第54話 トキノミノル像前




 榊原直子と富士田彩は、11月27日の朝6時過ぎに富士田彩のRX-7で名古屋を出発し、中央自動車道経由で東京都府中市に向かった。


 直子の希望で途中駒ケ岳SAや諏訪湖SA、談合坂SAなどに立ち寄り十分以上に休憩を取りながらの旅程で、府中市街地の有料駐車場に車を停めて、東京競馬場の正門に到着したのは11時前だった。


 G1開催日の東京競馬場の人出は多く、正門から既に人でごった返している。

 直子はそれまで笠松と名古屋という東海公営の競馬場にしか行った事がなかったため人数の違いに圧倒される。


「うわあ、凄い人ですねえ、競馬場ってこんなにたくさん人が入れるものなんですか」


「天下のJRAの主要開催場所だからね。そりゃ凄いわよ。それに、競馬開催していない時でも、ちょっとした馬のテーマパークみたいになっているし、レジャースポットでもあるわ。

 先月ナプスジャで特集したオヤジギャルみたいに、女性でも来場しやすい雰囲気をJRAがアピールし始めているしね」


 確かに、男性、それも壮年男性の姿が目立つ笠松競馬場や名古屋競馬場と違って、男女のカップルや、女性数人のグループでの来場者の姿も目立っている。

 それもあって、晴れた太陽の光に照らされた緑の多い東京競馬場は、華やいだ雰囲気に包まれている。


「でも、私方向音痴だからはぐれちゃったりしたら困るなあ。どうしよう、彩さん、私とずっと手を繋いでもらってていいですかあ?」


 直子の申し出に彩は柔らかな表情こそ変えなかったものの、きっぱりと断る。


「直ちゃん、さすがにそれは勘弁して。子供じゃないでしょ。それに手を繋いだら片手しか使えないじゃない。まさかその応援うちわ、私に1つ持たせるつもり?」


 彩は直子の背負ったバックパックから覗く、直子手作りの応援うちわに目をやる。

 それは直子が昨夜のうちに、自分で作ったものだ。

 グレーの背景色を塗った大き目のうちわ2つに「アグリ」「キャップ」と手描きの可愛いロゴが書かれており、空いたスペースには小さくアグリキャップのデフォルメされた絵が描かれている。


「だったら、彩さんとはぐれちゃったら、どうしたらいいんですかあ?」


「はぐれないようにすること。あんまり一か所に気を取られないように注意して。もし何かじっくり見たいと思ったら、ちゃんと私にも声をかけること。

 それで、万が一はぐれてしまったら、待ち合わせ場所を決めて、そこで落ち合うように決めておきましょう」


 正門からスタンドに向かって東京競馬場の敷地を歩いていた直子と彩。

 右手にパドック、その手前にあるトキノミノル像の前は、友人知人と待ち合わせる人たちがそわそわと立っている。


「万が一人込みではぐれたら、ここ、トキノミノル像の前で待つことにしましょうか。わかりやすいから」


「わかりました。ところで彩さん、トキノミノルってどんな馬だったんですか」


「随分と昔の馬だから、私も詳しくは知らないわ。確か皐月賞とダービーを勝って直後に亡くなった馬、だったと思うけど」


「像の台座に、説明っぽいの書いてありますよ。彩さん、ちょっと見てきましょう」


 そう言うと直子は人込みを縫ってトキノミノル像の前に早足で近づく。


「ちょっと、直ちゃん」


 彩はいつものことながら好奇心旺盛な直子の行動に慌てるが、確かに直前に注意した通り、自分に一声かけてから動いている。

 やれやれだ。


「えーっと、トキノミノル……」


 父セフト、母第二タイランツクヰーン、出生昭和二十三年、出生地北海道三石村本桐牧場、優勝した主なレース、札幌ステークス、朝日ステークス、四歳選抜レース、皐月賞、……台座の文字は皐月賞の隣が擦れていて上手く読めない。


「多分、第十八回日本ダービー、って書いてあったと思いますよ」


 トキノミノル像の台座の文字を一生懸命読もうとしている直子に、誰かと待ち合わせをしているとおぼしき青年が、擦れて読めない部分について教えてくれる。

 青年は帽子のつばを後ろに回し、カーキ色のSA-1ジャンパーを着てジーンズを履いたラフな格好だ。


「みんなそこの文字に手を触れて、トキノミノルを悼んでるんでしょうね。それこそ何千人、いや年月を考えると何万人以上の人が。だから擦れて読めなくなってるんじゃないでしょうか」


 直子は、自分もその擦れた文字の部分を上から触ってみる。

 どれくらいの年月、どれくらい大勢の人数が触ってきたのかわからないが、確かにその青年が言うように、直子の指先が触れるその部分の感触は多くの人々の指先で磨き上げられたように滑らかだった。


「教えてくれてありがとうございます。お兄さん、競馬に詳しいんですか?」


「レースに詳しい訳ではないですけど、北海道の競走馬生産牧場で働いてます。トキノミノルの出身牧場の本桐牧場から5、6kmほど離れた、同じ三石町内ですね」


「へー、凄ーい! 私、競馬のこと全然疎いんですけど、お兄さんの働いてる牧場は何て言う牧場ですかあ」


「稲穂牧場っていうところです。今日は稲穂牧場で産まれた馬がレースに出走するんで、馬主さんにレース観戦に招待してもらったんですよ」


「それも凄ーい! 何ていう馬なんですかあ?」


「普段は岐阜県の笠松って競馬場で走ってる馬なんですけど、アグリキャップって言うんで」「ア、アグリキャップちゃんですかああっ!」


 直子は青年の言葉を途中で遮るように、つい大声で叫んでしまった。


「わ、私、アグリキャップちゃんの大、大ファンなんですうっ! これ、見て下さいっ!」


 直子は背負っていたバックパックから手作りの応援うちわを取り出して、両手に持って青年に見せる。


「わ、凄い、手作りなんですね」


 直子にテンション高く手作りうちわを見せられた青年は、少したじろぎつつも、一言感想を口にする。


「ちょっと直ちゃん、何やってんの! 知らない人に大きな声で! すみませんこの子、ちょっとテンション上がっちゃったみたいで……」


 直子のはしゃぐ様子に気づいた彩が、急ぎトキノミノル像の前に来て青年に謝る。


「いや、そんな気にされなくても大丈夫ですよ。アグリキャップのファンでレースを見に来てくれた方なんですから、こんなに応援してもらえてるって知ったら、専務もオーナーも喜びますよ」


「彩さん、この人、アグリキャップちゃんの生まれた牧場で働いてる人だそうですよ! 凄い偶然じゃないですかあ、こんなの滅多にないですよお!」


 直子が興奮して彩に喜びを伝える。


「ねえ、産まれたばかりのアグリキャップちゃんってどんな子でした? お兄さんはアグリキャップちゃんをお世話してたんですか?」


 直子が矢継ぎ早に青年に質問をした時。


「おーい、布津野くーん、どうしたんだ?」


 観戦スタンドの方から歩いて来た、きちんとした身なりの3人のうち若い一人が青年に呼びかける。

 青年はその3人に向かって手を振り「すみません専務、阿栗オーナー」と返答した。


「布津野くん、そのお嬢さんたちは知り合いなのかい?」


 布津野と呼ばれた青年に最初に声をかけた男性がそう問いかける。


「いや、専務、ここで初めてお会いした人たちなんですけど、ハツラツのファンなんだそうですよ」


 布津野に専務と呼ばれた30過ぎの男性は、直子の持っているうちわに目を留めると嬉し気な笑顔になる。


「キャップのファンの女性ですか、嬉しいなあ。今日はどちらから来られたんですか」


「名古屋ですっ!」


 直子が返答すると、専務と呼ばれた男性は嬉しそうな表情を崩さずに「わざわざ遠くからキャップの応援に来て下さってありがとうございます。また暖かい時期になったら、牧場の方にも是非足を運んで下さいね」と直子に伝える。


「えへへ……いいんですかあ?」


 直子が照れながらそう伝えると、専務は「ええ。何分田舎なんで大したもてなしは出来ませんが、産まれたばかりの馬たちが成長するところを見守るのは、なかなかいいもんですよ」と続けた。


「おお、キャップを応援してくれる女性とは、嬉しいもんですな」


 専務の後ろからゆっくり歩いて来た壮年の男性が、直子の手作りうちわを見て言う。

 その男性は彩を見て、おや、という表情をする。


「ええと……確か……」


「あなた、富士田さんのお孫さんの彩さん、ですよ」


 隣の女性が壮年の男性にそう伝える。


「彩さん、お久しぶり。馬主会婦人部のチャリティーバザーにお母さまと一緒に参加されたの、何年前だったかしら」


「……お久しぶりです、阿栗さん。最後に私が参加したのは高校2年生の時でしたから、もう5年は前ですね」


「そんなになるのね。ついこの間みたいな気がしていたけど。今日はお母さまと一緒なの?」


「いえ、母は基本的に馬主会の夫人会しか関わっていないので……母は競馬を見に来たこともないと思います。ほとんどお爺様の道楽ですから。

 今日は最近アグリキャップのファンになった後輩の女の子が、ジャパンカップを見たいって言っていたので、連れてきてあげたんです」


「彩さん、こちらの方々は……もしかして?」


 直子がおずおずと彩に訊ねる。


「アグリキャップの馬主の阿栗さんと、その奥さんよ。

 阿栗さん、この子が私が一緒に連れて来た後輩の榊原直子ちゃんです」


「榊原直子ですっ」


 直子は阿栗夫妻にそう挨拶すると、なぜか咄嗟に手作りうちわを背後に隠す。


「榊原さん、別に恥ずかしがらんでもええよ。こんな若いお嬢さんがキャップを応援してくれるなんて、嬉しいことや」


 阿栗の言葉に直子は「ええっ、そうですかあ?」と照れる。


「ああ、普段は野太い男の声で『させー』とか『逃げろー』とか言われとるんやから、キャップも女の子の声援、嬉しいんと違うかな。

 もちろんワシも、こんな若い女の子がキャップのこと好きんなってくれるの、嬉しいわ」


「えへへっ、馬主さんにそう言っていただけて良かったですっ。勝手に好きになって応援してるんですけど、そんなミーハーな奴って思われても仕方ないかな、なんて思いましたから」


「いや、そんなの気にせんと、好きなだけ好きな方法で応援してくれたらええよ。

 キャップや他の馬が驚いたり怪我したりするようなことさえせんように気を付けてくれさえすれば。

 そう言や富士田さんと榊原さん、昼は食べたん?」


「来る途中の中央道のSAで、軽食やそば程度ですけど食べて来ました」


「そうか、せっかく偶然会えたから昼でも一緒にどうかと思ったんやけど」


「あなた、朝しっかりホテルで頂いたから、私もそんなにお腹減ってはいないわ。アグリキャップちゃんのレースも3時過ぎ頃でしょう? 2時前にお二人と待ち合わせて一緒にお昼にしたらどう? ね、彩さんと直子さん、それがいいと思わない?」


 直子は突然の阿栗の妻の申し出に面食らった。


「えーっと、彩さん、どうしましょう……」


 どうしていいか判断がつかず、彩に判断を委ねる。


「そうですね、せっかくですからご一緒させていただきます」


 彩は阿栗と阿栗の妻に、そう返事をした。


「おお、それやったらワシら出走前にパドックにも行かんといかんから……午後1時半にスタンド1階のエレベーター横でどうやろ? ええかな富士田さん、榊原さん」


 阿栗の言葉に綾が承諾する。

 直子も彩に合わせてうんうんと頷く。


 阿栗の後ろでは専務……稲穂裕治も嬉しそうに頷いている。


「おおそうや、これから発走の第4レース、刑部さん乗るみたいやから刑部さんの騎乗、見とかんとな」


 阿栗が稲穂裕治と布津野にそう声をかける。


 トキノミノル像の横にあるパドックからは、人々のざわめきの声が引いており、出走馬が地下馬道に移動していったようだった。


「とりあえずスタンドまで見に行こか」


 阿栗の声で、布津野らはスタンドの入口へと歩き出す。


 何となく、彩と直子も一緒に阿栗達と一緒にスタンドへ向かって歩き出した。














 刑部行雄は本日最初の騎乗レース、第2レースの3歳未勝利ダート1600mは5着でスタートした。

 ヨソリノ牧場の1頭、ヨソリノトマソンは勝負所での伸びを欠いたが、検量室に戻った時、歩様に僅かに乱れが見られどこか故障を発症したようだった。

 競走馬にはよくあることである。

 ただ、何となく刑部行雄は、今日のスタートからケチがついたような気分になった。


 次の第4レース、牝馬限定3歳新馬戦では1番人気に推された馬で人気通りの1着を取り、ほっと胸を撫で下ろす気分となる。


 第5レースは5番人気で7着。


 そしてその次の第6レース、4歳400万下。


『ユキオ、日本のダートって、砂地で凄く馬が脚を取られる感じするね。柔らかいから故障はしづらそうだけど。それに前の馬の蹴り砂も凄い勢いで飛んでくるから大変だよね』


 刑部は騎手控室でクリス=マクレーンに話しかけられる。

 異国での初めての騎乗前でも、全く普段と変わらず陽気なものだ。


『そうだね、クリス。しかし初めて日本の競馬場で乗るってのに、君は緊張しないのかい?』


『緊張? してるよ。でも僕が緊張しようとしまいと、僕が走る訳じゃない。結局走るのは馬だよ。僕は馬に跨って脚を引っ張らないようにするだけだからね』


 そう陽気に言い放つクリス=マクレーン。


 そしてレースの結果。

 3番人気を付けた刑部行雄の乗る馬は、12番人気のクリス=マクレーンの馬に着順で負けた。

 クリス=マクレーンにとって日本のダートコースは初めての経験だったはずだが、クリスの乗った馬は普段の伸び切れないジリ足が嘘のように、瞬発力は無いものの着実に最後の200mで脚を伸ばして5着に食い込んで来た。

 16頭立て12番人気の馬を掲示板圏内の5着に持って来たクリス=マクレーンを祝福する馬主は、刑部にとっても太い馬主であり、それも刑部にとっては心にトゲが刺さったように感じる。


 更にその後の第8レース。

 ジャパンカップに出走する外国人騎手たちがジャパンカップ直前でレースに乗って騎乗勘を戻すことを目的としたインターナショナルジョッキーズと銘打たれた900万条件戦芝1600mのレース。

 このレースで一番人気を付けた刑部の騎乗馬は、人気に応え1着を取った。

 だが、クリス=マクレーンの5番人気の馬も、4着馬とのハナ差を制し、3着に食い込んできた。

 しかも刑部にとって不気味だったのは、クリス=マクレーンはレース中ずっと刑部の馬が前に見える位置でレースを進めていたことだった。


 まるでメインレースのジャパンカップで走る芝コースの走り方を、刑部の騎乗から盗み取ろう、とでも言うように。


『いやあ、負けちゃったよ、ユキオ。やっぱりユキオのホームだとユキオの方が強いよね』


 レース後に騎手控室で顔を合わせたクリス=マクレーンは悪びれずに言った。


『この次の次のレース、ジャパンカップでは互いにベストを尽くそうね』


 そう言ってシャワールームに消えていくクリス=マクレーン。


 その小柄な後ろ姿は、今の刑部にとっては途方もなく巨大に感じられる。


 刑部行雄は、まさに今、天才の天才たる所以を見せつけられていた。







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