第55話 ジャパンカップ パドック
間もなくジャパンカップ出走馬がパドック周回のために地下馬道から姿を現す。
アグリキャップの様子を、地下の待機所で確認し終わった久須見調教師は、騎手控え室から出て来た刑部行雄に近づき、会話をする。
最も、刑部に全てを委ねた身だ。特に作戦指示などはない。
「刑部さん、キャップはワシからしたら、十分以上に満足の行く状態に仕上がっています。後はよろしくお願いします」
久須美調教師からすると、アグリキャップは今年一番の出来と言って良い。
久須美調教師の言葉を聞いた刑部騎手は「引き受けました、久須美調教師」と返答する。
久須美調教師は刑部の面持ちに緊張を感じ取った。
久須見調教師は刑部行雄ほどの騎手であってもレースの直前はここまで緊張するものなのか、と思い多少リラックスできるように何か会話を振った方がいいか、と考える。
「刑部さん、貸服で申し訳ないですが、青、似合ってますな」
久須美調教師は、枠順の青に白の斜縞の入った貸勝負服の刑部にそう話しかける。
パドックの内側に女性式典誘導係が立って持っている各馬の騎乗場所を示すプラカードには、各馬の騎手が着用する勝負服の柄も描かれており、久須美調教師はそのプラカードを見ながら言葉を続ける。
「外国の馬の騎手は、みんな自前の勝負服で、派手で良いですな。トミービンの赤地に黄色のでっかい星なんて、まあわかりやすくていい。
それにあの、大外16番のウィズザバトラーの勝負服、何でしょうな、大きい文字でE.Dってのは。日本と違って個性的過ぎますわ」
無言の刑部に対し、久須美調教師はワシャ愚にも付かないことを言っている、と自覚しながらもついつい饒舌になっていた。
「E.Dは、馬主の頭文字みたいですよ。エドモンド・ダン。あの馬の騎手のクリス=マクレーンが先程教えてくれました」
第6、第8レースでクリス=マクレーンの騎乗に打ちのめされた刑部行雄だったが、当のクリス=マクレーンは屈託なく、ジャパンカップの騎手控室でも刑部に話しかけていた。
「さすがは刑部さん、外人騎手とも知り合いなんですな」
刑部は正直、焦りがあった。
まったくどんな走りをするのか情報が少なくわからない馬に、刑部自身が白旗を挙げざるを得ない天才騎手が騎乗している。
それに直前まで気づかずタマナクロスとトミービンの2強と見ていた自分の迂闊さが許せない。
そうした中で、愚にもつかぬことを喋る久須美調教師にも苛立ちを覚えたが、さすがにそれを表に出してはまずい、という判断はつく。
言葉数は少ないながらも刑部行雄は久須美調教師の会話に機械的に付き合う。
「ええ、まあ。あの騎手には僕がアメリカの競馬場に乗りに行った時に世話になったんです」
「はあ、そうなんですな……まだ若そうなのに大したもんや。そういや、今朝のキャップの調教ん時、多分あの騎手が刑部さんおらんのかって聞いてきましたわ。
まったく知らん者に話しかけるのって、アメリカ人は全員抵抗なくできるもんなんですかな」
「いや、彼のパーソナリティーでしょう。いつも屈託なく陽気で楽天的な男です。
僕に❝Take it easy❞って言葉を贈ってくれたのも、彼です」
「いや、そうなんですか! そりゃ大した騎手なんですな。ワシャ海外の競馬にはとんと暗くて」
「デビューした年に全米1位の勝利数を挙げた男です。天才ですよ、彼は」
「天才ですか。まあ確かに馬乗りの天才っておりますわな。笠松の隣の名古屋競馬にも、天才って呼ばれた騎手がおりましたわ。不格好な乗り方なんですが彼の手にかかると、それまで全く走らなかった馬でも走るっていう。
3年前に落馬して騎手生命を絶たれてもうたんですがね。
天才って呼ばれる騎手、なんか儚い存在のような気ぃしますわ。中央で天才言われた福山要一騎手も、落馬で騎手生命絶たれとりますしな」
「マクレーンは儚くなんかないですよ。今日もまざまざそれを見せつけられました」
刑部はつい、心の内の苦い思いを出してしまう。
「そうですか……」
久須美調教師は刑部の吐き出した言葉を受け、黙り込んだ。
二人の間に重苦しい沈黙が流れる。
それを破ったのは、久須美調教師だった。
「刑部さん、オールカマーでキャップに乗っとった騎手、安東克己言うんですが覚えとりますか」
刑部は覚えていた。
大抵の地方騎手は普段小回りの競馬場で乗っているため、皆前へ前へとポジションを取りたがる。
そんな中、スローで落ち着いたペースで前へ行きたい気持ちを抑え、自身の馬の力を信じた騎乗をして見事勝利に導いた騎手。
「覚えていますよ。地方競馬の騎手とは思えない見事な騎乗でした」
「あいつも今じゃ、昔を知らん者には天才って呼ばれとります。
ただ実際のところ克己は天才なんかやない。どえらく研究熱心な奴なんです。それこそ普段はちゃらんぽらんな言動しとるように見えますが、陰では自分の乗る馬、相手になる馬、とにかく知ろうとしとりました。
天才言われとる人間て、確かに持って生まれた才能も必要や思いますが、おそらくそれを磨き続ける努力を怠らん者がそう呼ばれるんやないか、ワシャそう思うんです」
刑部はそれには答えない。
「ワシなんかがこんなこと言うの、おこがましいんですが……刑部さん、今のあなたもワシらから見たら天才ですよ。雲の上の存在です。
刑部さんは天才、ではなく名手、第一人者って世間では言われとる。それは最初から煌めいとったからやなく、徐々に着実に力を付けてきたっちゅう認識を世間からされとるから。
ただ、刑部さんみたく時間掛かっても自分を磨き続けようって努力できる人間、どんだけおるんかっちゅうことです。
それが出来るのも才能の内、天から与えられた資質なんやとワシャ思います。
長年己を磨き続けてきた刑部さんは、今や大天才ですわ」
久須見調教師の続けての言葉にも、刑部は返答しなかった。
刑部は、久須美調教師が天才について語ることを、苦々しく思った。
田舎の天才の話ごときを、世界的な天才C.マクレーンと一緒にして語るな、と。
C.マクレーンの天才ぶりは、日本で唯一自分しか理解していないという苦々しさに加え、C.マクレーンの天才を知らないが故に世界的な天才と田舎の天才を同一にして語る久須美調教師の厚顔無恥さに対する苦々しさ。
それが刑部を苛立たせている。
だが、瞬間的に気づきが刑部に訪れる。
なぜ自分はC.マクレーンの天才を、苦さと痛みを感じながらここまで擁護しているのか。
煌めく才能で、今に至るまで輝き続けるC.マクレーン。
自分は彼に敵わない、そう囁く弱い自分が確かに自分の中にいる。
向こうは天才だ、それに比べて自分は才能がないのだ、敵うはずがない、と弱い自分は囁き続ける。
その弱い自分は、一体何を恐れてそう自分に囁くのか?
己の築き上げてきたキャリアなど、本物の天才にかかれば剥がされ輝きを失うメッキのようなものだ、ということが白日の下に晒される、それを恐れているからではないのか。
そして、それを晒されても、天才相手だから仕方ないんだ、と言い張り言い訳をしたいがため、苦々しく感じながらもC.マクレーンを神格化し擁護しているのではないのか。
久須見調教師は、刑部の中の弱い部分を感じ取ったが故に、名古屋の真の天才と笠松の努力で才能を磨いた結果天才と呼ばれるようになった男の話を話題にしたのではないのか。
つまり、今の自分は悪い結果が出ることに囚われ過ぎている。
❝Take it easy❞の精神からは程遠い位置にいる。
言い訳を抱えてジャパンカップに乗ったとしたら、❝Take it easy❞を体現しているC.マクレーンとは勝負にならない。
いや、勝負の土俵にすら立っていない。
思考に変換するとそうした内容となる気づきが刑部を瞬間的に貫いた。
「……久須見
刑部は少し表情を緩め、胸に溜め込んだ息を吐くように言葉を発した。
久須美調教師は、え? というような意外そうな表情になったが、照れ隠しのように笑顔になる。
「まあ、ワシなんかの話が役に立ったんなら、何よりでしたわ。
最も天才云々の話は、ワシ自身、考え整理するために言うた面もある、取っ散らかった話やったんですけど。
じゃあ刑部さん、ワシは馬主の阿栗さんたちと一緒に騎乗場所で待っときます。
頼みましたよ」
そう言って久須美調教師は、阿栗達の待つ馬主待機所へと立ち去った。
久須美調教師がパドック内の馬主待機所で合流すると、阿栗が「どうやった、刑部さん」と久須美調教師に訊ねる。
「刑部さん程の人でも、やっぱり大レース前は緊張するようでしたわ。でも、もう落ち着かれたようで笑顔も見えました。心配ないでしょう」
「そうか……まあワシらはもう、刑部さんに任せるしかないんやからな」
「そうですな。騎乗場所で刑部さんとは話せますから、阿栗さんからも声かけてください」
他の馬主たちが誘導員の指示で、パドック周回場所の内にプラカードを持つ女性式典誘導係の元へ移動を開始する。
阿栗たちも、8番のプラカードを持った女性式典誘導係の元に移動する。
阿栗、阿栗の妻、久須美調教師、そして稲穂裕治と布津野顕元の5人だ。
そして東京競馬場のパドックに、地下馬道からジャパンカップの出走馬が姿を現し、厩務員たちに曳かれて周回を開始する。
きれいにタテ髪を編み込まれ、めかし込んだアグリキャップは厩務員の川洲と調教助手の毛受の二人に曳かれ、落ち着いた歩様で歩いている。
川洲と毛受も正装に着飾り、緊張した面持ちでアグリキャップを曳いている。
二人にとっても晴れの舞台であろう。
久須見調教師は、アグリキャップを曳く川洲と毛受の表情がちょっと誇らし気で、でも緊張で畏まったところが見えているのが微笑ましい。
そこに刑部騎手がやってくる。
表情はにこやかであった。
「阿栗オーナー、いよいよですね」
刑部は左手に鞭を持ち、青に白襷の貸勝負服に身を包み、阿栗にそう話しかける。
「第一人者の刑部さんに貸服着させるのは、何か申し訳ないっちゅう気がしますわ」
阿栗がそう返すと、刑部は「いや、滅多にない経験ですよ。意外に着心地も悪くないです。似合ってますか」と珍しくおどけたことを言う。
「そうですな、意外に発色いいですから、似合っとると思います」
「なら良かったです。ところで阿栗さん、久須美
「どうされたんです?」
「実は、当初2強だと思っていたんですが、伏兵がいましてね。私がアメリカで世話になった騎手で、全米№1騎手がこのレースに乗るんです」
久須見調教師が補足する。
「8枠16番、ウィズザバトラーのC.マクレーン騎手、ですな」
「ええ。彼は天才です。僕なんかが敵いっこない天才。今日の第6レースと第8レースで一緒に乗りましたが、相変わらず冴えわたっている。
それを知った時に、僕は2強を負かしにいく競馬をするかどうかと阿栗さんら陣営の覚悟を求めた自分自身の驕りが恥ずかしくなりました。
偉そうな物言いをして申し訳ありませんでした」
刑部はそう言って頭を下げる。
「で、刑部さん、結局は着狙いで行くってことですかな」
阿栗が刑部に訊ねる。
「いえ、阿栗さん、僕は勝ちに行く競馬をしたい、そう思っています。
さっきまではC.マクレーンがどう出て来るのか、そればかり気にしていました。自分が阿栗さんたちに求めた覚悟を裏切る結果になるのが怖くなったからです、2強と断言しておいて第三の馬に負けるのは、恥ずべきことだと。
ただ、先程久須美調教師と話していて、気づかされました。自分の重ねた研鑽の日々を信じて乗るしかないんだ、ということに」
「そうですか。作戦などはどうされるおつもりですか」
「アグリキャップの能力を信じて、ガーっと行ってガーっと回ってグオッと戻ってきます」
阿栗は、ジャパンカップウェルカムパーティで少し話した時の落ち着いた口調の刑部の様子とは違い、ややテンション高めの返答をする刑部の様子に、面食らう。
今の刑部の様子からは緊張している様子はうかがえない。
それに、他陣営も近くにいる。具体的な作戦などは、刑部の中にあったとしても言えないだろう。
何にせよ、刑部が過度に緊張していないのは、喜ばしいことではないか。
「わかりました、刑部さん。ガーっと行ってガーっと回ってグオッと戻って来て下さい。地方の馬がこんな晴れ舞台に立ててるだけでも十分、喜ばしい事です。
結果はどうあれ、刑部さんとキャップの走りを、楽しませてもらいますわ」
阿栗が刑部にそう伝え終わると、阿栗の妻がカメラを取り出した。
「ねえ、皆さんで写真撮りませんか? 他の馬主さん達も撮っているみたいですし」
阿栗の妻がそう提案する。
「なら俺が撮りますね。フラッシュは馬を驚かせてしまうんで焚かずに……ここで切って、と。皆さん、固まって下さい。あ、プラカード持ったお姉さんも、こっちに目線下さいね」
布津野が阿栗の妻が取り出したカメラを受け取ると、そう言って一団からやや離れてカメラを構える。
阿栗夫妻、久須美調教師、刑部騎手、稲穂裕司の他にプラカードを持って動く訳にはいかない女性式典誘導係員も一緒に写る構図を選び、布津野ははいチーズ、と掛け声をかけ、2枚写真を撮った。
後にちょうど周回を続けるアグリキャップと、手綱を曳く毛受の後ろ姿も入るタイミングを見計らいシャッターを切る。
現像して見ないとわからないが、川洲だけはアグリキャップの反対側に位置していたため写っているのは足だけだろう。
一同の集合写真を撮り終えた布津野は、パドックの観覧席にもカメラを向けた。
その先には、手作りうちわを両手に掲げた榊原直子と富士田彩の姿があった。
「アグリキャップを応援してくれるファンも来ているんですね」
刑部が直子が持つ手作りうちわを見て、そう呟く。
「名古屋から来てくれとるんですわ。有難いことです」
「なら、あのファンの子たちにも、アグリキャップの良い走りを披露してあげないといけないですね」
刑部がそう呟くいた直後に騎乗命令がかかる。
「止まーれー!」
その号令がかかると、アグリキャップは4枠8番のプラカードの前で、川洲と毛受の誘導で立ち止まる。
刑部がアグリキャップに近づき、その首に手を当て、目を閉じながら囁く。
「Eeasy.Take it easy」
毛受が刑部に近寄り、刑部がアグリキャップに乗るのを手伝おうとするが、久須美調教師は毛受を手で制し、自分が刑部に近づく。
刑部が目を開けると、久須美調教師は「どうです、キャップは落ち着いとりますかな」と刑部に訊ねる。
「ええ、とても落ち着いてますよ。僕よりも余程ね」
にやりと笑う刑部。
久須美調教師が斜め下に差し出した手に足を掛けると、刑部はひらりとアグリキャップに騎乗する。
「阿栗さん、この貸服の色、あなたが中央の馬主になった時に、そのまま生地の色に使いたいと思わせるような走り、お見せしますよ」
「前ーへー!」
前進命令が出て、ジャパンカップ出走馬は騎手を乗せたままゆっくり手綱を曳かれ前進し、パドックをもう1周する。
1枠1番のセイラムムーブの前に、全身まっ白になった葦毛の誘導馬が2頭入り、パドックを抜け地下馬道へと進んで行く。出走馬も誘導馬に続き地下馬道へと姿を消していく。
もうあと僅かで、いよいよジャパンカップが発走する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます