第49話 ジャパンカップ公開調教前日、笠松メインレース




 久須美調教師11月18日の夜に東京競馬場から20日から始まる笠松開催に備えて笠松に戻ってきていた。


 20日の早朝、調教のため笠松競馬場に円城寺厩舎地区から管理馬を連れて行くと、久須美調教師が見た事の無い馬と厩舎関係者がちらほらと目に付く。


 彼らは、今回の笠松開催最終日のメインレースで行われる「第1回全日本サラブレッドカップ」出走のため笠松競馬場に前乗りしてきた、他の公営競馬場の馬と厩舎関係者であった。

 彼ら他の公営所属の出走陣営は、久須美厩舎のある円城寺地区ではなく、笠松競馬場に隣接した地域にある薬師寺厩舎の馬房に入っており、調教の度に専用馬道を1.5km歩いてくる必要がない。


 羨ましいこっちゃ。円城寺からだといくら専用馬道とはいえ放馬して町中に馬が放たれる危険もある。

 隣の薬師寺に厩舎地区を一本化してくれたら、大分危険も減って楽になるんやけどな。


 そう考えつつ見ていると、他競馬場の調教師の一人が久須美に声を掛けて来た。


「突然すみません、私、大井の調教師で福山文雄といいます。申し訳ないですが、あの馬の併走相手を探しておりまして、併走、お願いできないでしょうか」


 福山の指さす先には、白のメンコを装着した、バネのありそうな馬が落ち着きなく馬場を小回りに円を描いて回っている。


「いや、すまんですけど、今連れて来とるワシの厩舎の馬、3頭ともアラブなんですわ。こいつらの調教後にサラの馬連れて来て稽古しますけど、4、50分程後んなりますわ。申し訳ない、他んとこ当たってみて下さい」


 久須見はそう言って頭を下げる。

 福山と名乗った調教師は残念そうに「そうですか、ありがとうございます」と言って他の笠松厩舎の調教師に声を掛けにその場を離れようとした。


「あ、ちなみに何ちゅう名前の馬なんですか、調教師せんせいんとこのあの馬」


 何となく気になって久須見が福山にそう訊ねると「ミノリワンです。なかなか強いですよ」と答えて福山は立ち去った。








 久須美調教師は20日の昼前に、府中の毛受めんじゅに電話をかけた。


 丁度第二レースのアラブ一般競争が終わったタイミングで、ポケベルに毛受の滞在している府中の出張馬房からの電話が入ったため、手の空いたタイミングでかけ直したのだ。


「おう毛受、お疲れさん、どないした? キャップの調教で何かあったんか」


「そうですね、刑部さんが昨日、今日と調教に乗ってくれて、主にコーナーでの手前替えの稽古をやってもらってたんですけど、キャップはなかなか頑固みたいで。

 手を焼くって訳ではないですけど、来週の火、水もやりたいってことなんですがよろしいでしょうか、調教師テキ


 久須見調教師は、月、火、水とダート単走である程度のラップを保ちつつ距離を乗っておくように考えていた。

 そして木曜のジャパンカップ公開調教では、併走で芝の8ハロンを追って、金、土、当日朝は軽い運動で本番を迎えようという腹積もりである。


「刑部さんがそう言ってくれてるなら、やってもらうようにしてくれ。どっちみち火、水は距離をこなすことをメインに考えとったから、距離乗ってもらいつつ手前替えの稽古もつけてくれるんなら、言うこたない。

 毛受、刑部さんにキャップの手前替えの扶助の方法、よー聞いとってくれよ」


「それはもちろん。今のところ見せ鞭よりは体重移動と手綱の操作の方がキャップの反応はいいみたいです」


「そうか。わかった。ところで差し入れで置いて来た肉食ったか、肉」


「川洲と二人だと食い切れないんで、他の厩舎の人も招いてバーベキューしました。

 追い切りでキャップと併走してもらう予定のゴールデンキューの志水厩舎の厩務員さんと、あと大原厩舎、池辺厩舎の栗東からこっちに滞在してる厩務員さん達です。

 中央の人だからって最初緊張しましたけど、皆さん気さくに話して下さって、自分の馬の世話することに熱心で勉強になりました」


「ほうか。こっち戻ってからも活かせること、色々吸収してきてくれや」


「はい、調教の件、刑部さんにもこちらで伝えておきます」


「よろしく頼むで」


 久須見は満足して電話を切った。


 騎手の刑部行雄が、アグリキャップの調教に熱を入れてくれているのは本当に有難い。どうにか掲示板まで来れるようなら、地方馬としては1985年に皇帝ヨソリノルドルフの2着に突っ込んだリッキータイガー以来の快挙だ。


 これは、このまま順調に行けば掲示板はあるかも知れん。








 11月23日(水)、笠松のメインレースは第1回全日本サラブレッドカップ。ダート2500mである。


 そのスタンドに久須美はいた。


 この日の久須美は、管理馬を5レースに出走登録している。

 第一レース、第五レース、第八レース、メインの前の第九レース、そして最終レースだ。

 第九レース「東海クラウンA1A2」に久須美の管理馬トーヤオーが出走しており、第十レース「第1回全日本サラブレッドカップ」を挟んでこの後の最終第十一レース「古太尽特別 A2B1」に阿栗所有のアラブ馬で久須美が管理しているアグリエースが出る。

 久須見は厩舎には戻らず、そのままスタンドに残り「全日本サラブレッドカップ」を観戦することにしたのだった。


 全レースが終わって厩舎に戻って後片付けをある程度済ませたら、久須美は明日のジャパンカップ公開調教のために府中に車で出発する。

 非常にハードスケジュールだった。


 阿栗も馬主席に来ている筈だったが、まだ久須美は会いに行っていない。

「全日本サラブレッドカップ」が終わったら、一度馬主席にいるはずの阿栗に会いに行かねば、と久須美が考えていたところ、横から声を掛けられる。


「よう久須美さん、笠松でこんな地方№1を決める交流競走が出来るなんて、感無量やな」


 トラックを見つめる久須見の横に来て久須美に声を掛けたのは阿栗だった。


「阿栗さん、馬主席におるんやないんですか」


 久須見は不意を突かれ、驚く。


「うん、全日本サラブレッドカップに馬出しとる他のとこ公営競馬の馬主さんの邪魔んなっても嫌やなって思ってな。まあワシは馬出しとらん訳やし」


 ハハハ、と阿栗は笑いながら言う。


「12月んなったらワシ名義に変わる佐梁さはりの持ってる馬の様子も見とこう思って第九レース見てたんやが、一着は取れなんだけど、賞金はどうにか咥えてきてくれて安心したわ」


「トーヤオーですな。まあピークは過ぎとるんかも知れませんが、自分の食い扶持くらいは今後も稼いでくれるんやないか思いますよ。

 しかし、佐梁は一体どんな心境の変化があったんでしょうな」


「うーん、佐梁に直接話聞いたけど、ようわからん。ただ、自分とこの会社の罪認めてきっちり代償支払って罪償うっちゅうんやったら、何もワシが口出すようなことやないからな」


 阿栗は、佐梁と話した内容の詳細は久須美に伝えてはいなかった。

 佐梁がアグリキャップに薬物入りの飼糧を与えようとしていたことなどを久須美に話そうものなら、久須美がどれだけ怒り狂うかわからないからだ。

 それに佐梁が話した心変わりの理由も、第三者に聞かせたら荒唐無稽過ぎてからかっているのかと怒り出しかねなかった。


「佐梁も年貢の納め時を悟ったっちゅうことですな。

 まあ佐梁も今日の全日本サラブレッドカップに自分の馬を出せたんは、馬主として最後の良い思い出になるんやないですか」


 佐梁功は12月1日付で自分の所有馬を次の馬主に譲るように手続きをしている。


 全日本サラブレッドカップに出走する佐梁の馬は、東海菊花賞にも出ていたコクサイヒューマだった。人気は出走10頭中8番人気。


「今日の人気、ケツの3頭は東海公営の馬ちゅうのも情けない話ですわ」


「でも1番人気は笠松の馬やで」


 全日本サラブレッドカップ出走馬10頭の内訳は、笠松4頭、名古屋2頭、大井1頭、高崎1頭、北海道1頭、金沢1頭である。


 1番人気は笠松最強のフェートローガン。

 そして2番人気は大井から来たミノリワンが推されている。


「フェートローガンが負けるとこは想像つかんな」


「でも大井から来たミノリワン、ワシもちらっと目にしただけですけど、かなりバネのある馬でした。あるいは」


 久須見がそう言葉を返すが、阿栗は出走馬の出馬表を見ており、ポツリと「皮肉なもんやな……」と呟く。


 久須見は何が、とは聞き返さなかった。

 阿栗の視線は、10番人気のトップセイカンの鞍上、河原章一の文字に注がれていたからだ。

 一番人気の鞍上の安東克己と10番人気の鞍上の河原章一。

 それを指して阿栗が皮肉なものだと言ったのは聞かずとも察せた。


 久須見は話題を変えようと、阿栗に訊ねた。


「阿栗さん、そういや中央の馬主資格の通知、もう来ましたか」


「……いや、まだ来とらん。12月に入ってからなんかな」


「中央の馬主資格取れたら、すぐキャップを転厩させる予定ですか」


「いや、今んとこ中央のどの厩舎に頼むかも全然決まっとらんからな。そもそも馬主資格取れんと中央の調教師と預託契約も結べんし、そっちがはっきりせんことには」


「そうですか。まあワシは笠松にキャップが居る間、全力でやらせてもらうだけですが」


「そうやな。キャップ、どんな感じなん、久須美さん」


「今んとこ順調ですわ。ヤネの刑部さんも、熱心に調教で乗ってくれてます。上手くいけば掲示板、行けるかも知れません」


「それホンマやったら、2年前の名古屋のジョウタローの7着より上んなるで。東海公営としても快挙や」


「明日ジャパンカップの公開調教日ですんで、今日の最終、エースのレースが終わったら府中へ出ます。

 阿栗さんはいつ頃東京来られるんですか」


「ワシは明後日やな。ウェルカムパーティに呼ばれとるから。田舎者やからこっ恥ずかしいけど、せっかくの機会やし。ウェルカムパーティ、久須美さんも出るやろ」


「ワシ、できたら出たくはないですがね。背広とか滅多に着ませんし、肩凝るような席、苦手ですわ」


 二人がそう話しているうちにファンファーレが鳴り、出走馬のゲート入りが始まる。


 ゲート入りを嫌がる馬はなく、スムースに全馬枠入りし、最後に大外の名古屋のヒロノファイターが収まる。


 カッパッ


 ゲートが開き、出遅れる馬もなく横一線の綺麗なスタート。

 大外からヒロノファイターが、いつも通りにハナを奪おうと飛ばしていく。

 中では好スタートを切った白いメンコのミノリワンが前に出ていたが、ヒロノファイターが先頭に立ち、中に寄ると無理はせずに2番手につける。


 今日のフェートローガンは、最後方ではなかった。

 ゲートの出が良かったこともあり、2番手集団の先頭、5番手に位置している。


 スタンド前をその隊形で走っていく馬群は、バックストレッチに入ると縦長に伸び、各々がインに寄って距離ロスを避けるように走っていく。

 2500mの長丁場ということを乗っている騎手は皆考慮しているようだ。


 1周目の第三、第四コーナーを抜け再びスタンド前のホームストレッチに馬群が差し掛かると、3番手以下に動きがある。

 ホームストレッチの直線で少し前にポジションを上げようと後ろの馬が前に出てくるため、中団の辺りは少し膨れて3頭が並ぶ形になる。

 フェートローガンは内に寄った経済コースを進み、外の動きを気にする素振りは鞍上の安東克己からは見られない。


 第一、第二コーナーを抜け再度バックストレッチに入ると、直線の間にポジションを上げようという動きが激しくなっていく。


 内でじっとしていたフェートローガンだったが、バックストレッチが終わり最後の第三コーナーにかかる辺りで、安東克己は進路の自由さを求めて外に持ち出す。


 そしてそのまま第三コーナーから上がって行き、第四コーナーに入った時には先頭のヒロノファイターと2番手のミノリワンを外から捉える。


「あっこから仕掛けてって、大丈夫なんか」


 阿栗が心配そうに言う。

 久須見も、常のフェートローガンとは違ったタイミングの仕掛けに戸惑う。


 第四コーナー、フェートローガン鞍上の安東克己は首を振って中を見て、内のミノリワンの進路妨害にならないかを確認すると、手綱をしごいてミノリワンの前に出る。

 直線に向いた時には内のヒロノファイターの粘りも交わして先頭に立っていた。


 そのまま最後の直線に入るとフェートローガンの安東克己は鞭を1発、2発と入れる。

 その度にフェートローガンは反応し、笠松の深い砂が有って無きが如く、宙に浮くように鋭く伸びていく。

 安東克己は一度外を振り返って、後ろのミノリワンとの差を確認すると、更に鞭を入れ、真っ直ぐ前を見てフェートローガンを追う。


 フェートローガンの後ろはミノリワンただ1頭がフェートローガンについてくるが、差は縮まらないまま。


 そしてそのままフェートローガンが1着でゴール板の前を駆け抜けた。


 2着のミノリワンには1 と1/2馬身差をつけていた。


「こんなに強いとは……」


 阿栗が驚いたように声を漏らす。


 久須美調教師は、ただ無言でフェートローガンを眺めていた。


 10番人気だった河原のトップセイカンは、見せ場なく9着に沈んでいた。





 久須美調教師は全日本サラブレッドカップの終了後、最終レースに備えて出走馬アグリエースの待機場所に向かっていた。


 途中で検量室の前を通ると、2着に敗れたミノリワンの福山調教師の姿を見かけたので声をかけた。


「惜しかったですな」


「今日は完敗でした。笠松の深い砂も味方してくれませんでした」


 久須見が福山調教師に声を掛けると、福山調教師は力なく返事する。


「でも、来年もこのレースは行われるはずやから、来年も是非来て、フェートローガンに雪辱して下さい」


「……いや、この馬は馬主さんの意向で来年は中央に移籍することがほぼ決まってるんです。残念ですけど雪辱の機会は無さそうです。

 年末の東京大賞典に向こうが来てくれればなあ。交流重賞じゃないから無理ですけど」


「多分フェートローガンは年末は笠松の東海ゴールドカップ出るやろうからね」


「同じ笠松所属だったら、そこで雪辱もできたんでしょうけどね」


「……そうやね。同じ笠松所属やったら」


 その後多少の会話を福山と交わし、久須美はその場を離れた。


 アグリエースの待機場所に急ぎつつ久須美は思う。


 まずはアグリエースの最終レースや。

 それが終わったら、ジャパンカップ。


 そんで……同じ笠松所属やったら、まだ雪辱の機会は、ある。







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