第46話 府中の2400m
11月16日(火)、午前9時30分に久須美征勇調教師は東京競馬場の角馬場にいた。
昨日の昼に馬主の佐梁功と佐梁所有馬のトレードの話をした後、昼過ぎに車で笠松を出発し、夕方4時には府中の東京競馬場に着いた。
ジャパンカップの鞍上を依頼した刑部行雄とは直後に挨拶をし、しばし角馬場で引き運動をしてもらった後、乗ってもらった。その時の打ち合わせで今日の調教に跨ってもらうことになっている。
刑部は朝、美浦トレセンで他の馬の調教にも乗っているため、ここ府中の東京競馬場にはそれが終わってからやってくる。
刑部が来るまでの間アグリキャップは東京競馬場内の角馬場で、調教助手の
久須美も調教スタンドではなく、角馬場にいる。
刑部からそう頼まれていた。
ダートコースはジャパンカップに出走を予定している外国馬や、栗東からの遠征馬が各々調教を行っている。
久須美は調教を終えて引き上げていく、水色のメンコを着けた、だいぶ白みがかった小柄な葦毛の馬に目を奪われていた。
あれが現在の中央競馬の最強馬、タマナクロスか。
前走の天皇賞秋では2着のレジェンドキングに4馬身差の圧勝。
現在8連勝中で、重賞は6連勝、GⅠは3連勝。
昨年秋に400万下の条件戦を走っていたのに怒涛の連勝を続け、1年で日本最強と呼ばれるまでに駆け上がった。
凄い上がり馬や。
そんな馬を手がける気持ち、どんな感じなんやろ。
今日のタマナクロスの調教は、馬なり単走後15-15で流し軽めに終わっていた。
天皇賞秋の反動が出ていて、無理はさせないようにしているのだろうか。
無理をさせないと言えば……ジャパンカップに参戦している凱旋門賞馬。
今年10月2日にフランスのロンシャン競馬場で行われた凱旋門賞を優勝したトミービンは、既に千葉県白井市の馬事公苑白井分苑での検疫期間を終えて東京競馬場の国際厩舎に入っているはずだったが、久須美はまだその鹿毛の馬体を目にしていない。
噂では凱旋門賞後の10月16日に母国イタリアのサンシーロ競馬場で開催されたジョッキークラブ大賞に出走し2着した後での長時間に及ぶ日本への海外輸送で体調を崩しているのでは、と言われており、体調を戻すため厩舎周辺での曳き運動程度に留めているらしい。
凱旋門賞か……世界で一番権威があるて言われとるレースらしいが、そんなレース勝つ馬て、どんな馬なんやろ。
そんな馬預かったら、ワシャ毎日頭の中にネオンが見えるんちゃうか。
ほんで、ワシの管理しとる馬が、日本最強馬やら凱旋門賞馬やら、そんなどえらい馬たちと同じレースで走るなんて、ホンマのことなんやろか。
いや、ホンマのことなんやけど、何かなあ、実感が湧かん。
そんなことをつらつらと考えていた久須美の視界の隅に、ブルゾンを着てジーンズを履きヘルメットを被った刑部行雄がこちらに小走りで駆け寄ってくる姿が映る。
「お待たせしました、おはようございます」
刑部の方から先に声を掛けられる。
「刑部さん、今日はよろしくお願いしますわ」
久須美もそう挨拶を返す。
アグリキャップに乗って角馬場を
アグリキャップは程良く動き、馬体からうっすらと湯気が立ち昇っている。
「刑部さん、美浦からはどれくらい掛かりました?」
「2時間かからないくらいですよ、常磐道と首都高で。東京外環自動車道が工事中の三郷から和光までだけじゃなくてそれ以南も開通して中央道にアクセスできるようになってくれたら、もう少し渋滞に巻き込まれずに早く来れそうなんですけどね」
東京の道路事情に疎い久須美はピンと来なかったが、それでも2時間弱もかけてアグリキャップの調教のために来てくれた刑部には、少し申し訳ない気持ちになる。
「えらく手間かけさせてもうて……申し訳ないです、中央の第一人者に」
久須見がそう刑部に伝えると、刑部は饒舌に応える。
「いや、そんな気にしないで下さい。フリー騎手と聞くとレースの時だけパッと来てパッと乗ってパッと勝たせて去っていく、みたいなイメージをよく知らない方などは持たれるようですが、私はそんな器用でカッコいい真似が出来る男ではありません。
なるべく調教段階からレースで騎乗する予定の馬に乗って、その馬のことをきちんと理解しないとレースでも上手く導いてやれない不器用な男なんです。
それに馬に乗ることが私は好きでたまらないんですよ。
フリー騎手になったのも、厩舎所属だとどうしても馬に乗る以外の雑務もこなさないといけません。私は馬に乗って馬のことにだけ集中したいと思ったからフリーの道を選んだんです。
ここに来るまでの道中の2時間弱も、朝食を食べながらアグリキャップに乗るのが楽しみでワクワクしながらだったんで、あっと言う間でしたよ」
「いや、なら申し訳ないっちゅうのは刑部さんに対して失礼でしたな。しかし朝食食べながら運転するのは危なくないんですか」
「ははは、運転は松ちゃん――エージェントの松林がしてくれましたよ」
「はあ、そうでしたか。松林さんも、電話ではお話させていただきましたが、まだお会いしとらんのですが、どちらにおられるんですか」
「松ちゃんは、
まあ出走馬の調子とか、そういったデリケートな話はしないと思いますが世間話です。営業、顔つなぎってところですか。
顔つなぎしておけば将来外国の陣営からの騎乗依頼も無くはないと思いますし、タマナクロスの大原さんやマシロデュレンの池辺さんも、関東で出すときによろしくって言って回っておくだけでも次はちょっと考えてくれるかも知れませんからね、フリーの騎手のエージェントってのも意外に大変ですよ」
「いや、刑部さん程の騎手ともなれば依頼が殺到して捌き切れんくらいに思っとりましたわ。そんな地道に営業されとるとは夢にも思わなんだ」
「そうですね、確かに騎乗依頼自体は有難いことに結構いただいています。ただ、どうしても合う、合わないはありますからね。
馬にとって競馬は嫌なことと思わせるような当たり方をする陣営の騎乗依頼はお断りすることもありますし、つい馬が自分から走りたいと思うようにするにはこうした方がいいのでは、と意見してしまうこともあるんですが、それを敬遠される陣営もありますからね。
おっと、少しお喋りしすぎましたね。久須美
刑部はそう言うと、置いてあった曳き手綱を拾いアグリキャップの
「お、刑部さん、そんなの私がやりますんで!」
「いいからいいから毛受さん」
そう言うと刑部はヒュッヒュヒュヒュッヒュ~♪ と口笛で「おうまはみんな」のメロディーをゆっくりと吹きながら、アグリキャップに曳き手綱を付ける。
「刑部さん、今日は乗ってもらうんじゃないんですか」
久須見は刑部の行動に困惑する。
「久須見
競馬場の許可は取ってあります。
久須美
いかがですか」
久須美は刑部の周到さに舌を巻く思いだった。
アグリキャップはこの東京競馬場を走るのは初めてになる。
知らないコースをいきなり走るよりは、どこからどこまで走るのかを一度確認しておいた方がいいに決まっている。
歩いてゆっくり確認しながら回れば、コースの感覚を陣営で共有することもできる。
最も芝コースの内側は現在仮柵が外に広げられていて入れないが、それでもある程度の芝の状態は近くで見ることができるので把握しやすい。
わざわざ東京競馬場の許可まで取っているとは、刑部がこのレースに力を入れていることの表れのように思われた。
「天下の東京競馬場の芝コースをワシなんかが歩いて回れる機会は、そうそう無いですわ。
願っても無い話です」
久須美がそう答えると、刑部はにこりと笑った。
3人とアグリキャップは、東京競馬場ホームストレッチ、スタンド前の坂の頂上まで移動した。
「ここが東京芝2400mのスタート地点です。ここからスタンド前の直線を350m走り、ゴール板の前を通って1コーナーに入って行きます」
アグリキャップの曳き手綱を取りながら刑部がそう説明し、スタンドに近い大外をスタンドに沿って歩き始める。
大外は芝の状態はまだいいが、今年最後の開催期間中の東京競馬場の芝は、内に行けば行く程枯れており、土が見えている。
久須美は歩きながら、スタンド前を走る訳やから観客の大歓声を受けながら走るんやろうな、と想像を膨らます。
久須美の横を歩く毛受も、スタンドを見上げて驚いている。
刑部は口笛を吹きながら曳き手綱をとってアグリキャップに体を寄せつつ人の速足の速度で歩いている。
最近、調教で自ら馬に乗る機会が少なくなりつつあった久須美は、付いて行くのに必死だ。
蹄鉄型に「TOKYO RACE COURSE」と書かれた飾りを付けられたゴール板の付近に差し掛かった時、内側の芝コースを全力に近い走りをしていく馬が通り過ぎた。
「イギリスのジュディズハイツですね。乗ってるのは柴端だな。こっちに来てから強い調教を続けてるみたいですね」
刑部がアグリキャップを曳きながらそう教えてくれる。
「柴端いうたら、刑部さんと同期でライバルの」
息切れを押し殺しながら久須美がそう訊ねる。
「ん~、同期ではありますが、ライバルではないですね、柴端は。僕と彼は騎乗スタイルも違いますし、僕は僕、彼は彼ですよ」
刑部はアグリキャップを曳きながらそう返答する。
前を行く刑部の顔は見えないが、声がやや硬くなったように久須美は感じる。
なんだかんだ言って、比べられるライバル関係なんやろうな。
ただ、あんまりよそからは言われたないっちゅうとこなんやろ。
言うてみれば、克己と章一みたいなもんか。
第一コーナーを回りながら、久須美はそんなことを考えた。
東京競馬場の第一、第二コーナーは笠松や名古屋と比べたら、ものすごくRが緩く感じられる。
ほんの僅かに下っているが、久須美は歩いても歩いてもコーナーの出口に辿りつかない感覚に陥る。
隣を歩いていたはずの毛受は久須美よりも数歩前を歩いている。
毛受や他の調教助手にこのところ乗るの任せすぎたか。
ちっとは乗っとかんと、体が鈍っとるな。
久須美は少し間が開いた毛受を必死に追いかける。
バックストレッチも緩く下っているので、少しでも追いつこうと小走りにして、久須美はどうにか毛受の背中に手が届く距離まで追いつく。
ついつい足元を見がちになっていた久須美が目線を上げると、バックストレッチの途中からだらだらとした上り勾配になっている。
「ふうっ、刑部さん、ここの、はあっ、坂の高低差って、ふう、どれくらいかわかりますか」
もはや息切れを隠すことができない久須美が刑部にそう尋ねると「だいたい2mくらいですね」と刑部が涼しい声で返答する。
なんや、中京の高低差2mで緩い緩い言われとったが、実際歩くときついわい。
坂、つらいな。
久須美は必死で着いて行こうとするが、上り坂に掛かりまた少しづつ遅れ始める。
バックストレッチの三分の二を過ぎた辺りで坂は頂点に達し、第三コーナーに向かって緩く下りになっていく。
緩い下りは第三コーナーに入っても傾斜角が僅かになりつつも続く。
「あれが府中名物の大ケヤキです。あの下にはこの周辺の領主だった武家の墓所があるんですよ」
第三コーナーから第四コーナーへと移るカーブの頂点の馬場の内側に、大きな樹が何本か立って、茶色い葉を付けている。
TVの東京競馬場の中継では勝負所で必ず映り込んでいるので久須美も知っている。
久須美は刑部の声に、大ケヤキにちらっと眼をやったが、もう疲れてじっくり見ようという気にはならず、自分の歩く先のコースに視線を戻した。
気が付けば下っていたと思っていた第三コーナーは、いつの間にか緩く上りになっている。
緩く上っている第四コーナーを抜けて直線に向くと、僅かだが明らかに傾斜角がきつくなる。
「ここからさっきのスタート地点まで、高低差2.7mの上り坂です。200mで2.7mですから、中山の急坂に比べたら大したことはないですが、それでも力がないとここから伸びるのはきついですよ」
ああ、ホンマにそうや。
歩いてみて、よーっくわかった。
見とるだけじゃわからんもんや、どんだけ疲れるか。
久須見は必死に坂を上る。
毛受との差は、もう5mは開いた。
差を縮めよう、とは思わない。
ただただ一歩一歩足を前に、上に出していく。
久須美が坂を上り切ると、アグリキャップと刑部、それに続く毛受はもう10m近く先に行っている。
久須美は追いつこうとは思わず、ただ350m先のゴール板を目指す。
大外の、ゴール板の延長線上辺りで待っていたアグリキャップと刑部、毛受のところまでようやく辿り着くと、久須美は芝の上にへたり込んだ。
「久須美調教師、お疲れ様でした。どうでした、2400mを歩いてみて」
はあはあと乱れた息をゆっくりと整えてから久須美はようやく返答する。
「はあ……東京の2400は実力がないと上には来れんコースやってことが、よーく分かりましたわ。こりゃきつい。スピード、スタミナ、パワー、全部が必要ですわ」
「まあ大外に沿って歩きましたから、実際は2400mよりももっと長い距離でしたけどね。久須美調教師、この後のアグリキャップの調教、どうしますか」
「刑部さん、ダートコースで15-15で終いだけ軽く追ってください」
「わかりました。じゃあ毛受さん、ダートコースまで行ったら一応タイム見といて下さい」
刑部と毛受がダートコースにアグリキャップを曳いて向かった後、久須美は立ち上がり、自分も調教スタンドへ向かう。
いやー、ワシもちょっとは調教で乗るようにせんと、鈍った体ではイカンな。
久須美調教師は重い足を動かしながらそう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます