第45話 懺悔
「あなた!」
阿栗の妻が叫ぶと同時に阿栗の投げた盃は、佐梁の俯いた額に当たり粉々に砕ける。
佐梁は一瞬反射で額を手で押さえたものの、阿栗の怒りは最もでそれを受け止めなければならないとでも思ったのか、すぐに手を離し、割れて飛び散った盃の欠片を片付けようと集め出す。
阿栗の妻が佐梁に素早くにじり寄り額の傷を確認する。
盃がぶつかった部分は切れて血がじわりと滲み出している。
「申し訳ありません、佐梁さん、すぐに救急箱を取って参ります」
阿栗の妻がそう言って立ち上がると、佐梁は「いえ、こうされて当然なんです、おかまいなく……」と言って阿栗の妻を留めようとする。
阿栗の妻は阿栗を睨みつけると、阿栗の頬をパシッと平手打ちした。
「あなた、ご自分の舌の根も乾かぬうちに約束を反故にして、恥ずかしくないんですか! 佐梁さんに謝って、ご自分で割った盃の破片くらい拾ってくださいな! 傷つけたお客さんにやらせるなんて、恥の上塗りじゃありませんか!」
そう言うと阿栗の妻は居間に救急箱を急いで取りに行く。
妻が自分に平手打ちをするのは初めてのことだった。
残された阿栗は叩かれた頬を押さえ、呆然と妻の後ろ姿を見送る。
怒りは霧消していた。
妻の平手打ちで怒りが失せた阿栗の目の前では、額から血を流した佐梁が黙って盃の欠片を拾い集めている。
阿栗は近くに置いてあった空の籐の屑籠を取り、佐梁の集めた盃の欠片を入れる。
「すまん、佐梁さん、カッとなった……」
阿栗が小声でそう謝ると同時に、妻が救急箱を持って応接間に入ってきて、てきぱきと救急箱からガーゼを取り出し、マキロンを付けて佐梁の傷の手当を始めた。
傷口自体はさほど大きくはなく、阿栗の妻が貼り付けた絆創膏で隠れた。
「ありがとうございます、奥さん」
手当が終わると、佐梁は阿栗の妻に礼を言った。
「あなた、佐梁さんに謝ったんですか!」
阿栗の妻は、阿栗に向けて厳しい声で尋ねる。
「一応、謝ったんやけど……」
「一応って何ですか! きちんとお詫びの気持ちを込めて、もう一度謝って下さい」
妻に促され、阿栗はもう一度佐梁に謝る。
「舌の根も乾かんうちに、怒らんて約束を反故にしてまって申し訳なかった、佐梁さん。あんたはワシの怒りに触れようと話さなならん、って固い決意しとったのがようわかった。
何かワシに頼みたいことがあるんやったら遠慮なく言うてくれ。最も法に触れるようなことは出来んし、キャップを譲ることも出来んが」
阿栗の謝罪を聞いた佐梁は、ほんの少しだけだが元気が出たようだった。
微かだが表情が笑みを作る。それも邪気のない笑みだ。
「いえ、こうされても当然のことを私はしたんですから、阿栗さんに対して許すも許さないもありません」
そして話を続ける。
「阿栗さんにお願いしたい事……三つあるんです。
一つは、私が久須美厩舎にお願いしている馬を、阿栗さんに引き受けてもらえないか、ということです。
控訴を取り下げることで、私の罪は確定します。そうなると馬主資格を失い、私の所有している馬は宙に浮くことになりかねません。そうならないように方々手を尽くして引き受けてくれる方を探してきました。中央や南関東、笠松でも他の厩舎に預けている馬はどうにか次の馬主が見つかりました。
久須美厩舎の馬だけは、久須美
「……何ちゅう馬やっけ」
「トーヤオーという馬です。浦和で走っていたのを買い取って中央で走らせたんですが力及ばずで笠松の久須美厩舎に入れました。重賞は少し荷が重いかも知れませんが、一般競争ならまだ勝てる力はあると思うんです」
「……わかった、それは引き受けるわ。久須美さんには佐梁さん、あんたからまず話入れてくれ。それが筋やろうな」
「はい。阿栗さんに引き受けてもらえても引き受けてもらえなくても、久須美調教師には明日話そうと思っていました」
「ほうか。ちなみにこないだ東海菊花賞に出しとった馬は?」
「そちらは中央の馬主が買い取ってくれることになりました」
「なら良かったわ。ほんで、他の二つの頼みっちゅうのは?」
阿栗が訊ねると、佐梁はまた少し押し黙る。が、これまでのように長時間ではなく十秒も掛からずにまた口を開く。
「二つめは、虫のいい頼みです。阿栗さんが受けて下さらなくても仕方ないとは思っています。
阿栗さんが中央競馬の馬主資格を取得した時、自分の陣営の勝負服を決めることになるんですが……
私が中央で使っていた、青,黄菱山形,赤袖を引き継いでもらえないか、というお願いです」
阿栗は虚を突かれた。
東海公営で勝負服は騎手が枠色のものを用意して着用している。
JRAの交流重賞に出走する時は、地方馬の騎手のためにJRAが貸与する貸勝負服を着てもらっている。ジャパンカップも貸服を頼む予定だった。
それが当然の感覚だったため中央の、JRAの馬主に自分がなったら、自身の陣営勝負服を決める必要があるというところには頭が回っていなかったのだ。
「阿栗さんに何か勝負服の腹案があるようなら、無理にとは言えませんが……」
「いや、まだ何も考えとらんかった。……そうやな、アイデアの一つとして前向きに検討させてもらうわ」
「正直に言うと、私の評判が競馬サークル内で芳しくないことは知っています。ですから私の勝負服のデザインを使うことで、阿栗さんにに対して私に反感を持つ者の悪感情が向いてしまう可能性もあると思います」
何故佐梁がそんなことを言い出したのか、阿栗には疑問であった。
わざわざ佐梁自身の悪評についても教えた上で、佐梁の勝負服デザインを継承して欲しい、というのはどんな意味なのか。
単に自分の勝負服を着た騎手を乗せてアグリキャップが走るのを見たいというような単純な承認欲求のようなものなのか。
阿栗が佐梁の申し出の真意について考えていると、佐梁は阿栗の疑問に答えるかのように、また言葉を紡ぐ。
「なぜ私が勝負服を使って欲しいと言い出したのか……私もアグリキャップに関わったんだ、という証が欲しいというのも正直に言うと無いとは言えません。
ただ、私がそうした心境に至った理由……企みを阻止されたことによってそうした心境に至ったのですが……その話を聞いていただかないと、おそらく解っては頂けないでしょう。いや……聞いて頂いても解かってもらえるかどうか……
少しお伝えしたように、私自身も正確には何をされたのか理解できていません。ただ、その出来事を話すことによって、今の私の心境が変化した理由を感じていただきたい、ただそれだけです。
それを聞いてから、三つ目のお願いをお伝えした方が、おそらく阿栗さんも決めやすいだろう、そのように思うのです」
佐梁が一旦一息入れると、いつの間にか阿栗の妻がポットと急須、湯呑を用意しており、佐梁にお茶を差し出す。
佐梁は湯呑を手に取ると、熱いお茶をちびちびと飲む。
妻は阿栗にもお茶を差し出す。
湯呑を取り茶を口に含むと熱い。
日本酒の酔いが、茶の熱さでスーッと抜けて行くのを阿栗は感じた。
「今日、やっとの思いで口を動かしたので、口の中がカラカラでした。美味しいお茶をありがとうございます、奥さん」
佐梁が置いた湯呑に茶を注ぐと、阿栗の妻はポットと急須を残しテーブルの上に残っていた銚子と盃、食べかけの肴をお盆に載せて、奥に下がっていく。
「おまえも一緒に聴かんでええんか」
阿栗が妻の後ろ姿にそう声を掛けると、妻は応接間を出る時にきちんと正座して
「もうあなたも酔いが醒めて、冷静に佐梁さんのお話、聞けるでしょう。私、簡単なお夕食作って参りますので、ゆっくりお話しなさって下さい」
そう言って頭を下げ、応接間の襖を閉めて出ていく。
「いい奥さんですね」
佐梁がそう言葉にする。
「ああ、ワシにはもったいない、出来た妻や」
阿栗もしみじみとそう返す。
本当に出来た妻や。この件では特に、あいつの言葉がなけりゃ今日、こうしてはいない。
「では、私に何が起こったのかをお話します。言わばこれは、私の阿栗さんへの懺悔と言うべき内容です」
佐梁はそう前置きして、また話し始める。
どうにかしてアグリキャップを手に入れたい。
私のその思いは、オールカマー後、日に日に焦燥とともに強くなっていきました。
どんな手を使ってでも。
そして思い付いたのが、スペードダガーの時のこと。
ここまではお話しました。
具体的に私が何をしたのか、というとスペードダガーの時と殆ど一緒です。
実は私、副業でノミ屋をやっている名古屋の金融屋と、懇意ではありませんが顔見知り程度の関係だったんです。
もちろんノミ屋を利用したり、弱みを握られるようなことはしていません。
たまたま私の行きつけの会員制のクラブにその男もよく出入りしていて、たまに顔を合わせれば挨拶を交わし、多少の世間話もする、その程度の関係です。
それでそのクラブのホステスの一人が、その金融屋の
私のお気に入りのホステスが休みの時に、その情婦を指名して、ちょっと世間話ついでに圧倒的一番人気の馬が飛んだら儲かるだろうな、って話をしたんです。
それが9月の半ば過ぎ、オールカマーの直前くらいでした。
その時点では阿栗さんたちがどういうローテーションにするか知りませんでしたからね。ゴールド走覇と東海クラウンと、どちらにも登録ありましたから。
それで9月の最終週ですか、アグリキャップがゴールド走覇の出走を取り消したのを知ったんです。
次戦は東海クラウン。
状況的に、アグリキャップが一般戦を走るなんて、人気が集中するのは目に見えてます。
それで、そのクラブで金融屋の情婦をまた指名して、オールカマー勝った馬が5日の笠松一般戦に出るみたいだが、TVや新聞で初めて知ったっていう一見さんも多く集まって盛況になるだろうな、以前私の知り合いの馬主で、一番人気だった馬がレース後の薬物検査で陽性反応が出て失格になり、馬券の払い戻しも相当出て混乱した、って話をしたんです。
その金融屋が、借金した厩舎関係者や騎手に
そして10月5日にレースが行われ、アグリキャップは見事に一着でした。
私も笠松まで見に行ってましたよ。一般スタンドでしたが。阿栗さん達とは顔を合わせるのは気まずかったものでして。
アグリキャップは一頭だけ飛び抜けた斤量背負って、それでも古馬を歯牙にもかけず7馬身差の楽勝でしたからね、痺れました。
嬉しくなりました。
もうすぐ、この馬が私の手に入るんだ、って。
いくら阿栗さんがアグリキャップを売らないと思っていても、流石に薬物疑惑がかかれば手放すことも選択肢に入れるだろう、そう思っていたんです。
ですが、私の目論見は外れました。
あれは10月6日の夜でした。
私は例の行きつけのクラブに行ったんです、前祝いみたいなつもりで。
おそらく次の日あたりに薬物検査の結果が出て、アグリキャップは失格になるだろう、そう思っていましたから。
時間は22時前くらいでしょうか、クラブに行ってお気に入りのホステスを指名して席に座ると、あの金融屋も来ているのが見えました。
情婦を
ところが突然、店内の明かりが全て消えて真っ暗になりましてね。
私は何故か咄嗟に席から滑り降りてテーブルの下に隠れたんです。
そしたら音はしませんでしたが、店の端から端までテーブルくらいの高さで一瞬閃光が横にスパッと走った気がしたんです。
それと同時に暗くなりざわめいていた店内が一瞬で静かになり、立っていた人間が何人か倒れたような音がしました。
私がテーブルの下で息を潜めていると、店の入口の方からスニーカーを履いた多分男の足音が店内に入って来たのがわかりました。
リノリウムの床の上を歩くパタッパタッという足音が、フロアに入ると足音はフカフカの絨毯でワサッ、ワサッという音に変わります。
その足音は、金融屋と情婦のいたボックス席の辺りで立ち止まったと思うと、また閃光が、直接見ていた訳ではないですからはっきりとは言えませんが、金融屋のボックス席の辺りで一瞬光りました。
その後ワサッ、ワサッという足音は私のボックス席の方に近づいてきます。
私は息を殺して、その何者かに気づかれないようにしようと必死でした。
店内の照明は完全に消えていましたが、火災報知器と非常口誘導灯だけは点いていたので、暗闇に目が慣れてきた私は、私のボックス席の前で立ち止まった何者かがジーンズとコンバースのスニーカーを履いているのが見えました。
「佐梁功さん、あなたがこんなにアグリキャップに執着するというのは予想外だったよ。薬物疑惑を画策してまで手に入れようとするなんてね」
若い男の声でした。
「元の世界線の記憶というのは、平行世界でも潜在的に共有しているものなのかな。あるいは変えようとする事象に近しい者はより強く元の世界線どおりに動こうとするんだろうか」
男は独り言のように言います。
「まあいいや。佐梁功さん、あなたは確かに元の世界線でアグリキャップが多くの人々に愛される存在になる上で、大きな役割を果たした。それは何でなのか? 欲だけのためだけだったのか?
これからあなたの邪心、邪な欲の心だけを『切断』する。そうすれば、あなたはアグリキャップに何を期待したのか、純粋な心でもう一度考えられるだろう」
男がそう言った時、私は斬られる! そう感じ、咄嗟に逃げようと男の立っている脇をすり抜けて逃げようとしました。
テーブルから這い出て立ち上がろうとして男を見上げると、男は手刀の形にした右手を振り上げているところでした。
男の表情は暗くて見えませんが、キャップのつばを逆さにして被り、最近流行っているSA-1のジャンパーを着ていたように思います。
男が右手の手刀を振り下ろすと右手から閃光が走り、直接触れられていないのに私の体を真っ二つに切断しました。
そして私は意識を失ったのです――
佐梁はそこまで話すと、すっかり冷めたお茶で口を湿らせた。
気が付くと私は、クラブの元居た席で、お気に入りのホステスに介抱されていました。切断されたはずの体は、何ともなっていませんでした。
目を覚ましたのは私が一番最後だったようで、他の客は皆姿がありませんでした、金融屋以外は。
金融屋は、大声で子供のように泣きじゃくっていて、それを情婦に慰められていましたが情婦も泣いているようでした。
そして私も、自分自身の心が、心境が変化したことに気づきました。
正確には、私の中の私を突き動かす欲、それが私自身から離れて……いや、確かに私の中にあるのですが、何と言うか……私と私の欲、衝動がガラスで隔たれた状態、そういった確かに在って見えるけれど影響は受けない、そういった感覚になっていたんです。
私は何であんなにアグリキャップに執着していたのか……アグリキャップを所有し走らせることでアグリキャップがお金を私にもたらしてくれるから……確かにそれは理由として存在していました。
最初に私に侮蔑の目を向けた、テキサスの厩舎関係者を見返すために手に入れようとしていた、それもあるかも知れません。アグリキャップを初めて見た時、この馬は必ず賞金額で世界一になる素材だ、とも思いました。
ですが、私は……以前の私なら、恥ずかしくて絶対に口にはしなかったでしょうが……アグリキャップの走る姿そのものに魅せられたんです。
ひとつの命が、命の炎を燃やして走っている……それを否応なしに私に感じさせる存在として、アグリキャップが好きだったんです、そして私が一番近くでアグリキャップの可能性を引き出してやりたいと、強くそう感じたんです!
ですが、私は……阿栗さんからアグリキャップを卑劣な手段で奪おうとしました……私のアグリキャップに対する思いが強いからと言って許される訳がありません。
ですからせめてもの贖罪と言いますか、私が脱税の罪を受け入れ私の会社に課された重加算税を支払い、ある程度落ち着いた状態になったなら……私の会社でアグリキャップのファンシーグッズを作って販売することを許可して下さい。
当然、アグリキャップの所有者である阿栗さんには、アグリキャップの肖像権使用料として他の契約のロイヤリティよりも多くの使用料を支払うように致します。
契約を交わして頂けるときには、阿栗さんの会社の顧問弁護士も交えて、法的に瑕疵の無い契約を交わすことをお約束いたします。
そのお金を使って、アグリキャップの可能性を、広げてやって欲しいんです。
これが三つ目のお願いです。
そして勝負服の件も、何故かわからないのですが、その方が競馬サークル以外の多くの人々に認知されやすい、そんな気がするんです。
私はアグリキャップが、あの人を魅了する走りが、どこまで行くのかを見届けたい。それが私の純粋な願いなんだ、と気づきました。
ですから阿栗さん、阿栗さん所有のままでアグリキャップがどこまで行けるのか、金銭面で支えることができるのなら、私は嬉しいんです。
どうか、私の願いを検討して下さい、阿栗さん。
お願いします。
阿栗は佐梁の話を聞き、半信半疑ではあった。
どう考えても漫画やアニメの話やないか、佐梁が夢でも見たんやないか、と。
ただ、佐梁功のこの急激な変貌も、それだけ突飛なことが起こらない限り説明がつかん、とも思った。
そして、佐梁が話した謎の男。
容貌からすると、もしかして布津野くん、なんやないか?
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