第50話 ジャパンカップ公開調教




 11月24日東京競馬場。


 今日はジャパンカップの公開調教日である。

 2時間前に曇った空からポツポツと雨が落ちてきたが、その後本降りにはならず、府中競馬場の芝の上っ面を湿らせた程度で済んでおり、今はほとんど乾いている。


 出走するほとんどの日本代表馬はレース3日前の今日、追い切りと呼ばれる全力に近い調教を行う。

 公開調教日ということで、今日の東京競馬場にはTVの撮影スタッフも入っており、普段以上にざわめいている。

 今日撮影された追い切りの映像は、ジャパンカップ前日の競馬番組等で放映される予定になっていた。

 角馬場でウォーミングアップのため速歩トロットから駈歩キャンターでアグリキャップを駆けさせる調教助手の毛受めんじゅは、取材のTVカメラが自分とアグリキャップに向いていることに緊張を覚える。

 これだけ注目されるのは毛受にとって初めてだった。


 ウォーミングアップを終えたアグリキャップは、毛受から刑部行雄に乗り役を交代する。


 久須美調教師は調教スタンドに行っており、角馬場には不在だ。


「刑部さん、調教師テキからは芝コース向こう正面発走で、8ハロンの実戦形式の併せ馬ってことでお願いします、とのことです。

 併せる相手はゴールデンキューで、キャップが内でいいそうですよ」


「併走は了解したけど、本当に内で走っていいのかな?」


 併走では、力が上とされる馬が力が下の馬に合わせるために外を走る。

 刑部が言っているのは、アグリキャップの方がゴールデンキューよりも力が上なんじゃないの? という意味だった。


「キャップもGⅢのオールカマーは勝ってますけど、ゴールデンキューも3歳GⅠ取った馬ですし、近走でも常に掲示板圏内には来る馬ですから、あちらが格上というのはまあ妥当なんじゃないですかね」

 

「うーん、そうか。なかなか難しいオーダーかな……まあいいか、やってみましょう」


 刑部は独り言のようにそう言うと、芝コースのバックストレッチにアグリキャップを向ける。


 刑部さん、そんな難しいこと調教師テキは頼んでいないと思いますが、という言葉を毛受は飲み込んだ。




 東京競馬場の調教スタンドで、久須美調教師はアグリキャップの追い切りを見守っている。


 隣にいるのはゴールデンキューの志水しみず出海いでみ調教師。


「今日は胸貸していただきます、よろしくお願いします」


 久須美調教師が志水調教師にそう挨拶をする。


「いやいや、こっちこそ。調教師せんせいの馬、オールカマー強い勝ち方やったやないですか」


「そうは言っても今回は外国の強豪招待馬と日本のトップレベルばかりが集まるレースですから、序列で言えばキャップはどん尻です。

 ワシ自身も笠松の田舎もんで中央のGⅠなんて初めてですから。よろしく頼みます」


 そうして言葉を交わした志水調教師と久須美調教師は、窓の下に見えるコースに目を向ける。

 第2コーナー出口付近、1600mのスタート地点の辺りにアグリキャップとゴールデンキューが輪乗りをしている。


「準備できたら、始めてくれ」


 志水調教師が無線でゴールデンキューに乗っている本多ほんだまさる騎手に指示を出す。


 アグリキャップが先に走り出した。

 それを見て久須美調教師は双眼鏡を覗きながら手元のストップウォッチをスタートさせる。

 2馬身程アグリキャップが先行したところで、ゴールデンキューがアグリキャップを追いかけ始める。

 第3コーナーにかかりしばらくするとゴールデンキューがアグリキャップを抜き、徐々にペースを上げていく。

 第4コーナーを回り直線にゴールデンキューが向いた時、アグリキャップはゴールデンキューから3馬身程後方を進んでいた。

 残り3ハロンのハロン棒をアグリキャップが通過する瞬間に久須美はストップウオッチのラップボタンを押す。

 直線に向いたアグリキャップは3馬身先行するゴールデンキューを追い上げる。

 直線入口の坂からじりじりと差を詰め出し、坂を上り切った後は刑部が一発入れた鞭に応えるように大きなストライドで沈み込むように加速する。

 内からゴールデンキューに並びかけたアグリキャップは、馬体が合わさると更にジリッと伸び、アタマ差前に出たところでゴールライン上を駆け抜けていく。


 久須見はストップウォッチの停止ボタンを押す。


 表示された数字は1:35.4。ラップタイムは1:00.5。

 上がり3ハロンは34秒9。


 久須見は一瞬、ボタンを押し間違えたかと思った。


 芝1600mのタイムとしては遅いが、調教で芝コースの真ん中あたりを回り、実走距離はもっと長いことを考えると十分過ぎる。

 何より上がり3ハロンが35秒を切っているのは、相当に優秀なタイムだった。


「いやー、胸を貸すどころか、先着されてしまうとは。参りましたわ。地方馬でこれだけ強いとなると、本番も油断できませんな」


 志水調教師は悪びれることなくそう言って立ち上がると、久須美調教師の肩をポン、と叩き、調教スタンドの出口に向かう。


 久須美調教師も志水調教師に続いて調教スタンドを出ると、外には競馬専門紙やスポーツ新聞と思しき記者たちが久須美調教師たちが出て来るのを待ち構えていた。


「久須見先生、先生の馬の上がり3ハロン、多分これまでのジャパンカップ出走馬の調教タイムの中でも3指に入る好タイムですよ」


「これだけの好時計、調整は上手く行っているってことですね?」


 わやわやと記者たちに一斉に質問を浴びせられるが、前を行く志水調教師は記者たちをあしらいながら、馬と乗り役のもとに急いでいる。

 久須見調教師もそれに倣い、「すんません、ちょっとヤネと話してから、また質問には答えますんで」と言いつつアグリキャップと刑部の元に急ぐ。


「いやーかないませんな」


 久須見調教師は先を行く志水調教師に、照れ隠しにそう声を掛ける。


「いやいや、競馬マスコミとは持ちつ持たれつが肝心ですわ。ああやって取材してくれるのは有難いですし嬉しいことですけど、ただ、調教後の乗り役の感触聞くのは絶対の優先事項ですから待ってもらわんと。

 ではまた」


 志水調教師はそう言うと、これまで以上の速足でゴールデンキューの元に向かった。


 久須美調教師もアグリキャップと刑部行雄の元に向かう。


 刑部はアグリキャップから降り、口笛を吹きながらアグリキャップの首元を撫でている。

 毛受がアグリキャップの横に手綱を持って立ち、久須美の到着を待っている。


「刑部さん、キャップの様子、どうでしたか」


 久須見調教師が問いかけると、刑部は口笛をフェードアウトさせるように徐々に弱めて止めて、答える。


「イージー、イージー」


 ? メディアに出ている刑部行雄の口癖だが、何故突然?


 刑部はニヤッと笑う。


「メディアで取り上げられがちな僕の口癖ですが、アグリキャップに対して僕は一度も言っていないんですよ」


 確かに、11月15日に久須美調教師が刑部行雄に初めて会ってから、一度も刑部がアグリキャップにその言葉をかけているのを聞いたことがない。

 アグリキャップの手綱を持っている毛受を見ると、毛受もうんうんと首を縦に振っている。


アグリキャップは本当にダンシングキャップ産駒なのかと思うくらいに落ち着いている。落ち着かせる言葉をかける必要がないんです。

 ただ、今日乗って感じたんですが、アグリキャップはダンシングキャップ産駒らしいところも十分過ぎるほど持っている。

 それは闘争心です」


 刑部は、嬉しそうに話す。


 久須美調教師はそれを聞き、前走の敗戦のことを刑部には話していなかったか、と思い懸念を伝える。


「前走の東海菊花賞では、その闘争心が裏目に出たっちゅうか……キャップを降りた克己のこと覚えてるかのように克己と克己の馬、意識し過ぎたみたいで突っかかっていって」


「それは初めて聞きましたが……競走馬としては絶対に必要な部分です」


 刑部はその後声量を落とし、ささやくような声で言う。


「実はさっき、最後に馬体を併せたところまでしか僕はアグリキャップを追っていないんですよ。

 内側での併走だったので、あまりちぎっては相手に申し訳ないかな、と思いましてね。

 完全に指示通りに乗らず申し訳ありません、久須美調教師せんせい

 でもアグリキャップは、私が追うのを止めても自ら横に並ぶ相手に負けまいと自分で食らいついて伸びました。この闘争心は、アグリキャップのかけがえのない絶対の武器です」


 久須見調教師の声も刑部に合わせるように小声になる。


「いや、ワシが外で合わせるように頼んどけば良かったんで」


 とは言っても、地方馬が中央の三歳時とはいえGⅠを取った馬に対して併走で外を走らせてくれというのは難しいのだが。


「なかなかそう言う訳にもいかないでしょう、久須美調教師せんせい

 正直、僕は今回のレース、抜けて強い2頭以外の馬になら彼は勝てるだけの実力が十分備わっていると思っています」


 久須見調教師は、刑部のアグリキャップに対する評価が思った以上に高いことに驚いた。

 だが、抜けた2頭の馬のことも気になる。


「その2頭はやっぱりタマナクロスとトミービンですか」


「ええ。トミービンは今年の凱旋門賞馬で、昨年も2着しています。大舞台でしっかり結果を残す馬には、やはり強さと落ち着きと賢さが備わっていないと難しい。

 こちらに来てから体調不良が取り沙汰されていますが、油断はできません。

 タマナクロスも、気性に難があるため追い込みしか出来ない馬という世評でしたが、天皇賞秋では前目の位置取りで折り合いがついて、直線で突き放す強い競馬で勝ちましたからね。秋になっていよいよ馬が大人になってきています。

 それで調教師せんせい、それを踏まえた上で確認しておきたいことがあるんですが、枠順発表後に出張馬房に勝負服を取りに行った時に聞いていただいてよろしいですか」


「ここでは話せないことですか」


「ええ。できたら出張馬房でも記者たちがいないところでお願いしたいんですが」


「わかりました」


「ならまた後で伺います。

 おそらくこれから記者の質問攻めやTVのインタビューでマイクを突きつけられたりすると思いますが、さっき僕が言ったことは話さないようにお願いします。

 できたら、他陣営には油断してもらっていた方が本番で有利ですからね。

 久須美調教師、くれぐれもお願いします」


 そう言うと、刑部はスタンドの方へ戻っていく。

 刑部が戻って来るのを待ち構えていた記者たちは、刑部の周囲に群がっていく。


「毛受、さっきの刑部さんの話、聞こえとったか」


「ええ。刑部さん、キャップのことを随分高く評価して下さってるので嬉しくなりました」


「おまえも嬉しがって記者にポロっと口滑らさんように気ぃ張っとけよ」


「はい、調教師テキ


「ほんじゃ、キャップのクールダウンして、戻るか。

 乗れや、毛受」


 久須美調教師は毛受がアグリキャップに乗るのを手伝うと、アグリキャップの頬の辺りを撫でてから、角馬場までアグリキャップを曳いて歩き出した。






「ほえーっ、タマナクロスは夕方に追い切りやるんか」


「ええ、大原調教師がけっこう神経質になってましてね。他の馬が多いところだと馬が落ち着かないみたいで」


「トミービン、今日はどうやった?」


「今日も軽く15-15で最後だけ少し気合いつけたくらいですね。追い切り自体は明日やるって話です」


 出張馬房に戻った久須美調教師は、オールカマーの時にも取材に来た中日スポーツの記者、前田と話していた。


 調教後に出張馬房まで戻る際、久須美調教師は取材の記者に囲まれた。

 刑部を囲んだ記者の数に比べて少ない数だったが、それでも笠松の「競馬ガッツ」と中日スポーツくらいしか取材に来ない環境に比べると、目まぐるしく感じる程次々に質問された。

 無難な受け答えに終始し、どうにか1時間程度で解放されたが、中央のGⅠに出るというのは本当に大変だと疲れを覚える。


 出張馬房にはTVの取材クルーも来たが、二言三言程度の受け答えをした程度で、馬房内で飼葉を食んでいるアグリキャップの映像を撮るとすぐに引き上げていった。

 おそらく彼らにとっては国際馬房の外国馬陣営の方が取材のプライオリティーが高いのだろう。


 まあ、地方代表馬だから連に絡むことすら滅多にないって思われとるんやろうな。


 そう思っているところに顔見知りの中日スポーツの前田が現れたので、ついつい久須美調教師は話し込んでしまった。


 そこに出馬投票所の事務室まで行っていた毛受が戻って来る。


「戻りました」


「おうお疲れ。出たか」

 

 久須見は毛受から出馬表とJRAから貸与される貸勝負服を受け取る。


 アグリキャップは4枠8番。

 貸勝負服は4枠の色の青で、太い白の斜縞が1本入っている。


「ああ、出馬表が出ましたか。私も取りに行って来ないと」


「なんや前田くん、えらいのんびりしとるな」


「本来なら東京競馬場は東京中日スポーツのエリアなんで、通常の取材は東京中日の記者がやるんですよ。私は東海地区代表のアグリキャップと久須美調教師せんせいのところだけやってりゃいいんです」


「なら今回は気楽な出張やな」


「ええ。久須美調教師せんせいの話相手みたいなもんです。他の陣営の情報、わかったらまた伝えにきますよ」


 そう言って前田は出張馬房を立ち去る。



 しばらくすると、刑部が出張馬房を訪れた。


「お、出ましたね。4枠ですか」


 刑部は青の貸与勝負服を見てそう言う。


「ええ、4枠8番です。出馬表、見ますか?」


「見せて下さい」


 刑部は久須美から出馬表を受け取る。


「タマナクロスとトミービンが3枠で隣同士ですか……その隣が米国馬で一番評価の高いマイビッグバディ、その横がアグリキャップですね」


「ええ、そのようになってます。枠順で有利不利はあるんですか、東京競馬場」


「東京の2400は、昔の24頭フルゲートみたいな余程の大外でない限り、そこまで枠順の有利不利はありませんよ……ところで久須美調教師、朝の話の続き、よろしいですか」


「ええ、かまわないですが、ここでいいですか」


「いや、出来たら2人で話せるところがいいんですが」


「わかりました。毛受、川洲、ちょっと2階借りるで。

 ほんで毛受、悪いけど2階の入口、ワシと刑部さんが話してる間、誰も上がって来んように、ちょっと見張っててくれんかな」


「わかりました」


「じゃあ刑部さん、こちらへ」


 久須美調教師は出張馬房の2階へと上がっていく。

 刑部も久須美調教師に続き階段を上がった。


 2階の毛受と川洲が泊まっている部屋は、乱雑で、アルコールとタバコのにおいが籠っていた。

 まったく、男だけやとだらしないな、と久須美は窓を開けようとすると「いや、短時間ですからこのままで大丈夫です」と刑部に止められる。


「久須見調教師せんせい、僕のアグリキャップの評価は調教後に伝えたように、タマナクロスとトミービン以外の馬には勝てると言い切れるポテンシャルを秘めている、そう思っています」


 刑部は前置きなく本題に入るようだ。


「タマナクロスとトミービンにも、絶対に勝てない、ということはないと思います。ただ、その2頭を負かしに行った結果、惨敗に終わる、ということも大いに有り得ます」


 確かに、それは十分に考えられる。

 というよりも幸運が味方しないとそうなるだろう。


「それで、まず聞いておきたいのです。

 タマナクロス、トミービン、この2頭に勝つのは諦めて、確実に3着を狙いに行くのか。

 それとも惨敗のリスクを冒してでも、この2頭を負かして1着を取りに行くのか。

 どちらを取るのか、です」


「……確かに、掲示板に入るだけでも地方の馬としては快挙になりますが」


「ええ、公営の馬としては3着、或いは掲示板内の5着でも十分健闘したと言える結果でしょう。

 正直言うと、アグリキャップの話をいただいた時は上手く乗れば掲示板には入りそうだと思ったから受けたんです。ですが彼は僕の予想よりもずっと力があった。

 ただ、確実に3着以内を狙う乗り方と、可能性は低くとも1着を狙っていく乗り方は違ってきます。

 陣営として、どちらを選びますかってことです。

 とは言っても久須美調教師せんせいの一存では決められないでしょう。

 ですから馬主の阿栗さんとも相談して、明日の夕方までに松っちゃんの事務所に連絡をいただけませんか」


 刑部は久須美調教師に初めて見せる厳しい勝負師の目をして、そう伝えた。












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