第2話
あの日、普段は一人客か、せいぜい二人連れの男しか来ないバー〈シエスタ〉の唯一のボックス席を、四人組の男性客が占めた。二軒目か三軒目に寄ったのだろう。一人はかなり酔っていた。
(店の中で吐くんじゃねぇぞ)
そんな心配をしながらシェイカーを振っていた春日の元にも、男たちの大きな声が聞こえてきた。どうやら高校時代の同級生らしく、メンバーが集まらなくてポシャった同窓会の中でOKの回答をした、要するに暇人で残り物の奴らの飲み会のようだ。十年前はどうだこうだという話だったから、二十四歳の春日よりは歳上なのだろう。
その中に、一際冴えない男が混じっていた。明らかに他の三人とは毛色が違い、真面目そうだがオシャレさの欠片もないダサ眼鏡を掛け、思わず手入れしてやりたくなる程のボサボサの黒髪をしている。外は雨の匂いがしていたので、癖毛で髪がまとまらないのだろうかと思った。
ただ、身長だけはやたら高く、それに合わせて既製品のスーツを買ったためか、まったく身体に合っていなかった。まるで入学したての中学生の制服のようだ。今後の成長を見込んで大きめを作っておいた、というような。
しかし男を見る目のある春日は、ひと目で彼に興味を惹かれた。もともと自分よりイケメンの奴には興味がないし、そもそもそんな男はなかなかいるものでもなかったが。
そのボサ髪ダサ眼鏡は、四人の中で明らかに浮いていて、何故誘われた上に、参加OKの返事を出したのかと訝しく思っていたのだが、会話の流れにそれとなく耳を傾けていると、その理由がわかった。彼は仕事帰りに通りかかったついそこの道でこの質の悪い酔っ払いどもに捕まり、無理に引っ張って来られたようだ。確かに、一人だけ酔っていない。
断ったはずの高校時代の同窓会の、しかも中途半端な二次会だか三次会だかに無理矢理連れて来られ、所在なさげにしていた姿に、春日はキュンときた。守ってあげたい男がタイプの春日は要するにゲイなのだが、このバーは普通の客を相手にしている。彼はノンケの男にしか興味がないゲイなのだ。「そういう趣味はない」と言いながら、春日に堕ちていくノンケを見るのが好きという、少々悪趣味な男だったが、恋愛をしている時はいつも本気だ。
春日の視線に気付いたマスターは、「ロックオンしたかね?」と笑みを含んだ小声で呟いた。春日は満面の笑顔で頷く。
こちらのロマンスグレーが素敵なマスターは、実はまだ五十代らしいのだが、長い経営者業と接客業のせいなのか、品が良くて人を見る目がある。言ってもいないのに春日がゲイなのを見抜き、その上でアパートまで用意して雇ってくれているのだから、春日が彼に頭が上がらないのも無理はない。マスターは春日のことを実の息子のように思ってくれているようだが、血の繋がった娘がちゃんといる。男親としては、一人娘など目に入れても痛くない程可愛いのだろうが、成人すれば酒を酌み交わせる息子も欲しかったという気持ちがあったのかも知れない。左手の薬指にはいつも、カウンターのライトで光る指輪が彼の幸せを示すようにきらめいている。
春日はすぐさまズボンの尻のポケットからメモ帳を取り出し、自分の名前と携帯番号、アドレスを書いた。むしり取るように破り取って二つ折りにする。ちょうど手洗いに立とうとしていたボサ髪ダサ眼鏡に気が付き、チャンスを見計らって近付いて、春日はそのメモを相手の手に握らせた。
「連絡、待ってる」
不意打ちで彼の頬にキスをした。それだけでだいたいのことは伝わるものだ。
案の定ボサ髪ダサ眼鏡は驚いた顔をして、しかし黙ってそのメモをスーツのポケットに仕舞った。少し頬を紅潮させたところが可愛らしかったが、余程のド近眼なのか、牛乳瓶の底のような眼鏡のレンズに阻まれて、瞳を覗き込むことは叶わなかった。それでもこの相手は、磨けば光る逸材だと春日は確信していた。自分より身長が高いことだけが理想から外れていたが、まぁ春日が小さいわけではなく、相手が大き過ぎるのだから仕方がない。遺伝子には抗えないのだと自分を納得させる。
彼らはその後まだ一時間は居座ってやかましくしていたが、一番酔っ払っていた男が潰れてしまったのをきっかけに、仲間の一人のガタイの良い男がそいつを担ぎ出し、もう一人がカードで精算して店を出て行った。
ボサ髪ダサ眼鏡とは一度も目が合わなかったが、春日はきっと連絡が来ると確信していた。彼らの会話の中で、ボサ髪ダサ眼鏡が〈シュウ〉と呼ばれていることと、何やら福祉系の仕事をしているのだという情報を得た。詳しい仕事内容は知らないが、イメージ的に、なるほど帰宅が遅くなるはずである。
春日がメモを渡した相手から連絡が来る成功率は、大方六割くらいだったが、まぁそこらで手当たり次第にナンパしている大学生よりは効率が良いのではないだろうか。何しろ、こちらは連絡を待つだけなのだから、スルーされても付く傷は最小限である。もちろん、しっかりと相手を吟味して選んでいるのだし、普通のバーに来るノンケの客に店員の男が連絡先を渡して、反応が返ってくるだけでも儲けものというやり口だ。
あれから数日経ったが、〈シュウ〉からの連絡はない。
あんなに可愛らしかったのにな、と春日は若干諦めの気持ちを抱いていたが、相手の連絡先を聞いていない以上、反応を待つしかない。「待つだけ」と言えども、一応本気で好意を持った相手にしか連絡先を渡したりはしないのだ。成功率六割程度の手段なのだから、今回もまたスルーされたかな、と気持ちを切り替えれば良いのに、何故か今回はそういう気持ちにはなれなかった。
根元の黒い、中途半端な金髪の後ろ髪だけを伸ばして、仕事の時は結んでいるという、見かけはチャラそうな春日だったが、こと恋愛に関してはいつも真剣だった。気まぐれに自分の個人情報の一部を差し出す程軽率ではないし、落とす自信がなければノンケなど好きにならない。ルックスだけでなく、性格もなかなか良い春日は、男女問わずに好意を寄せられる人たらしだ。付き合う相手には苦労しない。それでも、自分が本気で好きになった相手としか付き合わないという、芯の通った意志を持っている。だからこその「待つだけ」なのだ。
相手にその気がなければ仕方がない。連絡がなければ自分から深追いのしようもないし、そういった意味では春日は自分のやり口を正当だと思っていた。
相手の意志を尊重する。
バー〈シエスタ〉に来る客は当然ノンケだし、客商売なのだから、その客足を遠ざけるようなことはできない。店のマスターに迷惑を掛けるようなことはしたくないという思いもあるし、何より自分自身のモットーでもあった。
来る者は拒むこともあるが、去る者は追わない。付き合って別れても、後を濁さないように最善を尽くす。
おかげで〈シエスタ〉の評判が落ちるような噂も立たないし、春日も長くここで働き続けることができているのだ。
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