第42話 刑部行雄




 アグリキャップを乗せた馬運車は、夕方の5時過ぎに府中市にある東京競馬場の出張馬房に到着した。


 調教助手の毛受めんじゅと厩務員の川洲かわすはアグリキャップを馬運車から出すと、割り当てられた出張馬房に連れて行く。

 アグリキャップの馬房は、新しく敷かれた新品の寝藁特有の乾燥した太陽の匂いが立ち込めている。

 

 毛受と川洲が馬房内にアグリキャップを入れると、アグリキャップは新品の寝藁が恋しいかのごとく寝藁の上でゴロンと横になり、4本の足を上に向けて伸ばす。その反動で反対側に転がるとまた立ち上がり、続けて反対側から寝藁の上に転がり同じ動作を2回、3回と繰り返す。


「馬運車ん中ずっと立ちっぱなしやったし、まるで凝った脚を自分でほぐしとるみたいやな」 


 その様子を目にした毛受が言う。


「新潟行った時も、馬房に着いたら全く同じことしてましたよ、キャップは。毛受さん、新潟の時は自分の車で来てたから見れてなかったですもんね」


 前回の新潟競馬場行きの時も馬運車に同乗してきた川洲が言う。


「名古屋(競馬場)や中京(競馬場)の待機馬房に入る時はやらんもんな。やっぱキャップの奴、自分でコンディション整えとるんやないか」


 毛受は感心したように言う。


「もしかしたら、そうなのかも知れませんね。何かもう1年半の付き合いですけど、本当に馬とは思えない頭の良さですからね」


 毛受と川洲がアグリキャップを見ながらそう話していると

「この馬がアグリキャップ?」

 と後ろから声を掛けられた。


 二人は誰かが近づいてきているのがわかっていたのだが、てっきり馬運車の運転手が書類の確認に来たものだと思っていたので、掛けられた意外な言葉に驚き振り向くと、ジャケットにジーンズのラフな格好をした、柔らかそうな表情の男が立っていた。


「この馬がアグリキャップだね?」


 男は表情を変えずにもう一度同じ言葉を繰り返す。


「は……お……」


 毛受は言葉にならない。声を出した後、口をパクパクさせている。


「はい、この馬がアグリキャップです」


 年下の川洲の方が落ち着いて返答する。 


「たった今、到着したばかりなんですけど……わざわざキャップを見に来られたんですか?」


「ん、まあね」


 2人に問いかけた人物、刑部おさべ行雄ゆきおは短く答えると、アグリキャップの様子をじっと眺めている。

 目が細く、垂れ目のためにパッと見は非常に柔和な表情に見える刑部だったが、アグリキャップを見つめる目は鋭く、真剣だ。


 毛受と川洲は、その様子に気圧されてしまい、何と声を掛けて良いかわからない。


 刑部はそんな二人に気づき、「馬運車で着いたばかりだったら、まだ荷物降ろしてないんじゃない? あんまり運転手さん待たせても悪いし、降ろして来たら? 僕はしばらくここで様子見てるから、おかまいなく」と伝える。


「はっ、はい! スミマセン、すぐ済ませて参りますので!」


 毛受は上ずった声でそう言うと、馬運車に向かって駆け出すが、川洲はその場に留まっている。


 川洲が立ち止まっているのに気づいた刑部は「大丈夫だよ、変なことはしないから。それに2週間ここで過ごすための大荷物なんでしょ? あの人一人にやってもらったら大変だよ。安心して行ってきて」と重ねて言った。


 刑部の目も柔和なものに戻っている。


「なら、すみません、ご厚意に甘えさせてもらいます」


 川洲は礼を言って馬運車まで荷物を降ろしに行った。



 15分程度で荷物を出張馬房の入口付近に降ろし、馬運車の運転手と事務手続きを済ませた毛受と川洲は、自分たちの荷物を出張馬房の2階の寝泊まりする部屋に運ぶことはせず、すぐにアグリキャップと刑部の元へ向かう。


 アグリキャップは馬房から顔だけ出し、飼葉桶を鼻づらでコンコンと押して餌を待ちかねている様子だった。

 刑部は顔を出しているアグリキャップの首の辺りを撫でているが、アグリキャップは嫌そうな様子ではない。

 だが、刑部を気にしている訳でもない。

 川洲が戻って来たのを見つけると、川洲を見ながら川洲の方に飼葉桶をコンコンと押して食事を催促する。


 アグリキャップに気にされていない刑部は、苦笑しつつ毛受と川洲に「何か食べるもの欲しがってるね。いつもこうなの?」と問いかける。


「はい、キャップは馬運車で揺られた後でも、すぐに腹を減らしてます。オールカマーで10時間かけて新潟に行った時もそうでした。食欲落ちないんですよ」


 川洲が飼葉桶を外しそう答えると、刑部は「へえ、凄いね。大したもんだ」と感嘆交じりの声で言う。


 川洲は一度飼葉桶に飼葉を満たすためにその場を離れた。


 刑部と二人きりで残された毛受は、緊張のあまり何を話したものか迷い、微妙な間が空く。


 ……


「あ、あのっ、お初にお目にかかります、私、笠松競馬久須美厩舎所属の毛受めんじゅ忠照ただてると申します、調教助手をさせてもらってます。

 お目にかかれて光栄です、刑部行雄ジョッキー」


 毛受が緊張丸出しでそう自己紹介する。


「あ、ゴメンゴメン、こっちも名乗ってなかったね。刑部行雄です。

 調教助手さんってことは、調教師の先生はまだ来てないのかな?」


「あ、はい、久須美調教師せんせいは、馬主さんとの打ち合わせがあるらしくて来週になります」


「そう。地方競馬とは言えども調教師の先生は忙しいね。こっちに着いてからの調教指示はどんな感じ?」


「ダート馬なりで距離をこなしつつ来週辺りから徐々に強度を上げていくようにと指示を貰っていますが」


「なるほど。ならとりあえず来週調教師の先生がこっちに来られたら、挨拶させて貰いがてら跨らせてもらうとしようかな。その時に今後の調教内容は検討したいと刑部が言っていたと、調教師せんせいに伝えてもらってもいいかな」


「わ、わかりましたっ! 伝えておきます!」


「来られる日が決まったら、松ちゃんの事務所に連絡して欲しいというのも一緒に伝えて下さい。

 それで毛受さん、毛受さんが彼に乗った背中の感触は、どうかな」


 刑部にそう訊ねられ、毛受はしゃんとして答えた。


「柔らかいです、私がこれまで乗ったどの馬よりも柔らかいです。ただ、一杯で追うと走りが低いので落馬するんじゃないかって恐怖を感じることもあります」


「そうなんだね、ありがとう」


 刑部と毛受がそうした会話をしていると、川洲が飼葉桶に飼葉を入れて戻って来た。

 戻って来た川洲は飼葉桶をアグリキャップの馬房の前に吊るすと、アグリキャップは待ちかねたように飼葉桶に顔を突っ込み飼葉を食べだす。

 馬房の中に、アグリキャップのパリパリと飼葉を噛む音が響く。


「良く食べるねえ。毎日どれくらい食べてるの」


 刑部が興味を隠さずに聞く。


「だいたい6升」と川洲。


「あれ、思ったよりも食べないね、普通8升くらいでしょう」


 刑部が少し拍子抜けしたように言うと、川洲はぬけぬけと「6升を2回です。12升ですね」と言った。


 刑部はフフッと笑い、そうかそうか、と納得したように呟く。


「さっき、君たちが荷物降ろしに行っている時にアグリキャップボロ馬糞出したんだけど賢いね。馬房の隅っこまで行って出してたよ、自分が過ごす場所が汚れるの嫌なんだろうね」


 と刑部は笑顔のまま話す。


「そうですね、キャップは普段からそうですよ。排泄は自分で決めた場所で必ずやってて、自分の過ごす寝藁が汚れないようにしてるんです。

 それにキャップはよく食べますけど、きっちり消化してますよ。ボロ馬糞に未消化のものが混じっているのは見た事ありません。燕麦エンバクもほとんど消化されてます」

 

 川洲は刑部とは対照的に、表情を崩さず返答する。

 

 刑部はそんな川洲に気づくと、笑顔を崩さず手を差し出す。


「ああ、済まないね、厩務員さん、さっきこちらの毛受調教助手さんには名乗ったけど、刑部行雄です、よろしく。

 厩務員さんの名前は?」


川洲かわす智仁ともひとです。笠松競馬久須美厩舎でアグリキャップの担当厩務員をさせてもらっています。刑部騎手、よろしくお願いします」


 川洲はそう返答して刑部に差し出された手を握った。


 その手は思ったよりも小さいな、と川洲は思った。


 刑部は川洲との握手を終えると、毛受にも手を差し出し毛受とも握手を交わす。

 毛受は緊張で手の動きがぎこちなかった。


「到着したばかりで忙しいところをお邪魔したね。では、調教師の先生がこちらに来られたら、また挨拶に来ます。

 二人とも、アグリキャップはいい馬だね。調教で乗れる時を楽しみにしてます。

 それでは失礼」


 そう言って刑部は二人に一礼すると、飼葉桶から顔を上げずに一心不乱に飼葉を食べているアグリキャップをまた一時眺めると、出張馬房から立ち去っていった。

 

 刑部が立ち去ったのを確認すると、毛受は「ぅっはー、緊張したぁ! やっぱ日本一の騎手はまとってるオーラが違うわ。川洲、お前よく平気だったな!?」と声を吐き出す。


「いや、平気な訳無いじゃないですか。緊張してましたよ」と川洲も返答する。


「ただ、顔はよく知らなかったんですよ、刑部騎手の。だから最初は誰だろうってちょっと警戒しましたし、訳知りな感じだったんで東京競馬場の係員の人かなって途中からは思ってたんです。名乗られたら一気に別の意味で緊張しました」


 川洲が続けてそう答えると、毛受は頭を抱えながら言った。


「競馬に関わってるのに天下の刑部行雄の顔を知らないって、お前本当にたいしたもんだわ」








 明日の東京競馬場で5鞍の騎乗予定がある刑部行雄は、出張馬房を離れると明日に備えて東京競馬場内の調整ルームに戻った。


 調整ルーム内の食堂で過ごしていた若手騎手、3年目の横乗よこのり隆弘たかひろと2年目の海老間えびま義直よしなおがTVを眺めリラックスしていると、『刑部騎手、お電話が入っています。事務室までお越し下さい』とアナウンスが流れた。

 横乗と海老間が廊下を眺めると、刑部がゆっくりと事務室へと歩いて行く。


「刑部さん、何か嬉しそうな感じですね」と海老間。

「そうかぁ? 笑顔に見えるのはいつも通りだろ」と横乗。


「何か、さっき出張馬房に到着した騎乗予定の地方馬、わざわざ見に行ってたみたいですよ、刑部さん」


「ジャパンカップの? いやいや所詮は地方競馬で普段ダート走ってる馬だろ? 勝てる訳ないって。刑部さん、今年落馬して調子落してるからって、ちょっと焦ってるんじゃねーの」


「いや、そうは言っても9月に復帰してから2か月経ってますし、普通に勝ってますよ」


「とは言っても重賞は勝ってないだろ、焦ってんだよ。ジャパンカップだってお手馬で出れる馬、いねー訳だし。地方の馬に乗ってまで出たいかね」


「いや、そりゃ出たいでしょう、ジャパンカップ。まだ僕GⅠ乗った事ないですし、地方の馬でも出れるなら出たいですよ。同期の滝なんてもう10回もGⅠ乗ってますし、先週なんて菊花賞で勝ちましたからね。今週のエリ女も乗るみたいですし、負けたくないですよ」


「贅沢言ってんじゃねーよ、そりゃお前、俺がまだ1回しかGⅠ乗った事ないのに、一期下のお前にポンポン乗られたら俺がたまったもんじゃねーわ」


 そう言い合っているうちに二人は虚しくなった。


「……出たいわ、GⅠ。地方馬でもいいわ。とにかく出たいわ」


「……そうですね、何とか……はぁ」


「そのためには、刑部さんや柴端しばはたさんより馬主さんや調教師せんせい方に信頼してもらえる騎手にならんとなぁ……」


「そうですね……結局……」


「……俺、木馬しばいてくるわ」


「だったら僕も行きます」


 二人は、食堂を出てトレーニングルームへと立ち去った。







 調整ルームの事務室で電話を取った刑部行雄。

 電話の相手はエージェントの松林まつばやし昭雄あきおだった。


「もしもし刑部さん、どうでした、アグリキャップ」


 電話の向こうの松林が刑部に訊ねる。


「松ちゃん、資料集めありがとう。ビデオで見た感じより、新潟で見た印象に近かったね。凄く落ち着いてて、4歳とは思えない」


「そうでしたか。アグリキャップの前走、2着に負けた時のビデオだと随分と気性の悪さが出てたようにも見えたんですが」


「そうだね。ただ、騎手はテン乗りだったみたいだし、もしかしてその辺乗り替わりに敏感なタイプの馬って可能性もあるけど……でもね、とにかく体が柔らかいんだ」


「え? ジョッキー、今日乗った訳ではないんでしょう?」


「うん、乗ってはない。馬房で様子見て来ただけ。でも、あの馬自分の背中舐められるんだ。馬房に到着した後ちょっと見てる時に、ひょいっと。あの柔軟性は凄いよ。今日は調教師は来てなくて、調教助手に話もちょっと聞いたんだけど、乗り味も凄く柔らかいって言ってた。多分、それは間違いないね。あとは早く乗って確認したいね」


「そうですか。調教で乗るのはいつ頃の予定ですか」


「調教師がこっち来たら、挨拶しに行って来るよ。その時にちょっと跨らせてもらって、調教で乗るのはその時に決めようかなって思ってる。

 松ちゃん、調教師の……久須美さんだっけ? 松ちゃんとこにこっちにいつ来れるって連絡、入れてもらうように伝えたから、日程わかったらまた連絡して」


「わかりました。ジョッキー、まずは明日の騎乗、よろしくお願いします。

 久須見調教師から連絡が来ましたら、またお伝えします。では失礼します」


 刑部は電話を架台に置くと、事務室の係員にありがとう、と礼を言って事務室を出た。


 10月後半に松林から、ジャパンカップでアグリキャップへの騎乗依頼が来る可能性がある、と聞かされた時は、一瞬他の出走予定陣営の鞍上強化狙いでの騎乗依頼を待ってからとも考えた。

 だが、地方馬である程度見せ場を作れれば落馬事故からの復活を馬主らにアピールできるいい機会になる、という松林の助言を容れた。

 

 最も刑部自身もそうした判断に至ったのは、オールカマーで対戦した時、自身の乗っていた馬マキシムビューティーのコンディションと刑部自身のコンディションがベストではなかったという思いがありつつも、展開から行けば先行していたスズエレパードが勝って当然のレースだったのを、後ろから行って徐々にポジションを上げ、最後の直線の追い比べで勝ち切った、言わば勝負強さを認めざるを得ないレースだったこともそうした判断に至る決め手となった。

 レースでは騎乗していた騎手安東克己の、ペースを読んで徐々にポジションを上げる冷静な判断力と、絶対に勝つという執念が光っていた。

 だが、馬自身にも、その騎乗を可能にするだけの落ち着きと、力を出し切ろうという頑張りが備わっている、とも感じた。


 芝のレースでも十分対応でき、直線追い比べで勝ち切れるスピードもある。


 上手く乗れば掲示板もある、と思ったから引き受けたが、今日見てきたようにあれだけ賢く柔軟性のある馬なら、もしかしたら馬券内もあり得るかも知れないという期待を刑部は抱いた。


 落馬事故以来リハビリに努め、徐々に筋力や体のバランスを矯正してきた。

 収入全てを自分が馬に騎乗することで稼いでいるフリー騎手だから、療養している間の収入は無い。エージェントの松林の収入も無くなる。

 そうした事情で乗れる状態になったら急ぎ復帰したため、9月のオールカマーの頃はまだ握力も戻り切ってはいなかった。


 刑部は体の様子を確かめるように、両手の拳を何度も開いたり閉じたりしてみる。


 今なら、落馬前の状態に近いくらいまで回復してきている。調教師や馬主の期待に応えられるということを「結果」で見せる。


 刑部は、久須美調教師からの連絡が待ち遠しい気分だった。









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