これも一つのアイのカタチで

桜井直樹

第1話

「ああ、これは不全骨折ですね」

 痛む足を引きずりながら辿り着いた、アパートの近くの総合病院の整形外科で、宇野春日(うの・かすが)が医師から聞いた最初の言葉がこれだった。

 ひとまずレントゲンを撮り、それがパソコンを通じて担当医師のデスクトップ画面に映し出される。

 長らく病院というものに縁がなかった春日は、まずそのシステムに驚いた。そして次に訊ねる。

「不全骨折って?」

 ただの骨折とどう違うのかわからない。こちらは専門用語などわからない素人なのだから、もう少し親切に説明してくれてもいいだろ、と春日は思う。

「要するに、折れてはいないのですが、足首の骨にヒビが入っているという状態です。幸いズレてはいませんので、手術は必要ありません」

 幸い、と言うわりには全然良くなさそうな苦い表情をして、その若い担当医は、日頃の生活では無理をせず安静にしながら、リハビリに通うように、などと事務的に説明した。しばらくは松葉杖が手放せないという。

 春日が半ば上の空で聞いていたのは、骨にヒビが入っていたことにショックを受けたわけではなく、その担当医師にむかっ腹が立っていたからだった。

 何しろその顔は、普通に言われるイケメンを通り越して、芸術作品のような美形なのだ。しかも長身で、痩せ型ではありつつも必要な筋肉は鍛え上げられているように見える。白衣の上からそこまでわかるのは、春日の男を見る目が養われているせいだろう。

「それでは、待合で看護師がリハビリについて説明しますので、それを聞いてから帰ってください」

 まるで好みのタイプの女以外は患者ではないとでもいうように、胸に〈陸坂〉と書かれたネームプレートを付けた担当医師は、突き放すように春日を診察室から追い出した。それから待合にやって来た看護師が、何かプリントしたものを春日に手渡しながら説明をしてくれたが、要するにできれば毎日リハビリに通えということであった。安静にし過ぎると運動機能が低下してしまうのだという。

「ありがとうございます」

 陸坂医師には言わなかった挨拶を看護師にして、ニッコリと春日は微笑んだ。こちらもかなりのイケメンなので、普段ならどこででもこの笑顔で女性の頬を染めさせることができる。しかしこの病院の看護師たちは、陸坂医師を見慣れているせいか、春日の整った顔立ちと完璧な笑顔にも、社交辞令で応じるだけだった。

 それが陸坂医師にムカついた最大の理由である。

 ギプスをされ、慣れない松葉杖を貸与された春日は、何となくの勘と運動神経で要領を掴みながら、来た時よりも時間を掛けてアパートまで帰った。タクシーに乗ろうとしても乗車拒否される程の近距離である。

 なんとかアパートの前まで戻って来れた春日だったが、バーの二階にある自室までの階段が果てしなく長く感じられた。自分が働くバーのマスターの親切でそこに住まわせてもらっている身としては、まだ部屋が二階だったのが救いだと捉えよう。エレベーターなどという便利なものがついているわけもない、こぢんまりとしたボロアパートである。

 鉄製の階段を不定期な音を立てて上り、やっとの思いで自分の部屋の鍵を開けた。狭い1LDKだが、寝食するだけの部屋なので何の不自由もない。実際に不自由なのは、今の足の状態だけだ。

 きちんと扉の鍵をかけたことを確認して部屋に入ると、春日は一直線に万年床に伏した。

「ムカつくムカつくー!」

 そもそもの失敗は、昨夜の雨である。明け方まで激しく降っていた。バーの営業時間を終え、部屋に戻ろうと外階段を駆け上がっていた途中、足を滑らせた。バーの中からはアパートに続いていないため、部屋に戻るにはたとえドシャ降りの雨の中だろうと、外階段を使うしかない。傘も持たず、なるべく濡れないように急いで部屋に戻るはずが、足を滑らせて階段を転げ落ちてびしょ濡れになってしまった。急がば回れ、という諺を思い浮かべたが、時既に遅し、である。

 頭を打たなかっただけマシだと思いたいが、足首を捻ったな、という感覚はあったので、もう一度慎重に階段を上り、玄関で靴下とズボンを脱いで部屋が濡れないように気を遣いながら、洗濯機の中に着ていたものをすべて放り込んだ。そしてタオルで髪を拭きながら足首の状態を確認すると、内出血しているかのように腫れていたのだ。

 驚いて春日は救急箱を探したが、一人暮らしの男の部屋にそんなものは最初から用意されていない。仕方なく、肩凝り用のサロンパスを貼って、朝イチで病院へ行こうと思って寝た。

 そしてこの有様だ。

 骨折せずに済んだのは良い。ヒビくらいならカウンターには立てるだろうから、バーの仕事も休まずに済むだろう。しばらく続きそうな不安定な階段の昇り降りはキツそうだったが、今だってできたのだから、慣れればそう難しくはないはずだ。

 春日の頭の中を占めているのは、あのいけ好かない担当医師のことである。キレイな顔立ちをしていたが、人を見透かすような力強い目と、口角が上がっているのに優しく見えない笑顔。あんな男に、自分が負けていると思いたくはない。あそこの病院の看護師たちの目は節穴だろうか。いや、そうに違いない。本来なら春日の笑顔の方が余程親しげがあって、女心を揺さぶる効果があるのに。

「くっそ、マジムカつくなーっ!」

 部屋に誰もいないのを良いことに、昼近くの布団に突っ伏して春日は枕に八つ当たりして叫んだ。

 それから仰向けに体勢を整えて目を閉じる。

 何か良いことを考えよう。ムカつく美形の顔を思い出しても、胸くそ悪いだけだ。何より、自分の嫉妬心が嫌になる。ナルシストなわけではないが、純粋に前向きに、顔も身体も性格も、まとめて自分が好きな春日である。目を閉じたまま、記憶を数日前まで巻き戻した

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