その手に輝く蒼星

平賀・仲田・香菜

その手に輝く蒼星

「エルザがいるぞ、疎開の子だ」

「声をかけるの?」

「まさか! だってあの子は嫌な子だもの」

「僕は昨日髪の毛を引っ張られた」

「私は大切なお人形をバカにされたわ」


『こそこそと悪口を言うのならば聞こえないようにして欲しいものね』


 胸に強く抱きしめたライオンのぬいぐるみが醜くひしゃげる。お腹の底から叫び出したい言葉ごと締め付けているようで酷く息苦しさをエルザは覚えた。

 絞り出すように小さく呟いた言葉には原型もなく、誰に届くでもなく夏の木々に吸われていく。


「こんなに暑い夏の日に外で遊ぶなんて、バカな子ばっかり!」


 エルザは街に住んでいたときとは大きく違う待遇に苛立ちが募っていた。

 蝶よ花よと全てに愛されてきたエルザは十二歳の誕生日の少し前、地方の田舎に疎開を余儀なくされていた。物心の付く前に母親は亡くなり、父は軍の上層部。殆ど家に帰れないうえ、都会に一人娘を住まわせることに不安を覚えたエルザの父は、彼女を田舎の別荘に住まわせる決断に至ったのである。

 戦争間近とも噂されるこの頃、そのようにして田舎に疎開する子どもや世帯も多かった。国を縦断する蒸気機関車は実家に別れを告げる子どもたちの泣き声で溢れることも日常である。


『お魚は嫌い。骨が多くて食べられないわ』

『なあに、このお洋服。可愛くない服なんて私は着ないわよ』


 口を開けば文句ばかりのエルザであったが、それが許されていたのは父親の威光だけとも言い難いところ。産まれ持った気品と美貌が免罪符であったのである。

 薄く輝く金色の髪は絹の織物、黄色のリボンはエルザお気に入りの逸品のうえ高級品。そして深海のように蒼く大きな瞳に目を奪われる。潤いに満ちたそれは光を反射してきらきらと星の瞬きにも似ていた。

 しかし、生家周りの大人たちは嫌な顔一つせず彼女に甘くあったのであるが、疎開先の村ではそうもいかなかった。父の偉大さもエルザの洗練も田舎では意味をなさない。特に、村の子どもたちは彼女をノケ者にしていた。


「あんな子たちと遊ぶなんて、こっちから願い下げだもの」


 エルザが心を許す友人は、五歳の誕生日に父親がくれたライオンのぬいぐるみだけであった。立派なタテガミに凛々しい表情は気高さを思い起こさせる良い指標にもなっており、常に傍にいた。

 イライラとした態度を隠そうともせず、屋敷の門を潜る。広い庭の芝は丁寧に刈りそろえられ、花壇には季節の花々が競うように咲き誇るが、目線にはその明媚な庭園が写り込むことは稀であった。


「エルザお嬢さま? 遊びに出たのではないのですか、お早いお帰りです」

「あなたには関係がないでしょう。マルセル」


 マルセルと呼ばれた若い男は困ったような笑みを浮かべる。幼く生活力に難のあるエルザを守るべく父により遣わされた使用人である。年の割に皺の刻まれた顔はその仕事の大変さを物語っているよう。

 園庭の手入れをマルセルは中断し、ずんずんと早歩くエルザの一歩後ろに控えた。


「お昼ご飯は何にしましょう」

「ふわふわのパンケーキがいいわ。ハチミツはたっぷりと」

「またですか? パンケーキばかりでは栄養が偏ります。新鮮な野菜を買いつけましたのでサラダもいかがでしょうか」

「同じことを二度言わせないで。パンケーキとハチミツよ。それ以外のものを持ってきても私は食べないわ」


 家でも小言を聞かされてエルザの苛立ちはいよいよだった。煩い小言が大嫌いなうえ、彼の南部訛りまで腹が立つ。するすると蛇の様にマルセルの言葉をかわして、エルザは一人玄関の扉から屋敷の中へ踏み入る。


「ああ煩い、煩い。どうして皆んな嫌なことばかり言うのかしら」


 足音が屋敷中大きく響いていることに気付いたエルザは、少し落ち着こうと深く息を吸った。ちょうど息を止めた瞬間に合わせるように、背後から彼女に細い声が届いた。


「エリー、一緒にあそぼ? 見て、これお庭で拾った石なんだけど、磨いたらこんなに綺麗になったから私の宝物なの。エリーもやろうよ」


 エルザが大きく吸い込んだ空気は、そのままため息として外に出ていく。


「ジル、私のことをエリーと呼ばないで」


 エルザは父親以外からエリーと呼ばれることがとても嫌いだった。だから馴れ馴れしく、気軽にエリーと呼ぶジルのことも嫌いだった。

 ジルはマルセルの歳の離れた妹である。十歳になったばかりで、エルザの遊び相手として連れてこられたのである。

 年相応に頭の回転も遅く、ものを知らない鈍臭さ。野暮ったくて量の多い栗毛が鬱陶しい子ども。エルザがジルに思う印象は散々であった。


「そんな子どもっぽい遊びなんてやっていられないわ。それに本当はあなたも、マルセルと同じようにうちで働かなければいけないのよ」

「でも私、何もできないもの」

「まったく子どもね、まあいいわ。一人で遊んでいなさい、私は忙しいの」


 実のところエルザには急ぎの用など何もなかったが、呆れたように肩をすくめ、ジルの前から足早に立ち去ってしまった。ジルのような小さい子と遊ぶことなどまっぴらごめんとでも言いたげな様子である。

 背中に寂しい視線が向くのを感じるが、エルザはつかつかと自分の部屋にこもり、乱暴に鍵までかけた。


 エルザはジルに出会った当初、気まぐれにお人形で遊んであげた。それが原因で、ジルはエルザのことをいたく気に入ってしまったのだ。それ以来エルザを見かけるたび『エリー』と慕って近付くのである。ジルも、村の生まれではないために子どもたちからはノケ者なのであった。


「早くお父様のところに帰りたい」


 エルザはベッドに飛び込んで呟いた。口では強がるし、村の子どもたちやジルと遊びたいと思うわけでもないが、やはり同居する寂しさには堪えられない。

 枕元にはエルザの頭の高さほどにまで積み上がった手紙の束がある。その差出人は全て、彼女の父であった。エルザは人恋しい日、つまりは疎開してから全ての日に、何度も何度も繰り返して読み返す。彼女にとって、この田舎で唯一といえる安息なのである。

 最近の手紙に手を伸ばしたエルザは、一文字一文字をゆっくりと咀嚼するように都合十数度目の黙読を始めた。それを読み終えるころ、部屋の扉を軽く叩く音に気が付いた。


「だれ?」

「ジルだよ。マルセルお兄さまに、お手紙を届けるよういわれたの。旦那さまからみたい」


 がばと飛び起き大股。普段のエルザであれば品のないとして嫌う動きを見せる。彼女にとって、父からの手紙にはそれだけの力があるのであった。

 扉を開くとぶっきらぼうに手紙を差し出すジルの姿。失礼さに怒ることも忘れて、エルザはひったくるようにして手紙を受け取ってまた部屋に戻ってしまった。

 再びベッドにうつ伏せに倒れ込むと、顔を綻ばせながら読み進めはじめる。ざらざらとした便箋の触感、空気中に溶けるインクの匂い、そして見慣れた父親のくせ字。エルザはだらしなくにやける様子を隠しもしない。

 彼女にとっての至福の時間であったが、読み終えるころ、彼女の世界は一変した。

 近況を知らせる手紙は便箋や筆致ごと様子が変わり、父が暴徒に殺された旨の報告書に目を通すこととなったからである。


 ーーー


 ジルは逃走中のマルセルと袂を分かちていた。給金の当てがなくなり、エルザの面倒をみる義理をなくしたマルセルが金目の物を盗みだして最寄りの駅へ馬車を走らせている途中のことであった。

 日がとっぷりと暮れた薄明るい月夜。蒸し暑い夏の夜である。ジルはひょこひょこと小さな歩幅で数時間は歩き続けている。とうの昔に足のマメは潰れて血だらけ。渇いた身体を小川の水で潤しながら少しずつ屋敷へと歩を進めていた。

 着の身着のまま身一つ、でもなく。ジルの手には磨きあげようとしている庭の石が握られていた。少し燻んだ青色で、ツルツルとした触り心地のそれはジルのたった一つの宝物であった。

 なぜマルセルと逃げないのか。なぜエルザの元へ向かおうとしているのか。冷たくあしらわれることが常であったのに、なぜ。

 幼い頭でぐるぐると考えを逡巡させていたが、賢いとはいえないジルは屋敷に辿り着いても答えに至ることはなかった。

 外から確認するに、部屋のどこも灯りは点っていない。おそらくエルザはまだ部屋に篭りきりなのであろう。

 ジルはそっと、できるかぎり音を立てないよう玄関を開いた。ランプに火を点し、辺りを見回す。マルセルが荒らしたそのままに散らかり放しである。しかし、違和感もあった。


「こんなに、散らかってたかな」


 最後に目にした記憶よりも幾分か散らかったようにも見えて、ジルは訝しみながらもエルザの部屋を目指す。マルセル以外の盗人が侵入しているような危険も十分に考えられるが、ジルの遅い頭には想像が難かった。


「エルザ。どこ? 部屋にいるの?」


 返事はなく、ジルの問い掛けは夜の闇に吸われていった。やはり部屋で動けないのだろう、そう思ってエルザの部屋に向かう。

 ランプの頼りない薄明かりだがジルにはそれで十分だった。勝手知ったる他人の家というか、エルザと過ごした日々が彼女の歩みを間違いないものとさせていた。

 厚いカーペットの段差、大きなテーブル、太い柱。階段を登ったらすぐエルザの部屋。何度も通った道筋。


『ノックすること!』


 赤色にペンキで塗られた掛け札が目に入る。これはもちろん、ジルが何度もノックせずに扉を開けたことに由来する。


「エリー?」


 扉を叩き、問いかけるが返事はない。数分の後。


「開けるね」


 ジルがそっとドアノブに手をかけると、きいと小さな音を立てて開け放たれた。

 ゆらりランプの灯りが揺らぐ。締め切られていた部屋の空気が流れ始める。

 ベッドに目を向けても、机に目を向けても、エルザの姿はない。エルザは部屋の中央で、埃だらけのカーペット

 に額を擦り付けて座り込んでいたのである。

 面食らって動けなくなったジルであるが、涙の枯れたかすれ声が耳に届き始めた。


「わ、私。何もなくなっちゃった。パパも、財産も。何もできなくて、どうしたらいいのかもわからなくて」


 惨めで見窄らしい少女の姿。うるおい豊かだったブロンドもパサついて跳ねている。洗濯もしてないのだろう、皺だらけのドレスも悪目立ちだ。

 みる影もないエルザの姿に思わず目を逸らすと、エルザがいつも大切に抱いていたライオンのぬいぐるみが目に入った。乱雑に投げ出されて薄汚れたライオンにかつての威厳はなく、もはや野良ネコといっても差し支えない。


「やろうとしてみたけどご飯も作れなくて。お裁縫も、刺繍も、洗濯もできなかった。こ、乞食か奴隷になっちゃう。どうしたらいいの」


 ジルは宝物の青い石を取り出してじっと見つめた。夜の闇はそれの輝きを失わせている。深い青色の瞬く星の印象はなくなっている。

 ジルがエルザに向かって歩き出すと、床板が音を立てはじめた。その音にびくりと肩を振るわせるエルザ。ジルは彼女の前で膝立ち、骨張りはじめたエルザの肩を起こした。

 エルザの目は虚で、目の前にいるジルすら捉えきれていないようにも見えた。美しかった青色の瞳は真っ黒な深海に沈んだようにも錯覚させる。


「エリー。教会にいこ? あそこは孤児院があるから」

「い、いや。あそこの子たちはみんな私が嫌いに決まってる。何もできなくて何もない私が行っても虐められるだけよ」

「だいじょうぶ。私も一緒に暮らすから」

「ジルも?」


 ジルは微笑み、頷いた。


「私も何もできないよ。だけど孤児院で練習すればきっとできるようになる。一人じゃがんばれなくても、エリーと二人でならきっとがんばれるわ」


 私も身寄りがなくなっちゃったから、とジルが照れくさそうに笑うと、ようやく少しだけエルザも笑った。


「ゆっくり寝て、明日二人で教会にいこ? 部屋を借りるわね」

「待って」


 旧使用人の部屋へ向かおうとするジルであったが、か細い声と腕に背を引かれた。


「ジル、お願い。私のベッドで一緒に寝てください」


 それはジルにとって思いがけない言葉であった。強く、気高く、高飛車だったエルザからそんなことを請われるとは考えもしなかったからである。


「いいよ」


 その一言にエルザの笑顔はようやく力を持ちはじめ、二人は埃っぽいベッドに共に潜り込んだ。


「エリー」

「なに?」

「エリー。ふふっ、エリー」

「だからなによ。ジルったらどうしたの」

「呼んでるだけ。エリーって呼んでも怒らないのと、一緒にベッドに入っていることがとっても嬉しいの」


 くすくすと笑いを堪えきれないジル。エルザも若干の困惑をみせるが、何度も愛称を呼ばれるうちに段々と照れの方が大きくなった。


「ジル」

「なに?」

「その、手を繋いで眠ってもいい?」


 夜の帳はエルザの表情を隠すが、隣で横になるジルはエルザの顔が熱を持つことを感じていた。

 絡めた指はジルの返事。じんわりと伝わる熱と汗に最初は小さな違和感を覚えたが、気付けばエルザは眠りに落ちた。


「眠っちゃったね」


 空いた片手でエルザの髪を撫でるジル。顔を近付けてじっくりと彼女の顔を見るうち、闇に目が慣れる。長いまつ毛が呼吸とともにゆっくりと揺れていた。

 月の薄明かりは、再会後にエルザの青い瞳をみることを叶わせなかった。


「エリー。私があなたを輝かせるわ」


 ジルはエルザの頬に軽く口付けると、繋いだ手を強く握り直した。

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