第59話 中間の展開
眼下のホームストレッチを駆け抜ける馬群。
青の帽子、青の貸勝負服のアグリキャップは、馬主席からも良く見える。
激しく競り合う先頭の後方に付けた刑部行雄の駆るアグリキャップは、ゆったり走れているように阿栗には見えた。
阿栗の隣に座る阿栗の妻は、馬主席のモニターを食い入るように見つめている。
稲穂裕治は両手を握りしめながら、身を乗り出すように第1コーナーに進入する馬群を見つめる。
布津野顕元は手を腹の上で組んで、ゆったりと馬群を眺めている。
「なあ、布津野くん、アグリキャップの走り、どう見る?」
阿栗も眼下のターフを見ながら、布津野顕元に訊ねる。
「ハツラツはゆったり走れてますね。ペースがそれほど早くないこともありますけど、刑部さんが無理せずにいい位置を取ってくれたの、大きいですね」
第1コーナーから第2コーナーへ馬群は進む。
先頭争いはマシロデュレンと、外からグイグイと併せていくジュディズハイツが互いに譲らない。
スズエレパードは先頭争いから一歩引いて下げた形で、アグリキャップと並ぶ形になっている。
そのスズエレパードの外を、アメリカのマイビッグバディが回っていく。
「Okay, go, go!」
マイビッグバディの馬主ダブリン氏が大声で叫び、比較的静かな馬主席に響き渡る。
「応援にもお国柄が出ますな」
阿栗と通路を挟み隣の席に座る古村埼氏が、ぼそりと言う。
「でも、ワシも気持ちはわかりますわ。ただ、レースの序盤からは流石に叫びませんけども」
阿栗がそう返すと古村埼氏も「確かに最後の直線なら力が入りますな」と同意する。
阿栗には、この紳士が最後の直線で大声で叫ぶところは、どうにも想像できなかった。
刑部行雄は、第1コーナーから第2コーナーに入る辺りでスズエレパードに寄せられている。
ホームストレッチから第1コーナーに入る際に、アグリキャップの手前を左手前に替えており、決してアグリキャップが外に膨らんでいる訳ではない。
「海老沢! 危ないだろ!」
刑部はつい声を荒げる。
「隣がガンガン来るんです! 仕方ないでしょう!」
スズエレパードの鞍上の
スズエレパードの外にいるマイビッグバディのロメオ騎手が、より良いポジションを取ろうとしてスズエレパードに寄せ、当ててくるのだ。
「アメリカじゃ当然だ! お前舐められてるんだ! 今度当ててきたら、逆に当てて外に振ってやれ!」
「馬体重差、どれだけあると思ってるんです! 無理ですよ!」
「馬体重差じゃないよ! タイミングだ、バカ野郎!」
アメリカの競馬で何度もこうしたラフプレーを経験している刑部にとっては常識だ。
一度舐められたら、どこまでも舐められる。
「刑部さん、そんな嫌なら下げて入れ替わって下さいよ、それにこれだけ話してたら相手もこっちの出方、わかるでしょうに」
「日本語がわかる外人騎手なんていないよ! お前もいぶし銀とか言われてるんならナメられるな! お前だけじゃなく日本の競馬がナメられるんだ!」
刑部はそう言うと同時に、スズエレパードの前足が地面を蹴ったタイミングでアグリキャップをスズエレパードに軽く当てる。
当てられたスズエレパードは、外に軽く膨らむ。
「こうするんだよ!」
刑部はそう言うと、アグリキャップを少し前に出した。
振られたスズエレパードの海老沢も、タイミングを見て外のマイビッグバディに当てて、コーナーの遠心力で外に振ってやっている。
思わぬ反撃にあったマイビッグバディとロメオ騎手はそれ以降内に絞ることを止め、外から前に被せようとして出ていく。
スズエレパードより半馬身程前に出た状態で、アグリキャップはバックストレッチに出る。
馬群が第2コーナーに入り、直接目視ではアグリキャップの位置がよく確認できない榊原直子は、ターフビジョンの映像を見る。
アグリキャップは、前を走っていたスズエレパードの内側に潜り込んでいて、スズエレパードに並んでコーナーを回っていく。
そのスズエレパードの外をもう一頭の青の帽子、ピンクの勝負服の馬が被せていく。マイビッグバディだ。
――マイビッグバディの後方内側からセイラムムーブであります。
――セイラムムーブの後ろに、ゴールデンキューが付けて、そしてアードラーであります。
――アードラーの後ろは、ちょっと切れました。
――ちょっと切れて、そしてムーンラウドネスは後方から行っています。
――ムーンラウドネス、そしてその向こう側にタマナクロス、そしてヘッドパッシャーであります。
中継の大迫アナウンサーは、アグリキャップより後方の馬の名前を次々に呼んでいくが、実際の馬群は細かく動いており、必ずしも呼ばれた順番通りではない。
「アメリカのマイビッグバディが被せて来ていて、普通なら相当窮屈な進路だと思うけど……アグリキャップは伊達に笠松や名古屋の小回りで揉まれてる訳じゃないわね、全然動じてないわ」
一瞬映るターフビジョンでは、バチバチしたやり合いは見て取れない。
第2コーナーを抜け、バックストレッチに入る。
アグリキャップは先頭の2頭から1馬身弱離れた3、4番手にいる。
――向こう正面の直線コースでありますが、14頭がほとんど一団、殆ど一団で競馬を行っていますが、ジュディズハイツ、柴端が先頭に立ちました!
――マシロデュレン2番手、外を通りましてマイビッグバディ、そのやや後ろ最内がアグリキャップ、その外側を通ってスズエレパード上がって行った、
――トミービン、世界の脚トミービンはここに居ます!
――凱旋門賞馬トミービンは中団! そしてその後ろにセイラムムーブ、内を通ってゴールデンキュー上がった、そしてアードラーは若干手が動いた、
――そしてタマナクロスは終始外、外外を行っています。
「意外に馬群が前後に伸びてない……もしかしてペースが遅いのかしら」
「ペースが遅いと、どうなんですかあ?」
「一概には言えないけれど、基本的に前の馬の方が有利ね……つまり、アグリキャップは有利な位置にいるってことよ」
「彩さんホントですかっ! アグリキャップちゃん、勝てそうなんですかっ!」
「直ちゃん、気が早いわよ。というか、他の馬は世界でも強い馬ばかりなんだから公営の馬が簡単に勝てるレースじゃないわ。出れているだけでも凄いことなの。とにかく見守りましょう」
彩の真剣な言葉に、直子はそうだった、と気を引き締められた気分になる。
私、このレースを見に来たのって、アグリキャップちゃんが走るところをもう生で見られないかも知れないって思ったからだった……
頑張って走るアグリキャップちゃんの姿を見に来てたんだった。
私がアグリキャップちゃんに惹かれたのって、強い馬だから?
ううん、確かにアグリキャップちゃんは強いけど、そこじゃない。
全力を振り絞って、少しでも前にっていう、その姿が好きだから。
なら、その走りをしっかり見よう。
久須見調教師は、手元のストップウォッチに目を落とした。
1000mの通過タイムは61.4秒。
けっこう遅い通過タイムだと久須美調教師は感じたが、久須美調教師にとって東京競馬場の芝2400mのレースは、初体験だ。判断基準がない。
久須見調教師は隣に座り、同じく双眼鏡を覗きこんでいるゴールデンキューの調教師、
「こりゃ、けっこう全体的に遅いペースやと思うんですが、
志水調教師は双眼鏡から目を離さず「遅いよ」と返答する。
「マシロデュレンの村元がハナを柴端に譲ったから、柴端がペースを握っとる。村元、マシロデュレンの走り考えたら譲っちゃいかんだろうに。豊富なスタミナ生かしてもっと前に出とかんと……おっと」
志水調教師は言葉を止めた。
志水調教師の呟きを聞きつけた、やや離れたところにいたマシロデュレンの
久須美調教師も池辺調教師に頭を下げ、再び双眼鏡を覗く。
第2コーナー半ばで先頭に立った
アグリキャップはマシロデュレンの1馬身後ろを追走して、外隣のスズエレパードよりもクビ差前だ。
スズエレパードの外には、前に出て来たセイラムムーブ、ボーンフリーラン、そして外に振ってマシロデュレンに並びかけつつあるマイビッグバディが横並びでバックストレッチを膨らみながら走っている。
その後ろにゴールデンキュー、アードラーらが続く。
バックストレッチの2mの坂に差し掛かった時、外からススーっと8枠16番ウィズザバトラーが上ってきて、マイビッグバディの斜め後ろに着く。
緩やかに坂を下り第3コーナーに差し掛かる時には先頭ジュディズハイツ、2番手マシロデュレンの後ろはアグリキャップも含めて6頭が横に並んだような広がった隊形となっている。
第3コーナーに入ると、横並びの隊形自体は変わらないが、アグリキャップは最内を通っているため、明かに先頭を伺おうと3番手集団から半馬身抜け出したマイビッグバディに次いだ4番手にいるように見える。
第3コーナーから第4コーナーに移る大ケヤキの手前で、2番手に付けていたマシロデュレンが仕掛けていく。
大ケヤキで一瞬先頭の状況が見えなくなる。
大ケヤキを抜けて来た先頭はマシロデュレンに替わっており、2番手はその外のマイビッグバディとなっている。
アグリキャップは、3番手に落ちたジュディズハイツの内、まだ1馬身後方だ。
第4コーナーで、後続馬が進路を求めて更に外に広がっていく。
マイビッグバディの外に位置取るウィズザバトラーの更に外に、タマナクロスも上がって来ている。
トミービンは、ウィズザバトラーの後ろ、ボーンフリーランと並ぶ形となりタマナクロスの動きを見ている。
第4コーナー出口付近、残り3ハロンのハロン棒を過ぎた辺りでは、僅かに先頭マシロデュレンの外には、マイビッグバディ、やや遅れてウィズザバトラー、そしてウィズザバトラーと馬体を併せるようにタマナクロスが並んでいる。
内ではジュディズハイツが先頭からはやや遅れており、最内のアグリキャップと並んでいたスズエレパードがジュディズハイツを捉えようと前に出ている。
タマナクロスが随分上がって来とるが、これで大丈夫なんか、刑部さん……
……いや、そんなこと考えてもしゃーない、もう全て任せとる。ここまでの走りだって立派なもんや……
直線を前に、久須美調教師の胸中は、不安と期待が入り混じっているが、不安の方が勝っていた。
――外を通って、スーッとアメリカのウィズザバトラーも上がって行きました!
榊原直子の位置からは、馬群はターフビジョンの反対側を走っており見えない。
――第3コーナーのカーブでありますが、殆ど、ほとんど14頭が一団であります!
――さあ3コーナーから4コーナーに向かいますが、殆ど一団!
――まだ先頭はジュディズハイツ、そしてマシロデュレンが仕掛けた!
直子から見えるコースの左斜め前には、「TOKYO RACE COURSE」と蹄鉄型の飾りに書かれたゴール板が立っている。
ゴール板の左斜め後方に設置されたターフビジョンを直子は見る。
ターフビジョンには、遠景で、大ケヤキの陰から馬群が現れるところが映し出される。
――マシロデュレンが仕掛けました! ジュディズハイツ、そしてマシロデュレン!
――スーッと並んで、両馬の間隔が詰まりました!
――その後ろからマイビッグバディ、そしてウィズザバトラー上がって来る!
――その後ろからタマナクロス、タマナクロスの赤い帽子、スーッと上がって参りました!
――外、外を通って上って来ています!
――その後ろに、やはり赤い帽子、世界のトミービンがやって参りました!
少し前に身を乗り出して、アグリキャップたちが走って来る方向にコースを見渡してみるが、他の観客も身を乗り出しているため、②と書かれたハロン棒の辺りまでしか直子の位置からは見えない。
すると、ワーッ! と言う大歓声が上がる。
その大歓声はスタンドに反響して、地面が震えるようだった。
――第4コーナーをカーブして直線!
――東京競馬場、大歓声が沸きました!
――先頭は、まだマシロデュレンか、マシロデュレンか!
直子は、ターフビジョンを見るのを止めて、見える範囲ギリギリのハロン棒の辺りを注視する。
アグリキャップちゃんの走りを、直にこの目で見たいんだ。
誰かが撮っている、全体を見れる映像なんかじゃなく。
だから、あそこにアグリキャップちゃんが来るのを待つんだ!
富士田彩のFMラジオの中継音声を聞きながら、直子はハロン棒の辺り、茶色く冬枯れた芝のターフを注視した。
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