第48話 ダービーグランプリ




 11月20日(日)、榊原直子は岩手県の水沢競馬場のスタンド席にいた。

 

 当然一人ではなく、富士田彩が隣にいる。


「彩先輩、こんな吹き曝しのところじゃなくて、彩先輩のお爺様のいる馬主席へ、本当に行かなくていいんですか」


 直子は震えながら彩にそう訊ねる。

 天気は晴れているが、後方からの夕陽はスタンドが遮り、直子たちのいる席は日陰になっている。

 風はそれほど無いものの、6℃と言う気温よりも体感は冷え込んでいる。

 逆に名古屋は暖かいんだなあ、と直子は地元が恋しかった。

 馬場の内側に昨日降った氷雨が水溜まりを作っているのも寒々しさを増していた。


「いいのよ、お爺様と私は別口なんだから」


 富士田彩も震えを我慢できず、ポケットに入れた手で握っていた使い捨てカイロを頬に当てる。


 二人が見に来ているのはダービーグランプリ。


 地方競馬の4歳チャンピオンが集い、地方の4歳馬の中での1番を決めるレースである。

 水沢競馬場のダート2000mで争われるこのレースは、一着賞金が2000万円と地方競馬の重賞の中では高額である。

 3回目の開催となるこのレースに、富士田彩の祖父、富士田利康の所有馬、トミトシシェンロンも出走するため、二人はそれを見に来ていた。


 トミトシシェンロンは、笠松前走の岐阜金賞を安東克己騎乗で優勝し、笠松の4歳馬代表としてこのダービーグランプリに挑む。


 だが、今日の鞍上は安東克己ではなく、坂口茂正であった。


 


 榊原直子が富士田彩に岩手旅行に行こう、と誘われたのは、急だった。

 11月18日(金)の夜8時過ぎ、アパートの部屋でまったりしていた直子に彩が電話を掛けて来て誘われたのだ。

 彩は、移動代、宿泊代、食事代は私が持つからどう? と直子を誘った。

 直子は懐事情が厳しいうえ講義のレポートの提出日も迫っていたのだが、それならば是非行って見たい、と話に乗った。  


 その時はまさかこうして寒空の下、競馬を観戦することになるとは思わなかった。


 直子が彩の目的が競馬観戦だと知らされたのは、19日の昼過ぎ、東北新幹線やまびこの中だった。

 中尊寺金色堂とか行くんですか、と聞いた直子に対し彩は、中尊寺は行かないし、多分そんなに観光地は見て回れないわ、と答え、今回の目的地が水沢競馬場であることを告げる。

 そう聞いて膨れた直子に、でも花巻で泊まるから、宮沢賢治記念館には行けるわよ、といってなだめた。

 直子もそれを聞いて機嫌を直す。


 彩は、祖父の馬のトミトシシェンロンがどれだけ他の地方競馬の4歳チャンピオンに混じって走れるのか見たいと言った。

 

 直子は、お爺様は来られずに彩さんがお爺様の代理なんですか、と聞いたら、そうではなくて祖父は祖父で見に行っているらしい。

 彩の祖父は一緒にどうかと彩を誘ったらしいが、彩はそれを断っていた。

 だが、トミトシシェンロンの大舞台は見に来たかったので祖父には知らせずに直子を誘ったということだった。


「彩先輩、もしかしてお爺様と、あんまり上手く行ってないんですか?」

 

 直子が単刀直入にそう彩に聞く。


「……お爺様は私のことを、溺愛しているわ。今回、直ちゃんと一緒にこうして岩手に向かっている費用だって、その日友達と旅行に行ってきたいと言ったらお爺様がお小遣いとして出してくれたもの。

 ……ただ、お爺様が私を愛する愛し方が、私には窮屈で望まぬ愛し方、ということかしらね」

 

 彩はそう言うと、流れる外の風景に目をやり、口をつぐんだ。


 直子もそれ以上は聞けなかった。


 16時半過ぎに東北新幹線の新花巻駅で降りた二人。

 名古屋から来た二人にとって新花巻駅の外の気温は想像を超えて、寒い。

 駅前の温度表示は4℃を示している。

 宮沢賢治記念館は新花巻駅のすぐ近く、歩いて行ける距離だったが、閉館までの時間が迫っていることもあって訪れるのは明日に回し、その日は彩が予約していた花巻温泉の老舗旅館に直行することにした。

 


「直ちゃん、シャワーの温水で体を慣らしてからでないと熱いわよ」


 旅館に着いて早々に、温泉に入りに来た二人。

 直子は大浴場の湯船のお湯を湯桶で汲んで被ると、かけ流し源泉を使っているお湯は冷えた体には熱すぎた。


「熱っつ!」


 彩は、流し場のシャワーで丁寧に手足の末端から湯をかけて、徐々に体を流している。

 直子も一度の失敗で懲りて、彩の隣のシャワーで体を流す。

 直子は隣で体を流し始めた彩の体を見る。


 わー、彩さんやっぱりスタイルいい~。肌もつやつや。

 貧相な私とは全然違ってる。羨ましい。


 ゆっくり時間をかけて体を洗う彩。

 腕を洗う仕草すら、直子からは嫋やかに見えた。


 直子が見とれていると、彩と目が合う。


「直ちゃん、どうかした?」


「いえ、何でもありませんっ!」


 彩に視線を気づかれた直子は、照れ隠しのようにシャカシャカッと手早く体を洗った。



 部屋に運ばれた懐石料理を地元の日本酒とともに堪能した二人は、また温泉に入りに行ったりしつつ、良い心持ちで23時頃には床に就いた。


 直子は、長時間の移動と温泉入浴後の心地良いだるさ、僅かに残った地酒の酔いもあって、すぐにふわーっと睡魔が降りてくる。

 完全に眠りに落ちるその瞬間に「ねえ、直ちゃん、まだ起きてる?」という彩の問いかけに意識が眠りから引き戻される。


「ふぁい、起きてますよぅ、彩さん」


 寝ぼけた声を隠せず直子が返事すると、彩は「ごめんね、寝てるところ起こしちゃったかな」と申し訳なさそうに言う。


「いやいや寝てませんでしたよ、大丈夫です、どうかしましたか、彩さん」


「ん……ちょっとね、寝付けなくて」


「何か考え事でもしてたんですか」


「……そう、つい取り留めも無いことを考えてしまって」


「私なんかで良かったら聞きますよ。誰にも言いませんし」


「……ありがと、直ちゃん。ちょっと好意に甘えようかな」


 まとまりの無い話で申し訳ないけれど、と言って彩は話し出した。


 私のお爺様のこと。

 お爺様は、私のことを溺愛してるって、ちょっと言ったこと、覚えている?

 お爺様は小さい頃からただ一人の孫の私に甘くて、私が欲しいものをねだれば何でも買ってくれた。

 よく笠松の競馬場や厩舎にも連れて行ってもらって、持っている馬を触らせてもらったり、帰りに食事に連れて行ってもらったりしてね、楽しかった。

 お爺様は私のことを厩舎関係者に自慢したりしていたわ。


 私の家は代々農家で、田畑や山林など土地持ちだったの。

 高速道路や新幹線の用地買収で、お爺様の代で急にお金が入って。

 それで残った土地も貸したりするようになってね、その土地を管理する不動産管理会社を営んでいるの。

 土地の名義はお爺様だから、お爺様が代表取締役。私の両親はその下で専務って肩書。実質的に会社を運営しているのは両親だけど、権限は全部お爺様が握ってるの。

 農業は、今でもお爺様が少しやっているわ。

 ほんの僅か、家庭菜園レベルで、余った分を農協に出荷する程度の小規模。

 お爺様の運動代わりみたいなものね。


 それで、お爺様の代で急に羽振りが良くなったものだから、周囲には土地成金って陰口を言われてるみたいなの。

 お爺様はそう言われるのが嫌だったみたいで、周囲に一流って認めさせたいっていう思いがもの凄く強くなったそうよ。


 馬主をやっているのもそうした気持ちの表れの一つ。

 トミトシって冠名だって、富士田の富と、お爺様の名前の利康の利を取って、トミトシ。

 凄く自己顕示欲が強いと思わない? 見栄を張って周囲に認められたいのよ。


 そして、高校生になった私は、私に対するお爺様の愛情も、そんな見栄の一つなんだって思った。


 私、本当は他の大学に進学したかったの。

 お爺様に小さい頃馬を見に連れて行ってもらったからか、馬産にちょっと興味があってね。

 農業大学の畜産学部に行きたいなあって、はっきりした夢じゃないけどぼんやり考えてた。

 でも、お爺様にポロっとそう言う話をしたら、お爺様は全く取り合ってくれなかった。

 お前は、名古屋のお嬢様大学SSK(椙山女子大、愛知淑徳大、金城学園大)じゃないと行かせない、って、笑顔だったけど全く私の言うことは聞こうとしなかったの。

 両親にも相談したけど、両親もお爺様には頭が上がらなくてね、聞いてはもらえなかった。

 お爺様にとっては、自分の孫が隣県のお嬢様大学に行ってるって、見栄を張りたかったんでしょうね。

 お爺様は、SSK以外に進学したら学費も生活費も一切面倒見ないって、優しく私に言って聞かせたわ。

 結局私は折れて、椙山女子大学に入学したの。


 大学に入って、ちょっと羽目を外すようになった私は、とある男の人とお付き合いしたの。

 他業種交流会っていう、合コンで知り合った人で、松坂屋の外商部の人だったけど、今にして思えばチャラかったかな。

 でも、私の知らなかったことを色々と教えてくれて、凄く大人にその時は感じたな。

 その人とは1年半くらいお付き合いしたんだけど、ある日突然、別れようって切り出された。

 その時は結構ショックだったな。

 理由も何も言わず、とにかく別れようしか言われなかったから。

 電話しても出なくなったし、留守電にメッセージ残しても折り返し連絡もない。

 その人のマンションに何度も訪ねていったけど、いつも不在。

 そのうち急に引っ越したのか表札も変わってね。


 本当に凄くショックだった。


 その後、久々に実家に帰省した時に、お爺様に言われたの。

 ふさわしくない男とは付き合うな、って。


 お爺様が手を回して、彼に別れを切り出させた。

 私はそう確信した。


 物凄くお爺様に腹が立った。


 けど、結局何も言えなかった。


 だって結局、私の生活は全部お爺様に頼っているんだもの。

 住んでるマンションだって、乗ってる車だって、着ている服だって、殆どはお爺様が出してくれている。

 私がどんなに粋がったところで、全部お爺様のお金なの。


 直ちゃん、気づいてる? 私、殆ど就職活動してないってこと。

 お爺様が、もう私の就職先、決めてるの。

 お爺様のコネでね。


 私はお爺様に嫌悪を抱いても、結局お爺様に逆らえない。

 お爺様を結局は頼りにしてしまっている。

 

 ちょっと意地を張るくらいしか抵抗できない。

 私は、そんな弱い私が、本当は嫌い。

 大声で叫びたい、私はみんなに思われている私じゃない、すごく弱くて情けない人間なんだ! って。

 でも、それも言えない。

 結局私は、私一人の力じゃ、何も出来ない、本当に弱い人間なんだ……



 彩の独白を最初はうつらうつらしながら聞いていた直子だったが、徐々に彩の声に涙声が混じって来るのに気づき、真剣に聞き入っていた。

 

 穿った見方をするならば、彩の独白は結局富を持っている者の驕りだろう。

 おそらく、彩の今話したわだかまりは、他の誰かに話したとして「富を持った者の驕り、或いは甘え」として捉えらる。

 それを富士田彩は理解しているだろうから、今まで誰にも話したことはないだろう。

 アドバイスしようにも、直子の育った田舎の普通の家の感覚とはかけ離れてる。

 とは言っても家長にそれだけ過干渉されるのは耐えがたいものではあると直子は思う。


 ただ、彩はおそらくアドバイスを求めている訳では無いだろう、とも思った。

 自分の心にわだかまっている淀んだ気持ちを誰かにただ聞いて欲しいだけ。吐き出さずに心に秘めておくだけだと、徐々に自分の心が蝕まれる、そんな心境を話せる相手として自分が選ばれたのは、直子にとっては光栄な事だった。

 私のことを、少なくとも心の中の秘密を打ち明けても、誰かに言って回ったりする人間ではないと思ってくれているのだから。

 

「私はそれでも、そんな彩さんのこと、大好きですよう」


 聞き終わった直子は、ただそれだけの言葉を返した。


 何かもっと、具体的にどこが好き、とか言えればいいのかな。

 でも彩さんはそういう慰めは求めてないだろう、だって自分、不器用ですから。


 彩は、しばらく鼻を啜って泣いていたようだったが、ガサゴソと枕元のティッシュを取り、鼻をかんだ。


 すると突然、直子の布団の上に飛び乗った。

 んふっ! と直子の肺が押され変な声が出た。


「何よ、直ちゃん、高倉健さん気取って。私が恥ずかしい話したってのに」


 彩はそう言いながら直子の布団に潜り込み、直子の脇をくすぐる。


「ぎゃあー! 止めて下さい彩さん、私、くすぐりに、イッヒッヒッヒッヒ、弱いんですよう」


 彩はしばらく直子をくすぐっていたが、直子が悶え死にそうになる寸前で止めた。


「私だけ恥ずかしい話したのって不公平! 直ちゃんもせめて好きな男の子、教えなさいよ!」


 彩が直子にそう訊ねる。


 彩は、空元気かも知れないが、元気を取り戻したようだった。

 

 直子は良かったあ、と心の中で安堵する。


「早く教えて、直ちゃん」


 彩の催促に、直子はハタ、と考える。


 去年、好きだった人はいたけど、今でも好きかって言うと違う。

 今好きな人……私がふとした時にその人のこと考えちゃうような存在って誰だろう。


「アグリキャップちゃんですっ」 


 咄嗟に直子はそう答えた。


 でも間違っていない。ふとした時に考えるのはアグリキャップちゃんのこと。

 東海菊花賞で、最後あれだけ追い込んだのに届かなくて2着になった。

 その後、レースが終わっているのに相手を抜くまで走ってた。

 走り終わった後、負けた相手を悔しくて睨みつけていた。


 アグリキャップちゃんは、すごく人間臭い。

 私たちの生きている感情を、走りで、その様で表してくれている気がする。


「直ちゃん、逃げたな? 馬じゃないの、本当は誰?」


「いえ、本当に私が最近ふとした時に考えて心がギューッとなる相手はアグリキャップちゃんです。東海菊花賞、何とかして勝たせてあげたかったって、凄く思っちゃいます」 


「そう……」


 彩はそう言うと、しばらく黙り込んだ。


 そしてポツリと言った。


「直ちゃん、聞いてくれて有難うね」






 水沢競馬場でのダービーグランプリのゲートが開いた。


 トミトシシェンロンは、出遅れた訳ではなかったが、10頭立ての9番目でレースを進めていた。

 全体が前に前にと出ていく展開で速い。

 小回りのトラックが多い地方競馬では、前にポジションを取った方が有利だ。

 どうしても番手争いで前に出ようと速くなる。


 レースは大外の、大井競馬場代表で名手矢的やまと文雄ふみお騎乗の牝馬エアロプラークが大外から先頭に立ち、それを川崎代表のこちらも名手佐々木ささき武美たけみ騎乗のブラックワールドと、地元岩手上山代表の牝馬ワカコサンが追っていく。


 コースを一周した時、前の順位に動きは無かったが、最初に飛ばした馬が落ちてきたこともありトミトシシェンロンは6番手まで順位を上げている。


 ゴールまで500mを切った第3コーナーでトミトシシェンロンは仕掛けて徐々に前に進出していく。

 直線を向いた時は3番手に上がった。


 直線でトミトシシェンロンは競っていたワカコサンを競り落とし2番手になった。

 先頭を行く矢的文雄のエアロプラークとは3馬身差。


 その3馬身がなかなか詰まらない。

 そしてトミトシシェンロンは外から来た新潟代表のアカサレコードに、首差抜かれ、そのままゴールに入った。



「彩さん、シェンロンちゃん、頑張りましたよ」


 直子は彩にそう声をかけた。


「安東克己が乗ってくれていたら、どうだったかしらね……あの3馬身差、逆転できたのかな」


 彩はポツリと言った。

 乗り替わった安東克己への未練だろうか。


 直子は、アグリキャップが出ていたらどうだったろうか、と想像した。

 アグリキャップなら、東海菊花賞のあの脚なら、今日の3馬身差を覆しゴール前鼻差で競り勝っていた気がする。


 直子の心の声が漏れていたのだろうか、彩が言う。


「アグリキャップがジャパンカップを選んでくれたから、シェンロンは今日ここに来れた。アグリキャップなら、勝ってた。多分、笠松の皆はそう思うんでしょうね。

……それは認めないといけないわね」


 彩の声は悔しさ、諦め、そうした感情が混じっているように直子には聞こえた。







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