第65話 レース後
馬主席で阿栗孝市は、直線の攻防を息を呑み見守っていた。
馬主席では他陣営の、主にアメリカの馬主たちの声が飛び交っていたが、阿栗はそうした喧騒はまったく意識に入らず、ただウィズザバトラーと競り合うアグリキャップの姿だけを見つめていた。
阿栗の妻は見ていられないのか、目を閉じて黙って祈っている。
稲穂裕司も、両手を握りしめて無言でアグリキャップを見つめる。
布津野顕元も無言で、だが力が入っているのか、両手で自分の両膝の辺りを強く握りしめている。
アグリキャップとウィズザバトラー、そして大外からタマナクロスが並んでゴールに入線した瞬間に、阿栗は止めていた息を大きく吐き出し、吸った。
「Nooooooo!」
マイビッグバディの馬主ダブリン氏が、大きな落胆の声を上げる。
3着以下も団子状態で、彼の愛馬も何着になったのかは不明だ。
電光掲示板には、3着となったタマナクロスの番号の5番だけが表示されている。
「阿栗さん、少なくとも現在の日本最強馬に先着しているのは、大したものですよ。今年1988年にタマナクロスよりも前でゴールした馬は、あの2頭だけなんですから」
隣席の
慰めのニュアンスがそっと込められているように阿栗は感じる。
確かに、公営の馬が、ここまで中央の、いや世界の馬にGⅠで迫ったのは初だろう。
そして、最後の一線を公営の馬が超えるのは、簡単なことではない。
だが、ここまで、おそらくハナ差の決着になるであろうここまで迫ったのだ。
負けたとしても3年前のリッキータイガーの1と3/4馬身よりも健闘した、と言える。
だが、ここまで来たなら慰められるだけでは……勝ってて欲しい!
「オーナー、専務。ハツラツは、アグリキャップは……勝ってくれてます、必ず。周囲のハツラツに関わった人たちを喜ばせてくれるはずです」
布津野顕元が、阿栗たちの気持ちを奮い立たせようとしているのか、はっきりとした声で言った。
阿栗も布津野の声に励まされる。
そうや、結果は出ている。
それがいつ表に出るかだけや……負けたなんて思たらかん。
1着には8番、8番が灯るんや! 灯ってくれ……
電光掲示板の表示が灯るまでの時間が、阿栗にとっては随分と長く感じられる。
何か、前もこんなんあったな……あれは東海ダービーか……
あん時も裕司くんが一緒やった。
あん時もキャップは勝ってくれてた……レースの格も、相手も今日のが上やが……
勝っててくれや!
不意に電光掲示板の欠けていた部分に数字が灯る。
1着、8番。
2着、16番。
3着は最初から点いていた5番。
4着、7番。
5着、6番。
点滅する数字は、確かに1着の場所にアグリキャップの8番を表示していた。
阿栗は電光掲示板の表示を見た瞬間、頭が真っ白になった。
一度に多くの感情が湧き上がり、結果脳の処理が追い付かずホワイトアウトしたのだ。
歓喜、愛しさ、労い、そして畏れ。
阿栗が口を開いたら、ただただ嗚咽のような声が漏れ出ただろう。
辛うじて残っていた理性が、阿栗の口を押し留めた。
阿栗はどれだけそうしていただろうか。
「――りさん、阿栗さん」
阿栗は自分を呼ぶ声に気づく。
ハッとして声の方向に目をやると、古村埼由夫氏が、阿栗に向かって手を差し出し握手を求めていた。
阿栗が手を差し出すと、古村埼氏は阿栗の手を力強く握り、一言一言嚙みしめるように言葉を伝える。
「阿栗さん、おめでとうございます。あの馬は、日本の代表として……立派に成し遂げてくれましたね」
「ありがとうございます、古村埼さん、ホンマにワシのキャップが、こんな大舞台で勝ってくれたなんて……夢のようです。
それに、日本の代表だなんて言って下さるとは……普段中央の華やかなところで走っとる訳でもないのに……」
「何を言ってるんですか、阿栗さん。そう思っているのは私だけじゃない。ほら、他の皆さんもそう思われてますよ」
古村埼氏に言われ阿栗が後ろを振り返ると、大勢の馬主たちが拍手をしてくれている。
その中にはマシロの総帥、喜多野カヤ氏の姿もある。
一団、急ぎ馬主席を足早に出て行こうとする集団があり、その中にトミービンの馬主、ワイトスティ氏の不安そうな姿もある。
その集団から一人、ツカツカと早足で阿栗に近づいてきた。
白髪で眼鏡をかけ、ガッシリした体形の、おそらく阿栗よりも年上の人物。
古村埼氏が馬主席に入った時に阿栗に教えてくれていた、シラオイグループの総帥、喜田吉哉氏だった。
「あんたが勝った馬の馬主さんか。おめでとう、
阿栗と握手をしながら喜田吉哉氏は太い声で言う。
そして茫然と涙を流している稲穂裕司を見ると「彼があの馬の生産者かね?」と阿栗に聞く。
「ええ、稲穂牧場の稲穂裕司くんって言いますが」
阿栗が面食らいながらもそう返答すると、喜田吉哉氏は稲穂裕司の肩に手をガッシと置き「ようやったな! ええ? やっと3頭目だぞ、世界の馬に勝った日本の馬は! あんた、大したもんだ! うちの3兄弟より年は下みたいだが、うちも負けてらんないわ、なあ!」と太い声で稲穂裕司に伝える。
茫然としていた稲穂裕司が「……はい、ありがとうございます」と喜田吉哉氏の圧に負けて返答する。
喜田吉哉氏は稲穂裕司の肩に手を置いたまま阿栗の肩にも手を置き、その手でバンバンと二人の肩を叩きながら言う。
「あの馬生んだ肌馬に、うちのノーザンテースト付けてみちゃどうだ? まあちょっとお高いし種付け権も残っちゃいないが……誰かに融通してもらってな、ハハハ」
その場の阿栗たち一同は喜田吉哉氏の勢いに茫然としている。
「おっと、トミービンの様子を見に行かにゃならんから、これで失礼するわ。トミービンのシンジケートの募集開始したら検討してくれな。では失礼」
そう言うと喜田吉哉氏は嵐のように足早に去っていく。
阿栗はその勢いに呑まれ、ポカンとする。
「相変わらず喜田氏は強引ですな、まあ悪い人ではありませんが」
古村埼氏が苦笑しながら言う。
「何と言うか……豪快な方ですな。お年の割には」
「私より6つ上ですから、もう67歳ですか。息子さん達に任せてもいい年ですが、バイタリティが服を着て歩いているような方ですから、まだまだ現役ですよ」
「喜田氏が言うとった、冷泉さんて方はどなたなんですか」
「ああ、冷泉さんというのは、ダンシングキャップを種牡馬として日本に輸入された方です。伝説的な相馬眼の方ですよ。ダンシングキャップをアメリカで一目見てその場から動けなくなった、という話です。今は馬産の第一線からは身を引かれてますな。噂では体を悪くされ入院されているそうです」
「そうなんですな……」
阿栗は、今まで存在を知らず気にしたことも無かった冷泉さんにも感謝の気持ちが湧いた。
その人がダンシングキャップを日本に輸入してくれなかったら、アグリキャップは誕生していなかった。
入院しているという冷泉さんも、今日のキャップのレースをTVで見てくれただろうか、喜んでくれただろうか、と阿栗は思いを馳せた。
「オーナー、ハツラツの様子を見に行きたいんですが、先に行ってもいいでしょうか。刑部さんがハツラツから降りて脚元を気にされていたみたいなので」
布津野顕元が、阿栗に小声でそう訊ねる。
阿栗は布津野にそう言われ、眼下のターフをもう一度見ると、確かにコースの外側をアグリキャップを曳いて歩く刑部の姿と、そこに駆け寄る厩務員の川洲の姿が見えた。
アカン、結果ばかり気になっとって、キャップのこと見とらんかった……
「すんません、古村埼さん、ワシらキャップが心配なんで、これで失礼させていただきます」
「ええ、行ってあげて下さい、阿栗さん。またお会いしましょう」
阿栗は古村埼氏に一礼すると、妻や稲穂裕司らを促し馬主席を後にする。
馬主席の外のロビーでは、馬主席に入らなかった馬主たちが立ち上がり阿栗たちを拍手で祝福する。
その中には高田夫妻の姿もあり、高田美佐江は拍手の合間に阿栗に向かって手を振っている。
阿栗はエレベーターのボタンを押すと、拍手で祝福してくれている馬主たちに向かい「ありがとうございます」と大きな声で礼を言い、頭を下げた。
調教スタンドでレースを見守っていた久須美調教師は、アグリキャップとウィズザバトラーが並んでゴールをした様子を双眼鏡で見ていた。
ゴールの瞬間、外のタマナクロスの位置は判らなかったが、並んでいたウィズザバトラーよりはアグリキャップが首を残し有利だったのではないか、と感じた久須美調教師だったが、喜びを表すことはない。
アグリキャップを馬場の外に寄せ、刑部騎手が下馬したからだ。
久須見調教師以外に、一人の外国人調教師が立ち上がって、両手で顔を覆って
おそらく、アグリキャップと同じようにリルド騎手が下馬して脚元を確認していたトミービンのL.カミーテ調教師だろう。
「失礼します、すんません」
周囲の調教師にそう伝え、久須美調教師は着順も確認せずに調教スタンドを飛び出す。
地下の検量室に向かう途中で、旧知である中日スポーツの前田記者が久須美調教師を待っていた。
足を止めない久須美調教師に並んで歩きながら、前田記者は久須美調教師に訊ねる。
「久須見
そう訊ねられた直後に、スタンドからの大歓声が上がる。
どうやら着順が出たらしい。
「嬉しい、嬉しいけど今はキャップの様子見るんが先や! 前田くん、後で出張馬房まで来てくれれば帰る前に話したる、済まんな」
久須見調教師はそう言うと、前田を残して先を急いだ。
久須見調教師が地下検量室に着くと、着順指定エリアの1着の場所にアグリキャップは繋がれており、厩務員の川洲と調教助手の毛受が、アグリキャップの脚元を入念に確認しているところだった。
アグリキャップから鞍を外した騎手の刑部が検量室に駆け込み、後検量を受ける。
久須美調教師は後検量の済んだ刑部騎手に声をかけた。
「刑部さん、ホンマにありがとうございます!」
久須見調教師は笑顔で刑部に話しかけるが、内心はアグリキャップの脚元が気になって仕方がない。
こちらも笑顔の刑部騎手は、バレット役を務めている若手騎手の
「ありがとうございます、久須美
刑部騎手は満面の笑みだ。
久須美調教師に抱きつかんばかりだったが、右手を差し出した。
久須美調教師も差し出された手を握り返す。
「いや、キャップも頑張ってくれましたが、刑部さんやなかったら勝てんかったと思います。ようキャップを導いてくれました。
ところで、刑部さん、キャップの脚、どうかしましたか」
久須美調教師は、最も気になっていたことを訊ねる。
刑部騎手は、笑顔を崩さず答える。
「いや、ゴールの瞬間、彼が下げた首をそれまでのリズムで戻さなかったので、念のために降りて確認してしまったんです。
今も川洲さんと毛受さんが調べてくれていますけど、故障はしていないようです。歩様も全くおかしなところはありませんでしたから。
念のため、後日獣医の先生に診てもらった方がいいとは思いますが」
久須見調教師は、心配が杞憂に終わり安堵した。
と同時に、心の底からジャパンカップを制覇した歓喜が湧き出てきた。
久須美調教師は握った刑部騎手の手をブンブンと何度も大きく振る。
そして振るのを止めると、刑部騎手の手を握ったまま俯いた。
「ホンマに、ホンマに、ワシらの馬が、今日、中央の、世界の馬を相手にした、ジャパンカップを、勝ったんですね……」
久須美調教師は下を向いたまま、くぐもった声で刑部騎手にそう問う。
「ええ、
刑部騎手はやや困惑したように返答する。
ガバっ、と刑部騎手は久須美調教師に抱きつかれた。
「良かった、ホンマに……中央より全然劣った環境のワシらの馬が、ホンマにこんなとこで勝てるなんて……刑部さん、あんたのおかげです。刑部さんが言うてくれたこと、ホンマにワシらにとっては心強かった……でも半信半疑やった……
でも、あんたは勝ってくれた、あんたが言う天才騎手と叩き合って勝ってくれた……やっぱり刑部さん、あんたの努力は天才にも負けんかったんです……ありがとうございます……」
刑部に抱き着いた久須美調教師は、抱き着いたまま涙声で刑部にそう言葉を絞り出した。
抱き着かれた刑部は、久須美調教師も重圧、不安、心配を抱えており、アグリキャップが故障していないことがわかったことで、ようやく安堵を解放できたのだと察し、おずおずと久須美調教師の背に手を回した。
ただ、刑部は久須美調教師の素直な言葉に照れもあり、40を超えた男が衆人環視の中で抱き合うことに気恥ずかしさがあった。
刑部は久須美調教師を落ち着かせようと言葉を返す。
「久須美調教師、僕の迷いを払ってくれたのはあなたですよ、僕の方こそ感謝しています……ただ、ちょっと、一度離れませんか……」
騎手たちのレース後談話を取ろうと詰め掛けていた報道記者たちが、久須美と刑部が抱き合う姿を見て、カメラのシャッターを何度も切っている。
久須美調教師はカメラのシャッター音に気付き、ガバっと刑部から離れる。
そして眼鏡を取って涙を手の甲で拭うと、気恥ずかし気に「いや、すんません、取り乱しました」と刑部に謝った。
刑部は尚も笑顔で返答する。
「いや、お気になさらず。実のところ、久須美調教師の姿を見た時、僕も危うく抱き着きそうになりましたからね。
久須見調教師、この後は表彰式です。
それまでに毛受さん、川洲さんたちからの報告をお聞きになって下さい。
表彰式でお会いしましょう」
そう言って久須美調教師から離れた刑部だが、すぐに記者たちに取り囲まれた。
刑部は記者の質問に答えながら、この前GⅠを勝ったのはいつだったか、久しぶりだな、と喜びの中でふと思う。
2年前の天皇賞春、クシロオウジャ以来か。
その後は、なかなか勝てなかった。
一番惜しかったのは今年のダービーのマシロアルダンだったが、もっと上手く乗れていれば勝てたかも知れない。
「アグリキャップは4歳馬ですが、刑部さんから見て他の4歳馬とは違っていましたか」
不意の記者の質問に「4歳とは思えない落ち着きがあるよ。東海地区のダービーを勝っているようだけど、その頃には(落ち着きが他の馬よりも)抜けてたんじゃないかな」と刑部は答えた。
そして、こうしてGⅠ勝利後のインタビューは何度受けてもいいもんだ、と感慨に耽った。
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