第47話 スタッフへの感謝
久須美調教師の府中滞在は、今回は16日から18日までの3日間であった。
この3日間、刑部は16日と18日、美浦トレーニングセンターでの調教の後、府中まで来てアグリキャップの調教に乗っている。
刑部はこの週末の20日の東京開催のレースに出走する他の厩舎の騎乗馬の最終追い切りがあったために17日だけは来れなかった。
何故今回久須美調教師の府中滞在が3日間なのかと言えば、久須見調教師は、実は今月は忙しい。
東海公営の開催が、11月は名古屋と笠松で1週ごとに切り替わる日程となっているからだ。
14日までの笠松開催が終り、現在アグリキャップのジャパンカップのため府中の東京競馬場に来ているが、今週末の20日(日)から23日(水)まで笠松開催があり、そこにも複数管理馬を出走させる。
そのため、18日午前中までは府中に滞在して午後に笠松に戻り、笠松開催期間中は笠松の自厩舎の馬の様子を見てレースに出走させた後、23日夜に再度府中入りし、24日木曜日のジャパンカップ公開調教に臨む。
その後ジャパンカップ本番レースに挑んだ後は夜のうちに笠松に戻らねばならない。
ジャパンカップ当日の27日(日)と、翌28日も笠松開催があるためだった。
出走レースに調教師不在というのは流石に避けたいため、アグリキャップのジャパンカップ出走登録を行った後に、27日のレースに出走予定だった管理馬を28日のレースに馬主の了解の元、振り替えた。
27日の笠松のレースに出走を予定していた4頭のうち3頭は阿栗孝市所有の馬だったため、すんなり変更することになったが、もう1頭の馬主には、レース出走馬の力関係的にやや厳しくなるところだったため、直接会って頭を下げている。その馬主も笠松所属の馬の代表としてジャパンカップを走るアグリキャップを気持ち的に応援したいと言って了解はしてくれたのだが、久須美がアグリキャップにばかり懸かり切りになっているという印象を与える訳にもいかないため、逐次その馬の様子は馬主に入れるように気を遣っている。
そうした手前もあり、28日朝の調教時までには絶対に笠松に戻らないといけないのであった。
刑部がアグリキャップの調教に乗る貴重な一日である18日の調教後、刑部から久須美調教師に一つ問いがあった。
「どうも、
アグリキャップはあまり手前を替えて走らない。
生まれたばかりの頃に外向していた右足を前に出して着地する右手前で走るのを好んでいる。
これまでの主戦場だった笠松と名古屋は共に右回りのため、コーナーを回る時は右手前の方がスムースに回ることができる。
左周りの中京競馬場で走ったレースは2戦あったが、そこでも多くのコーナーを右手前で回っていた。
多少外に膨れるきらいはあったが能力の違いで勝利していたため、久須美調教師も主戦騎手だった安東克己もあまり問題視したことはなく、手前替えをしっかりと稽古したことはこれまでは確かに無かった。
「キャップが生まれた時、右足が外向していて上手く立てなかったらしいんですわ。牧場の人らが削蹄して矯正して真っ直ぐ立てるようになったそうなんですが、キャップ自身右脚を気にして成長してきたんでしょうし、自然右が利き脚になったんでしょうな」
久須美がそう答えると、刑部は考え込むように言う。
「……これまで
ただ、今回初めて芝の左回り2400m、しかも一昨日に久須美
こうした状態で右手前で走り続けていると、右脚にばかり負担が掛かって疲労が蓄積し能力を出し切れない恐れもありますし、故障にも繋がりかねません。
今回のレースで直ちに故障する、ということは無いかも知れませんが、
刑部の指摘に、久須美は恥じ入るばかりだった。
確かに砂が深く故障しづらい笠松と言う環境に自分も甘えていたのかも知れないと思った。
「お恥ずかしいことに、刑部さんに言われるまで、それには思い至りませんでしたわ。キャップ自身が走りたいように走らせてやるのが一番キャップの力を引き出して走れることなんだと思っとりました。
刑部さんがよろしければ、手前替えの稽古、キャップに是非つけてやって欲しいんですが、そんな時間は刑部さん、取れるんでしょうか」
久須美が恐る恐るそう切り出すと、刑部は柔らかく微笑んで答える。
「土日の府中開催、
それに先週の土日も、実は
「ありがとうございます、刑部さん。よろしくお願いします」
久須美はそう言って頭を下げた。
先述したとおり、この月の久須美は忙しい。
それまで厩舎スタッフが久須美にすぐに連絡を取りたい場合は、久須美の自宅か、或いは久須見の行きつけの飲み屋に電話を掛ければ事足りていた。
だが、今回のように自分が数日厩舎を不在にする期間があり、尚且つ久須美自身がすぐに電話で連絡を受けられる場所にいるとは限らないこともあるため、いよいよポケットベルを使い始めることにしていた。
この頃のポケベルは、まだ後年のようなメッセージを表示できるようなものではなく、ポケベルの固有番号に電話をすると着信先の電話番号が表示される程度のものだ。
久須美は自分のポケベルの番号を、妻、久須美厩舎のスタッフ、阿栗を初めとする馬主たちには教えてあった。
調教後の刑部との打ち合わせが終わった後、久須美のポケベルが振動した。
久須美はポケベルを出し、表示された電話番号を見る。
自厩舎や馬主の番号だったら、久須美にとっては一大事になりかねない用件である可能性もあるため、久須美は表示された番号を見る時は緊張する。
今回表示された番号は久須美の自宅。妻からだったため久須美はホッと胸を撫で下ろす思いだった。
出張馬房まで戻り、馬房備え付けの電話で自宅に電話を掛け直すと、呼び出し音10回程度で妻が出る。
「何や、どうした」
久須見は妻にそう用件を聞くと、それほど大事ではない。
阿栗が、久須美厩舎のスタッフへとそこそこの量の差し入れをしてくれた、という内容だった。
阿栗は今回自分の
阿栗さんに会った時に良くお礼を言っておいて下さい、と久須美に釘を差す内容だった。
そうやな、阿栗さんにも、ワシがおらん間厩舎を守っとるスタッフにも礼は伝えなアカン。
午後には一旦笠松に帰るが、幸い車で来とるし、途中で土産も沢山買って帰らんと。
それと、毛受と川洲にも、何か差し入れ渡してやらんとな。
久須美は笠松で厩舎を守る厩舎スタッフと、府中滞在の毛受、川洲のスタッフ陣に今回ハードワークを強いている自覚はあった。
特に府中滞在の毛受と川洲の二人には、アグリキャップが府中に到着した11日からジャパンカップ終了後にアグリキャップを笠松に戻す27日夜中まで、休日を与えてやれない。
せっかく東京に来ているのに二人揃って気晴らしに東京観光をするようなことも出来ていなかった。
調教後アグリキャップを馬房に戻し朝飼いを付けた後の二人に、久須美は訊ねた。
「ワシ、今日の夕方には笠松戻るけど、お前ら東京見物とか行ってみたいか?
夕方4時までくらいなら、ワシがキャップに付いて見とるからちょっと出て来てもええけど」
久須美の問いに毛受と川洲は顔を見合わせる。
時間は11時過ぎ。
午後4時まで5時間弱だが、観光に都心まで出るには時間が足りない。
だが、この機を逃せば、もう来週はジャパンカップ直前のため、久須美が来ても出かけるような余裕は無い。
「ならちょっと、お言葉に甘えさせてもらっていいですか」
毛受がおずおずと切り出す。
「おう、ええで。お前らにはジャパンカップ終わるまでは休みやれんからな。大して長い時間やないが、羽伸ばしてこい」
「ありがとうございます、
毛受と川洲は声を揃えて久須美に礼を言うや否や、すぐに出張馬房の二階、自分たちが過ごしている部屋に駆け上がっていく。
着替えたり荷物を用意しているのか二階でバタバタと騒がしく動き回る音が久須美調教師の耳に飛び込む。
飼葉を食べていたアグリキャップも、一瞬二階の物音に「何だ?」とでも言うように顔を上げて天井を見上げたが、すぐに興味を無くして飼葉桶に顔を戻す。
動き回る音が落ち着くと、すぐに着替え終わった二人が駆け下りて来た。
「おまえら、事故や怪我にだけは気ぃつけえよ。おまえらの代わりはおらんからな」
久須美がそう声を掛けると二人は「はい、怪我しないように楽しんできます」と言うと、時間が惜しいと言うように馬房を後にする。
久須美はその様子を苦笑しつつ見送った。
午後3時過ぎに、久須美が思ったよりも早く、川洲が戻って来た。
「何や川洲、早かったな」
久須美が川洲にそう声を掛けると、川洲は「いやあ、十分楽しんで来ましたよ。映画見て来れましたし」と晴れやかな声で返答する。
「何の映画見て来たんや」
「『快盗ルビイ』です。……実はキョンキョンのファンなんです。12日に公開されたんで、ジャパンカップ後に笠松戻った後じゃないと見られないと思ってましたから、本当に良かったです」
はにかみながら川洲が答える。
「楽しめたんなら良かったわ。毛受は一緒じゃなかったんか?」
「毛受さんは別行動ですけど、多分パチンコですかね。東京のパチンコ店は客が多いから釘開けてる店も多いんじゃないかって言ってましたから」
「何や、あんまり普段の休日と変わらんやないか」
「そんなもんですよ。僕だって似たようなもんです。それに観光地に行っても、多分キャップのことが気になって、そんなに集中できないと思いますから」
そう言って川洲は仕事着に着替えに二階へ上がって行った。
毛受は午後4時ちょうどに戻って来た。
手には紙袋を提げている。
「おう毛受、パチンコ勝ったか?」
久須美が訪ねると、毛受は意外な返答をした。
「いや~、パチンコ行こうかと思ってたんですが、やっぱり気が変わって新宿まで出て紀伊国屋書店の本店まで行ってきました」
毛受が手に提げている紙袋をよく見ると、紀伊国屋書店と印刷されている。
「えらい買い込んだな。何読むんや」
「馬術の専門書が主ですよ。品揃えが豊富だったんで、ついつい時間を忘れるくらい読んでしまって。それで少し読んで良かったものを買い込み過ぎました」
「ほー、仕事にも生かしてくれると助かるわ」
「そりゃもちろん。最も、本で読む馬術知識も良いですけど、刑部さんみたいな第一人者の話を聞ける機会があるというのも私にとっては凄く有難いです。調教師、有難うございます」
そう言って毛受も二階に着替えに上がって行った。
久須見は二人が戻って来たので、一旦出て来ると言って車で府中のスーパーに向かった。
阿栗に渡す土産を物色した後、缶ビールと牛肉、そして焼き肉のタレを買い込む。
焼き肉のタレは、府中市に本拠地のある、今年のダービー馬の馬主が営む企業のものであった。
これは毛受と川洲の差し入れのためだったが、焼き肉のタレだけは笠松に残っている厩舎スタッフのためにもと思い多めに買い込む。
みんな、ホンマに良くやってくれとる。
ええスタッフを集めたつもりやったが、ワシが思った以上に馬を愛して情熱を傾けてくれとる。
有難いことや。
久須美は心の中で毛受と川洲に代表される厩舎スタッフに感謝しながら、買い物カゴに焼き肉のタレを詰め込んだ。
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