第57話 ゲート入り




 刑部行雄のアグリキャップに対する最初の評価は、適距離はマイルだろうが、終いで長くいい脚を使える馬だな、というものだった。


 オールカマーで対峙したアグリキャップは、他の馬のペースが緩んだ第4コーナーでもペースを緩めず前に進出し、直線でも長く良い脚を使いスズエレパードを差し切った。

 オールカマーで刑部が騎乗していたマキシムビューティーも一度4コーナーで大きく息を入れ、直線に向いてから全力で追い出したのだが全く届かず5着だった。

 マキシムビューティー自身からレースで走る闘志が失われつつあったこともあったが、刑部自身も落馬後のリハビリから復帰したばかりで、まだ落馬以前の追い方が出来ていないこともあった。

 とはいえ、鞍上の騎手の判断に素直に従い、スズエレパードを差し切ったアグリキャップの力は大したものだ、と感心していた。


 この時は、まさか自分にアグリキャップの騎乗依頼が来るとは思ってもみなかった。


 10月の半ば頃、エージェントの松林からアグリキャップの騎乗依頼が来るかも知れないと聞かされた時は冗談だろう、と思った。


 ダンシングキャップ産駒は地方の公営で走る産駒が多いが、中央競馬に所属している産駒も居ない訳では無く、刑部も何度か父ダンシングキャップの馬には跨ったことがあった。

 総じてダンシングキャップ産駒と言うのは気性が荒く激しく、騎手の指示を無視して一気に自分の走る気のままに行きたがる産駒が多い。

 そのため距離適性は短距離に偏る傾向にあり、早く前に行きたがる気性は地方公営の小回りの競馬場には合っている。

 アグリキャップが勝ったオールカマーの2200mは、そういったダンシングキャップ産駒を鞍上の安東克己が上手く御した結果の最長距離であり、毎回は難しいのではないかと刑部は疑っていたからだ。


 10月一杯待ってみたがジャパンカップに出走する他陣営からの乗り替わり依頼は無かったため、阿栗孝市からアグリキャップの騎乗依頼が来た時点では、ある意味ジャパンカップでの騎乗馬確保のために仕方なく選択した面も大きかった。


 だが、松林の用意した東海菊花賞の走りの映像を見て、ダンシングキャップ産駒でありながら、それも一度はかかりながらも2400mの距離で勝ち負けになるのを見て、これならジャパンカップでも恰好が着く騎乗は出来るだろう、と刑部は判断を変えた。


 東京競馬場に到着したばかりのアグリキャップを見に行った際には、自分の予想以上に環境変化などに動じず、食欲もあり、何より些細な動きでも柔軟性を感じさせる動きに、これは思った以上に走れる馬かも知れないと刑部の中の期待は膨らんだ。


 実際に調教でアグリキャップに騎乗した刑部は、アグリキャップの気性がとてつもなく落ち着いていることにまず驚いた。

 刑部の指示するゆったりとしたペースに、気性が激しく行きたがる馬は従わないものだが、アグリキャップは騎手が指示するペースで走ればいいんだろ、とばかりに15-15のペースを刻んで走る。

 また、終いを軽く追うと、予想以上に伸びが良い。


 ただ、騎手の指示で手前を変えることだけは頑固にしたがらなかった。

 刑部がこれまでのアグリキャップのレースを見返して見ると、手前を変えながら走ってはいるのだが、基本的には右手前で走ることがアグリキャップは癖になっており、右前肢が疲れると左手前に自ら変えるが、右の疲れが和らぐとすぐに右手前に変えている。

 騎手の指示で手前を変えているとは思えず、アグリキャップ自身がそうしているのだろうと思えた。


 アグリキャップが走った過去の左回りの中京競馬場のレース、3歳時の中京盃芝1200mと4歳春の中日スポーツ杯芝1800mを見返しても、コーナーを回る際に右手前で走っており、やや外に膨れる傾向があったため、刑部はアグリキャップに手前替えを教えることを先週末から行っていた。


 あぶみにかける体重の変化と手綱の寄せで、刑部の指示で手前を変えることが出来るようにはなったのだが、左手前から得意の右手前に変えるのは抵抗がなくスムースに行えるが、右手前から左手前に変えることに関しては、今でもやや反応は悪い。


 それが追い切りでゴールデンキューとの併走を行った際には、馬が変わったようにすんなり刑部の指示に従い手前替えもそれまでに比べればスムースに運べた。

 アグリキャップ自身が、競走相手がいることを理解し、勝つために騎手の指示に従うということを知っているかのようだった。


 刑部にとって、更に嬉しい誤算だったのが、刑部が追うのを止めてもアグリキャップ自身が自らの意思でゴールデンキューよりも前に出ようとしたことだった。

 競り合う相手に自ら勝ちたいという意思を持つ馬というのは意外に少ないものだ。

 アグリキャップは、ダンシングキャップ産駒の狂おしい程に前へという気質も受け継いでいる。

 そしてアグリキャップが他のダンシングキャップ産駒と明確に違っていて強みとなっている部分は、乗せている騎手の力を借りることが最後に相手より前に出るために必要であるということを理解している部分であった。


 刑部のキャリアの中で、最高の馬と言えばヨソリノルドルフ以外にない。

 刑部の中での乗った馬を判断する基準も、ヨソリノルドルフになっている。


 刑部はアグリキャップに対して、走りのタイプこそ違うものの、ヨソリノルドルフに近いものを持っていると確信した。

 ヨソリノルドルフに関しては、当初は軽やかなスピードが勝っていたが成長するにつれて力感が増して行った。

 対してアグリキャップは、スピードを感じさせないが、馬場に噛みつくような力そのものというダイナミックさが勝っている。

 共通するのは、勝負所まで騎手の指示に従う頭の良さである。

 ヨソリノルドルフに関しては、刑部の指示が無くても、自ら勝つための走りを知っていたきらいすらあったが、能力を発揮するべきところまで如何に走る本能を自ら抑えて騎手に従えるかどうかが、安定して勝てる馬かどうかの分水嶺だと刑部は知っている。


 例えるなら、ルドルフが高級外車だとすれば、アグリキャップは大型のダンプカーだ。


 刑部は追い切り後に、そう確信した。

 それ故に久須美調教師らに、負ける確率が上がってもタマナクロスとトミービンを負かしに行く競馬をするかどうかの覚悟を問うた。

 2強は度外視して掲示板圏内を狙うのであれば、その両馬は無視してアグリキャップの能力を引き出す騎乗で良かった。

 だが、その2強に勝つには、少なくともタマナクロスに勝つには、ある程度狙ったポジションを取っていく競馬が必要になる。


 刑部はタマナクロスとこれまで2度対戦している。

 今年の宝塚記念でのマシロフルマーと、天皇賞秋でのシルバアクトレスだ。

 どちらも牝馬だったが、スタミナが勝るマシロフルマーではタマナクロスの直線のスピードに付いて行けず、牡馬顔負けのスピードが自慢のシルバアクトレスは、先行しながらも終盤に豪脚を使えるタマナクロスの豊富なスタミナに屈した。


 この2度の経験から、刑部はタマナクロスに勝つためには最後の直線に入りスパートするまでに、タマナクロスの前に出て競馬を進めていることが勝つための絶対条件と考えていた。

 そしてもう一つは、タマナクロスがスパートした後でこちらも追い出すことであった。

 もっとも、アグリキャップ自身にタマナクロスの直線の伸びに匹敵する脚が無ければ、こんなことは考えなくても良かったのだが。

 トミービンに関しては、もしタマナクロスに先着する競馬が出来たとしても、それを上回る剛脚――凱旋門賞で見せたような――を使われてしまったなら勝つことは出来ない。

 だが、トミービンの状態からは、そこまで刑部の想定以上の豪脚を使うことはないだろうとも分析していた。


 そして、C.マクレーンの騎乗するウィズザバトラーについては、刑部は深く考えることは止めた。


 まず間違いなくウィズザバトラーは侮れない相手となる。

 ただ、ウィズザバトラーについての分析できる情報は、刑部は何も持っていないに等しい。対策を取ろうにも相手がどんな脚質でどんな特徴があるのか見えないのだ。

 なら、見えている一番の強敵、タマナクロスを負かしに行く競馬をする他ない。

 刑部はそう腹を括った。


 それに、冷静になった今となって刑部は思う。


 C.マクレーンも乗った馬の能力全てを引き出すだけで勝ち続けている訳では無い。

 大レースになればなるほど、相手の馬の特徴を頭に叩き込んでレースに臨んでいるはずだ。

 朝食の時に、刑部にわざわざ「アグリキャップはいい馬だ」と言いに来た訳ではないだろう。

 刑部からアグリキャップの情報を、少しでも引き出したいと思っていたに違いない。

 刑部自身もC.マクレーンからウィズザバトラーの情報を少しでも聞ければ、と思っていたのだから。


 おそらく地方笠松を主戦場にするアグリキャップのレース映像は、他国陣営であるクリス=マクレーンにとって中央GⅢであるオールカマー以外はおそらくほぼ手に入れることが難しかっただろう。

 その他には公開調教の映像と、日曜朝の軽めの調教での動きくらいしか知らないのだ。


 つまり、こちらも相手を知らないが、相手もこちらを良く知らない。


 なら、レースの最中の判断の勝負となる。

 第6,第8レースで変わらぬ天才ぶりをC.マクレーンに見せつけられたが、刑部の積み重ねて来た努力は、少なくとも久須美調教師が信じている。


 久須美調教師が信じた、今の自分の技術と判断を信じる。


 刑部がそう考えている間に、ゲート入りは始まっている。


 8枠15番のムーンラウドネスがゲートに入るのを嫌い、後の馬はしばらく待たされる。

 待たされている間のアグリキャップは、我関せずといった様子で全く動揺はない。


 刑部は自分の跨っているアグリキャップの落ち着き払った様子に安堵する。

 パドックで言った「Eeasy.Take it easy」は、アグリキャップに対してではなく半分以上は自分に対して言ったようなものだ。

 アグリキャップは自分以上に落ち着いている。


 アグリキャップの順番が来て、JRAの係員がアグリキャップを曳き手綱で引きゲートまで誘導する。


 アグリキャップはゲート直前まで来ると、曳き手綱をJRA係員が外すと同時に首を伸ばし左右にブルブルと回転させる、いつもの動作を行った。

 曳き手綱を外したJRA職員はアグリキャップが引き手綱を嫌ったように思ったのか驚いた様子を見せたが、刑部はアグリキャップのその動作がレースのスイッチを自ら入れるためのものだと久須美調教師に聞いていたので、つい驚く職員の様子が可笑しく笑顔になる。


 Take it easyだ、刑部行雄。


 刑部は、アグリキャップの呼吸に、自らも合わせるように呼吸する。









 ゲート入りの最後は8枠16番のウィズザバトラーだった。


 ウィズザバトラー鞍上のC.マクレーンは、アグリキャップと刑部行雄の様子をゲート入りの前から観察していた。


 なんだユキオ、案外落ち着いてるじゃないか。

 騎手控室までの重苦しい緊張が無くなってる。


 C.マクレーンは刑部の切り替えに舌を巻いた。


 土曜日の昨日来日したC.マクレーンだが、実のところアメリカにいる間にジャパンカップ出走馬のレース映像を繰り返し見て、各馬の能力の把握に努めていた。

 ウィズザバトラーのフランキー調教師は今回が3回目のジャパンカップとなる。

 フランキー調教師はウィズザバトラーの日本の芝への適正に相当な自信を持っており、騎乗するC.マクレーンに事前に相手の情報がわかる映像資料を多数送りつけていた。


 C.マクレーン自身もレースで勝つためなら、情報に目を通し各馬の特徴を把握することを厭わない。

 何よりも勝つことを優先する。勝つことに貪欲であった。

 馬に寄り添うことも、言ってみれば馬を気分よく走らせるため、ひいては勝つために自然に行っていることである。

 自分の馬の癖を知り真っ直ぐ走らせる。

 相手の馬の癖を知り、空くコースを予想する。

 全て勝つためだ。


 ジャパンカップ出走馬の映像資料を何度も繰り返し見て、C.マクレーンが出した結論。

 このレースでの最大の敵は、日本のタマナクロスであるということだった。


 そして資料が貧しく分析し切れなかったのが刑部の騎乗するアグリキャップだった。

 アグリキャップという馬自体の癖は、オールカマーを見る限り右手前で走るのが好きということだったため、おそらく左回りの東京競馬場ではコーナーで外に膨れるだろうと思っていた。

 だが、追い切りの映像では手前替えがややぎこちなさは残るものの、比較的スムースに行えている。

 ただ、追い切り映像を見た限りでは適正距離はマイルであり、2400mではゴールデンキューやスズエレパードに先着は出来るだろうが、スピードとスタミナを兼ね備えたタマナクロスの走りに対抗できそうには見えなかった。

 そのためジャパンカップの最大の敵はタマナクロスというC.マクレーンの認識は変わらない。


 ただ、アグリキャップという馬がこの2か月で変わった要因は、C.マクレーンにとっても旧知の騎手である鞍上の刑部の手腕だろうと思った。

 刑部の展開を読む力と、馬に負担を掛けずに終いに足を残し勝負をかける力を発揮されると少々厄介かも知れない。

 そう考えたC.マクレーンは、多少でも不確定要素を消しておくため、鞍上の刑部にプレッシャーをかけ、刑部の思考に多少の迷いを引き起こしておきたいと考えた。

 ジャパンカップ前に刑部と一緒に乗るレース、第6レースダート1600mでのC.マクレーンの騎乗馬は12番人気。

 返し馬で軽く走らせると直線で真っ直ぐ走ることに難がありヨレるため伸びないことがわかった。C.マクレーンはヨレやすい方向とは逆に馬を向かせることで終いの伸びを引き出し、刑部より前の人気以上の着順に持って行くことに成功した。

 第8レースの芝1600mでは、刑部の馬が圧倒的な1番人気であり、C.マクレーンの騎乗馬は中2週での出走ということもあって勝ち負けは少々厳しい状況であった。

 そこでC.マクレーンはひたすら刑部の馬を徹底的にマークすることにした。

 刑部の馬に先着することが出来ずとも、刑部の馬を直後から見ることによって東京競馬場の後半部分の走り方を参考に出来るし、道中ずっとマークすることで刑部に対して「自分の騎乗を見られている」というプレッシャーを与えられるだろう。

 

 そしてその目論見は成功し、アメリカでのC.マクレーンの実績を知る刑部にとっては相当なプレッシャーを与えることが出来た、とジャパンカップ直前の刑部の表情からはうかがえたのだが。


『スイッチの切り替えが早くなったね、ユキオ。このレースまで引きずってくれてると良かったんだけどなあ。

 まあいいや。相手はタマナクロスだからね。

 Take it easy』


 C.マクレーンはそう小さく呟き、ウィズザバトラーをゲートに入れる。


 その数秒後。


 カシャッ


 ゲートが開いた。











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