第43話 佐梁功①




 11月13日日曜日。


 阿栗孝市は、困惑していた。


 自宅の応接間。

 もちろん一人ではない。

 阿栗と対面する位置の客用のソファーに座っているのは、ソウルミュージシャンを意識した髪型と髭の男、佐梁さはりいさおである。

 

 佐梁とは、今日の15時に自宅で会う約束をしていた。

 14時55分にきっちり阿栗宅を訪れた佐梁に対して阿栗は、おや、こいつ妻が言った通り以前とは少し変わったか? という感想を抱いた。

 昨年、アグリキャップの売却交渉をしていた時の佐梁は、自身の忙しさや有能さをアピールするかのように、時間ギリギリか、僅かに遅れて会談に現れるのが常だった。

 だから約束の5分前に阿栗宅を訪れただけでも軽い驚きがある。


 だが、阿栗が困惑しているのは、応接間に通した後の佐梁が全く用件を切り出さないことに対してだった。


 阿栗に促されソファーに座った佐梁だったが、そこから頭を抱えて考え込んだり、もじもじと落ち着きなく応接間から見える阿栗宅の庭を覗き込んだりで、一向に用件を切り出さない。

 阿栗が水を向けても「はあ」とか「うーん」とか、言語では無く唸り声といった声を漏らし、その後また考え込んだりしているのだ。

 押しが強く、自身の情熱を精力的に語るかつての佐梁の姿は、そこにはない。


 阿栗の妻が何度目かに温くなったお茶を入れ替えに来た後、阿栗は痺れを切らし「佐梁さん、あんた一体今日何しにここに来てるんや、あんたらしくもない」とやや強めの語気で言ったが、佐梁はやはり下を向いて何か考え込んでいた。


 阿栗は呆れてしまい、まあ佐梁が何か言うまで待つしかないか、と達観し、手持無沙汰だったため応接間のTVを点けた。


 TVはチャンネルが東海TVに合っていたようで、ちょうど中央競馬の中継を映し出していた。

 その日のメインレースはエリザベス女王杯で、すでに全馬ゲート入りし、まさに出走直前であった。


 ゲートが開き全馬スタートを切る。

 揃ったとは言い難いパラパラとしたスタート。

 阿栗はたまたまTVを点けたらやっていたこのレースを何気なく見ていたが、先頭から順に出走馬の名前を呼んでいくアナウンサーが「フミノノーザン」に触れた時、そういえば鷹端たかはしさんがGⅠ出せるだけでも羨ましい言うとったな、と思い出した。

 2番の白い帽子のフミノノーザンは桜花賞馬パラホウトクと同じような位置にいたのが確認できたが、画面はフミノノーザンの位置から流れて最後方まで映した後、先頭の様子に戻っていく。

 何度かアナウンサーが触れたたき夕貴ゆうき騎乗の1番ショウノマロンが注目馬のようだ。

 阿栗がボーっと見ているうちに最後の直線に移る。

 先頭を走っていた馬をショウノマロンが捉え、そのまま脚を伸ばしていくが、1頭水色のメンコを着けた馬が馬場の真ん中を割って猛然と追い込んでくる。

 そのまま2頭が並んでゴール板を駆け抜ける。

 阿栗はその2頭よりもフミノノーザンの方が気になっていたが、フミノノーザンの白の帽子は、一団となってゴールに雪崩れこんでくる馬たちに紛れて順位はわからなかった。


――勝ったのはミヤオポピー、ミヤオポピーですっ!


 アナウンサーが勝利した馬の名前を連呼している。


「……流石は現在の日本最強馬の妹ですね」


 ずっと言葉らしい言葉を発しなかった佐梁がポツリと言った。


 阿栗は意表を突かれ、佐梁の言葉の意味がわからない。


「何て? 佐梁さん」


 阿栗が聞き返す。


「ミヤオポピーですよ、現在日本最強馬、ジャパンカップにも出走するタマナクロスと同じ母馬から生まれた妹なんですよ、阿栗さん」


 そう淡々と答える佐梁。


 阿栗は内心腹が立った。


 おまえ、何しにここ来てるんや! ワシと一緒にエリザベス女王杯見たかっただけなんか、意味わからん! そんなやったら自分ちで見とけや!


 思わず口から罵声が出そうになるのをこらえる。


「なあ、あんた、ずーっと何も言わんとここでただ座っとって、ようやっと何か言うたと思ったら、たまたま点けたTVのGⅠ勝った馬の話って……一体何しにここへ来たのか疑いたくもなるし、家主を怒らせるのは当然やと思わんか? もうこれ以上本題言わんつもりなんやったら悪いけど帰ってくれんか」


 努めて冷静に声を出したつもりだった阿栗だが、やはり怒気が声に滲んだ。


 佐梁は阿栗の声に怯んだ様子は見せなかった。

 だが、ふらふらとソファから立ち上がると、ソファの横の絨毯の上に直に正座し、そのまま深々と土下座をした。

 

 そのまま無言でずっと土下座をする佐梁。


 阿栗は、佐梁の行動の意味がまったく分からない。

 だが、少し冷静になって、土下座を続ける佐梁に声をかける。


「なあ、佐梁さん、あんた一体どうしたんや? 今のあんたの行動は全くワシには意味がわからん。

 去年までのあんたは、ギラギラした欲の塊みたいな人やった。若くして事業を起こして成功を収め、それだけでは飽き足らず競馬の世界でも活躍した馬買い集めて地方競馬の獲得賞金1位を取って……傍から見たら巨大な欲のエネルギーを持て余しとるくらいの人やった。

 ワシも一時期、あんたのそのエネルギーにてられた。キャップを中央競馬に持って行き大活躍させたいっちゅうあんたの欲に。

 結果自分で中央の馬主資格取って自分で中央に持ってくって考えに至った訳やけど、キャップは中央で活躍させるべき力を持った馬やっちゅうあんたの情熱溢れる口説き文句をずっと聞かされて、影響されたんや。

 その意味では、あんたはワシの背を押してくれた男でもある」


 佐梁はやはり土下座をしたまま、阿栗の言葉を背中で聞いている。


「……今のあんたは、以前のようなギラギラした欲が全く見えん。

 何があんたを変えたのかはわからん。

 けど、何も言わんとただ土下座続けるのは……卑屈や。

 なあ、佐梁さん、卑屈なあんた見たってワシャ嬉しくはないし溜飲下がることも無いで。

 ここ来た理由、話したないんやったら話さんでもええけど、意味わからん土下座も見続けたかない。

 顔上げて話すか、もう帰るか、どっちかにしてくれんか」


 阿栗は佐梁の背に向かって話しているうちに、徐々に落ち着きを取り戻していた。

 土下座をしている佐梁の横に行き、佐梁の上半身を起こそうとする。

 佐梁の体は意外に力は入っておらず、阿栗はさほど腕に抵抗は感じられないままに佐梁の上半身を起こすことができた。

 だが、上半身を阿栗に支えられている佐梁は、首をうなだれたまま、声もなく涙を流し続けていた。

 顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、佐梁が手入れし整えている口髭も、鼻水で光っている。

 

 阿栗はテーブル上からティシュを何枚か取り、佐梁の手に渡す。


「佐梁さん、とりあえず鼻かめや。自慢の髭、台無しやで」


 佐梁は阿栗から手渡されたティッシュで鼻をかんだ。

 最初に渡したティッシュだけでは足らず、阿栗は何度か追加でティッシュを取り佐梁に渡した。


 ようやく落ち着いたのか佐梁は「すみません、阿栗さん」と鼻声で阿栗に礼を言う。


「佐梁さん、落ち着いたんやったら自分でソファに座って、話聞かせてくれや」


 阿栗の言葉に、佐梁はゆっくりと立ち上がってソファに座る。

 阿栗も佐梁の対面のソファに座り直した。


 そして佐梁は、ポツポツと話し出した。


「阿栗さんの言われるように、私は変わりました。……10月の上旬に。

 以前の私は、阿栗さんが指摘されたとおり、とにかく上に上にという欲に突き動かされる人間でした。目的のためなら手段は選ばない、どんな手を使ってでも目的を達成する、一度もそれで間違えたことがない、それが自信にもなっていました」


 佐梁は阿栗の顔を見ずに、阿栗と自分の間にあるテーブルに視線を落しながら、以前からは考えられない元気のない声で話す。

 阿栗は佐梁の言葉に黙って耳を傾ける。

 既に次の番組が始まっていたTVは、音が邪魔になるので消す。


「9月の半ば過ぎに、私はある目的のために知り合いの人間にある方法をそれとなく示唆していました。それは上手く行くはずでした。3年前にも他の人間に同じような方法を示唆したら、私の描いた絵図に上手くはまって事が進んだ成功体験があったからです。今回も上手くいくはずでした。

 ですが、阻止されました」


 阿栗は佐梁の話す内容が、何となく穏やかなものではないことを感じたが、あえて口を挟まずに聞き続ける。


「そして私の示唆した方法を阻止した人物が、私の元にも現れました」


「そんで脅し上げられたりしたんか?」


 佐梁は力なく首を横に振る。


「いえ、脅されたりはしていません……正直に言うと、何をされたのか全くわかりません。

 ただ……それ以来、自分の欲の一部が自分のものでは無くなったような感じと言いますか……目的のために人を陥れる、騙す……そうしたことが出来なくなった自分がいました……おそらく信じてはいただけないでしょうが……」


 そう話す佐梁の様子は、阿栗には以前に比べると本当に小さくしぼんだように見えた。


「信じる、信じないはともかく、確かにあんたは変わった。それだけは言えるわな」


 欲と自信が服を着て歩いているような男だったが、欲と自信が揺らいだらこうなってしまうのだろうか。

 東海菊花賞の時は、ここまでではなかった気がするが、だが妻は確かに佐梁が変わったと言っていた。

 

「……それで、今日阿栗さんにお話ししたかったのは……私の会社のこと、噂でお聞きになっているかと思いますが……」


「詳細については知らんけど、何となくは耳に入っとるよ」


「……今年の6月末に、国税局名古屋支部に脱税で摘発されまして……先日名古屋地裁で判決が出て有罪となりました……ただ、判決に納得いかずに控訴の手続きを取っていましたが……もう、控訴は取り下げようと考えています」


「あんたも大それたこと仕出かしたもんやな」


「はい、今にして思うと、本当に……」


「控訴取り下げて刑罰が確定したら、どうなるん」


「懲役3年ですが、執行猶予も付きますから収監されはしません。会社の方も重加算税を払う必要はありますが、倒産するほど経営が傾くこともないでしょう……ただ、馬主の資格は中央でも地方でも取り消されるでしょう……」


 中央競馬の馬主資格の要件で『禁固以上の刑に処せられた者』は馬主資格を失うことになっている。地方競馬でも同様である。


 佐梁はある意味馬主資格を失わないために控訴していたようなものだった。

 刑が確定しないうちは、資格喪失とはならない。

 控訴を取り下げるということは、地裁の判決に従う、つまり刑が確定するということだ。


「ワシャ、そうするのが正しい思うで。そんな控訴だの上告だのやったところで、逆転無罪とか有り得んやろ? 自分でもやったこと判ってるんやから。ひたすら刑の確定伸ばしたところでどうしようも無いやん」


「ええ、確かに……」


「だいたい刑の確定引き延ばしてまで持ち続けたい未練のある馬、何がおるん」


 阿栗がそう問うと、再び佐梁は口をつぐみ、押し黙る。


 阿栗はもう、佐梁を急かそうとは思わない。

 ただ佐梁が口を開くのを黙って待ち続けた。

 


 阿栗の妻が、何度目かに茶を替えに入って来る。

 と思ったら、その手の上には銚子と盃、それに何品かの肴が載っている。


「何や、酒なんか持って来てどうした」


 阿栗は妻に問いかけると妻はテーブルの上に肴を置き、阿栗と佐梁の前に盃を置きながら答える。


「お話、だいぶ長くかかってますし、もう日暮れですから、あなたの好きな晩酌の時間かと思いまして。

 佐梁さんも、お酒を飲んで多少緊張を緩められてはいかがですか」 


 妻はそう答えて阿栗に盃を渡すと、その盃に燗をつけた日本酒を注ぐ。

 そして俯いている佐梁にも、優しく盃を手渡す。

 佐梁が力なくその盃を手に取ると、阿栗の妻は佐梁の盃にも日本酒を注いだ。


「佐梁さん、わざわざ宅を訪れて話したいことがあるというのは、あなたにとっても余程大事で大切なことなんでしょう? ただ、それを話す前に、主人に謝罪しなければならないことがおありで、それを主人が受け入れるかどうかが不安で話せないのではないですか?」


 日本酒を注ぎながら佐梁にそう語り掛けた阿栗の妻は、一度意味ありげに阿栗の顔を見て、もう一度佐梁に言葉をかける。


「うちの主人もね、馬主をやっていること、なかなか私には話さなかったんですよ。随分経ってからようやく話したんですけど、それも私に馬主会の婦人会に出てもらわないと困るって、切羽詰まってからやっとだったんです。

 否応なしでした。

 それにどんな馬を持っていて、どんなことを馬主はやっているのかとか、月々の費用は幾らかかってるのかとか、そうした大事な事も一切教えてくれなくて。

 先日のアグリキャップちゃんが走るレースに私を誘うのも、随分逡巡してようやく切り出したんですよ。

 ですからね、佐梁さん、宅の主人もあなたと同じ。言わなきゃいけないのに言いたくない事は、本当に言い出せない人なんです。

 そんな主人があなたを責めるのはお門違いなんですから、遠慮なくお話し頂いて良いんですよ」


 そして阿栗に対して「ねえ、あなたもそう思いませんか?」と笑顔を向ける。


 その妻の笑顔に、阿栗は非常に場の座り心地が悪くなる。

「むぬ……」と言った後、肯定も否定もできない。


「……まあ、佐梁さん、ワシも人には言えんようなこと、60年近くも生きていれば2つ3っつあるわ。出来たら墓場にまで持って行きたいってな。

 どうしてもそれを告白せんと次に進めんっちゅう場面が来たら、やっぱり言うの躊躇うし、言わんで済むように逃げるわ。だからあんたが押し黙っててもしゃーないと思う。

 ただ、それを言いに来たっちゅうのは、あんたある意味ワシより勇気あるってことや。

 あんたのその勇気に免じて、何言われても決して怒らんて約束する。

 とりあえず、妻がせっかく注いでくれた酒、冷めんうちに飲もうや」


 阿栗はそう言うと、佐梁の持つ盃に自分の盃をカチッと合わせ、グイッと一息で飲み干した。

 阿栗の飲み干した盃に妻がまた日本酒を注ぐ。


 その様子を上目遣いで見ていた佐梁もおずおずと盃に口を付け、飲み干す。


 そうして互いに無言で阿栗の妻の酌に任せて二人は酒を飲んだ。


 佐梁は3杯ほど盃を干した時に、ようやく決心がついたのか口を開いた。


「阿栗さん、長くなりますが私の話をさせて下さい……」


 そして佐梁は、自分が馬主になった最初からの話を始めた。











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