第66話 成し遂げた後




 記者に囲まれた南見活実は、淡々とインタビューに答えていた。


――タマナクロスは今年初めて他の馬に先着を許しましたが


「ええ、精一杯乗りましたが、私の力が及ばずでした」


――第4コーナーでのウィズザバトラーとの接触は影響しましたか


「いや、そこまでの影響はなかったと思います」


――勝ったアグリキャップの印象については


「近い場所を走っていた訳でもないですし何とも言えませんが、勝った馬ですから強いと思います」


――有馬記念での巻き返しは


「馬主さんと調教師の先生の考え次第ですが、出走するならどのレースでも全力で勝ちに行きます」


――もしアグリキャップと再戦できたら勝つ自信はありますか


「どの馬が相手でも、タマナクロスは勝てる力があると信じています」



 記者たちからの取材を切り上げ、騎手控室に戻った南見活実は、自分のロッカーをダンッ、と拳で叩いた。


 タマナクロスは勝てていたはずだ。

 自分の冷静さが足りなかった。

 ウィズザバトラーの騎手の挑発に乗って、スパートを掛けるのが早すぎた。

 坂を上り切ってから仕掛けていれば、タマナクロスはゴール前でもう一伸びしていた。


 二度と同じレースは無い。


 だが、次のレースでは必ずタマナクロスを勝たせてみせる。


 南見活実は悔しさを噛みしめながらも、そう誓っていた。








『ごめんね、フランキー。いやー、勝てたと思ったんだけどなあ』


 C.マクレーンはフランキー調教師に対してそう詫びた。

 だが、負けたことに対しての後悔はない。


『ハナ差でジャパンカップを逃したのは悔しいが、まあクリスが乗って勝てなかったなら仕方ない。素直に勝った相手を讃えよう。

 ところでクリスが乗ってどうだった、ウィズザバトラーは』


 フランキー調教師は落胆の色は然程なく、C.マクレーンに感想を訊ねる。


『どうって?』


『東京の芝が合ってたかどうか、さ』


『ああ、それならベストマッチだったよ。ま、僕はアメリカでウィズザバトラーに乗ったことが無いからわからないけど、少なくとも東京の芝にはとても合ってる。何ならこっちでずーっと走らせた方がグレードレースは勝てると思うよ』


『なら、俺の見立ては正しかったってことだ。良かったよ、それが気になってたんだ』


『そこには自信持ってよ、フランキー。ねえ、また来年もウィズザバトラーでジャパンカップ来るなら、また僕を乗せてよ。今度はスケジュールしっかり空けるから』


『クリス、それは有難い申し出だ。故障なく来年を迎えられたらまた頼むよ。

 というか、JRAがもっと多くのレースを海外勢に門戸を開いてくれたらウィズザバトラーがもっと輝くんだが』


『まあ、いつかはそうなるかもね。来年すぐ、とかは無理だろうけど。ウィズザバトラーにとっては不運だけどね。

 でも勝ったユキオの馬もJRAとの間では苦労してるみたいだから、きっと簡単には行かないよ。

 あ、そうだ! もしユキオの馬がアメリカ来ることがあったら、フランキーのところで世話してやってよ!』


『何? そんな話があるのか?』


『いや、無いよ。でも、もしそうなったらの話さ』


『なんだ、無いのか。だが、もしそうなったら預かるのは喜ばしいことだ』


『その時は、僕があの馬に乗るよ! で、フランキーはユキオにいい馬世話してやってよ』


『簡単に言うなあ、クリス。馬主の意向もあるから、そう簡単には行かないぞ』


『またまた、今回だって東京の芝が絶対合ってるからって馬主のダン氏を説得したんでしょ? フランキーの説得力なら大丈夫だよ』


 そう言ってC.マクレーンは騎手控室とは違う方向に立ち去ろうとする。


『クリス、どこ行くんだ? 着替えるならそっちじゃないぞ』


『JRAの裁定委員に呼ばれてるんだよ。僕は多分直線のコース取りのことで。ユキオも検量室に戻る前に勝手に下馬したことで呼ばれてるらしいよ』


『おい、大丈夫なのか、クリス!』


『多分大丈夫だよ。だってもう結果は確定したんでしょ? 今更着順を修正して莫大な払戻しはしないと思うよ。

 僕は厳重注意、ユキオも注意処分くらいでしょ』


 そう言って立ち去るC.マクレーン。


 そして彼が言ったように、レース結果が覆ることはなかった。








 表彰式のために阿栗たちと久須美調教師は東京競馬場のウィナーズサークルに行く。


 久須美調教師に、アグリキャップの脚元に現時点で確認できる異常はないと聞かされていた阿栗たちは、地下馬道からアグリキャップが姿を現すのを待つ。


 しばし待つと、厩務員の川洲と調教助手の毛受に手綱を曳かれたアグリキャップと、その横を歩く刑部行雄騎手が姿を現した。


 阿栗は刑部に大股で近寄ると「刑部さん、この度はホンマにキャップを勝たせて下さってありがとうございました」と刑部の手を取り感謝の言葉を述べた。


「阿栗オーナー、僕の提案で腹を括って下さったオーナーと久須美調教師のおかげですよ。そうでなかったら、あそこまで思い切った乗り方はしてませんから。

 決断したご自分達と、アグリキャップを勝てる状態に仕上げてくれた久須美厩舎の皆さんの努力を讃えてあげて下さい。

 僕がやったことは、本当に最後の一仕上げです」


「でも、最後の一仕上げは一番大事ですからな。そこを損なうと『画竜点睛を欠く』ってことになります」


「そうですね、オーナーの言葉を借りるなら、今回僕が入れた点は、僕のこれまでの騎手人生の中でも、最高の仕事の一つになりました」


 阿栗と刑部の表情は晴れやかだった。

 久須美調教師は、ポケットの中のポケベルの電源を切った。

 レース後、ポケベルの番号を教えている笠松の馬主や調教師から、何度か電話が入っている。

 口取りと表彰式の間くらいは、連絡を気にせずにこの偉業達成を味わいたい。


「刑部さん、今日もし時間あったらワシらが泊まっているホテルで、一杯どうですか?」


「明日の調教は休ませてもらっていますけど、普段から生活リズムは崩したくないので……でも、短い時間なら顔を出せますよ」


 久須見調教師の前では阿栗と刑部がそんな会話を交わしている。


「久須見さん、あんたもどうや? 多少笠松戻る時間ずらしてもええやろ?」


 阿栗が久須美調教師にもそう言って誘うが、久須美は断った。


「ワシもそうしたいのは山々なんですが、明日も笠松で開催あって阿栗さんの馬2頭と他の馬主さんの馬も出さなあかんので、アグリキャップが馬運車に入ったの確認したらすぐ馬運車に引っ付いて笠松戻りますわ。

 ワシのことは気にせんと、刑部さんらと楽しんで下さい」


「……そうか……残念やな」


「久須見調教師のように馬に対しての愛情と責任感が強い方だからこそ、今、こうして晴れがましいところに立たせてもらえてます。

 地方競馬にも馬のことを第一に考えて下さる調教師さんとスタッフさんがいるということが知れて、僕は本当に嬉しいですよ」


「……また笠松戻ってから、久須美さんや毛受くん川洲くん。久須美厩舎のスタッフらに慰労の会、開くことにするわ。

 すまんな、久須美さん、キャップを始め馬たちのこと、よろしく頼むわ」


「はい、そん時は浴びるように飲んだりますわ」








 ウィナーズサークルの真ん中に毛受と川洲に曳かれ立つアグリキャップの姿は誇らしげだった。


 メインレースのジャパンカップが終了し、大勢の人波がやや引いた東京競馬場のスタンドをウィナーズサークルの前まで移動した榊原直子と富士田彩は、ウィナーズサークルに立つアグリキャップの姿を見てそう思う。


 アグリキャップちゃん、自分が勝ったってことわかってるんだろうなあ。

 やっぱりレースしてるってわかってなかったら、ゴールの瞬間あんなに自分で首伸ばしたままにしないもの。

 凄いなあ。

 勝ったのも凄いけど、自分が何者かわかってるんだなあ。

 私は、どうだろう。

 私、何やれるんだろう。


 そう考えている直子の後ろの方で、観客の男達の話す会話が聞こえる。


 なあ、アグリキャップって次いつ走るんだ?

 笠松のどっかだろ、地方の馬なんだから。

 有馬記念、出て来ないかなあ、タマナクロスとの対決、もう一回見て見たいわ。

 あー、確かに。鼻づら併せて叩き合ったらどっちが強いか見たいよなあ。

 有馬のファン投票、アグリキャップって書いて出してみるか?

 いやー、無理だろ、推薦馬のなかから10頭選ぶようになっててアグリキャップは推薦されてないんだから。

 でもダメ元で書いて出してもいいんじゃね?

 確かに、やってみても面白いかもなあ。


 何言ってんのかなあ、アグリキャップちゃんはもうすぐ中央に行っちゃうんだよ、大きな声では言えないけどね。

 だからあなたたちが心配しなくても大丈夫、またすぐ見れるようになるよ。

 何か寂しいなあ、もう今日みたいに直にアグリキャップちゃんが走る姿、簡単には見れなくなっちゃうのって。


「アグリキャップ、まだ笠松で走るつもりはあるのかしら」


 直子が少し寂しい物思いにふけっている横で、富士田彩はポツリとそう言う。


「え、アグリキャップちゃん、もう笠松では走らないんじゃないんですか? 彩さんそう言ってませんでした?」


「うん、阿栗さんがアグリキャップを中央に移籍させるつもりで中央の馬主資格を取申請しているっていうのは噂になってる。そろそろ資格の可否が出るだろうってことも。

 アグリキャップは今日のジャパンカップを勝ったことで、中央に行っても相当強い馬だってことはハッキリした。

 でも、笠松最強の馬には負けてる。

 負けっ放しで中央に行ってもいいのかな、って思ったのよ」


「確かにそう言われてみればそうですけど……あ、今日、阿栗さんに夕食一緒にどうって誘われてたじゃないですかあ? その時に聞いてみたらどうですかあ?」


「だって断っちゃったわよ、私。直ちゃんも知ってるじゃない」


「でもでも、阿栗さんたち、自分たちの泊ってるホテル教えてくれて、都合つくようならって言ってくれてたじゃないですか」


「でも今更そんな……」


「大丈夫ですって! 阿栗さんの奥さんも是非って言われてましたし。

 あ、彩さん! 阿栗さんの奥さん、私たちに向けて手を振ってくれてますよ!

 ここでOKって返事しちゃいましょうよ!」


 直子の言う通り、ウィナーズサークルで話し込む阿栗、久須美調教師、刑部行雄騎手の傍らにいる阿栗の妻が、直子たちを見つけて手を振っている。


「でもどうやって? 大声を出したらアグリキャップが驚くかも知れないし、マナー違反よ」


「えーっとですね、彩さん、こう頭の上に腕で〇を作って下さい」


「こう?」


 彩は直子の言う通りに頭の上に上げた腕で〇を作る。


 彩の隣で直子は『アグリ』『キャップ』のうちわを持ちながら、チアリーダーが登場選手を引き立てるように、彩に向かってチアリーダーのKモーションをする。


「これでOKですよっ!」


 直子と彩の様子を不思議そうに見ていた阿栗の妻は、しばし考えた様子の後で彩と同じく頭の上に〇を作る。


「ほら、奥さんに伝わりましたよっ!」


 彩は内心直子の大らかさに舌を巻いた。

 そして感謝していた。


 阿栗らと話すのは、何となく富士田彩にとっては気が進まないことだった。

 昔の、まだ外面を飾り立てないで無邪気に馬が好きだった自分の姿を阿栗たちが知っているから。

 祖父への反発で、馬のことからは離れていた自分の姿を見られるのが気恥ずかしくもあった。

 だから阿栗夫妻の夕食の誘いも断ったのだが、直子の大らかさにかかると、そんなことで悩んでいる自分がバカらしくなった。


「いやー、直ちゃんには敵わないわ……」


 彩は頭の上で〇を作った腕を戻しながら呆れたように言う。 


「でも彩さん、やっぱり気になることはそれとなく聞いてみましょうよ。せっかくの機会を逃したらもったいないですもんっ!」


「……そうね、直ちゃんの言うとおりだわ。小さいことに拘る自分が情けないわね」


 彩は自嘲気味に言うが、直子はすぐに否定する。


「何言ってるんですか、彩さんが私のこと彩さんが促してくれたおかげで、こんな凄いところに来れたんですよう! 彩さんは行動力あるし、私にとって、ずーっと憧れですっ」


 直子の真っ直ぐな言葉は、彩の心を温かくした。

 彩が直子を気に掛けるのは、直子の真っ直ぐさに引かれているからだ。

 自分にはない真っ直ぐさをてらいなく出せる直子が羨ましく、かつ直子が口にする彩自身を肯定する言葉は、直子が本心で言っているということが彩には良くわかっていた。


 ありがとう、直ちゃん……私も直ちゃんのこと、大好きだよ。




「あっ」


 直子が何かに気づいたように声を上げる。


「直ちゃん、どうかした?」


「彩さん、何か布津野さんの手、薄く光ってませんか?」


 彩はウィナーズサークルにいる布津野顕元の姿を探す。


 布津野顕元は、アグリキャップの手綱を持つ厩務員と話しながら、かがんでアグリキャップの脚元を触って確認しているようだった。


 布津野顕元の手元は直子が言うように光っているようには、彩には見えない。


「別に光ってないわよ」


「あれっ、そうですかあ? ……あれっ、でも確かに光ってないですね……見間違いかなあ」


「見間違いでしょ。変なもの、持ち込める訳無いし」


「そっかー、そうですよね、うーん……私の目、疲れてるのかな」


 そう言いながらうちわを持った右手で目をゴシゴシする直子。


「直ちゃん、一生懸命レース見てたから目が疲れたのかも知れないわね」


「うーん、きっとそうですね」


 直子と彩がそう会話している間に、写真撮影の準備が整ったようで、刑部騎手がアグリキャップに跨り、阿栗ら関係者がアグリキャップの手綱を持つ。


 晴れやかな表情の関係者一同。


 写真撮っちゃダメだから、しっかり目に焼き付けておこう。


 直子はその姿をしっかりと頭に刻み込んだ。








 殆どのメディアの取材も終わり、静けさを取り戻した出張馬房。


 久須美調教師、調教助手の毛受、厩務員の川洲は、笠松に戻るための荷物や備品の整理を始めてひと段落した。

 馬具等の片づけは一通り済んでおり、出張馬房の入口に纏めておいてある。


 久須美調教師は約束通り、残って片づけを手伝っていた中日スポーツの前田記者と取材と言う名の雑談を始めていた。


「毛受、川洲、ワシがキャップ見とくから、お前らは自分らの荷物、片付けてこいや。きっちり掃除もしてな。麻雀の点棒とか、忘れて転がしといたりするなよ」


 久須美調教師は前田記者と話しながらひと段落したところで、毛受と川洲にそう声を掛ける。


調教師テキ、すんませんがよろしくお願いします」


「すぐ済ませてきます」


「おう、馬運車の時間にゃ、まだ余裕ある。感謝の気持ち込めてゆっくり掃除してこい」


 久須美調教師は2人にそう伝えると、中日スポーツ記者の前田にまた喋り始めた。



 調教助手の毛受と厩務員の川洲は2階の自分たちが2週間強暮らした部屋の片づけに行く。

 各々の荷物は既に昨夜からちびちびと纏めており、もう後は荷物を運び出し掃除をする程度であった。

 2人は使っていて荷物に入れそびれた服や小物をバッグ仕舞い、自分たちの荷物を全部まとめると、出張馬房の入口まで荷物を持って行き、また2階の部屋に戻って窓枠やキッチンを拭き、床を掃いた。


 来たばかりの時は自分の家に早く戻りたいと思っていたし、17日間は長いなって思ってたけど、いざこうして引き払うとなると、何だか寂しくなるもんだな。


 川洲は掃き掃除をしながら、そんなことを思う。


「いやー、本当に長いようで短かったよなあ」


 同じく箒で床を掃く毛受が川洲にそう話しかける。


「そうですね」


 川洲は、毛受も自分と同じような感慨を抱いているのだと察する。


「まさか、キャップが世界の馬に勝っちまうとはなあ」


「そうですね」


「……俺さあ、何かもう、この後の俺の人生でこんなに凄いこと、起こらない気がするんだよなあ」


「……そうですね」


 シャッ、シャッと2人が畳の上を箒で掃く音が響く。


「でもさあ、こんなことがあると、それだけでも一生自慢できるいい思い出になるよなあ」


「……そうですね」


 二人は掃いた塵を真ん中に集め、川洲がチリ取りに掃き取る。


 川洲はチリ取りで集めた塵を、毛受が両手で持ち口を広げているゴミ袋に入れる。


「でも毛受さん、また凄い馬に出会うことだって、きっとありますよ。笠松の、地方競馬で働いていても、僕らのやってることは世界と地続きなんですから」


 川洲はそう噛みしめるように言う。


「……そうだな、またいつか、凄い馬に出会えるかも知れないよな」


「ええ。それにキャップだって、まだしばらくは僕らが世話して行かなきゃならないですしね」


「まあな、これで笠松戻って3日間は休めるけど、またキャップにも調教つける訳だしな」


「そうですね。でも、本当にいい思い出になりました」


 毛受はゴミ袋の口を縛って持つと階段を降りていく。


「川洲、電気は消して来てくれ」


「はい」


 川洲は入口壁の室内電灯のスイッチのところに行くと、最後にもう一度17日間暮らしていた室内をゆっくりと見渡した。


 そして名残惜し気にスイッチを切った。










 ~日本と世界の高み 1988年11月27日(日) 東京競馬場 ジャパンカップ(GⅠ)        了

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