第5話 負のスパイラルな発想
4人の中での中心は、当然ではあるが、先輩だった。
何と言っても、全員を知っているのが、先輩だけだからである。先輩の彼女と、マサトは、1,2度会った程度で、それほど知っている仲というわけではないし、何と言っても、今回は一緒についてきたという程度のことだったので、中心になれるというわけではなかった。
だから、店を決めるのも先輩で、最初から決まっていたかのように、さっさと歩く。後の3人はついていくのにやっとという感じであった。
だが、先輩が連れて行ってくれた店は、マサトも知っている店だった。
といっても、常連というわけではなく、何度か、ランチで来たことがあるという程度だった。
まだ、大学1年生なので、そこまでよくは知らない。先輩たちの方がよく知っているだろう。
先輩は2年生、彼女さんも2年生であるから、彼女の友達ということになると、オカルト少女も、2年生ということになる。
見た目はおとなしそうに見える。髪はおかっぱで、終始下を向いているので、表情は分からないが、まるでお人形さんと言ってもいいような雰囲気は、
「まるで座敷童のようではないか?」
と感じさせるようだった。
彼女はほとんど顔を上げない。
「俺が、見つめているのが分かるからかな?」
と思って、顔をそらすと、それでも、彼女は顔を上げようとしない。
「これが彼女の普段の姿なのだろう」
と思うと、あまり気にしないようにしようと思った。
先輩と彼女さんは、二人で、二人にしか分からない会話を少ししているようだったが、それが終わると、
「ああ、すまない。ちょっとこっちの業務連絡があってね」
と言って先輩が笑った。
どんな話なのか分からなかったが、
「業務連絡」
という言葉を使うなど、実に愉快だ。
これが先輩が、いつも後輩から慕われているところなのかも知れない。
相手が誰であれ、同じペースで話すのが先輩のいいところであり、ため口であっても、敬語であっても、まったく違和感を感じさせない。彼女さんも先輩のそんなところに惚れたのだろう。
彼女さんは彼女さんで、先輩に対して、遠慮がない。
「先輩に対して、正面切って何かを言えるのは、彼女さんだけですね」
というと、先輩も顔をほころばせて、
「そうなんだよ。困ったものだよ」
と言っているが、一向に困っている様子もなく、まるで、
「もっと言ってくれよ」
とでも言わんばかりである。
そんな二人に比べて、孤立しているマサトと、終始下を向いている彼女は、二人の仲睦まじさを見ながら、それぞれでキョロキョロしていた。
マサトの方は、先輩たちにあてられて、目のやり場に困っているようだった。これが、普通の反応だろう。
しかし、彼女の方は、終始下を向いて、下を向いたまま、キョロキョロしているのだ。目の焦点が合っているかどうかすら分からない。意地でも目を合わさないようにしているとしか思えない。
そんな彼女は、どうも、先輩と目を合わすことを躊躇っているようだ。意識はしているが、まったく目線が合わないところを見ているのだった。
どうかすれば、マサトの方が視線が合いそうで、マサトも、彼女の顔を垣間見ようとすると、さすがに敏いのか、こちらの様子が分かるようだ。
「このままでは気まずくなる」
と思い、こちらも視線を下げてしまったが、それでよかったのかどうか、少し考えさせられるのだった。
「まあ、しょうがないか」
と考えたが、先輩が口を開いてくれるのを待つしかなかったのだ。
「彼は、俺の後輩で、マサトというんだけど、よろしくな。昨日、飲みながらいろいろ話をした中で、小説の話になったんだけど、彼も何か書いてみたいということだったので、それなら君と話をするのがいいのではないかと思って、誘ってみたんだけど、よかったかな?」
と、先輩は切り出したが、
「ええ、かまいませんよ」
と言って、彼女は少しだけ顔を上げて返事をしたが、まだまだ普通に会話ができるような顔の角度ではなかった。
顔の表情は何と分かるかどうかというところであったが、
「そこまで人見知りなのか? こんな人見知りな人、初めて見た」
と感じるほどで、思わず声に出してしまいそうになるほど、本心だった。
それでも、先輩は構わずに、話を勧めようとしているのを見ると、
「本当にこの人は、こんな性格なのかも知れない。でも、あの先輩や、彼女さんが慣れてるのだから、俺も慣れることができるようになるんだろうか?」
とも感じた。
先輩も彼女さんも、確かに懐の深さは感じざるをえないが、ここまで暗い雰囲気の人を集団の中に入れると、雰囲気が悪くなるということが分からないわけでもあるまいのに、そんなことはおくびにも出さないというのは、それだけ、信頼が厚いのかも知れない。
「マサトさんは、小説を書くのが好きなんですか?」
といきなり、彼女に聞かれたが、
「ええ、書いたことはないんですが、奇妙なお話が書けるようになりたいという思いはあります」
というと、彼女の口元がニンマリとしてきたのが分かり、そこで、感情を感じることができるのだろうと思ったのだ。
「申し遅れましたが、私は、つかさと言います。よろしくお願いします」
と、言って挨拶をしてくれた。
大学生と言っても、皆、個人情報の観点からなのか、それともブームなのか、一歩か二歩、仲良くなるまでは、下の名前で呼ぶようにしている。女性から、下の名前で言われると、前日のソープを思い出し、
「まるで、源氏名のようだな」
と、少し不謹慎かと思われるような発想をしてしまったことが、少し恥ずかしかったのだ。
「奇妙な小説のどういうところが好きなんですか?」
と聞かれて、まずは、好きな作家の名前を挙げて、
「僕はあの作家の小説を見て、まず、これが大人の小説か、と感じたんです。そして、何と言ってもすごいと感じたのが、ラストの半ページくらいのところで書かれている、大どんでん返しのような話を読むことで、それまで奇妙な雰囲気に包まれていたものが、一気に謎が解かれて、まるで、霧の蔓延った森の中を歩いていて、急に視界が晴れたかのような、そんな気持ちになる時が、この小説の醍醐味なんだと思うことで、この本を読んでよかったと思えることですね」
というと、
「ああ、あの作家のお話であれば、そうですよね。私もそうなんですが、今、マサトさんが言われたような話を書きたいと、皆さんが思っていると感じます。それは、やはり、この小説家の本を読んで、内容だけではなく、その手法に鮮やかさと、大人のあざとさのようなものを感じるからではないでしょうか? 特に最近は、ライトノベルなどという、簡単に読めたり、ケイタイ小説などというような、必要以上に空白があって、あれを読みやすいと思っているかのような、小説というものを勘違いしている人が多いと思うんです。私はそれを嘆かわしいと思っています」
それを聞いて、マサトも大げさに頷いた。
その横から、
「そうなんだよね。俺も、ライトノベルだったり、ケイタイ小説とかは大嫌いで、ケイタイ小説のように、顔文字を使ってみたり、昔あった、〇ちゃんねるというような、低俗なサイトをそのまま小説にしたりするようなものは、あんなものは小説ではないと思っていますからね」
と、先輩が言った。
確か以前に、先輩は、よく〇ちゃんねるの創始者として有名な男がよくテレビなどで、コメンテイターとして出演しているのを見て、
「なんだ、こいつは、低俗極まりない」
と言っていたのを思い出した。
その時は、こいつがまさか、創始者だとは思っていなかったようで、後でそのことを知って、
「やっぱり、あいつは最低だったんだな。俺の見立ても悪くないだろう?」
と言って、自慢していたのを思い出した。
普段は人が自慢しているのを見ると、あまり気持ちのいいものではないので、相手は先輩であっても、冷めた目でやり過ごしていたが、こいつのことに関しては激しく同意したので、先輩を冷めた目で見るようなことはしなかった。
時代が時代だったということもあるが、コメンテイターのくせに、あいつは、ほとんど、スタジオにゲストとしてきたことはなかった。ほとんどが、リモート出演というもので、見ていて、
「こいつ、舐めてんのか?」
と思ったほどだった。
当時は、世界的なパンデミックのせいで、テレビ関係者も、相次いで、伝染病に罹っていた時代だった。
そんなのを見ていると、
「時代は変わっていくものだ」
と思い、元々、ゆっくりではあるが、デジタル化が推進されてきたこの国でも、伝染病のせいで、リモートワークを、政府が率先して、行わなければいけなくなっていた。
だが、実際には、政府の要人たちが、自分たちは、
「集まるところにいくな。集まって酒は飲むな」
などと言っておいて、送別会や、忘年会などやってみたり、キャバクラなどの夜の街に繰り出したりしていて、議員を追われることになった人が後を絶えない時代でもあった。
政府要人のくせに、
「今流行っている伝染病は、どうせ、風邪に毛が生えたほどのものでしかないんだ」
とでも言わんばかりだったのだ。
そんな状態で、混沌としていた世の中だったが、そんな時に、またしても変なやつというのは、一定数出てくるもので、そんな中でも、いわゆる、
「迷惑ユーチューバー」
と呼ばれる人種が、世の中の癌となっていたのだ。
「迷惑ユーチューバーなどという甘い言い方をするから、つけあがるんだ」
というほど、迷惑などと言う言葉で片付けられないほどの極悪なことをしていた男がいたものだ。
あくまでも、容疑は、
「会計前のものをスーパーで食べた」
という窃盗であったり、
「購入したものを後から、偽物呼ばわりして、返金しろと脅迫まがいのことをした」
という業務妨害であったりしたが、本当は罪に問えない、こんなことと比較にならないほどの極悪なことを続けてきた男が、逮捕され、裁判で有罪となると、黙って従えばいいのに、さらに上告などをするという、往生際の悪さを示していた。
結果は、最高裁で上告棄却で、罪は確定したのだが、そもそも、こんな男が台頭してきたということが問題なのではないだろうか。
ユーチューバーというのは、面白い動画をネットにアップして、その再生回数などで、お金が入ったりするものだ。
「面白ければいい」
ということで、迷惑をかけている連中が世界中にいた。
警察を挑発して、逮捕されるまでを他人に撮影させて、それを動画として公開する。それを面白がって、視聴者は見るのだ。何とも世紀末的な発想だといえるのではないだろうか?
または、スタントマン顔負けのことをして、警察やレスキューの出動を余儀なくされるようなことをしたり、世界遺産を壊したりと、犯罪ギリギリのことを平気でするのだ。
やる方のやる方だが、見る方も見る方だ。誰も見なければ、そんな極悪非道な行為は起こらない。そんなことをする連中のことを、
「迷惑ユーチューバー」
などという中途半端な言葉でいうものだから、あいつらは、
「どうせ、少々のことをやっても、迷惑という程度で済まされるんだ」
という、幼稚な発想しか思い浮かばないのだ。
それを思うと、中には真面目に製作というものに向き合っている人もいるだろうが、一部のバカな連中のために、皆がバカだと思えてしまうのは、真面目な人にも悪いし、見極めたいと思っていても、バカがいることで見極めが困難になることは、実に厄介なことであった。
こんなユーチューバーを見ていると、喫煙者ともかぶるところがある。
今は、受動喫煙に関しては厳しい法律ができて、
「基本的には、自宅以外の室内で、喫煙をしてはいけない」
ということになっているのだが、それを無視して、歩きながらタバコを吸ったり、パチンコ屋などの表の通路では、パチンコ屋の敷地でもないところで、ぷかぷか吸っているバカどもも散見される。
そんなものを見ていると、
「タバコを吸う連中にロクなやつはいない」
と、十把一絡げでくくって見てしまう。
それではいけないと思うのだが、どうしても、そう見えてしまうのだ。ルールを守らないバカどもが悪いのだが、そんなバカどもを一番嫌っているのは、禁煙車ではなく、むしろ、
「ルールを守って吸っている喫煙者」
なのではないだろうか。
「あんなやつらがいるから、俺たちまで白い目で見られる」
と、思うのは当たり前であろう。
それは、ユーチーバーにも言えることで、それだけ、ルール違反をすると、
「すべての人間を敵に回すことになる」
ということを、分かっていないのだろう。
だからこそ、バカなことを繰り返すのであって、そんな連中は、どうせ、
「死んでも治らない」
に違いない。
元々、禁煙の考え方は、昭和から平成に変わるくらいの頃から言われ出した。
そもそも、喫煙者は、戦後からの調査で、成人男性の8割が吸っていたという時代があったことも分かっている。何しろ、喫煙者が、横行していた時代なのだ。
会社の事務所や、会議室で、会議中でもぷかぷか吸っているのだ。壁はヤニの色で黄色かかっているところに、黒い色が混ざってくれば、もう、少々の掃除ではまったく落ちない。または、ソファーの上に、タバコの灰が落ちることで、焼け焦げた10円禿のようなものがあったりしたものだ。
電車の中にも座る椅子の前に灰皿があり、電車内でも吸えたのだ。
そのうち、
「副流煙」
「嫌煙権」
などという言葉が流行してきて、マナーの問題や、防犯の問題からも、禁煙が叫ばれるようになった。
特に、建物の中にあるトイレなどでは、
「ここは禁煙です。防火のセンサーがついていますので、煙に反応し、スプリンクラーが作動する可能性があります」
などと書かれていた。
昔はそんなこともなかったので、トイレにも灰皿があったりしたが、撤去され、そのうちに、電車にも、何両かに1両、禁煙車が設置されるようになった。
そのうちに、駅のホームでの喫煙ができなくなり、大きな駅に設置されている喫煙ルームでしか吸えなくなった。会社の事務所や会議室などでは絶対に禁煙、そんな時代がやってきた。
それが少しずつ進んできて、今では、自分の家か、自分の車の中でしか吸えなくなった。
公道は基本的に、条例で決まっている程度でしかないので、今でも、咥えタバコをしながら歩いているバカを見ることがある。
「周りからの冷たい視線に気づかないのだろうか?」
と感じるが、
「きっと、本当に気づかないのだろうな」
と感じるのだった。
ここ30年でやっと、街がきれいになってきた感じはするが、まだまだ喫煙者もいるようで、政府も国民から税金として、金を搾り取るためには、たばこ税もバカにはならない。そうなると、どこまで、ここから先、受動喫煙をどうしていくか、政府の真剣さが問われるところであろう。
とにかく今の政府に過度の期待は禁物で、今の政府は、大日本帝国と、ナチス・ドイツの悪いところだけを切り取って、受け継いでいるようなひどい政府なので、それを思うと、「まったく信用できない」
と言ってもいいだろう。
何といっても、戦争をしている片方の国に加担して、その国の大統領がリモートで国会出演した時に、国会議員全員が立ち上がってスタンディングオベーションをしているのを見た時、思わず、
「ハイル・ヒトラー」
と言っているかのように見えたくらいだからである。
しかも、大統領は、米国の議会で、
「リメンバーパールハーバー」
を口にしたというではないか。
そんなところに、何を好きこのんで、援助しなければいけないというのか。
いまだに伝染病の影響で苦しんでいる国民、自然災害によって、苦しんでいる国民を放っておいて、海外に援助など、ありえるのだろうか?
さらに、疑問に感じたのは、日本の国会議員を相手に演説をした時の、大統領の言葉に、
「アジアの他の国に先駆けて、日本が援助の声を挙げてくれた」
と言っている。
それに感謝をしたいということを演説していたが、
「ちょっと待て」
と考えたのだ。
そもそも、攻めてくる国も攻められている国も、ぞれぞれの事情を抱えての状態だったはずだ。
侵攻したといっても、攻められた方も、攻められることを見越して、軍事訓練をしていたではないか。
確かに、
「それは仕方がないことだ」
というかも知れないが、外交努力よりも前に、そういう行動をしていれば、攻めてこられても、文句はいえないはずである。
せめて来られて初めて、諸外国に助けを求めるというのは、順序が違うのではないだろうか。
「攻めてきた方が一方的に悪い」
ということになっているが、果たしてどうなのだろう?
どちらの国にも言い分があって、戦争状態に入ったのである。
ほとんどの国が、エネルギーを攻めてきた国に頼っていて、さらに、戦争状態なのである。
そうなると、どの国も基本的には、
「中立」
を表明するだろう。
中立ということは、どちらの国に対しても、援助してはいけないというのが国際法である。
宣戦布告にしても、最後通牒にしても、それで戦争状態を明らかにさせることで、第三国に対して、自国の立場をハッキリさせるためのものである必要があるからだ。
つまりは、国交断絶している相手に攻め込んだ時点で、宣戦布告も同じこと。その状態で、中立の立場、特に日本には、非戦闘の憲法が存在するため、選択肢は、
「中立」
という一つしかないのだ。
それなのに、どちらかの国に対して援助したり、武器を供与するということは、加担しているのと同じこと、中立国がそんなことをするのは、それこそ国際法違反のはずである。
だとすれば、攻撃している国が、日本を敵国としてみなすのも、当然のことで、攻め込まれても文句はいえないだろう。
いくら日米協定があるとはいえ、核戦争の恐怖から、日本が攻め込まれてもアメリカは助けてはくれない。それは、今攻め込まれている国に対して介入できないのだから、当然のことであろう。
さて、そうなると、日本という国がしなければいけないのは、
「介入しないこと」
である。
下手に介入すると、攻め込んでいる国から、相当のエネルギーを買っているので、そのうちに、物資が不足してきて、それまでは、
「平和のため」
などと言って、援助が当たり前のことのように言っていた国民が、生活が少しでも苦しくなると、政府に対して不満を持つようになるだろう。
自分たちが賛成していたにも関わらずである。
しょせん、日本というのは、ここ80年近く、戦争を知らない国家なのだ。
憲法9条に守られて、さらには、アメリカの核の傘に守られる形で、日本は、
「平和ボケ」
をしてきたのだ。
先ほどの、演説が、ナチス・ドイツの悪いところを継承しているのであれば、今度は大日本帝国の悪いところの継承として。
今回の侵攻において、攻められている国の地名を、今までは、基本として、
「攻めている国の発音」
で呼んでいたが、それを、
「敵性語」
ということで、
「攻められている国の発音ではないといけない」
という理屈を実行しているのであるが、これこそ、まるで、大東亜戦争の時に、
「英語は敵性語であるから、使ってはいけない」
と国民を誘導したのと同じではないか。
それこそ、大日本帝国が、破滅の道を歩み始めた時の発想であり、どれだけ今の日本の政府が腐っているのかということを表しているのだと思うのだった。
ケイタイ小説や、ライトノベルから、迷惑ユーチューバーの話、さらに、禁煙の話から、政府への不満の話と、何か、負のスパイラルが働いているのか、頭の中が、負の要素の方にどんどん近づいていった。
絶えず、何かを考えていることが多いマサトは、急にこんな話を考えてしまって、自分が、その場から離れてしまっているのを感じたほどだった。
それこそ、奇妙な話に出てきそうなことで、以前、見たドラマの中で、気になるストーリーがあったのを思い出した。
あの話は、
「自分の知らないところで、もう一人の自分がいる」
というような話で、
「もう一人の自分」
という発想であれば、
「ドッペルゲンガーのようなものではないか?」
と感じるのだった。
ドッペルゲンガーというのは、あくまでも、
「似ている人間」
というわけではなく、
「本当に、もう一人の自分」
のことである。
つまり、世の中に三人はいると言われているものではなく、
「もう一人の自分が存在する」
という発想ありきでのことなのだ。
その小説においては、
「5分前の自分」
という発想であった。
女が、男のところに行って、身体を重ねるのだが、男は無表情である。女が、
「また、あの女と比較しているの?」
と聞くと、
「どっちが本当の君なんだい?」
と聞かれる。
その時、男は、5分前の女を抱いた後だったのだ。
好きで好きでたまらないその男のことなのだが、その男がいうには、
「同じ女を、2度も抱くというのは、こんなにアッサリした気持ちになるものなんだな」
という。
男はちゃんとは愛してくれるのだが、表情に変化はまったくない。
「ねえ、愛してくれていないの?」
と聞いても、無反応である。
「5分前の女が好きなの?」
と聞くと、ニヤッとする。
それを見ると、奈落の底に突き落とされた気がするのだ。
男とすれば、どちらも同じ女だという意識がある。もし、一人だったら、女が感じているのと同じように、好きで好きでたまらなかったかも知れない。だから、快感が分からないにも関わらず、離れることができない。男の方としても辛いのだ。
だが、主人公の女は、絶対に5分前の女と出会うことはできないのだ。同じ次元で、違う時間を、まったく同じ時間差で生きているのだ。そう、パラレルワールドのようなものなのかも知れない。
ただ、描いているのは平行線である。決して交わることはない。つまり、会うことはできないのだ。
まるで、他のパラレルワールドの自分が5分前に存在している。
それなのに、もう一人の自分の存在に気づいているのは、彼だけだった。彼を信じたいという気持ちがあるのは当然なのだが、それは、あくまでも、他の人は誰一人として、もう一人の自分の存在に気づいていなかった。
「ドッペルゲンガーだとすると、それを認めるということは、死を意味することではないか?」
ということから、認めたくないという人もいるのではないかと思うが、いたとしても、少数派であろう。
マサトは小説を読みながら、そんなことを感じていた。
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