第51話 ジャパンカップ前日特集番組
11月26日(土)15時、榊原直子は自分のアパートでTVを見ていた。
一人ではない。
富士田彩も一緒だった。
直子のバイト先であるタウン誌ナゴヤプレイスポットジャーナル(ナプスジャ)は、12月8日発売の1月号でクリスマスイベントの小特集を組むことになっており、榊原直子と富士田彩はその日の14時過ぎまで一緒に取材に行っていた。
本来ならもう1か所の取材にも回れる時間の余裕があったのだが、直子は今日の15時から始まるジャパンカップの特集番組を見たいがために彩にことわって帰宅しようとした。
「彩さん、私どうしてもTVでアグリキャップちゃんの情報を見たいんで、この後の取材は彩さんにお任せしちゃってもいいですか」
富士田彩の叱責を甘んじて受ける覚悟は出来ていた直子。
だが、彩の口からは意外な言葉が返って来た。
「そうね、忙しい土曜日に取材に行くよりは、平日に取材させてもらう方が先方にとっても良いかも知れないわね。幸い取材アポを取っている訳でもないし」
直子は街中で飛び上がって喜びそうになったが、辛うじて自重する。
「えーっ、本当ですか!? ありがとうございます、じゃあ私地下鉄で帰るんで、これで失礼しますっ」
気が急いている直子はそう言ってすぐに名古屋駅の地下鉄乗り場まで走り出そうとしたが、背中に背負っていたバッグを彩に掴まれ、引き留められる。
「何言ってんの、車で送ってくわよ」
「えーっ、でも彩さんに悪いし」
「私も直ちゃん
「??? 彩さんが私ん
「ええ。迷惑?」
直子は、出かける前の自分のアパートの中の状況を思い出す。
ゴミの日だったから一応ゴミは片付けて朝出してあるけど……
缶とか出しっぱなしだったような……
ベッドの布団もぐちゃぐちゃでパジャマも脱ぎっぱなしだったような……
てゆうか洗濯物、物凄く溜め込んでカゴから溢れんばかりだったような……
それに流しも、洗ってないお皿とかお鍋とか溜まってるぅ……
「いっ、いえ、迷惑なんかじゃないですけど、そのー……凄んごく散らかってるんですよぅ、片付けると彩さん待たせちゃうし、申し訳ないってゆうか申し訳ないし」
「待つくらいどーってことないわ。笠松取材の日、どれだけ私を待たせたと思ってるのかな? 直ちゃんは」
「約束の時間より、えーっと……1時間半ですぅ……」
「正確には1時間47分よ。ね、私って待つの得意だと思わない?」
あの時の話を持ち出されると、弱い。
「わかりましたぁ……今日は5分で片付けます……」
「なら駐車場まで行きましょう」
そんな訳で無事自分のアパートに戻りジャパンカップの前日特集番組に間に合った直子。
ワンルームの学生向けアパートだが、バストイレ別4万円という自慢の物件だからこそ未洗濯物と水切りラックに詰め込んだ未洗浄食器を風呂場に押し込んで、目につくところから消し去ることに成功した。
後は空き缶を金属ゴミ袋に入れ、脱ぎ捨てたパジャマをベッドに放り投げ、直した掛布団をその上から被せて一応の体裁は整う。
10分で部屋の中の片付け(単に汚れ物を押し入れや浴室に押し込んだだけとも言う)を終えた直子は「彩さん、お待たせしてすいませんでしたぁっ」と言って玄関のドアを開け、彩を中に招くと、すぐさまTVを点ける。
番組は既に始まっており、画面上次々に出走馬の調教時などの走っている映像が出走枠順で短く流れていく。
アグリキャップが画面に映ると直子は「あー、アグリキャップちゃんだ!」と声を上げる。
出走馬の走る映像が終わると直子がよく知らない司会の女性タレントが話し出す。
「明日に迫りました第8回ジャパンカップ、出走馬全頭ご覧いただきました。
アメリカ、イタリア、フランス、西ドイツ、ニュージーランド、そして日本の代表馬14頭です。
東京競馬場には前の週から海外の方も応援に駆けつけている姿を見かけました。熱心なファンの方、たくさんいらっしゃるんですね。
今日のこの番組では明日のジャパンカップの関係者へのインタビューから調教の様子までゆっくりとご紹介したいと思います。
どうぞごゆっくりお楽しみ下さい」
そして第1回からのジャパンカップのゴールシーンが優勝馬の名前と共に流れる。
第4回のカシワギエース、第5回のヨソリノルドルフ以外は外国招待馬が優勝している。
「過去のジャパンカップ優勝シーンをご覧いただきました。
今日は競馬解説者の酒井さんにお越しいただいています。
酒井さん、木曜日は公開調教があったんですよね。
どうでしたか」
「残念ながら2頭の馬が故障してしまって出走を取り消したんですけどね、長距離の輸送もあって調子をキープしていくのは難しいですね。
それに外国馬の場合、百頭いれば百通りの調教方法がありますからね、調子の掴み方というのが物凄く難しいんですよね。
自国にいる間に必要な調教は積んで来たからあとは調整だけでいいとか、うちの馬は毎日でもハードなトレーニングを積まないと駄目なんだ、とか。
本当に千差万別です」
「イギリスのジュディズハイツなどは1日に2本の追い切りを2日続けて行ったとも聞きましたけど」
「そうですね、私も足を運びましたけど、柴端さんが乗ってましたから柴端さんのコメントを聞くのが楽しみでしたね」
「柴端さんのコメントの一つで『(外国馬も)日本の馬とほとんど変わった所は無いよ』っていうのを聞いて、私凄く安心したんですよね。
日本の馬ともそんなに変わらない、(外国の馬が)特別な馬ではないんだって」
「ジャパンカップの意義の一つに、こうした馬だけでなく人間同士の交流があるというのも大きなことなんですね。
外国だからと言って何か私たちと違う、特別なことをやっている訳じゃないんだってわかることも大事ですね」
「ではCMの後は、たっぷりと関係者のインタビューなどをお届けします」
――♪何でも貸します近藤産興~アーアリャコリャサッサー♪
CMに入ると直子は不満を言う。
「全~然、アグリキャップちゃんのこと触れてくれない~っ」
「そりゃ、外国からも沢山強い馬が出るし、日本の馬も強い馬ばかりだから仕方ないわよ」
「でも~、地方から出る馬って少ないんじゃないんですか? もうちょっと頑張りに触れてくれても良くないですかっ」
「まあそうだけど……もうしばらく見てみましょうよ」
彩になだめられ、直子はむくれつつも続きを見る。
「凱旋門賞を勝った馬が実際に出走する、それが一番の話題だと思うんですけど」
「そうですね、賞金ではもっと高いレースもいっぱいあるんですけどね、やっぱり凱旋門賞というのは世界のホースマンにとって憧れのレースなんです。
そんな中を勝ってきたトミービン、これはフロックではないと思うんですよね、去年も2着でしたし。
ですから、そんな強いトミービンが来てくれたって言うのは、これは凄く励みになりますね。
これは日本の関係者だけではなくて、アメリカやオセアニアから来た馬の関係者も、是非トミービンと自分の馬を戦わせてみたい、そう思っているみたいですね」
「これから流す関係者のインタビューでも、注目する馬にトミービンを上げる方が凄く多かったですからね。
それでは関係者インタビュー、御覧ください」
画面は調教師や騎手、調教助手のインタビューに移る。
1枠1番のセイラムムーブ(米)の調教師。
わー、この調教師の人、女の人だあっ!
競馬って、男の人しかできない仕事だと思ってたのに、凄い、アメリカ!
直子は変に感心した。
「昨日の調教で速いところをやりましたが、満足できる状態でした。状態はいいと思います。
レースはトミービンが1番人気になると思いますが、他のアメリカの馬、マイビッグバディとウィズザバトラーにも勝つチャンスは有ると思います。
私の馬も、騎手が上手く乗ってくれれば勝つチャンスがありますよ」
次はトミービンの調教師。
何かイタリアのマフィア映画に出て来そう。
「(木曜の)今朝は非常に良い調子でした。明日(金曜)の調教でトミービンがどれくらい仕上がっているかはっきりすると思います。
(左周りは)パリのサンクルーのレースで2着に入ってますから、決して不得意ではありません。
(このレースで注目している馬は)それは難しい質問です。マイビッグダディとか、ジュディズハイツですね、いずれにしてもどの馬も強敵だと思っています。
もちろんどのレースも勝つつもりで挑んでいます」
4枠7番 マイビッグバディ(米)の騎手。
若くてかっこいー。何か元Wham! のジョージ=マイケルに似てるかも。
「今日こちらに着いて初めて馬を見たんですが、コンディションは非常に良いようです。この馬はいつも100%の力を出す馬ですから、非常に良い競走馬だと思っています。アメリカの超一流馬ともいい勝負が出来ると思います。土曜日に乗ってみて感触を掴みたいですね。
(注目する馬は)アメリカの他の2頭は気にしていません。他の国の馬はわからないんで。今回はこの馬にとってビッグチャンスだと思います」
6枠11番 ヘッドパッシャー(NZ)の調教師。
渋いなー、あの人、ダーティーハリーの……クリント=イーストウッドみたい。
「状態は良いです。火曜日に速い調教をして以来、格段に良くなっています。
他の馬の中ではトミービンが印象的ですね。やはり凱旋門賞を勝つということは凄いことですから。
それから日本のタマナクロス。素晴らしいと思います。
他の馬が強力なので勝てる自信はありませんが、最高の状態で走らせることが出来ると思います」
7枠13番 アードラー(西独)の調教師。
何か、がっしりして引っ越し屋の課長さんみたい。メガネのせいかな。
「状態は非常に良いので万全の体勢で臨めると思います。現在のドイツには100年に1頭の素晴らしい馬がいますが、アードラーもそれに引けを取らない実力を持っていると思います。良馬場よりも重馬場が得意なので、(木曜の)今朝のように雨が降ってくれることを願っています。
ライバルとしてはトミービンです。アメリカや日本の馬はよくわかりません」
7枠14番 ジュディズハイツ(英)の調教師。
あれ、柴端さんて人じゃないんだ。なんかこの人は銀行の課長さんみたい。
「私は今日こちらに到着したんですが、残念ながら少し(馬体重が)重めのようです。でもレースまでには絞っていい状態に持って行けると思います。
馬場状態はあまり固い馬場は合わないので、雨がまた降ってくれるといいんですけど。
トミービンが一番注目できる馬だと思います。それと日本のタマナクロスが気になります」
8枠15番 ムーンラウドネス(英)の調教助手。
うーん、外国映画の主人公の兄っぽいなー。何でだろ。
「状態は非常に良いですね。こちらの環境に馴染んでいます。去年もジャパンカップに出ましたが、去年より状態は良いと思います。
トミービンが最大のライバルになると思います。非常に良い馬ですが、私たちの馬が勝つことを期待しています」
8枠16番 ウィズザバトラー(米)の調教師。
何かアメリカ映画の売店の店員さんみたい。マクドナルドの制服が似合いそう。
「私は昨日来たばかりですが、今日見た限りではどんどん良くなっていると思います。適距離は2200mですが、アメリカだと競争が激しいのでもう200m伸ばしたこのレースならと思い参戦しました。固い馬場が好きですが重馬場は全くダメ。
ライバルはトミービンになるでしょう。負かせたらいいんだけどね。かなり難しいかな」
ここでインタビューは一度終わる。
「やはり皆さんトミービンを最大のライバルに挙げる方が多かったですね」
「やはり風格がありますからね。これが凱旋門賞馬か、というような。
それと馬場状態を心配する方が多かったですが、東京の馬場は欧州やアメリカに比べて固いんです。こちらの重馬場が向こうではgoodらしいですからね」
「ではCMを挟んで日本の馬の紹介です」
……アグリキャップちゃん、出ないじゃない!
「直ちゃん、これからよ」
「でも……」
「調教師さん達の容姿、面白く例えてたじゃない。楽しんでるんじゃないの」
またしても口に出ていたか……
我が口は油断も隙も無いなあ。
CMが終わると、タマナクロスの天皇賞秋の映像が流れる。
「今回のジャパンカップの日本代表の中で、最も注目する馬に挙げられたタマナクロスです」
「今回の日本馬の中でタマナクロスと勝負付けが済んでいないのはスズエレパードくらいですけども、タマナクロスが日本で一番優勝に近い馬というのは間違いありません」
「それでは日本の代表馬の調教の様子を桜井さんの解説でお届けします」
真っ暗な画面の中を、ぼんやりと馬が走っている。
テロップでタマナクロスと出ているが、殆ど様子はわからない。
「タマナクロスですけど、夕方遅くの映像ですので画面ではわかりづらいですね。最後の2ハロンやや掛かり気味でしたが、今日の朝も一叩きして充実した状態で臨めそうです」
「タマナクロス、大原調教師のインタビューです」
「天皇賞の後、少しカイ食いが落ちましたけど、今週は食いも戻って良い状態になってきています。天皇賞の状態までは来ていますね。
天皇賞は先行の指示は出しとらんのですが、いいスタートを切れたのをヤネの南見くんが上手く導いてくれました。
強い相手ばかりですが、同枠のトミービンはやはり凱旋門賞馬ですから特に強いと思いますが、負けたくないですね。
あと、タマナクロスと同じ葦毛で公営のアグリキャップ、時計も良かったみたいですし、少し気になってます」
「大原調教師のお話に出て来たアグリキャップですが、公営笠松の代表ですね」
「ええ、オールカマーでスズエレパードに勝ってジャパンカップに駒を進めてきました。こうして地方競馬の強い馬が見られるのもジャパンカップの良いところですね」
「では、調教の様子をどうぞ」
やったー! やっとアグリキャップちゃんが見れる!
待たせすぎ!
画面は2頭の馬が競り合っているところが流れる。
テロップにはゴールデンキュー、アグリキャップと2頭が書かれている。
「ゴールデンキューとアグリキャップは併せ馬で追い切りをしたんですが、アグリキャップがゴールデンキューに内で先着しています。
アグリキャップの鞍上は名手刑部行雄騎手に乗り替わっていますね。陣営のこの1戦に賭ける気持ちでしょうか。
3年前のリッキータイガー以来となる掲示板圏内も夢ではありません。
一方のゴールデンキューですが、金曜日、6ハロン終い重視の単走でもう一度追い切っています」
「ゴールデンキューの志水調教師、アグリキャップの刑部騎手のインタビューです」
「えー、公営の馬と舐めていた訳ではないですが、少し速いところが少なすぎたと思うので、明日もう一度速いところやって臨みたいと思っています。
気になる馬は当然トミービンですが、タマナクロスに今年初めて先着した日本馬になりたいですね」
「えー、調教でも数回しか乗ってないですからね、時計から見て乗った感触っていうのは満足って言うか順調に来てるのではないかなと思います。最初に調教で乗った印象は、何か血統が違うんじゃないかって(笑)何というかダンシングキャップ産駒って難しい馬が多いんですけど、非常に実直って言うかね、お利口さんな馬なんでびっくりしたんですけどね。
まあライバルっていうか、ここで地方馬として一つでも上に行きたいという意識は、厩舎サイドみんなが持ってると思います」
やったー、何か中央の名手の人がアグリキャップちゃんを誉めてくれてるー!
凄んごく嬉しい!
「ねえ直ちゃん、アグリキャップのレース、見に行かなくていいの?」
喜ぶ直子に彩が言う。
「だって東京競馬場じゃないですか。遠いし行き方知りませんし。
それにこのレース直接見に行けなくても、また笠松とか名古屋とかに直に見に行けばいいですし。
今回はTVでもやるんですよね?
TVで見守りますよ」
「あれ、直ちゃんに賀張とか田口くん、言ってなかったんだっけ? アグリキャップ、もしかしたらもう笠松では見れなくなるかも知れないのよ」
「ええっ、何ですかそれーっ!」
「アグリキャップの馬主の阿栗さん、噂では中央の馬主にもうすぐなれるみたいなの。アグリキャップを中央で走らせるために資格取ろうとしてるらしいわ。
そうしたらアグリキャップは中央に行ってしまうことになるのよ」
「……そんなぁ」
「どうする? もし直ちゃんがガソリン代出してくれるんだったら、東京競馬場まで明日の朝イチで連れて行ってあげてもいいけど」
先週も岩手まで連れてってもらったからなあ……彩さんに迷惑になるんじゃないかなあ……
でも、直接アグリキャップちゃんを見に行ける機会、これから無くなるんだとしたら、これを逃したら次いつになるかわからないし……
「直ちゃん、チャンスの女神に後ろ髪は無いのよ」
……
「行きます! 彩さん、連れてって下さい、東京競馬場!」
直子が勢いよく返事をすると、彩はふふっと笑った。
「でも、お金が今千円しかありません! だから、5時までに東海銀行、連れてって下さい! 明日だと日曜日なんでおろせません!」
彩は今度は額に手をやり半ば顔を覆って溜息をついた。
「……仕方ないわね、車に乗って。銀行行くわよ」
彩に呆れたように言われた直子だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます