第58話 序盤の展開
阿栗孝市と彼の妻、稲穂裕治と布津野顕元は東京競馬場の馬主席に座っていた。
広く見渡しの良い窓からは、眼下の東京競馬場のコース全体が隅々まで見渡せる。
また、馬主席のシートの前面には小型のモニターが各席ごとに付いており、中継映像をゆったり見ることもできる。
うはっ、笠松や名古屋の馬主席の設備とは段違いや。
しかし流石ジャパンカップ、馬主席もえらく国際色豊かやな……
阿栗達からは離れているが、英語で大きな声量で盛り上がっている一団がいる。
阿栗たちの隣の一角は、阿栗たちを馬主席に案内してくれた東京馬主会会長であり、スズエレパードの馬主である
阿栗は古村埼にそっと訊ねる。
「あの盛り上がっている人たちは、どちらの馬主さんなんでしょうか」
古村埼は、その一団に目を向ける。
「ああ、あれはアメリカの馬主さん方ですね。一番声の大きい陽気な方が3番人気マイビッグバディの馬主、ダブリン氏ですよ。前評判が高いのでつい陽気になっているというところですかね。
英国のムーンラウドネスの馬主さんはアメリカ勢とは離れ、一番奥の席で静かに見守っておられますね。流石は貴族夫人といったところでしょうか」
阿栗が一番奥の席に視線をやると、護衛らしき男性数人に囲まれた普通にスーツ姿の女性たちが数人おり、どの女性がノーフォーク公爵夫人かはわからない。
「案外貴族の女性の方でも恰好は普通なんですな」
阿栗は正直な感想を口にする。
「そりゃ外遊中ですからね。しかしお国のフォーマルな式典やパーティなどでは昔ながらの貴族の正装を今でもされているようですよ」
古村埼は阿栗の正直な感想に少々苦笑しつつ返答する。
「阿栗さん、他の馬主の方もお教えしておきます。
あそこに座っておられる和服の女性が、マシロデュレンの喜多野カヤ氏です。旦那さんを数年前に亡くし、それ以降はカヤ氏がマシロ牧場、マシロ商事など、いわゆるマシロ軍団を束ねる総帥と呼ばれています。そう言うと厳つく聞こえますが、とても話しやすい方ですよ。
あちらに座っている集団の中心にいるのがシラオイグループの総帥、喜田吉哉氏と、その隣で喜田氏と談笑されている外国人がトミービンの馬主ワイトスティ氏ですね。
今日は喜田氏の馬やシラオイのクラブ馬はジャパンカップには出走していませんが、トミービンは引退後、喜田氏が購入してシラオイの牧場で種牡馬として繋養されることになっていますから、その視察でしょう」
阿栗にとっては名前は知っていても、自分のような地方馬主とは無縁と感じられる偉大なオーナーブリーダー達だ。
「レースの後で挨拶に行かれるといいですよ。費やす金額の多寡はあろうと同じ馬主ですし、日本の競馬のレベルを上げようと頑張っておられるだけに、私や阿栗さんのような一般の馬主との関係はあの方たちにとっても大事ですから、ぞんざいな対応はされないはずです」
古村埼は阿栗にそう伝えると、視線を眼下の東京競馬場の発馬地点に戻す。
「ゲート入りが間もなく終わりそうですね。阿栗さん、互いに愛馬の良い走りを祈って観戦しましょう」
阿栗は手前のモニターの画面を見る。
ゲート入りを嫌っていたムーンラウドネスがゲートにようやく入ると、残りのアグリキャップら4頭はすんなりとゲートに入る。
実況のフジテレビの大迫和彦アナウンサーの声が響く。
――最後にウィズザバトラーが入って、さあ世界が注目する第8回ジャパンカップ、
カシャッ
――スタートいたしました!
全馬枠入りする様子がターフビジョンに映し出される。
榊原直子は一生懸命に体を伸ばしスターティングゲートを見ようとしたが、他の観客も身を乗り出しているため、1枠の辺りが豆粒のようにしか見えない。
諦めてターフビジョンに目をやる。
全馬がゲートに収まり、係員がゲートの前から急ぎ退避する。
カシャッ
――スタートいたしました!
隣の富士田彩の持つ小型FMラジオから、実況の声が流れる。
――14頭が揃いました! 綺麗なスタートを切っています。
内枠の馬から順に良いスタートを切っている。
アグリキャップちゃんは……?
直子は青い帽子に青い勝負服のアグリキャプを探す。
アグリキャップも良いスタートを切っており、前目に付けている。
「アグリキャップ、良いスタートを切ったわ。先頭の後ろ、良いポジションを取ってる」
富士田彩がターフビジョンを見上げながら呟くように言う。
――正面スタンド前の先行争いですが、若干気合を入れて、今、マシロデュレンが出ようというところか、
――マシロデュレン、そしてボーンフリーラン、外の方からムーンラウドネス。
――先頭はこの辺りボーンフリーラン、マシロデュレン、スズエレパード、そしてジュディズハイツ、日本の馬が先頭2番手であります。
名前は呼ばれていないけれど、前から5番目か6番目。
先頭に3頭並んでいて、その直後に白の帽子の馬と黒の帽子の馬を並ぶように走っている青の帽子と勝負服。
「がんばれえー、アグリキャップちゃん!」
直子も精一杯の大声で叫ぶが、観客席の歓声に飲み込まれる。
手作りうちわを掲げて応援する直子の目の前を、馬たちが駆け抜けていく。
――マシロデュレン、村元が行きました。大レースに強い村元!
――村元のマシロデュレンがまず先頭に立って、第1コーナー左手にカーブを切って行きます。
――ボーンフリーラン2番手、内を行きましたのがスズエレパード3番手でありますが、外から柴端の乗ったジュディズハイツ、ジュディズハイツが2番手に上がります。
――その後ろに公営代表アグリキャップ、アグリキャップの後ろにマイビッグバディが付けました!
ようやくアグリキャップちゃん、呼んでもらえたあ!
さっき並んでいた白と黒の帽子の馬を交わして、前の方に出て行ってる。
何か馬の位置が目まぐるしく入れ替わるから、全然実際の順番どおりにアナウンサーの人が呼んでくれない。
このまま一度もアグリキャップちゃんの名前、呼ばれないかと思ったよう。
馬群は第3コーナーに入り、直接は順位の変動が良くわからない。
また直子はターフビジョンに目をやった。
久須美調教師は、調教スタンドから双眼鏡でレースの様子を眺めている。
周囲の調教師たちも同じだ。
モニターは付いているが、モニターに目をやる者は誰も居ない。
久須見調教師の前には外国馬の調教師たちが座っている。
彼らは馬主たちのように陽気では無く、真剣に双眼鏡を覗き込んでいる。
久須見は、ゲートの中のアグリキャップと刑部を注視している。
刑部は顔を伏せ、集中しているように見える。
ゲートが開く。
刑部とアグリキャップはいいスタートを切った。
アグリキャップはゲートが速い馬ではないが、いつものそろりと出る様子では無く、開くと同時に1歩目で飛び出し、2歩目で隣の4枠7番マイビッグバディと5枠10番マシロデュレンを半馬身ほど置き去りにする。
ただ、内枠の馬の出はそれ以上に良い。
1枠1番のセイラムムーブと2枠4番ゴールデンキューの出が速い。
ゴールデンキューはやや控え気味にしたスズエレパードの前を通り先頭のセイラムムーブに馬体を併せていく。
スズエレパードは更に内に寄せ、セイラムムーブの内を突こうという体勢だ。
注目の3枠の2頭、3枠5番タマナクロスと3枠6番トミービンも悪くないスタートだったが、内の3頭と外の3頭ほどはダッシュが付いていない。
青の帽子アグリキャップは徐々に内に寄せている。
アグリキャップの外、マシロデュレンは騎手の村元が出鞭を連打し、前に出ていこうとする。
アグリキャップと刑部はマシロデュレンに張り合おうとはせず、スタートで得た加速を殺さない程度に無理のない走りをしている。
内隣の4枠7番マイビッグバディが控えたため、アグリキャップはトミービンのやや外を先行する形になる。
トミービンの内、タマナクロスは勢いよく前に出ようとしている姿勢だったが、無理なく控えてトミービンよりも下げていく。
トミービンも、タマナクロスに合わせて下げたところを、アグリキャップが前に出る。
アグリキャップの外、前に出ていくマシロデュレンに、外からボーンフリーランとジュディズハイツが被せるように上って来て、3頭が並んで前に出ていく。
まだ第1コーナーにもかからないホームストレッチの最初の1ハロン200mの間に、目まぐるしく位置取りを巡っての争いが繰り広げられていた。
次の1ハロンでは、内で控えたセイラムムーブとゴールデンキューを交わし上がったスズエレパードと、外からハナを取りに行かんとするマシロデュレン、ボーンフリーラン、ジュディズハイツの4頭による先頭争いとなる。
そんな中、アグリキャップは控えたセイラムムーブの内に、無理なく進出していた。
ここまで、アグリキャップに無理な脚を使わせること無く絶好のポジションを取った刑部行雄の騎乗に、久須美は舌を巻く。
このジャパンカップの発走前に、東京競馬場の芝コースの内ラチは6m程内に変更されている。
最内は、今日のレースで使われておらず、比較的芝が荒れていない。
刑部さん、流石や!
今、馬群の前目に位置している馬の中で、アグリキャップが最も負担なく現在のポジションを確保することができている。
ただ、この後、内でどれだけ我慢することができるか。
内を走ることは距離ロスもなく芝の良いところを走れるメリットがあるが、勝負所で前が空かないリスクも付いて回る。
最悪、脚を余らせて負けることも十分あり得る。
……だが……
そのリスクを取ってでも刑部騎手は勝ちに行こうとしている。
頼みましたよ、刑部さん。
ゲートに入ったアグリキャップの鞍上、刑部行雄はアグリキャップの呼吸に合わせて自らも呼吸をする。
馬の呼吸は1分間に10~15回と言われている。
成人男性の1分間呼吸数は12~25回で、ヒトよりもやや回数が少ない。
馬の肺の容量は人間の10倍はあるためであり、アグリキャップはレース直前の現在、やや呼吸が早めになっているとはいえ、アグリキャップの呼吸に合わせている刑部行雄は深呼吸をするようにゆっくりした呼吸をしている。
ゲートの前に立つJRA職員が両脇に
刑部は間接視野で両脇の馬と騎手の動きを見る。
落ち着かない様子の馬はいない。
おそらくスターターはスタートタイミングを計っているはず。
間もなくゲートが開く。
刑部は意図的に早いタイミングで息を吸う。
アグリキャップもそれまで鞍上と一体となっていた呼吸音につられ、息を吸い込む。
刑部とアグリキャップが息を吸い込み終わるタイミングでゲートが開いた。
息を吸い込んでいるアグリキャップは、刑部の指示でゲートを飛び出す。
刑部が狙っていたとおり、良いスタートが切れた。
スタートの勢いのまま、アグリキャップは両脇のマイビッグバディとマシロデュレンを半馬身程も離す。
マイビッグバディは控えたのか前には出て来ない。
刑部の予想では、マイビッグバディはアメリカの馬らしく無理にでも前に行くだろうと考えていたため、この序盤でマイビッグバディをどう交わして前のポジションを取りに行くかが課題であったが、マイビッグバディがすんなり引いたことで問題なく前に出ることが出来た。
進路妨害にならないように刑部とアグリキャップは少しづつ中に切れ込んでいく。
外のマシロデュレンは騎手の村元が盛大に出鞭を7発程もくれて、アグリキャップを外からまくっていこうとしている。
マシロデュレンの村元は、マシロデュレンの豊富なスタミナを生かすために何が何でもハナを取りにいく算段だろう。
無理に付き合う必要は微塵もない。
マシロデュレンと、外から上がって来たボーンフリーラン、やや遅れて手綱をしごき前に行こうとするジュディズハイツの鞍上柴端雅人。
ハナが必要な3頭を先に行かせ、刑部は尚もアグリキャップを内に寄せ、トミービンと併せる形となる。
トミービンの鞍上のリルド騎手は刑部とアグリキャップが寄って来たことは気にもかけず、トミービンの内、斜め前を走るタマナクロスと南見活実の出方を見ているようだ。
刑部もタマナクロスと南見活実の出方は気になるところだ。
もしも前走、天皇賞秋と同じく好位追走を選ぶようならば、本当の真っ向勝負を挑まなければならなくなる。
正面から馬の力でねじ伏せる戦いは、騎乗している馬がヨソリノルドルフであれば刑部としても望むところであったが、それは刑部がヨソリノルドルフに何度も騎乗しており完全にヨソリノルドルフという馬を知り尽くしていたからこそだ。
アグリキャップについては、ルドルフ級という確信はあったものの、アグリキャップの血統面から来るスタミナの不安が刑部からは完全に拭い去られてはいない。
テン乗り故、ぶっつけ本番で微かでも不安を感じるのは危険であった。
南見活実はタマナクロスをそのまま好位追走させるのではなく、一度控えて後半に捲くっていく春までの戦法を選んだ。
このレースでは、内で良いスタートを決めたセイラムムーブとゴールデンキューの他、スズエレパード、そして外からハナを奪おうと躍起になって上って来るマシロデュレン、ボーンフリーラン、ジュディズハイツの動きも南見活実には見えていた。
前に馬が殺到しようとしており、好位追走を選択すると、前が壁になり抜け出すのに手間取る。
父シービークロス譲りの『白い稲妻』と呼ばれるタマナクロスの直線での末脚に絶対の自信を持っていた南見活実は、勝負どころで進路を自由に取るために控えることを選択し、タマナクロスを控えさせる。
トミービンのリルド騎手も、タマナクロスに合わせて控えた。
刑部はアグリキャップをトミービンの前に出し、最内に寄せようとする。
すると、一度は控えていたマイビッグバディが、最内をするすると上がろうとしている。
ここは、是が非でも最内を取らなければならない。
刑部はそう考え、アグリキャップをトミービンの前に出し、更に前に出ていく。
すると、ゲートから出た直後は先頭に出ていたセイラムムーブとゴールデンキューが控えて最内を下がってきており、マイビッグバディに蓋をする形となった。
刑部はそのままアグリキャップを前に出し、ゴールデンキューの前に出すと、更に内に寄り、先頭争いをしているスズエレパードの真後ろ、最内の2番手の位置まで進出した。
前では激しい先頭争いが繰り広げられている。
刑部はとりあえず、序盤を何とかしのぎ、好位を確保できたことに安堵した。
阿栗オーナーに言ったように、ガーっと行ってガーっと回ってグオッと戻って来る、そのためのガーっと行く部分はとりあえずアグリキャップの消耗を抑えて完遂できた。
だが、まだ残りは2000mある。
まだまだ気は抜けない、と刑部は気を引き締める。
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