第64話 ゴール




 刑部行雄がスズエレパードの1馬身後方右外で、アグリキャップに鞭を入れる。

 残りは300mを切っている。


 鞭を入れられたアグリキャップは、得意の右手前に替わったことも相まって、首を振る深さを深め、地面を前脚で掴むかのごとく低く沈み、加速する。

 アグリキャップの全身は、柔軟性に富んだゴムまりのように柔らかく、強靭に伸縮して一完歩で前に出る距離が長くなっている。


 加速を開始して数秒後、スズエレパードの外をアグリキャップが半馬身差まで追い上げていた時、大外にいたはずのC.マクレーンの駆るウィズザバトラーが、刑部とアグリキャップから馬体2つ分程度外の位置まで内に切り込んできた。


 クリス! 何てコース取りしてるんだ!

 斜行を取られてもおかしくないぞ!


 だがC.マクレーンとウィズザバトラーの後ろのマイビッグダディ、マシロデュレンらも内に寄るようにコースを取っていたため、騎手が立ち上がったりしてはいない。


 ギリギリ、一か八かに賭けたか、クリス!

 レースが終わってみないとどういう判定が裁定委員から下るかわからないが、勝つためにタマナクロスと並ぶのを避けたのか。


 今おそらく先頭はスズエレパード、ウィズザバトラーはほぼアグリキャップと同じ番手だろう。


 ここで先に出る!

 刑部は更に左手で鞭を入れた。


 C.マクレーンもウィズザバトラーに鞭をいれようと動いていたが、刑部の方が早かった。 


 鞭を入れられたアグリキャップは、2完歩でスズエレパードに並び、3完歩目で抜く。


 刑部の横を残り200mのハロン棒が高速で過ぎ去っていく。




 何だ? 2番の外からユキオ……?

 内から出られないと思ってたけど、抜けてきたの?

 しかもその加速と伸び、そんな馬だったのか!


 ユキオを油断させるために「良い馬だね」って言ったけど、オールカマーの映像ではもっとジリジリ伸びる馬だったのに!


 でも、その馬のパワーそのものみたいな走りじゃあ、最後まで持たないんじゃないの?

 ウィズザバトラーの方がこの東京の芝に合った走りだよ!


 刑部行雄のアグリキャップに鞭が入った。


 C.マクレーンもウィズザバトラーに鞭を入れる。








 ――外の方から、タマナクロス抜けた、タマナクロス抜けた、タマナクロスが早くも出ました、そしてウィズザバトラー頑張った、トミービン来た、トミービン来た、世界のトミービン、名手リルドの鞭に応えた!


 ――しかし先頭はタマナクロスだ、ウィズザバトラーと並んだ、

 ――ウィズザバトラーか、タマナクロスか、


「何言ってるの、まだ内のスズエレパードの方が全然前じゃない! まだ抜かれてない! それにアグリキャップだってスズエレパードより脚色よく追ってるじゃない! このアナウンサー、何処見てんのよ!」


 榊原直子の横でターフビジョンを見ながらFMラジオの実況を聞いている富士田彩が不満そうに言う。


 榊原直子はターフビジョンには目をやらず、直子の位置から見えるコースの先、200mのハロン棒の辺りをずーっと見つめている。


 アグリキャップちゃん、あなたの走る姿、一番最初に目に飛び込んでくるって信じてるから。


 ――ウィズザバトラー、内に切れ込む! タマナクロスは付き合わない! 我が道を行くタマナクロス!

 ――内、スズエレパード、その外からアグリキャップだ、公営馬!

 ――タマナクロス先頭か、内ではウィズザバトラー、アグリキャップ並んだ、スズエレパード遅れた!


 見つめる先のターフの上、直子の目に最初に飛び込んできたのは、額の部分が随分白くなった大きな顔の馬。


「アグリキャップちゃんっ!」


 アグリキャップの少し横には鹿毛の馬が、並ぶように走っている。


 横の観客に隠れた馬場の真ん中から、もう一頭はっきり白くなった馬体の葦毛馬、タマナクロスが見えた。


「アグリキャップちゃん、頑張ってえーっ!」


 直子は手作りうちわを両手で掲げ、声を限界まで張り上げて声援を送る。


 ――残り200を切った、内と外、どっちが前だ!


 3頭が、徐々に直子たちの目の前のゴール板に近づいてくる。


 アグリキャップは外のウィズザバトラーの方に少しよれた。








 刑部は、アグリキャップを力の限りに追う。


 だが、右横に並んだウィズザバトラーの軽快な走りは途切れない。


 クリス=マクレーンの追い方は刑部もお手本にした理想的な追い方だ。

 簡単には抜かせてくれない。


 だけどな、クリス、君は昨日来たばかりで、ウィズザバトラーにレースで乗るのは初めてなんだろう?

 いくら君でも、馬の全てを把握しているわけじゃないだろう。


 僕もレースで乗るのは初めてだが、アグリキャップがどんな馬か、日々の調教である程度は理解して来た。


 距離は僅かにロスするが、アグリキャップの底力を引き出す!


 刑部はアグリキャップの馬体をウィズザバトラーに寄せ、併せる。

 横に寄せた分、十数cm、アグリキャップはウィズザバトラーよりも遅れる。


 だけど、併せたらアグリキャップは負けない!

 さらに伸びる!


 刑部はアグリキャップに更に左鞭を入れる。


 C.マクレーンもウィズザバトラーに右鞭を何度も入れる。


 馬体を併せた2頭の馬の騎手たちは、まるで鏡合わせのように左右から鞭を入れて叩き合う。






 ――ウィズザバトラー、アグリキャップよりわずかに前か、外タマナクロスか!


 ――内の2頭は馬体を併せて壮絶な叩き合い、外の南見の鞭も唸っている!


 ――先頭はタマナクロスか、タマナクロスか、内の方にウィズザバトラー!


 直子の目には、頭を地面に付く程に振り下げ、前脚をより前に伸ばし、必死で地面を掻くアグリキャップの走りがずーっと映っている。


 そう、その、全身全霊で必死に頑張る姿、それが、アグリキャップちゃんの走り。

 世界中の強豪馬、そのどの馬もできない、アグリキャップちゃんだけの走り。

 見ていると、応援したくなる。

 だって、私だって頑張れる、頑張らなきゃって、そういう気持ちにさせてくれるんだもの!


 ――外タマナクロス、外タマナクロス、ウィズザバトラー内、アグリキャップ!


 ウィズザバトラーに馬体を併せる形になったアグリキャップは、青い帽子に青い勝負服の刑部騎手の鞭に応えて、懸命に脚を伸ばして地面を掴み、前に出ようとしている。


 ――内、ウィズザバトラー、アグリキャップ、並んだか、どうか、外タマナクロス!


 もう蹄鉄型のゴール板だ。

 直子の目には、ゴール板をよぎる瞬間、アグリキャップが頭を深く沈み込ませ、ほんの一瞬頭を上げるのを我慢して頭を前に出そうとしたように映った。


 ――わずかに内2頭が有利か、外タマナクロスは3着か!


 ――ほぼ同時にゴール! 1着は写真判定です!








 ゴール板を駆け抜けたアグリキャップのスピードを緩め、刑部行雄はアグリキャップの首をそっと撫でた。


 お疲れさん、本当に良く頑張ったよ、君は。


 刑部は心の中でアグリキャップをそうねぎらう。


 どっちが勝ったのかは判然としない。

 或いは外のタマナクロスが先だったか?


 刑部は普段ハナ差であってもどちらが勝ったかは大概わかる。

 だが今回ばかりはアグリキャップを追うのに必死で、まったくわからなかった。


 アグリキャップがゴールの瞬間、走るリズムを崩したのはわかった。

 通常のリズムどおりに下げた首を戻さず、僅かだが首を長く下げていた。


 もしや故障か! 


 刑部はアグリキャップに騎乗しながらアグリキャップの歩様のリズムを確認するが、歩様に特に異常はない。


 だが念のためターフの外側にアグリキャップを寄せる。


 少し離れたところでトミービンのリルド騎手も刑部と同じように外に寄せ、トミービンから降りてトミービンの脚を確認している。


 刑部もアグリキャップから降り、アグリキャップの脚を確認した。

 触ってみても熱を持っているところはなく、アグリキャップが痛がる素振りも無い。


 刑部はホッとした。

 だが、川洲厩務員にアグリキャップを渡し、久須美調教師らに確認してもらうまでは安心できない。


 刑部はアグリキャップの手綱を曳き、地下馬道の入口に戻ろうとアグリキャップを曳いて歩き出す。


『ヘイ、ユキオ! おめでとう!』


 刑部の近くにウィズザバトラーに乗ったC.マクレーンが近づき、刑部に声をかける。


『クリス、まだ着順は出ていないだろう』


『何言ってんの、多分そっちが勝ったよ。悔しいけどね。その馬、ゴール板の位置が解ってるんじゃないの? ゴールの瞬間、前に伸ばした首戻さないんだから』


 C.マクレーンがそう言うと同時に、着順が電光掲示板に表示され、スタンドの観客の大歓声が上がる。


 1着8番、2着16番。


『あーあ、タマナクロスの勝負根性が要注意だったから避けようとあれだけ中に切れ込んだのになあ。まさか内にも勝負根性のオバケみたいな馬がいるなんてね』


 C.マクレーンはそう言うと、並歩ウォークで少しづつ刑部とアグリキャップから離れていく。


 C.マクレーンは最後にもう一度刑部を振り返って言った。


『今度はさあ、アメリカに持って来てよ。僕もその馬、乗ってみたいからね。ユキオにはフランキーの馬で強いのに乗ってもらうように言っとくから考えといて』


 そう言ってC.マクレーンはウィズザバトラーに速歩トロットをさせ、地下馬道入口まで去っていく。


 刑部はアグリキャップを曳いて歩きながら、東京競馬場の観戦スタンドを見上げた。


 大勢の観客が手を挙げて口々に叫ぶ中、最前列に『アグリ』『キャップ』の手作りうちわを持った女性の二人組が目に入る。


 刑部は名古屋から観戦に訪れた、その2人に向けて手を振った。


























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