第39話 悲喜
安東克己はゴールした瞬間、思わず何度も何度も右手を振り回して喜びを表した。
単なる重賞制覇ではない。
自分とフェートローガンにとって、何物にも代えがたい勝利。
己の存在を証明するための大きな勝利。
アグリキャップという、安東克己自身が強さを心底知っている馬に勝ったのだ。
テン乗りの河原のミスもあった。河原のその後のリカバリーは自分ならやろうとは思わないやり方だった。馬自身と騎手が最後まで闘志を失わず、追い詰められた。
だが、それも超えて勝ち切った。
バンザイしたいくらいに嬉しい。
東海公営では滅多にやらないウイニングラン、スタンド前に差し掛かった時に安東克己は大きく右手を上げ、観客席の声援に応えた。
装鞍所まで戻り、厩務員が一着馬の待機場所にフェートローガンを繋ぐ。
安東克己がフェートローガンから降りると、
その笑顔を見て、安東克己は再度喜びが込み上げる。
「喜田
そう言って喜田調教師に抱き着く。
喜田調教師も安東克己を受け止め、後ろに回した手でポン、ポンと安東克己の背を叩く。
それも一瞬のこと。
喜田調教師は安東克己の両肩をガシッと掴んで力を込めて言う。
「克己、次は日本一のダート王者を取りに行くで! 11月23日、慣れ親しんだ笠松や。全日本サラブレッドカップ、アグリキャップに勝ったんやから当然取る、頼んだで!」
「はい、
「おう! ま、とりあえず後検量、行ってこいや。表彰式、しっかり汗拭っとかんと風邪ひくで」
わかりました、と言って安東克己は外した
その後ろ姿を喜田調教師は安堵したように見送る。
克己、とりあえずワシの心配は今んとこ杞憂のようやな。
アグリキャップを相手に回してのこのレースで、また新たな刺激貰ったみたいで良かった。
そしてフェートローガンにも心の中で感謝する。
フェート、ようやってくれた。59kgも背負って大変やったな。
次も、その次も、勝てば勝つほど斤量増えてお前にとっちゃ辛いレースんなってく。すまん。
でも、どうかお前の力、貸してくれんか、あの
あいつは飽きっぽい。普通に乗って勝つのが当たり前って、飽きてそう感じるようになったらあいつは未練なく騎手辞めてまう、そんな奴や。
騎手の才能がなまじあるからこそ、ジレンマを感じてまう、難儀な奴や。
今日みたいな強敵に、重斤量で毎回勝ってくれとは言えんが、克己が飽きを自覚せんように刺激を与えてやってくれ。
そしてどうか、無事に今後も走り切ってくれ。
アグリキャップは、ゴール板を過ぎてからも速度を落とさずしばらく走り続けた。
鞍上の河原はすぐに手綱を緩めたが止まらず、速度を緩めたフェートローガンと安東克己を抜くまで走った。
フェートローガンを抜き去ると、そこでようやく区切りがついたのか速度を緩める。
フェートローガンの鞍上の安東克己は、ウイニングランのためアグリキャップをもう一度ゆったり抜き去っていくその時も、アグリキャップと河原章一に目線を向けることは無かった。
アグリキャップは立ち止まると、フェートローガンと安東克己の後ろ姿の方向に首を向けている。
河原章一は、アグリキャップが安東克己とフェートローガンを睨みつけているのだと感じた。
安東克己とフェートローガンがバックストレートを第3コーナー寄りまで走ったところで、ようやくアグリキャップの視界から外れたのか、アグリキャップは動き出した。
「河原、へったくそー! 何やってんだ!」
「アグリキャップをかからせるなんて、安東で一度も見た事無えわ!」
「金返せ、バッキャロー!」
スタンドの観客から、河原章一に罵声が飛ぶ。
河原章一は、普段なら観客席の罵声を仕方がないと思いつつも苦々しく聞き流している。
だが、今日に限っては、何を言われても仕方がない、と感じていた。
河原のミスで落とした。
前半、かからせてケンカしたことが第一のミス。
そしてゴール前、一瞬恐怖で上半身を起こしたことが第二のミス。
どちらも致命的だった。
前半、かからせなければ最後はフェートローガンの追撃を交わす展開だっただろう。
ゴール前で一瞬上半身を起こさなければ、無駄な空気抵抗を受けず、或いは差し切れたかも知れない。
名古屋の天才、
だが、坂部のことを思い出したが故に、最後の瞬間にリアルに恐怖を覚えてしまった。
3年前の7月、名古屋の天才
その日、河原章一も安東克己も事故が起きたレースには乗っていなかったがメインレース騎乗のため名古屋競馬場にいた。
事故直後に流れたパトロールフィルムで見た事故映像。
坂部の騎乗馬ハイエイヒメが直線で突然前のめりに倒れ、騎乗していた坂部が前に飛ばされた。
そしてコースに転がった坂部の上に、ハイエイヒメが倒れ込み坂部は下敷きになった。
ハイエイヒメが倒れた原因は心臓発作で、そのまま亡くなったが、坂部は病院に担ぎ込まれても意識不明のまま。
命は取り留めたが頚髄損傷で、胸から下の感覚を全て失ったのだった。
河原はアグリキャップの最後の加速の時、坂部が騎乗馬の前に放り出される場面がフラッシュバックし、恐怖を感じて立ち上がってしまった。
恐怖を克服できなかった。
久須美
河原章一は、己に対する悔しさ、情けなさで一杯だった。
観客の罵声は当然だと思った。
装鞍所まで戻ると、厩務員の川洲と久須美調教師がアグリキャップと河原を迎える。
川洲はすぐにアグリキャップを繋ぐと、脚元を丹念にチェックする。
アグリキャップから降りた河原章一は、久須美調教師の顔をまともに見れず、下を向く。
「……ワシが悪いわな。テン乗りなのに、何も大したことお前にゃ言えてなかった」
「……申し訳ありません、
河原章一は下を向いたまま久須美調教師に謝る。
「……とりあえず、後検量行ってこい、ショーイチ。ほんで今日は阿栗さんとは顔合わせんでええ。ワシが説明しとく」
「……はい、申し訳ありませんでした」
河原章一は、鞍を外すためにアグリキャップに近づく。
アグリキャップはレース中とはうって変わり、厩務員の川洲に穏やかに身を委ねている。
アグリキャップは河原章一を見ると、ゆっくりと頭を河原に近づけ、カプリと河原の肩を噛んだ。甘噛みなのか、噛まれた河原に痛みは然程ない。
「キャップは河原さんのこと、怒ってはないですよ、きっと。ただ、しっかりしろ、とは言ってるみたいですね」
川洲がそう言う。
川洲が慰めてくれているのだ、と河原は思った。
河原はズシリとした鞍を外し抱えると、肩を落とし検量室へ向かう。
その背に久須美調教師が一言かける。
「ショーイチ、一瞬、坂部にダブッて見えたで。けどな、天才を追ったらアカンのや」
一瞬立ち止まり久須美調教師の言葉を聞いた河原章一は、そのまま無言で検量室へ向かった。
名古屋競馬場の特別観覧席は、悲喜こもごもであった。
2着に敗退したアグリキャップの馬主、阿栗孝市のところへは、皆「惜しかったですね」と声を掛けに来るが、長く会話を交わすことは無く、足早に立ち去る。
阿栗のところを立ち去った者たちは、勝利したフェートローガンの馬主、
阿栗は寂しい訳ではない。それが当然のことだと思っている。
正直言ってしまえば、下手な慰めの言葉ならかけて貰わなくてもよいとすら感じていた。敗北の痛みとやるせなさが
ただただ敗着した馬主の周囲への礼儀として、それらを受けている。
初めての観戦で敗着し、声をかけられるたびに阿栗と共に頭を下げる妻に対しての申し訳なさもあり、阿栗は心苦しかった。
人が途切れたところで、阿栗は妻に「大丈夫か、疲れたやろ」と声をかける。
妻は、心配しなくても大丈夫よ、あなたと一緒に頭を下げてるだけだもの、と気丈に答えた。
ワシも鷹端さんを祝福せんとな、負けたもんの礼儀として、と阿栗は考え、妻をその場に残し鷹端の元へ行く。
「おめでとうございます、鷹端さん。フェートローガン、強かったですわ」
阿栗はそう言って鷹端に握手を求め、右手を差し出す。
鷹端は阿栗を認めると、一瞬表情が真顔になったが、すぐに笑顔になり阿栗の右手を取り、握手を返す。
「ありがとうございます、阿栗さん。アグリキャップに勝てたこと、フェートの自信になりますわ。全日本サラブレッドカップでもやれそうな気がします。
また後日、祝勝会やろうと思ってます。陛下のこともあってこじんまりとした規模になりますけど、阿栗さんも良かったら出席して下さい」
鷹端にそう言われた阿栗は、握手した右手を離しつつ「まあ、仕事も忙しい時期んなりますし、都合つけられそうなら顔出しますわ」と曖昧な笑顔を作る。
「そうですか、是非ご都合つけていただきたいものです。楽しみにしております。
アグリキャップ、ジャパンカップ頑張って下さい。中央競馬で最も強い馬や世界の強豪相手ですから、さすがに勝てないでしょうが善戦を期待していますよ」
そう言うと鷹端は他の馬主との挨拶を交わし始めた。
悪意なく鷹端を傷つけることをしていた自分だから、このくらいの遠回しの嫌味は言われても当然だと阿栗は思った。
それに祝勝会の件はともかく、ジャパンカップの展望自体は、誰もが思うことだろう。
鷹端への挨拶を終えた阿栗は、待たせていた妻の元に戻る。
一度久須美調教師の元へ行ってみようかと思った時、鷹端を囲む輪から一人の男が抜けて阿栗に向かって近づいてきた。
ソウルミュージシャンを意識した格好の割に、身長は阿栗よりも低い佐梁。
阿栗の前に来ると「もう少しでしたね、阿栗さん」と口を開いた。
阿栗は戸惑いを隠しながらこれまで受けた挨拶と同じく「いえ、勝った馬が強かったですわ」と返す。
佐梁は一言の挨拶では終わらず「私の馬は力不足でした」と続ける。
「佐梁さんのお馬さんは、どの馬でしたの?」阿栗の妻が無邪気にそう尋ねると、佐梁も笑顔で「7番のコクサイヒューマと言う馬ですよ」と答え、コクサイヒューマもアグリキャップに付いて第3コーナーから上がって行ったんですが、伸び切れず9着でした、いやあ阿栗さんの馬のようには行きません、と話を続ける。
「ところで阿栗さん、ご相談したいことがあるので、近々お時間を頂けませんか」
佐梁は阿栗にそう切り出した。
何や、またキャップの売却話を蒸し返すつもりなんか?
6月の東海ダービーの後にも、一度佐梁に電話で遠回しに売却の意思はないかを訊ねられていた阿栗は、反射的についトゲを含んだ返しをしてしまう。
「佐梁さん、話す事なんてもうこっちには無いですわ。来月か再来月には中央から私の馬主資格について、何らか通知来ます。私がキャップを中央に連れて来ますんでお引き取りを」
阿栗の返答を聞いた佐梁は、阿栗が初めて目にする悲し気な表情を浮かべた。
昨年売却交渉をしていた時の佐梁は、常に余裕を持った笑顔を浮かべて交渉慣れした様子を見せていたし、時折真剣な真顔を交え熱意を見せて説得しようとしていた。
阿栗が最終的に断った時も、一瞬焦った表情は見せたが、今回のような悲し気な表情は見せなかった。
「……そうですか、お手間を取らせて申し訳ありませんでした」
佐梁はそう言ってすんなりと引き下がった。
佐梁は気持ち
「佐梁さん、お待ちください」
突然、阿栗の妻が佐梁の後ろ姿に声を掛け引き留める。
「うちの主人、所有している馬が勝てなかったので今は気が立っているんです。失礼な物言いをしてしまい申し訳ありません。
もしよろしければ私が代わりにご用件を伺って主人に伝えますので、佐梁さん、今週か来週の日曜日に家までお越しいただけませんか」
阿栗の妻の言葉を聞いた佐梁の表情が少しだけ晴れる。
阿栗は突然の妻の言葉に驚いた。
「おまえ、何を勝手に言っとるんや」
阿栗の妻は柔らかな表情で阿栗に向かい「だってあなた、話の内容も聞かずにお断りするのは失礼じゃありませんか」と返答する。
妻の表情は柔らかだが、意思を曲げるつもりはないようだった。
ホンマにもう、こいつには敵わんて。
今日何度思ったかわからないその感想が阿栗の頭に浮かぶ。
「佐梁さん、来週の日曜の午後、3時頃に家に来てくれんか。今週の日曜は笠松でワシの他の馬が出るレースがあるもんやから、都合悪い」
阿栗が渋々そう言うと、佐梁の表情は救われたかのように明るくなる。
「ありがとうございます、阿栗さん! 11月13日の午後3時、間違いなく伺わせていただきます」
そう言って佐梁は深々と頭を下げた。
アグリキャップ対フェートローガン 1988年11月3日(木) 名古屋競馬場 東海菊花賞 了
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