第63話 五者五様
「行け、行け、行け行け、海老沢くん、そのまま行け!」
阿栗の隣の席に座る紳士、東京馬主会会長でスズエレパードの馬主、
アグリキャップは内で先頭を伺うスズエレパードの真後ろ、横を走るジュディズハイツと並んでいる。
前はスズエレパード、左横は内ラチ、右横はジュディズハイツと抜け出せる進路がない。
後は1馬身程の空間があり、ずっと最後方で脚を溜めていたムーンラウドネスが前を伺っている。
刑部さん、キャップの脚は残ってるんか?
前開いてくれんと、残っていたとしてもどうしようもないが……
「
マイビッグダディの馬主、ダブリン氏の怒号が響く。
中のマイビッグダディも先頭のマシロデュレンに並びかけようとしており、力の入る場面だ。
他の馬主も無意識のうちに声が出ており、馬主席はざわついている。
内のスズエレパードは前に出て行く。さすが昨年の宝塚記念を制した馬だという力強い走りで、残り400mのハロン棒を通過する時には外の馬よりも前に出て、中のマイビッグダディよりも前に出ており先頭に立っている。
アグリキャップの外脇に位置するジュディズハイツは、乗っている柴端騎手が鞭を入れて奮い立たせているが、前半強引に先頭を奪ったツケが来ているのか、伸びていかない。
スズエレパードとジュディズハイツの間を割って出て来てくれ、刑部さん!
阿栗は祈るように直線の攻防を見つめる。
「お願い、お願い……」
阿栗の隣に座った妻も、モニターを見つめながら無意識に両手を顔の前で組んで祈っている。
前のスズエレパードは加速していく。
刑部はアグリキャップをスズエレパードの真後ろ、砂塵を直接被る位置につけたままついて行く。
隣の柴端のジュディズハイツは、柴端が右鞭を入れてスズエレパードから遅れまいと懸命に追っている。
まだアグリキャップが抜け出る行き場はない。
今から一旦下げようにも、直線に入り馬群全体が加速しているため一度でも脚を緩めスピードを落としたら、再加速するためにはアグリキャップのスタミナに相当な負担をかけてしまう。
刑部は隣でジュディズハイツを必死で追う柴端に目をやった。
柴端も刑部を一瞥する。
400mのハロン棒を通過した。
上り勾配はあと僅かで終わる。
ここからは各馬、全力に近い仕掛けをして上がって来る。
ジュディズハイツを追う柴端が、鞭を右手から左手に持ち替え、ジュディズハイツの左から鞭を入れる。
ジュディズハイツはそれまでの右手前から左手前に替えた。
スズエレパードとジュディズハイツの間に僅かに隙間が空く。
刑部はその隙間に左手前で走るアグリキャップの首を押し、文字通り押し込んだ。
もう少し、もう少し前に出たら。
残り400mのハロン棒を過ぎた辺りでC.マクレーンのウイズザバトラーは隣で鞭の入ったマイビッグダディに並びかける。
だが、外には馬体1つ分の隙間を開けてタマナクロスがウィズザバトラーに並びかけようとしてくる。
タマナクロスに完全に並ばれたら、馬体を寄せられる。
それだけは避けなきゃ。
C.マクレーンは瞬時に勝つための決断をする。
右手の鞭で2発、ウイズザバトラーを叩いた。
鞭の入ったウイズザバトラーは、飛び上がるように軽快に芝を駆ける。
そしてその首を押し勢いを与え続けるC.マクレーン。
内隣を走るマイビッグダディを徐々に引き離す。
だが、外のタマナクロスもウイズザバトラーに負けぬ足で付いてきている。
南見活実は、ようやく目障りなウイズザバトラーを捉えられると気合いが入る。
もう少しで並ぶ。
並んだら、馬体を併せて競り落とす。
南見活実がそう闘志を燃やした瞬間、ウイズザバトラーの騎手は2発鞭を入れ、突き放しにかかる。
今更仕掛けても遅い!
もうタマナクロスには完全に火が入っている。
ここからのタマナクロスは稲妻だ!
南見はタマナクロスに更に2発鞭を入れる。
タマナクロスは鞭に応えてグググッと前に伸びていく。
柴端雅人は、横を通過するムーンラウドネスの脚色に対抗するようにジュディズハイツに鞭を入れる。
だが、完全にスタミナが尽きたジュディズハイツの反応は鈍い。
ズルズルとムーンラウドネスからも遅れていく。
柴端はジュディズハイツに尚も鞭を入れるが、実のところ入れる動作をしているだけで叩いてはいない。
もうバテている馬をこれ以上痛めつけるのは酷だ。
だが、競争を捨てたように見られるのは馬主、調教師、そして馬券を買っている競馬ファンに対しての背信行為だ。
形だけでも追っておく。もう十分見せ場は作れたはずだ。
そもそもジュディズハイツはこのレースに対してコンディションが万全ではなかった。
長時間の輸送、欧州とは違った日本の環境での過ごし方。
カイ食いも落ちていたし馬にも元気がなかった。
そして調教師の調教方針とはいえ、日本に来てから連日全力に近い調教をこなしている。
1日2本行う日もあった。
レース3日前の公開調教で追い切ったのに、金曜にも馬体重を落とすと言って更に追い切りを行った。
これではレースまでの回復は難しい。
国によって調教スタイルは違うため柴端は口出しできなかったが、やはりどの国の馬でも馬は馬で、特別頑丈だったりする訳ではない。
直線に向いた時に、既にジュディズハイツに終いの脚は残っていなかった。
あえて控えた風に見せて、僅かでも息が入ればと思ったが、おつりは無かった。
外枠でありながらハナを奪って逃げろと言う調教師の指示に従った結果だ。
刑部には見透かされていたな。
これ以上馬を傷めつけるな、と。
刑部の奴は普段から周囲に「馬を一番優先に考える」という馬優先主義を口にしていて、一部の競馬評論家からは「勝負を捨ててまで馬を優先するなんて競馬の本質を蔑ろにしている」という批判も受けている。
それに対して俺は「勝負は勝負。馬券を買ってくれるファンのためにも最後まで馬を追う」と言ってきた。
だが、別に馬を壊したい訳じゃない。
完全にバテている馬を無理に走らせて骨折させるような真似をしたい訳じゃない。
だから手前を替えるために左鞭にした。
結果的に刑部に進路を開けてやる形になったが、開けたんじゃない。
あくまでもジュディズハイツの順位を一つでも上に残すためだからな。
並みの騎手ならあの隙間は通せない。
恩に着なくていいぞ、刑部。
刑部行雄は、ジュディズハイツが手前を替え、外に僅かに寄ったところに出来たスズエレパードとの隙間にアグリキャップを入れた。
アグリキャップはスズエレパードの蹴り上げる芝と砂塵から逃れられたことが嬉しいのか、伸び伸びと左前足を先に延ばし走っている。
徐々にジュディズハイツを引き離し、スズエレパードに迫っていく。
走るアグリキャップの耳は、外向きに開いている。
この最後の直線になってもリラックスしているのだ。
刑部はその様子を見て、心強くなる。
苦手な左手前で走っていてこれだから、後はどこで手前を替えてトップギアに入れるか。
内でアグリキャップよりも3/4馬身前に出ているスズエレパードに騎手の海老沢の鞭が入る。
また少しアグリキャップとの差は開き、1馬身程になる。
スズエレパードはここから上げて先頭に立ち、ゴールへ流れ込むつもりだろう。
オールカマーでアグリキャップは先行有利の流れの中でスズエレパードを後ろから行って差し切っている。
今アグリキャップを全力で追い出せば、スズエレパードは交わし切れる。
刑部は外側に目をやる。
先頭だったマシロデュレンの外にはマイビッグバディがマシロデュレンよりも頭一つ分前に出している。
そしてその外からC.マクレーンのウィズザバトラーが出ようとしている。
ウィズザバトラーの外にはタマナクロス。
既にC.マクレーンと南見活実の腕は鞭を入れている。
スズエレパードの斜め前には残り200mのハロン棒が存在感を増し近づきつつある。
恐らく今の残り距離は300m程度。
ここで追い出す!
刑部が右
右手前で前の地面を掴みに行くかの如く低い姿勢で前進する。
その時、C.マクレーンがウィズザバトラーに鞭を2発入れた。
外のウィズザバトラーと、その横に並びかけんとしていたタマナクロスもググっと伸び出している。
刑部も負けじと左手に持ち替えた鞭をアグリキャップに入れた。
ウィズザバトラーは軽快に芝を蹴って加速し、内のマイビッグバディよりも完全に1馬身抜け出た。
マイビッグバディは内のマシロデュレンに被せるように内に徐々に寄るコースを取っていて、ウィズザバトラーとマイビッグバディの間には馬一頭が通れる隙間がある。その隙間には後方から追い出したトミービンが入ろうと進路を取っているが、ウィズザバトラーが加速しているのでまだ入り込めていない。
外からは並んで来たタマナクロスが馬体を併せようと寄せて来る
「
C.マクレーンは声でウイズザバトラーに気合いを入れながら更に右から鞭を二発入れて、タマナクロスから逃げるように急激に内に寄せる。
後続馬、マイビッグバディやマシロデュレンの騎手が立ち上ったら斜行でアウトだ。
だが、マイビッグバディもマシロデュレンも徐々に内に寄せながら追い出していたため騎手は立ち上ったりせず、そのまま前に出たウイズザバトラーを斜めに追うような形になった。
危ない危ない、
今先頭は最内の2番スズエレパード、1馬身程度の差だが、この勢いなら問題なく交わせる!
C.マクレーンは外のタマナクロスに目をやる。
タマナクロスは急激に内に寄ったウイズザバトラーに馬体を併せることは諦めて、そのまま真っ直ぐ前に追っている。
よし、これで後は純粋な追い比べさ!
C.マクレーンはウィズザバトラーの進路を真っ直ぐに直す。
その視野の隅に、一瞬青い色が映り込む。
南見活実はまたしてもウイズザバトラーにタイミングを外された。
一瞬南見は、そのままこちらも斜めにウイズザバトラーを追いかけ、あくまでも馬体を併せることを貫徹しようかという考えがよぎったが、後方から迫る足音に冷静さを取り戻す。
あくまでも1番でゴール板を横切った馬が勝ちだ。
斜めに深追いするのは距離ロスになる。
後ろの足音はトミービンか?
意地張っとる場合じゃない、あくまで勝ちに行く!
南見は真っ直ぐ前にタマナクロスを走らせる。
トミービンのリルド騎手は、前のタマナクロスを見ながら道中を進んで来た。
最も注意すべきは日本のタマナクロス。
新聞、TVなどのマスコミには「特に意識する馬はいない」、そう答えていた陣営だったが、実際は今年無敗でGⅠ3勝の葦毛馬を強く意識し、リルド騎手もこのレースはタマナクロスの動きを常にマークしつつ進めて来た。
ここまで米国馬ウィズザバトラーに度々挑発を受けていたタマナクロスの騎手は、坂を上り切る手前でスパートをかけた。
リルド騎手はこれで勝てる材料が増えた、と感じた。
トミービンは日本に来てから体調を崩し、強い調教は一度として行えなかった。
体調が上り切らないトミービンだが、凱旋門賞で見せた直線の豪脚とライバル馬のムテュートにハナ差競り勝った勝負根性は、世界中のどの馬にも負けないとリルド騎手は思っている。
元々英国が母国のリルドだったが、凱旋門賞は英国の自厩舎の馬の騎乗を断ってイタリアのトミービンに騎乗している。
それだけリルド騎手はトミービンに惚れこんでいた。
東京競馬場最終直線の緩い坂を上り切り、残り300mを切ったところでリルド騎手はトミービンに鞭を入れる。
狙いは2頭の米国馬の間。
リルド騎手が狙った隙間へトミービンを駆る。鞭を入れる。
だが外側の米国馬が隙間を閉める。
気づいたか? とリルド騎手は思ったが、その米国馬は更にひどく斜行して内に切れ込んでいく。
ならば、コースは変えない。
前を行くタマナクロスの内を衝く。
残り200mのハロン棒が近づくところでタマナクロスの尻っぺたに手が届くところまで追い上げる。
リルド騎手は更にトミービンに気合いを入れようと、全身の力を使い鞭を入れる。
2発、3発。
だが、タマナクロスとの差は縮まっていかない。
その時リルド騎手は気づいた。
トミービンの着地のリズムが、おかしい。
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