第56話 ゲート入り直前




 地下馬道を抜け、本馬場の待避所に出ると、川洲と毛受はアグリキャップの曳き手綱を外した。


 鞍上の刑部行雄に川洲はつい一言お願いをする。


「刑部さん、キャップを無事に戻して下さいね」


 毛受は「ここ2週間、刑部さんのおかげでキャップは充実した調教が積めたと思います。力出させてやって下さい」と刑部に言う。


 二人ともにそれぞれの立場での願い。

 両者の願いは矛盾しているようでいて、どちらもアグリキャップという競走馬のことを深く心配している。


 久須美調教師を始め、笠松久須美厩舎のスタッフは本当に競走馬への愛情にあふれており、いい厩舎だな、と刑部は感じた。


「僕のこれまでとこれから、それがこのレースに凝縮されてる、っていうレースを目指して乗ります。お二人とも、アグリキャップをここまでいい状態に仕上げてくれてありがとう」


 刑部は二人にそう言うと、アグリキャップのウォーミングアップのため、発走ゲートの後方に駈歩キャンターで駆けさせる。








 阿栗夫妻と稲穂裕治、布津野顕元は、東京競馬場スタンドの馬主専用エリアのロビーにいる。

 ロビーの広く大きな窓からは真下の東京競馬場のトラック全周が見渡せる他、モニターも付いており、TV中継と同じ中継画面も見ることが出来る。


 阿栗はオールカマーの時は馬主席に行くことにためらいがあったが、今回も馬主専用エリアには入ったものの、専用エリア内の区切られた馬主席はどうしても敷居が高く感じられてしまい、馬主専用エリアのロビーで観戦しようとしていた。


 ロビーには他の馬主と関係者も大勢おり賑わっているが、阿栗はこの場に集まっている他の馬主のことを殆ど知らない。

 阿栗は笠松競馬の馬主との繋がりしかなく、笠松の馬主で中央競馬の馬主でもある馬主は鷹端義和氏をはじめ数人を知ってはいるが、彼らは殆どが栗東の厩舎に馬を預けており、今日東京競馬場に来ている者はいない。


「阿栗さん、いよいよ始まりますね」


 阿栗は不意に女性に声をかけられる。

 地方馬主の自分を知っている者はいないはずだと思っていた阿栗は驚く。

 声の方向を見ると阿栗達が座ろうとしたテーブルからやや離れたテーブルに座っていた30代女性が手を挙げつつ、立ち上がろうとしている。

 見覚えのある顔。


 高田美佐江だった。


「た、高田さん、その節はどうも」


 阿栗は慌てて高田美佐江に挨拶しようと近寄る。

 阿栗の妻や稲穂裕司も高田美佐江が誰かはわかっていないが阿栗に続く。


 阿栗が近づくのを見た高田美佐江は、自分の隣に座ってターフの様子を見ていた男性の肩を叩き、阿栗が来たことを知らせる。


「高田さんのおかげで、今日刑部さんに乗ってもらえる算段がつきました。ホンマ新潟競馬場で名刺頂いた時のたった一度お会いしただけなのに不躾に電話してしまい、ご無礼をお許し下さい」


「阿栗さん、それはもう電話で何度もお聞きしました。ご相談に乗らせていただきますと言って名刺をお渡したのは私ですから、阿栗さんはお気になさることはありませんよ」


「いやそう言われましても、ワシにとっては藁にもすがる気持ちでしたから、何べん感謝の言葉言うても言い足りないくらいなんですわ。

 ところで高田さんは、今日はどうしてこちらへ? ジャパンカップ観戦のためにわざわざ来られたんですか」


「今日の第3レースに私どものクラブの馬が出走したんです。さすがにジャパンカップ観戦のためだけにわざわざ北海道からは出てきませんよ。もっともジャパンカップ観戦の理由付けのために今日のレースを選んだのかもしれませんけどね、この人は」


 高田美佐江はそう言うと、隣のひょろりとした眼鏡の男性を阿栗に紹介する。


「私の夫の高田茂幸です。私が名目上代表になっているグレイトフルレッドファームとヴィランターフクラブも、実質的に夫が取り仕切っています」


 高田美佐江にそう紹介された夫――高田茂幸もゆっくりした口調で挨拶する。


「高田茂幸です。……まあ私は正直、人と付き合うことよりも馬を見て育てる方が性に合っているので……妻の方が、人付き合いなどは私よりも数段得意にしているので……話すのは妻に任せることが多いので……ただ阿栗さんの馬……あれはいいですね、すごくバネがある走りをしています」


「は、はあ、どうも有難うございます」


「今日はあの馬の走りをこの目で見れるのを楽しみにしていました……ただ、タマナクロスの真っ直ぐな走りも楽しみですし……トミービンも欧州を制した馬ですから……ただ、あまり本調子ではなさそうなのが残念ですが……それでアメリカの馬ですが……マイビッグバディも本国で2400mの世界レコードを出したと聞いていましたが……どうも日本の馬場だと2400mはどうかなと言う気がしますね……マイルから2000の中距離で見たかったのが本音です……」


「は、そうでしたか……いや確かに楽しみですなあ」


 阿栗が高田茂幸の始めた解説に戸惑っている様子を見た高田美佐江が助け舟を出す。


「ところで阿栗さん、お連れの方々はどなたですの」


「いや、ご紹介が遅くなり失礼しました。私の妻と、キャップの生産牧場の稲穂牧場の跡取り、稲穂裕司くんと従業員の布津野くんですわ」


 阿栗の言葉に、稲穂裕司らが短く挨拶する。


「稲穂さん、年齢おいくつですか? 私どもと同年代くらいに見えますけど」


 高田美佐江が訊ねる。


「今年で34です」


「夫と5つ違いでお若いですね。同年代の生産者どうし、これからもよろしくお願いします」


「ああ、稲穂さん、これからはきっと安くて強い海外産の馬に日本の馬産はされるからね……覚悟を持っていい馬作らないと……でも、あのアグリキャップが生産できるなら安心かな‥…まあ、うちも頑張らないと……」


「阿栗さんも稲穂さんも、お時間がありましたらうちの牧場にも是非お立ち寄りくださいね。久須美調教師と奥さまもご一緒に、また陽気のいい季節にでも。

 ところで、そろそろ枠入りが始まりそうですね。阿栗さん達も私たちと一緒に観戦されますか?」


「いやあ、夫婦水入らずを邪魔しては悪いんで、ワシらは別口で観戦させていただくとしますわ。

 高田さん、また何かありましたらよろしくお願いします」


「ええ、ではまた。レースでの幸運をお祈りいたします」


 そう挨拶をする高田美佐江の横で夫の高田茂幸は、もう既に視線をターフに戻していた。



 最初に座ろうとしたテーブルが高田夫妻と話している間に他の馬主に座られてしまっていたため、他の空いているテーブルを探していた阿栗の元に、馬主席から出て来た一人の眼鏡をかけた老紳士が近づいて来た。


「失礼ですが、阿栗孝市さんでよろしいですかな」


 老紳士は阿栗にそう問いかける。


 阿栗はその老紳士とは全く面識が無く、何かマナー違反や迷惑になることを自分が仕出かしたのかと思い内心気が気ではない。


「はい、ワシは阿栗孝市ですが、何かマナー違反でもしてまいましたか」


 阿栗がおずおずそう返答すると、老紳士は表情を僅かに緩めて言う。


「マナー違反などはされておりませんよ。ただ、オールカマーの時も阿栗さんは馬主席におでにならなかったのでね、もしかして中央競馬の馬主席を敷居が高いと感じておられるのかと思いまして。

 今もお席を探しておられたようなので、僭越ながらお声を掛けさせていただきました。ロビーではなく馬主席の方へいかがですか」


 阿栗は図星を突かれ、やや狼狽うろたえてしまいすぐに言葉が出ない。

 すると阿栗の妻が老紳士に笑顔で答える。


「阿栗の妻です。申し訳ありません、うちの主人は体のりに似合わず気の小さいところがありまして。

 ご迷惑でなければ、ご一緒させていただいてよろしいでしょうか」


 老紳士はにこりと笑い、承諾する。


「ええ、そう言っていただけて良かった。愛馬の出走レースを地方競馬の馬主さんには馬主席で見せないなんて思われたら、東京馬主会の沽券こけんに関わりますからな」


「ええと、馬主会の関係者の方、なんですか」


 阿栗がおずおずと老紳士に訊ねると、老紳士は阿栗に名刺を差し出す。


 その名刺には『一般社団法人 東京馬主会 会長 古村埼 由夫』と書かれている。


 わざわざ会長さん自身が、ワシなんかのことを気にしてくださるとは……!


 阿栗が驚愕していると、老紳士はそんな阿栗の様子を見て気遣うように言う。


「毎回こうしている訳ではありません。阿栗さんに声を掛けさせていただいたのは東京馬主会の会長としてではなく、同じレースに愛馬を出走させる同じ馬主として、ですよ。

 オールカマーの時、私の愛馬スズエレパードを破って優勝されたアグリキャップの馬主のあなたを祝福しようと思い馬主席を見渡したんですが、お姿が無くお目にかかれず残念に思いましたからな。

 今日のレースも勝ち負けはともかく、ゆったり観戦して愛馬の走りを心地よく堪能していただけるならば幸いです。

 さあ、間もなくゲート入りが始まります、見逃したらことですから、参りましょう」


 老紳士、古村埼由夫はそう言うと、阿栗たちに馬主席への入口をジェスチャーで示してゆっくりと歩き出す。


 阿栗たちもそれに続いた。








「パドックで布津野さん、私たちの写真撮ってくれてましたねえ、彩さん。

 後で阿栗さんに、写真焼き増ししたら下さいってお願いしようかなあ」


 榊原直子は東京競馬場スタンドの芝生席で、最前列で手すりにつかまりながら隣の彩にそう話しかける。


「だったら阿栗さんの奥さんに頼んであげるわ」


「でも、勿体なかったなあ、せっかく阿栗さんが馬主観戦エリアに一緒に来てもいいよって言ってくれたのに」


「直ちゃん、自分の恰好見てもう一度それ言える? どう見たって一般のアグリキャップファンにしか見えないわ。阿栗さんの孫ですとは絶対に言い張れないわよ」


 直子の恰好はダウンジャケットにストーンウォッシュのジーンズで、大学生の孫ですと言い張れないことも無かったが、手作りアグリキャップうちわがどうしても身内感を損なっていた。


 阿栗は直子と彩を自分の孫ということにして一緒に馬主専用エリアで観戦しようと言ってくれたのだが、直子の恰好が浮きすぎると思った彩が断っていた。


「まあでも、立見席の中でもゴール前が近い最前列に来れてよかったじゃないの」


「そうですねえ、人がこんなに多いのに、皆さんいい人ばかりですよねっ。

 それに東京競馬場って、こんな立派な大きい画面があるからレースの様子もよく見れるし、凄いですね。だから皆さんあんまり場所にはこだわらないのかな」


 実際のところは彩が周囲の男の観客に愛想よく笑顔で頼んだ結果だが、直子は彩の笑顔についつい避ける観客をいい人たちだと思い込んでいる。

 直子が目を奪われた東京競馬場のターフビジョン。

 今は出走前のGⅠファンファーレの演奏が終わり、出走馬がゲート入りの合図を待つ間の、ゲート後方で輪乗りをしている映像が映し出されている。


「いやー、本当に凄いなあ。いつか名古屋や笠松にも、こんな立派な画面が設置される日が来るんでしょうかね」


「売り上げが良ければ、そのうちに設置されるかも知れないわね」


 彩はそう返事をしながらポケットを探り、イヤホンを取り出す。


「あれっ、彩さん、発走も近いのにウォークマンで音楽でも聴くつもりなんですかあ?」


「ウォークマンはヘッドホンでしょうに。違うわよ、FMラジオ。東京競馬場は場内にミニFM局があって、実況放送が聞けるのよ」


「えーっ、教えといてくださいよう、そしたら私もFM聞けるラジオ持ってきたのにぃ! 彩さん、私も実況聞きたいっ!」


「……仕方ないわね」


 そう言うと彩はにこやかに周囲の観客に実況を聞きたいのでFMラジオの音声を流していいかを聞く。

 キリっとした美貌の彩に笑顔でそう訊ねられた周囲の観客たちは、ふやけた笑顔で承諾する。


「あんまりボリューム上げると遠くのお客さんの迷惑かも知れないからね」


 そう言って彩はイヤホンを外し小型ラジオのスピーカーから小さめの音で実況音声を流し始めた。


 ――東京競馬場を囲むケヤキ並木もすっかり葉の色を変えました。

 ――さわやかな空気に包まれました東京競馬場です。

 ――ジャパンカップのスタート時刻が迫っています。








 11月27日の東京競馬場に差す午後3時過ぎの日差しは、既に夕日のオレンジ色を帯びている。


 その日差しを浴びながら、ジャパンカップ出走馬たちの返し馬が行われている。


 タマナクロスの騎手、南見みなみ活実かつみは、返し馬でのタマナクロスの動きに一先ずは満足していた。


 前走の天皇賞秋出走後から栗東には戻らず美浦の出張馬房で過ごしていたタマナクロスは、天皇賞秋で2着に4馬身差の圧勝をして以降、疲労のためカイ食いが落ちていた。

 タマナクロスは気性の激しさと表裏一体の繊細さを持った馬で、環境の変化への適応が難しい。

 栗東に戻ろうにも馬運車での輸送が苦手であり、デビュー後勝てなかった時期は馬運車を見ると逃げ出そうとするくらいだった。

 そうしたこともあっての美浦滞在だったが、レース後はいつも食欲が落ちるタマナクロスの食欲が1週間以上経っても戻らない。

 霞ヶ浦を水源とする美浦トレセンの水が合わないのではと考えた大原調教師らは、利根川、荒川、多摩川と地下水源を混合した水を水源とした東京競馬場の出張馬房での調整に切り替えたところ、ようやくタナマクロスの食欲は戻り、徐々に調教の強度を上げることができるようになった。


 南見活実が栗東から関東に調教で乗りに来ても曳き運動しか出来なかったことを思えば、今日の出来は圧勝した天皇賞秋の状態に近いくらいには戻って来ている。


 南見活実は、自身にとっての初GⅠ勝利をもたらしてくれた相棒のタマナクロスを信頼している。

 デビューから17戦のうち14戦の鞍上を務めている南見活実はタマナクロスの5戦の敗戦も経験しているが、挙げた9勝全ても知っている。


 GⅠで勝つ状態もわかっている。

 今日のタマナクロスは十分勝てる状態だ。


 前走の天皇賞秋こそ、スタートがいつになく良かった上、馬込みで揉まれることなく好位で折り合いがついたので先行したが、今日はスタート次第でいつものように後方待機からのマクリで行く。

 そんなタマナクロスにとって、世界の強豪相手だろうと位置取りやペース配分は関係ない。

 最後方だろうとついて行き、第3コーナーから順位を上げて、直線で全力で追うのみだ。


 伊達に関西で「剛腕」「ファイター」の異名を取っている訳ではないというところを、東京の騎手や観客たちに再び見せてやる、いや、それだけではなく世界のホースマン達に、タマナクロスと南見活実の名を轟かせてやる。

 

 南見活実はタマナクロスの状態の良さを確信し、闘志を燃やした。











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