雨宿りはお気に召すままに
蒼桐大紀
01.六月の雨
「あ、降ってきちゃった」
空から落ちてきた雫を見上げ、
大学を出たときはまだ薄曇りだったのに、雨雲はまなかを乗せた下り列車を追い越してひと足先に北上していたようだ。
降り始めた雨はぽつん、ぽつんと正面に見える駅のロータリーに黒い染みを作っている。六月の雨は粒が大きく、けだるげに目の前の光景を雨模様へと染め変えようとしていた。
まなかは空を見上げてためいきをついた。肩の辺りで揃えた髪がはらりと揺れ、ライムグリーンのパーカーにこぼれかかる。
こんな日に傘を忘れてしまう自分のうっかりがうらめしい。視界にコンビニがちらりと入るけれど、傘を買うのはためらいがあった。なるべく節約したいし、寮暮らしなので下手に物を増やしたくない。
「よし」
まなかは気持ちを切り替えて、パーカーのフードを被ろうとした。その時だった。
「安積さん?」
「あ、
声に振り向くと、同じ寮に住む八郷しずりが立っていた。まなかより二つ上の三年生。ただ、まなかは一年浪人しているので、年齢はひとつ上のはずだが、立ち姿は自分よりずっと落ち着いて見える。
濃紺のクルーネックシャツに白のコットンスカートというシンプルな取り合わせは、ゆるい三つ編みにまとめた髪と相まって清潔感のある印象が強調していた。
「いま帰り?」
「はい。八郷先輩は?」
「私もいま帰るとこ。同じ電車だったみたいね」
「ええ」
うなずくまなかに、しずりは空を指さして小首をかしげた。
「もしかして、突っ切っていくつもりだった?」
しずりの穏やかな眼差しの中には、かすかに咎めるような色があった。まなかはばつが悪くなって、中途半端に上げたフードから手を放して苦笑いをする。
「行けないことも、ないかなー……なんて」
「んー……、ちょっと無謀なんじゃないかな。ほら——」
「あ……」
大粒の雫はいつしか霧雨に変わり、辺りをすっかり雨の景色に塗り替えていた。煙るロータリーに入ってきたバスの姿が少し霞んで見える。
呆然と空を見上げるまなかの隣りで、ばさりと傘を広げる音がした。
「ほら」
「え?」
まなかがそちらを見たとき、しずりが傘を差しかけていた。駅の軒先からはみ出したブルーの折り畳み傘に、ぱらぱらと雨の雫が落ちかかっている。
「こっちにお入り」
自分より少し上にあるおだやかな瞳を見返して、まなかはおずおずと手を伸ばす。
「じゃあ、お言葉に甘えますね」
「ん」
そうして、二人でひとつの傘に収まった。入れてもらった手前、傘を持とうとするまなかに「気持ちだけでいいわよ」としずりはささやかに微笑む。
まなかは整った顔立ちに浮かぶ微笑に見とれる思いがした。
はっと我に帰って歩調を合わせ、しずりの隣りで歩みを進める。
入寮以来、学科が同じということもあって、しずりにはなにかと気を回してもらっていたと思う。寮の生活のイロハからアルバイトをする際の注意点、本格的に専攻科目へ進む前に取っておいた方がいい講義の話から、おすすめの教授の話などなど……。
実際、しずりのアドバイスは大いに役立ったし、雑談をしていても勉強になることが多い。
良い先輩に出会えて良かったな、とまなかはあらためて思う。
「大丈夫。肩、濡れてない?」
「あ、はい。平気です」
まなかはそう答えたが、少し上の位置からのぞき込まれて「こら」と額を小突かれる。
「いいから。もうちょっとこちらにおいでなさい」
「あ、あははは……はい」
しずりはときどきこんな風に芝居がかった言い回しを用いる。それがなんとも面白く、まなかはそんなしずりが好きだった。
(ん、あれ?)
するりと出てきた「好き」という言葉にわずかな引っかかりを覚えたとき、しずりがぽつりと口を開いた。
「安積さん、この後暇?」
「え、あ、はい」
「ちょっと雨宿りしていかない。近くに良いお店があるの」
「じゃあ是非」
(カフェとかかな……)
そう思ってしずりの視線の先を追うと、霧雨で曇った視界の中に軒下にずらりと並ぶメニューボードの黒板が飛び込んできた。上半分がガラス張りになった木の扉の隣りに店名らしき文字列を認めて、まなかは思わず口に漏らした。
「バーですか?」
「正確にはバルね」
しずりはやんわりと訂正して歩をそちらに向けた。
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