※現実のこの時期のオグリキャップ④




 長く長くなりましたジャパンカップ編、お付き合いいただき有難うございました。


 さて、現実のこの時期のオグリキャップですが、前走天皇賞秋で敗北したタマモクロスに一矢報いんと栗東トレセンには戻らず東京競馬場の出張馬房での調整を続け、11月27日(日)のジャパンカップに出走。

 前走の天皇賞秋でタマモクロスの後ろから競馬を進めた結果、追いつけず1馬身差の2着に敗れた結果を鑑みて、陣営は先行策を河内洋騎手に指示。

 道中を終始3,4番手と前に付けて進めていましたが、4コーナー辺りで他の上がって来る馬に囲まれた結果、河内洋騎手は一度下げてオグリキャップを外に持ち出します。

 そして直線では凱旋門賞馬トニービンと並んで追い上げたものの、先に抜け出していたペイザバトラー、タマモクロスに続く3着となりました。


 この結果を受けて、陣営、主に馬主の佐橋五十雄氏が主導していたのですが陣営は騎手の変更に踏み切ります。


 オグリキャップが中央でデビューしてから乗り続けてきた河内洋騎手(京都4歳特別だけは南井克己騎手)に替えて、当時日本で最も信頼できる騎手であった岡部幸雄騎手へと手綱が渡り、12月25日の有馬記念で3回目となるタマモクロスとの対決へと進みます。



 と言う感じなのですが、今回のジャパンカップ編では有馬記念を前倒しして岡部幸雄騎手をモデルとした刑部行雄騎手にアグリキャップに乗ってもらいました。

 YouTubeでオグリキャップの全レース動画を見ていると、岡部幸雄騎手は1988年の有馬記念1度きりの騎乗ですが、本当に上手くオグリキャップを導いていると思います。

 それまで騎乗していた河内洋騎手も上手いのですが、推測になってしまうのですが1988年のジャパンカップで河内騎手は初めて挑んだ2400mのレースでオグリキャップは果たして距離が持つのかという疑念を捨てきれず半信半疑で乗っていた気がします。

 ダンシングキャップの産駒は1600mのマイル戦までしか距離が持たないというのは当時常識だったはずですから、オグリキャップがどうにかこなせる距離は天皇賞秋の2000mまでで、2400mはどこかで息を入れないと持たないと考えて第4コーナーで下げてしまったのではないかと思いました。

 後年の私たちから見ると、オグリキャップは1989年のジャパンカップで前から4番手の位置で走り続け、世界レコードのハナ差2着という走りが出来る馬ということを知っていますが、河内騎手からすると初めての2400mで不安は拭い切れなかったのではないでしょうか。

 ダービーに出れていれば2400mの距離を経験したはずなのでそうした不安は抱かなかったと思いますが、その場合は菊花賞→ジャパンカップ→有馬記念のローテーションで、調子によってはジャパンカップ回避だったと思いますので、タマモクロスとの因縁の激闘は無かったでしょうね。


 これでオグリキャップを降ろされた河内騎手ですが、後年までオグリキャップのことは語りませんでした。


 本当に残念です。



 ということで次の投下ですが、続きはしばらく時間を頂き、多少でも書き溜めを作ってから再開したいと思います。


  今後ともよろしくお願い致します。









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