舌触りを楽しんでいる。

 ここ〈シエスタ〉には、マスターが気まぐれで仕入れた珍しいワインや、数少ないが厳選されている地酒なども置いているので、固定客の多くはそんな裏メニュー目当てだったりもする。一見さんは入りにくい店構えでもないのだが、たいていの客は誰かに紹介されて、次から一人、または新たな顧客を連れてやって来る、といった客回りだった。この店を気に入ってくれる客の九割は男性客で、人たらしで気遣いのある春日に相談事を持ちかけたり、誰とも口を利かずに酒だけを楽しんだり、マスターと昔から縁のある人間だったりする。

「タマ、今日はどうした?」

 春日と話を楽しんでいる他の客の邪魔をしないように、店内が賑やかになってくると環はいつも一人でひっそりと佇んでいる。女性客の少ない店だが、だからといってその珍しい女性客に手を出すような客は〈シエスタ〉の常連にはいない。環の来店率も非常に高いため、すっかり打ち解けている客もいるが、誰もが彼女を女だと信じて疑わないのが面白かったし、それ程環は完璧だった。ただの女装好きな男にしては、妙なポリシーがあるように見える。もちろん本人は否定するけれど。

「春日ちゃんが恋に落ちたって話だから」

 クスクスと笑いながら環は言う。まさかマスターから話が漏れたわけでもないだろうし、カマをかけられているのだろうか。

「何それ、ソースは?」

「ボクの勘」

「それは鋭いですこと」

 敢えて春日は茶化しておいたがもちろん否定はしていないので、環は満足顔である。

「ボクの後、初めてじゃないの?」

「そんなことねぇよ」

 強がってそう言ってはみたものの、思い返せばそんなことはある。半年前に環と出会い、告白して半分玉砕してから、親友のような関係に満足してきた春日は、長らく他の男に半端な好意を抱かなかった。別に環に遠慮などはしていないのだが、本気で好きになった相手としか付き合わないというポリシーは健在で、先日出会った〈シュウ〉に出会うまで、尻のポケットに入れたメモ帳を仕事以外に使うことはなかったのだ。

「良かった、春日ちゃんがまともになって」

「まともってな……」

 どちらかというと既にまともから遠のいているのだが、環からすれば、本来ゲイの春日が自分のような女装子に恋心を抱くよりも、きちんと男の格好をしたノンケに恋をする方が「まとも」なのだろう。

「で? どんなダサメン?」

 春日が自分よりイケメンには惚れないことを知っている環は、臆することなく言った。

「んー、ボサ髪ダサ眼鏡。身長だけはあるからちょっとムカつく。でも超可愛い、多分。いや絶対」

「なんでそこビミョーなの?」

「顔がよく見れてない」

「何それ? 春日ちゃんらしくないねぇ。まぁ、ボサ髪ダサ眼鏡の時点で合格か」

 へえぇ、と言いながら環は新しいドリンクを注文する。あまり手の込んだカクテルではなく、単純に赤ワインなどを飲んでくれるので、春日はバーテンダーというよりもウェイターのようだった。マスターは少し離れた場所でグラスを磨いている。頭髪と同じロマンスグレー色の顎髭に時々手をやりながら。

「で、いつもの方法で行ったの?」

「それが俺のやり方なんでね」

「ボクの時はダイレクトだったけどねー」

「あれはイレギュラーだろ」

 恥ずかしいことを思い出させるなよ、と思いながら、春日はほとんどない〈シュウ〉の情報を環に話した。こんなことを相談できる相手は他にいないし、相変わらず環は聞き上手である。話していると、自分で自分の気持ちが整理できていくようだ。

「じゃあ、結局何も手掛かりないんだ? まぁ、店の前で捕まったっぽいなら、ずーっと店の前に立ってれば、いつか会えるかもだけどねぇ」

 それも無茶な話である。帰りが遅い様子だとは言え、一般的な会社で日中働いている相手と、夕方から営業を始めるバーで働いている自分とでは、生活リズムが違うので出会う確率が低すぎる。店には小さな窓はあるが、接客業中に外ばかり見ている余裕はないし、仮に相手を見つけたとしても、この足では追うことさえままならない。

「やっぱ縁がなかったかな」

 自分を納得させるように、春日はわざと声に出した。環は上目遣いで彼を見る。

「そうかなぁ? そのわりには春日ちゃん、未練あるっぽいケドねぇ」

 何故ゲイでもなく、女でもない環が、こんなに春日の心を的確に把握しているのだろう。女装を趣味にしていると、女心とか恋心とかいうものへの理解が深まるのだろうか? 男の姿をしている環を見たことがないし、どこで何をして生計を立てているのかも知らない。住んでいる場所も最寄り駅しか聞いていないし、よく考えれば春日は環のことを何も知らないのだと思い知らされた。なのに環は春日のことをすべてお見通しの様子である。

「タマ、お前本当に男か?」

 思わず声に出して聞いてみる。環は澄ました顔で返した。

「最初にボクが男だって見抜いたのは春日ちゃんの方じゃない」

「そっか……」

 だよな、と半年前を思い返す。もう半年、という思いと、まだ半年、という気持ちが入り交じる。長いようで短い、短いようで長い。恋愛ではない、二人の奇妙な関係。

「でもボクも協力できることはするよぉ。春日ちゃんにはお世話になってるしね。新しい恋は、春日ちゃんに怪我をさせる程みたいだし」

「別にそのせいでボケっとしてたわけじゃねぇよ。あれは雨のせいだっつーの」

 それは本当だ。雨の中、急いで部屋に戻ろうとして、滑って落ちた。それだけなのだが。

 まさかそれが新しい縁を連れてくるとは、この時点での春日には想像もつかなかった。

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