第38話 迫る足音
――さあ動き出した、2番のフェートローガン、フェートが動いた、フェートが動いた、第2コーナー、前にゆっくり上がっていく。
――先頭ヒロノファイターとの差は12馬身。縦長の展開が詰まってきている。
――残り800mを切りました。残すはバックストレートと第3第4コーナー、最後の直線は194mです。
第2コーナーでフェートローガンが外を回り上がっていくのが阿栗孝市にも見えた。
アグリキャップはまさに今フェートローガンに交わされようとしている4番手集団の最内にいる。
もう、あかんか……
阿栗はそう観念した。
毎レース、必ず勝てる訳では無い。
勝利を目指して全ての出走馬は走っている。アグリキャップでも負けるレースだってある。
デビュー戦、4戦目を除いて全てのレースに勝って来たアグリキャップだったが、ズルズルと後退し最下位に沈む姿を見るのはレースの道中でも初めてだった。
その光景を見ていられず、阿栗は目を逸らした。
「あなた、あなたの馬、アグリキャップ! 見て!」
妻の声に、妻が指さすモニターを見る。
フェートローガンが抜き去った4番手集団から、一頭だけゆっくり抜け出ようとする馬。
それはまさしく黄色の帽子と勝負服、河原章一の騎乗するアグリキャップだった。
4番手集団も勝負が中盤を過ぎ終盤に差し掛かるのを見据えてペースを上げており、前の3番手集団との差は詰まっている。
ここでモニターの画面は前の状況に切り替わる。
――先頭のヒロノファイター、第3コーナーから第4コーナーへ!
――後ろに付ける2番手集団との差は詰まり2馬身!
――2番手9番ウオローピジョン、1番トクマノナードが続く! 4番リッチーファットマンはやや遅れた!
阿栗は立ち上がり、名古屋競馬場のトラックを走る黄色の帽子を探す。
最内に位置するアグリキャップは、出遅れを取り戻そうと上がって行った結果脚を使い果たしつつある6番のニューウィードをバックストレートで内から交わすと、外を上がっていくフェートローガンを追うように第3コーナーで前の2頭も交わして上がっていく。
「頑張って、アグリキャップちゃん」
妻がモニターを見ながらそう呟く。
モニターはまた切り替わり、直線入口からカメラがパンしつつ、第4コーナーを駆ける馬群を捉え映し出している。
先頭は11番ヒロノファイター、その外 1/2馬身差で9番ウオローピジョン、そしてその外に1馬身差でフェートローガン。
フェートローガンの内には1番トクノマナードがいる。
トクノマナードのやや後方、内ラチ沿いに黄色の帽子。
「キャップ‼」
アグリキャップが上って来ている。
アグリキャップと河原章一がバックストレートを向いた時、大外からフェートローガンが上って行くのを河原章一の視界の端が捉えた。
安東克己の姿を見れば、アグリキャップの闘志の炎はもう一度燃え上がってくれるはずだ。
河原章一の狙いは当たっていた。
馬の視野は広い。
実のところアグリキャップは第2コーナーからバックストレートに出る直前にフェートローガンと安東克己の姿を捉えており、河原章一に隙があればフェートローガンの走る大外に向かい斜行しようとしていた。
それを右片ハミで右に寄せて走らせている。
アグリキャップの表情は騎乗している河原章一からは見えないが、おそらくアグリキャップの視線はフェートローガンと安東克己を睨みつけているだろう。
闘志が乗ったアグリキャップは、手綱の操作を少しでも間違えると暴発してしまうのは前半のミスで十分わかっている。
細心の力加減で前の垂れてきた馬を交わしていかなければならない。
4番手集団で余力が残っている馬は速度を上げている。
アグリキャップのすぐ横のコクサイヒューマも余力を残していたのか、アグリキャップに半馬身遅れつつ前との差を詰める。
アグリキャップの前に出遅れを取り戻そうと前半のうちに上がっていたニューウィードが垂れてきている。
外には交わせない。内ラチ沿いに入り交わす。
第3コーナーに入る。
すぐ前は、前半2番手集団に付けていたヤマニンシェイバーとリッチーファットマンがいる。
内のヤマニンシェイバーの方が脚色が悪い。
間を割れる!
河原は余計な力が入らないように慎重に、だが素早く右片ハミを両ハミに戻す。
大外を回りながら前に上がっていくフェートローガンと安東克己が、コーナーのRの関係で河原の狙いどおり、ちょうどよく前2頭の間に見える位置に来た。
アグリキャップは安東克己めがけて速度を上げるが、まだ河原は完全にハミをかけておらず、全力より抑えた脚で上手くヤマニンシェイバーとリッチーファットマンの間を割って前に出る。
このままだと外に膨らむ。
また右片ハミに戻し、コーナーをロスなく回る。
河原は、この片ハミで馬の進路を操作するという技術は、今日このレースで初めて試した。
以前名古屋の天才、
ぶっつけでやってみたがどうにか上手く行ったな。
前半のケンカがなかったら、ここまで繊細に手綱を扱おうとは思わなかったし、怪我の功名かも知れん。
あとは、第4コーナーの出口が見えたら両ハミかけてキャップに全力で克己とフェートローガンを追わせる。
200m、全力で伸びる脚、残っていてくれよ、キャップ。
もうすぐ第4コーナーの出口。
すぐ前やや外に1番トクノマナード、その外やや遅れて10番ハッピーグラス。
その前には先頭11番ヒロノファイターに9番ウオローピジョンが並びかけようとしている。
そしてその外からフェートローガンがウオローピジョンに並びかけようと内に寄ってきている。
ここだ、行け、キャップ!
河原章一はカチッとアグリキャップに両ハミをかける。
アグリキャップはググッと沈み込むように、前傾姿勢になりながら地面を削るように掻きこんで、加速した。
「おい、アグリキャップが生き返ったぞ、あの状況から! 有り得ない!」
賀張が興奮して叫ぶ。
「でも、フェートローガンが有利なんは変わらんて! 見てみ、もうちょいで先頭捉えるで!」
田口がこちらも興奮し叫び返す。
フェートローガンが並びかけたウオローピジョンは直線入口で失速。鞍上が進路を外に取り、闘志を戻すべく鞭を何度も入れている。
フェートローガンは更に先頭のヒロノファイターに並びかける。
ヒロノファイターも鞍上の戸部が鞭を2発、3発と入れ抵抗する。
だが、フェートローガンに安東克己が鞭を入れると、クンッといった反応でフェートローガンは更に加速する。
頭が並ぶと、後はヒロノファイターを1完歩ごとに突き放していく。
「アグリキャップちゃん、頑張れえっ!」
榊原直子はずっとアグリキャップだけを見ていた。
首を上下させ、地面を一生懸命蹴って走る走り方は、物凄く頑張りが伝わってくる。
田口さんが言ってるフェートローガンも、砂の上をを軽く飛び跳ねるような軽快な走りをしている。
けど、私は地面を掴んで頑張るアグリキャップちゃんの方が好き。
アグリキャップちゃん、今2番目の馬を抜いた。
フェートローガンのところまで、頑張って!
両手で100円の馬券を握りしめながら榊原直子は心の中で応援する。
安東克己はフェートローガンに右手で鞭を2発入れた。
必死で抵抗するヒロノファイターを競り落とし、前に出る。
残り100を切る。
あとはフェートローガンを真っ直ぐ走らせるだけ、とは安東克己は思わない。
来るんやろ、キャップ、河原!
坂部さんが言うとった技術、土壇場で使こうて来るとは恐れ入ったわ、河原。
あんな訳わからん理屈、やってみても全く真似できん、ちゅーかハミ外れて馬コントロールできんようになりかねん。あんなん土壇場ぶっつけでやろうって思わんわ。
河原、すまんが舐めとった。
綺麗に行かんかったら脆い奴やと思とった。
ほんでキャップも、あんだけ行く気損なうようなコトあっても、まだ走る気残っとるとは、正直見くびっとった。
なんせ、ワシャ一度もおまえとケンカしたことないもんでな。
その時安東は、後ろから迫る
その瞬間、反射的に背筋がゾクッとする。
ダガッ・ダガッ・ダガッ・ダガッ
キャップに負けた騎手が言うとった。
キャップの
詰められとるのがようわかる。追われとると、こんなに怖い音なんか。
だけどな!
おまえらねじ伏せんとホンマの勝ちとは言えんわな!
もういっちょ、気合い出せやフェート!
ダガッ・ダガッ・ダガッ・ダガッ
安東克己は迫りくる
それに応えるようにフェートローガンはもう一度伸びる。
河原章一は直線に入る直前に両ハミをかけ、アグリキャップにGoサインを伝える。
深く沈み込むように前傾姿勢になったアグリキャップは地面を掻きこむように加速し、前のトクノマナードの内を抜けると、安東克己とフェートローガン目掛けて加速を続ける。
2馬身前の安東克己のフェートローガンがウオローピジョンに競りかけ、競り落とす。
下がったウオローピジョンは外に振り、尚も勝負を諦めていない。
その内にキャップは並びかけ、抜き去る。
前はフェートローガンとヒロノファイターが並んでいたが、安東克己が鞭を入れるとフェートローガンが一気に加速し、ヒロノファイターを置き去りにした。
アグリキャップはヒロノファイターの外から抜きに掛かるが、ヒロノファイターも鞍上戸部の鞭に応えて抵抗する。
河原は、アグリキャップに鞭を左から2発入れた。
鞭を入れられたアグリキャップは、更に大きく沈み込み加速していく。
ヒロノファイターを抜き去り、フェートローガンまであと1馬身。
その時、前を行く安東克己がまたフェートローガンに鞭を3発続けざまに入れる。
フェートローガンはさらにもう一伸びする。
河原章一もアグリキャップに鞭を入れた。
鞭に応えるアグリキャップは、再度伸びた。
1馬身差を僅かずつだが詰めていく。
あと少しなんだ、もう一発!
河原章一はもう一度鞭を振るった。
パシッと鞭がアグリキャップの尻を打った瞬間、アグリキャップは更に低く沈み込んだ。
地面が近い!
河原章一の脳内に3年前のあるレースの映像がフラッシュバックした。
――先頭は11番のヒロノファイター、2番手真ん中のウオローピジョン、外から2番のフェートローガンが仕掛けて来た!
――さあ最後の直線に向いた! 最後の直線だ! 実力馬2頭が馬体を併せた!
――外は2番のフェートローガン、内は11番ヒロノファイター! その後に5番アグリキャップが伸びる、伸びる!
――フェートローガン、先頭だ! フェートローガンが先頭に立った!
――強い、一気にヒロノファイターを突き放す!
――2番手は、アグリキャップ! 今11番を抜き去ってフェートを追う!
行け、キャップ!
先頭のフェートローガンまであと2馬身。
――先頭フェート、アグリ迫る! 迫る! フェートが逃げる! アグリ迫る! 並ぶか、どうか!
阿栗の妻は阿栗のスーツの裾をギュッと掴んでモニターを見つめ「頑張って…頑張って……」と小さな声で呟いている。
阿栗も眼下のゴール板に迫る2頭を固唾を飲んで見守る。
脚色はキャップの方がいい!
ゴールまでアグリキャップが10m程のところで、鞭を入れた鞍上の河原が急に上半身を起こした。
――だが2番のフェートローガン、強い! 見事な伸び脚!
河原はすぐに再度前傾姿勢になったが、フェートローガンとの差は僅かしか詰まらない。
――今、優勝ー! 2番のフェートローガン!
――2着は5番アグリキャップ、追い込みましたが1馬身届かず2着!
勝ったフェートローガンの鞍上、安東克己が姿勢を上げ派手に右腕を何度も何度も振って喜びを表している。
――3着争いは11番ヒロノファイターか9番ウオローピジョンか、すぐには判定出ません。
阿栗の妻が阿栗のスーツの裾を握る力が強くなった。
だがそれは一瞬のことで、すぐに力を抜く。
緩く掴んだ裾は離さず、妻はポツリと口を開く。
「……負けちゃったのね、あの子、アグリキャップちゃん」
阿栗は、ゴール板を駆け抜けていくアグリキャップをしばらくボーっと目で追い続けた。
やがてアグリキャップと河原章一がコース内で立ち止まり、ウイニングランを続けるフェートローガンの方を向いているのを見て、悔しさが湧き上がる。
「……負けたな。他の馬でもようけ負けたけど、慣れるってこたないな。負けると堪えるわ。でも、次こそはって思う……思わんとやっとれん……」
阿栗は横で佇む妻へ、胸の内を言葉にした。
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