第41話 東上




 11月6日(日)、阿栗孝市は笠松競馬場に居た。


 今日出走する阿栗の馬は2頭。

 第一レースのアラ系一般Cに出走するアグリクイーンと第八レースサラ系3歳に出走するアグリローダー。

 どちらも久須美厩舎預託馬ではなく、それぞれ伊東厩舎と鈴木厩舎。

 また、走るレースも重賞でも何でもない。

 それでも阿栗は、午前中の第一レースから見に来ている。

 さすがに今開催中毎日来るのは会社経営者として憚られるが、見に来れるのであればなるべく愛馬の走る姿を見に来たいと阿栗は思っている。

 

 この日の結果はアラブ馬アグリクイーン、3歳馬アグリローダーともに2着。

 どちらも惜しい2着で次戦に期待させる内容だった。

 今日両馬に騎乗していた青沖あおおき竜彦たつひこ騎手はアグリキャップのデビュー戦と3戦目に騎乗していた騎手だった。だが、アグリキャップのこと東海菊花賞には触れず、2頭とも乗せて貰えれば次こそは1着を取ります、と意気込んでいた。

 

 そして阿栗は自分の愛馬の他に気になっていることがあった。

 それは河原章一のことだった。 

 河原章一の本日の乗鞍は11レース中6レース。

 第8レースが終わった時点で河原は第3、第4、第6レースに乗っており、阿栗の馬が出走すレースで乗鞍は無かったが、第4、第6レースは所属厩舎である五島ごとう四季しき厩舎の馬で1着を取っていた。


 阿栗は青沖騎手に、河原章一の様子を訊ねた。

 本日から11日まで6日間開催される笠松開催。騎手は公正確保のため昨日の夕方から笠松競馬場内の粗末な調整ルームに入り外界とは隔離されている体となっている。そのため同じく調整ルームで過ごす騎手の青沖から見て、河原の様子はどうだったのかを聞いた。


 青沖騎手によると、河原章一は普段からそれほど積極的に喋ることは少ない方なのだが、昨日から今日にかけては食事中などに箸を止めてボーっと何か考え事をしている様子が見られたとのことだった。

 そして青沖は、河原よりも安東の方がやけにおとなしいように感じたそうだった。

 普段の安東は笠松の調整ルームに入っても他の騎手を誘い一杯やりバカ話や麻雀をして過ごすのが常だったが、今回はそういったことはなく大人しく過ごしており、ある意味拍子抜けしたという。


「フェートローガンの強さや、己の騎乗をもっと誇って回るのかと思っていたんですけど、意外でした」


 東海菊花賞の結果は、2人の騎手の内面に、何らかの影響を与えているようだった。



 その日の全レース終了後、阿栗は久須美厩舎を訪ねた。

 明日のレースに久須美厩舎に預託している阿栗の馬が4頭出る。

 それぞれ別のレースで、どの馬も頑丈で長く走ってくれている。

 うち1頭はスマイルワラビー産駒、つまりアグリキャップの姉、アグリシャーク。

 6歳の彼女はここまで29戦して13勝を挙げている。ただし重賞の勝ちは無く一般戦での勝利を積み重ねてきた。阿栗にとっては長く活躍してくれている馬であり、その分愛着もあった。 


「どうなん、久須美さん、シャークの出来」


 阿栗は夜の飼葉を付け終わり、厩務員らを帰し自ら厩舎を閉める直前だった久須美調教師に訊ねた。


「そうですなあ、先月B級に上がって初のレースは苦戦しましたが、今回はまあ1頭強いの居ますけど、他といい勝負できるくらいには仕上がってますな」


 一頭強い馬とは、東海ダービー6着馬のイナバヤマオーである。


「シャークもよう走ってくれとるでな。ほんま孝行娘や」


「そうですな。ワラビーの仔は、頑丈でよう走ってくれますわ。ほんで阿栗さん、実際のとこ、シャークの調子見に来たってのは口実でしょう? ホンマは章一のこと気になっとるんやないですか」


 阿栗は図星を突かれた。


「う……まあ、気になってないと言えば嘘んなるけど……」


「まあ、ここ3日間の朝の調教ん時とか、傍から見てもショック引きずっとるのが手に取るようにわかりましたわ。ワシも心配んなって声掛けようと思いましたが、志来しきさん(河原の所属厩舎調教師、五島ごとう志来しき)に止められましてな。もうちょっと章一に時間やってくれんか、って」


「そうなんか……いや実はワシも直接河原くんにもう一度話したいって思ったんやけど……」


「阿栗さん、それはまだ時期尚早ですわ。だいたい開催中は調整ルームに入っとるから会えませんし。志来さんもしばらくは取り合ってくれんでしょう。

 それに、河原もプロです。今日6鞍乗って2鞍1着取ってます。心の中で悩んどっても、やるこたやってます。

 それに、もう東京開催への登録は出してます、鞍上刑部おさべ行雄ゆきおで。今更やっぱり代えるっちゅうのは、流石に中央のトップ騎手に失礼んなりますよ」


 確かに久須美の言う通りだった。

 ここで刑部騎手との関係をこじらせてしまったとしたら、来年アグリキャップを中央に転厩させたとして刑部騎手は二度と阿栗とアグリキャップに見向きもしなくなるだろう。


「阿栗さん、ワシからも松林さんに連絡したら、できるだけ早く府中の出張馬房に入ってくれ言われました。こっちも開催中なんで急に調教助手(毛受めんじゅ)と他の馬も担当しとる厩務員(川洲かわす)に抜けられるんは困るって伝えても最速でいつ頃かって急かされたんで、笠松開催最終日の11日午後に出すんで11日の夕方から夜んなりますって答えて渋々納得してもらいました。

 何でもジョッキー刑部が早くキャップに会いたがっとるそうですわ。

 でも、中央トップの刑部騎手が、そんな前向きんなってくれてるの有難いし、断れんでしょ」


 久須見は騎手の件については既に割り切っている。

 むしろ日本の頂点と言って良い刑部行雄が、アグリキャップをどのように乗りこなすのかを楽しみにしていると言って良い。


「章一の件については、ワシに責任あると思ってます。章一を何とかしてやりたい、それはワシも同じ気持ちです。

 ただ、ジャパンカップでキャップを一つでも上(の着順)に行かせたい思うんやったら、章一より刑部騎手で正解なんです、阿栗さん。

 そこは割り切りましょう」


 久須美調教師はそう言って立ち上がると、閉めてあった馬房と事務室の間の開戸を開ける。


「もうすぐワシも帰るんで電気消しますから、その前に見てってください」


 そう言って阿栗を馬房に招き入れる。


 阿栗は薄暗い電灯が照らす馬房ブロックに入る。


 アグリキャップの姉アグリシャークは阿栗と久須美が馬房に来たのを見つけると、既に大分白くなりつつある顔を出し、甘えるように阿栗に顔を寄せてくる。

 阿栗がその頭を撫でてやると、安心したように穏やかに目を閉じる。


 隣の馬房には3歳馬のアグリローダー、その隣にアグリメーカー。


 そしてその隣にはアグリキャップが居る。

 アグリキャップは、阿栗達の方向とは反対側を向き、動かない。

 眠っているようにも思えるが、こちらを向いている尻尾が時折左右に揺れ、起きているようだ。


「キャップは普段から馬房では騒いだりせず無駄な力使わんのですが、東海菊花賞後はああやって壁の方向いてじっとしとることが以前より増えましたわ」


 久須美調教師が最近の様子を伝える。

 阿栗はアグリキャップが何かを沈思黙考しているように思えた。

 







 11月11日、笠松開催最終日。

 この日久須美は第1,第4、最終第11レースに自厩舎の馬を出す。

 久須見調教師は第4レースが終わり騎手、厩務員と共に馬の様子を確認した後、自厩舎へ一度戻った。

 最終レースまでの間に、アグリキャップを府中の東京競馬場へ送り出すためである。

 久須美が厩舎まで戻ると、既に馬運車は到着していた。

 毛受と川洲が2人曳きでアグリキャップを厩舎内から外に連れて来ている。

 アグリキャップは嫌がることなく落ち着いている。

 久須美はアグリキャップの歩様を確認するが、おかしなところは見当たらない。

 最もアグリキャップに何か僅かでも異変があれば、担当厩務員の川洲は見逃すはずはない。川洲から何も報告を受けていないということはアグリキャップは問題ないということだが、ついつい久須美は自分でも確認してしまう。


「ほんじゃ、毛受、川洲、よろしく頼むで。道中気ぃつけてな」


 アグリキャップを馬運車に乗せ終わった毛受と川洲に、阿栗はそう声を掛ける。


「新潟の10時間に比べれば、東京は近いですよ。4時間ちょっとらしいですから」


 川洲がそう答える。前回の新潟までの10時間も、アグリキャップは馬運車内でずっと落ち着いて過ごしていた。


「毛受、悪いな。ワシが一緒に行ければ良かったんやが。とりあえず来週アタマの馬主との話終わったら一旦ワシも府中行くから、よろしくな」

 

「任せて下さい。調教師テキの指示通りにキャップの調教は進めときますんで」


「おう、頼むで。ほんで、向こう行ったら鞍上依頼した刑部さんも来てくれるはずやから、刑部さんとも調教スケジュールや内容、擦り合わせといてくれ」


「いやー、日本一の騎手が乗ってくれるなんて、嘘みたいな話ですわ。俺、緊張して話せないかも知れません」


「おまえはそんなナイーブでもないやろ。普通にやってこいや」


「はい、わかりました調教師テキ」 


 毛受と川洲は馬運車に荷物を積み込むと、自分達も乗り込んだ。

 今回は一緒に府中まで乗り合わせる馬はいない。


 久須美は発車した馬運車が厩舎ブロック入口の守衛詰め所に書類を確認して貰ったあと、右に曲がり厩舎ブロックを出ていくところまで見送った。

 

 今回は名神一宮ICから高速に乗り、中央道経由で東京競馬場の目と鼻の先の国立府中ICで降りるルートで移動する。確かに新潟までよりも早い。18時前後には府中の出張馬房に到着するだろう。


 そして、来週の馬主との話、どんなんやろ、とふと思った。

 その馬主は阿栗ではなく、今日の最終レースで走る馬の馬主である。


「佐梁、どんな話あるっちゅうんや」







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